第二章 二節 咲いた花の名は
1
深夜二時を過ぎ、私は悪夢と激痛と共に目を覚ました。
「――っ、はぁ、はぁっ、ぐ……あぁああぁ……」
痛い。痛い痛いいたいイタイイタイ。
全身が悲鳴を上げている。脳が引きちぎられているような激痛だ。
「うぅあ……ぁあああぁぁあああああっ!」
ベッドから転げ落ちる。じっとしてられない。机の上の書類を掻き乱す。物を叩き壊す。壁に頭をひたすらにぶつける。自分の声とは思えない奇声を発する。
「あぁああああああっぁがあああああ!」
誰かこの狂った私を止めてくれ。この衝動を止めてくれ。
だが、その思いは当然誰にも届くことなく、突如目の前が真っ暗になり、全身が倒れたような鈍い衝撃が走ったのを最後に、私の意識は失った。
2
「ゼクロスさん、聞いてるか?」
ハッとすると、レーザン先生が少し睨んだ目で私を見ていた。
「あ、あぁすいません、ぼんやりしていました」
今は六人の研究協力者同士の会議。新型感染体「UNC」の研究と昏睡状態の患者アイリスの今後について話し合っていた。そろそろ終わりそうだったため、気が抜けていたのだろう。
「ぼーっとしてたってゼクロスさんらしくないな。大丈夫か? ここのところ顔色も悪いし」
「大丈夫です。元々こういう顔ですから」
「いんや、更に悪くなってる。下手すりゃ真っ青どころか顔面青痣みたいになるぞ」
軽く笑いが起きる。私も特に考えることなく苦笑した。
「まぁミーティング中に集中できなくなるのはよくないことだが、具合が悪くなったら休んでも構わんよ」
「ありがとうございます。でも大丈夫なので」
実質、私よりもみんなに感染させていないかの心配はあるが。
「じゃあゼクロスさんの具合も悪いし、これでミーティングは終了! 一旦休憩を取ってくれ」
このあとはただひたすらに研究に没頭。少人数だが、みんな優秀なので特に困ることはない。ただ足を引っ張らないようにしなければ。そのためにも今はこうやって疲れた顔をしている場合ではない。感染は、私たちの都合を考えてくれはしないのだ。
3
リノバンス中央病院第一病棟屋上。ここには好みの珈琲がある自販機が設置されている。そのため、院内で気を抜くとき、大体ここに寄る。
ガシャコン、と缶が落ちる音。それを取り出し、カシュ、と開ける。
「ふぅ……」
やはりこの苦味が落ち着く。私は白い鉄柵に体重をかけ、街の景色を眺める。気温は低いが、それでも数時間に一度は外の風を浴びたい。
「ゼークロースさん!」
うなじに熱いものが当たる。反射的にびくりとし、後ろを振り向く。
「あっはは! ゼクロスさんのこういうリアクションはおもしろいな」
缶コーヒーを私の首に当てたトーマスは大きく笑う。こういうお調子者的な性格がレーザン先生と似ている。だから昔から仲が良いのだろう。
「ライアンさん、そういうのはちょっと苦手なので……」
「おーそうか、やっぱりこーいうノリは苦手かー。まぁでもゼクロスさんがやさしくてよかったよ。俺の医院のノリ悪い後輩なんかブチキレてくるからな。なにもそこまでっていうくらいに」
そう言っては笑い始める。どうもこの性格は好かないが、好意的であることに対しメリットがないわけではない。まぁ一定範囲内なら嫌われているよりはマシだろう。
「あ、別にトーマスでいいぞ。俺たちは研究職の仲だが、これを機に友達になろうじゃねぇか! あっはっはっは!」
本当に元気がいいな。私は研究で疲れているというのに。疲れ知らずとはこのことか。
「……はい、トーマスさんも休憩しにここへ?」
「ん、まぁな。全部の病棟で屋上に自販機あるのここだけだし」
「院内にもいくつかありますが」
「たまには寒い風浴びて目を覚まさないと、この後の仕事で集中できない気がするんだよ。俺この後出張だし」
「そうなのですか」
「ま、数日居ないけど、頑張れよ」
「はい」と私はそっけない返事をする。
「ああそうだ」と何か思いついたような顔をした。
「感染を防ぐのはわからんが、ぶっちゃけあの患者を治せるのはレーザンじゃなくてゼクロスさんだと思うんだよね」
「何故そう考えたんですか?」
「一番年が近いからさ」
自信満々に言った。内心呆れに浸っていたが、おそらく私の表情はぽかんと固まっていたと思う。
「ま、応援してるぜ。いろんな意味でな」
肩をポンとたたき、大きく笑いながらライアンは院内へ戻っていった。
「……何なんだあの人」
少し考え込んだが、身体がだるく、頭が働かない。考えることをやめ、ただ外の景色を眺めることにした。
もうすぐ午後一時になるので院内に戻り、第五病棟へと向かう。ここのところ外部からの依頼が来ないので、自宅とこの病院の研究室でしか過ごしていない気がする。
「あ、クラウスさん」
曲がりで丁度ジャドソン・クラウスと合流した。向かう先は同じなので、並んで会話をする。
「おー、具合の方は大丈夫かい?」
午前のミーティングのことだろう。そこまでしっかりしていなかった私が珍しかったのか。
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「それならいいんだが、あまり無理はするなよ? いくら若いからと言って自分の身体を大事にしなかったら大変なことになるからのう。ましてや医者が病気になったら洒落にならんからな」
冗談を言っては軽く笑う。私は作り笑いをした。
「あぁはい、気を付けます」
「それと、ひとつ尋ねていいかい」
「はい、なんでしょう?」
「若いのに医者で、それも選別者の道を選ぶのは酷だと思うが、どうしてその道に選ぼうと思ったんだね」
「……それは……」
私は躊躇った。沈黙を選んだ。その様子をジャドソンは読み取ってくれた。
「まぁ、言いたくないのならば別にいい。そうだ、レーザンさんは回診や他の仕事で午後はいないそうだ」
研究室の前に着き、私とジャドソンは中に入る。
「……」
私が選別者になった理由。不思議なことにどうしてなったのか、あまり覚えていない。そもそも医者になった理由がわからない。誰かを治したかったのか。いや心当たりはない。多忙な生活の中で、私は大切なものをどこかに置いてきてしまった気がする。
それがどんなものだったのか、今の私にとってはどうでもいいことであった。ただ、目の前のことを片付けるだけに専念するのみ。
気が付いたら、私は院内の広い中庭のベンチに座っていた。夕日は沈みかけており、散歩をしていた患者たちは看護士に連れられ、院内へと入っていく。
(……もうこんな時間か)
仕事をしているときの私とそれ以外の私は別人格なのだろうか、先程までの記憶がぼんやりとしている。
「おーい、これだろゼクロスの好きなやつ」
頭の上に何かを置かれる。落ちないようにすぐ取ると、それはブルーマウンテンの缶コーヒーだった。
香霧が私の隣に座る。香霧は糖分の多い炭酸飲料をグイッと飲む。
「あぁ、ありがとうございます」
「いいってことよ。そんなことより、さっきは本当にびっくりしたな。意識不明だってのに、自分の手を噛み千切っているなんて聞いたこともない」
そうだ、思い出してきた。今日の午後の途中でトラブルが起きたことを。
「そう、ですね」
研究中、患者に異状が発生した。意識がないというのに上体を起こし、ただ夢中で自分の手を食べていたのだ。両の手は既に指四本がなくなっており、掌も半分ほどしかなかった。私たちは慌てて止めたが、その途端に甲高い奇声を発し、暴れたのだ。まるで悪魔でも宿ったかのように。
大量の鎮静剤と麻酔でなんとか解決はしたが、いつまたこのような奇病が発生するのかわからない。
「あら、ふたりともここにいたの」
この声はフランソアか。私と香霧は振り返ると、白衣のポケットに手を入れている姿があった。冷たい風が彼女の金髪を揺らす。夕日に反射され、キラキラと輝いているようにも見えた。
「もしかしてアイリスちゃんの話?」
「まぁ、そうだね。流石にあれはどう対策したらいいか」
香霧が参ったと言わんばかりのリアクションを取る。フランソアは「隣いい?」と言い、私の隣に座る。
「正直私もあんなの見たことない。ゾンビアクションゲームでなら見たことあるけど」
「え、フランさんゲームしてるの?」
「ええ、趣味でよくガンアクションやってるわよ。あとホラー系も」
そう話したフランソアはなんだか嬉しそうな表情だった。
「い、意外ですね……」私は思わず声を出した。
「やっぱり? でも楽しいのよね。でもゲームだからいいのであって、今日起きたことはゲームでも何でもないからね」
「実際にゲームのように感染してゾンビ大量発生で人類滅亡、という可能性もあるってことか?」香霧は冗談を言いつつも、少し信じているのか表情を引きつらせている。
「でも、これまでにもUNCの劣性遺伝の患者はいるのでしょう。それについて他の医院から資料として読み通しましたが、そのような症状は見られませんでしたよ」
「でも異常な性癖とは書いてあったわよ。カニバリズムも十分に当てはまるわ」
「あれは完全に自食症だったからな」
「それどころか、もう既に第Ⅱ期の症状に入っているので、もう命を失うのも時間の問題です。あの、聞きたいことがあるのですが、第Ⅲ期の症状についてのデータがないのですけど、みなさん知ってますか? 随分前にレーザン先生に訊いてみたのですが、わからないと言われまして」
ふたりは少し考え始める。「レーザンさんでもわからないのか」と香霧は小さい声で呟いた。
「あぁ、一時期そういう議論が出たわね。第Ⅱ期はホルモンバランスの異常。大抵はそれで生体機能を妨げて死に至る人が多いから第Ⅲ期はないと言われているの」
第Ⅲ期の懸念はないということか。ではなぜレーザン先生はあのとき「ない」とはいわず「わからない」と答えたのか。
私はUNCの研究データを思い返す。確か優性遺伝は様々な症状をもたらすが、大抵、癌細胞の増加による圧迫、機能不全によるものだった。特異型は最終的には内分泌の異常によるもの。だが、不思議なことに特異型のみ死亡してからの分解、つまり腐敗の進行が通常の死体より遅かった。劣性遺伝UNCが細胞のリソソーム内の消化酵素の放出を鈍化させたか、蛋白質の消化による嫌気性微生物発生したことによって起きた自己分解機能の鈍化だろうと考えられるが。
「……」
アイリスも同様に内分泌バランスが異常になり、それなりの症状を来しているが、それはあくまでもともとの正常な身体がついていけていないだけであり、全体の値としては普通の人体よりも遥かに高くなっている。健康以上に超人的な数値へと日々発達しているのだ。その際、まだ発達していない脳や器官が危険信号を出し、それが壊死や臓器不全だったのかもしれない。
「――だからアイリスちゃんは特例というか例外になっているの。でもその因子はみつからないままだからどうしようもないんだけどね」
「逆にその因子を見つければ治療につながるだろ。な、ゼクロス」
「あ、あぁ、そうですね」
私は何も考えずただ返答した。
確かにフランソアの言う通り、病気にも例外はあり、大抵それは今まで発症していなかったか、発見されていなかったか、突然の変異で発症した三つのパターンにわかれるだろう。
UNCはあれ以来一度も大きな変異はしていない。変異する前にワクチンを作らねば。
「それじゃあ、僕は先に研究室に戻ってます。少し身体が冷えましたし」
そう告げて私はベンチから立とうとした。
「あぁちょっとタンマ」
香霧が呼び止める。
「どうしました?」
「いや、大したことじゃないんだけど、ゼクロスってアイリスちゃんのこと嫌いか?」
突然の話題。本当に大したことないなと思いながらも、
「好きや嫌いという観念はつけないようにしてますが」
すると「あ~」とやってしまったなと言わんばかりの顔を浮かべる。何か変なことでも言ったのだろうか。
「それだとね、自然に嫌いな方に寄ってしまうんだよね」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。少なくとも相手はそう思っているよ」
そうだとしても、私としてはどうでもいいことだが。
すると、フランソアも話に乗じる。
「患者さんに嫌われるより好かれた方が効率がいいと思うわよ?」
効率という言葉に思わず内心で反応してしまう。
「そもそも、患者を治すにはまず患者の心を開かせないと。閉ざしたままじゃ治せるものも治せないわよ? メンタルが大事なの」
確かにそうだとは思う。思うには思うのだが……。
「たまにはアイリスのことを考えて、やさしく接してみたらどうだ?」
「……しかし」
「慣れないとは思うが、やってみなきゃ何も始まらないだろ。しっかりしろってゼクロス。今までこなしてきた仕事より断然楽だろう。今の自分を変えてみろって。きっと楽しいからさ」
香霧は微笑んだ。フランソアも頷いた。
「……わかりました。できる限りやってみようと思います」
「よし、じゃあ一緒に研究室に行くか!」
香霧は明るい表情でそう言った。
選別者は、死神は嫌われているかと思っていた。だが、関わってみれば、案外そうでもないかもしれない。
4
〔記録ノート 3〕
十月三十日。
手術が無事に終了してから一週間が経ち、患者が覚醒した。言語中枢、脊髄等、異状はないとみられる。但し内臓器官に幾つかの損傷と機能停止。一週間前までの活力は見られない。尚、昏睡状態の七日間に信号の乱雑化、過剰電流の発生はなし。現在のところ薬剤等生体拒絶反応なし。
壊死した臓器の一部を採収、検査すると、案の定、線虫型のUNCが大量に繁殖していた。それだけではなく、一匹一匹が肥大化しており、触手にも似た繊毛が生えていた。また、数匹孵化するかのように発芽している個体もおり、そこから黴のように生え、蜘蛛の巣のように広がっていた。この基盤がUNCを肥大化させ、活性化させたのだろう。
まるで大量の寄生虫が侵蝕しているかのような不気味さ。擬態微生物という名の遺伝的突然変異体のため、その内本当に寄生虫になるかもしれないことを想定しておこう。
ガスマスクを着け、412号室に入る。一週間ぶりにあの患者の声を聞くことになるので皮肉にも懐かしい気分になる。
だが、あのとき私に向けた憎しみの瞳とはうって異なり、痩せこけ、目の輝きがほぼ失いかけている。だが、まだ生気はある。両手の欠けた包帯の腕が痛々しくも見えるが、ある意味では自業自得だ。
「気分はどうだ?」
「……全身が変な感じ」
全身麻酔のためだろう。患者はゆっくりとこちらを見る。いつもと違う反応が気を狂わせる。
「ならいいが」
私はパイプ椅子を出し、ベッドのそばに置く。私は腰掛け、いつものようにタブレットノートの電源をつけ、患者の顔を見る。だが、いつものような嫌悪溢れる表情はしない。
「……病気、本当に治るの?」
突如話し始めた。弱弱しく、不安が混ざっているのが分かる。私は動きを止めた。
「治らないと言ったら?」
「……」
「まぁ、治そうとしなければ医者とはいえないからな。どうした、死を間近にして不安になっているのか?」
「……生きたいの。まだ死にたくない」
その声は半ば震えているようにも聞こえた。やはり死への恐怖を感じているのか。
「そうだろうな。誰も死にそうになっているやつが生きたくないというはずがない」
「本当に生きたいの……なにがなんでも、私は死にたくない……」
そうか、と私は一言呟き、医療用タブレットの操作を続けながら、
「どんなことがあっても、自分は生きたい。そう言いたいんだな」
患者はこくりと不器用に首を動かす。
「ひとつ訊く」
少しの間の後、私は患者の金色の瞳を見つめる。
「これ以上生きて何になる」
私は感情が表れないように言った。患者は黙り込んだ。
「延命治療を受け続けて、薬漬けにされて、人に迷惑をかけ続けて、そこまでして生きたい理由がおまえにあるのか」
「……」
普通だったら怒鳴り込んでは反論しただろう。だが、衰弱しているのか、それとも、それこそ本当に悩んでいるのか。患者は沈黙を続けた。
だが、この質問は非常に重要だと私は思う。
病人において、この先、生きたい理由なしでは、生き続けるのは困難だ。理由を強く持たねば、小さなことでも簡単に折れる。フランソアの言う通り、精神面が重視されるだろう。
ここで言わなければ、この先の苦痛は乗り越えていけない。
「……外に、出たい……」
「ん? なんか言ったか?」
「……外に出たい……!」
芯の通った声だった。強い思いが込められている。
「それだけのことでも……それでも私は外の景色を見て、外の風を浴びたいの……!」
外……そういえばこいつは小さいころから入院生活を送っていたな。確かカルテでは七歳から……つまり十年もずっとこの病室にいるのか。
「希望は分かった。じゃあ、外に出れたらどこに行きたい」
「いろんなお店に行って……おいしいものをたくさん食べたい」
予想は当たっていたか。一週間前までそうだったが、こいつはなかなかの大食らいだった。病院食だけでは満足いかず、腹を空かしていたのを覚えている。唾液過多もみられたので一種の多食症だと判断できるほどだ。満腹中枢を満たす薬で凌いできたが、やはりこれもカニバリズムの影響だろう。
それにしても、やはり何かしらの危機感を抱くと嫌いな人でも頼らざるを得ない、友好的態度をとるという、ある哲学者の話は本当だったようだと片隅で感心する自分がいた。
あれだけ嫌っていたというのに、急に態度が変わるということは、誰でもいいから助けてほしいという暗示なのだろうか。少なくとも、死の間際の自覚はしたということだ。
「そうだな。治した暁には好きなだけ食べさせてやる」
「……! 本当に?」
その表情は嬉しそうなものだった。麻酔でうまく表情がなっていないが、確かに喜びを示している。私に初めて向ける表情だ。
「あぁ、約束する」
私はガスマスクを外し、微かに笑ってみせた。それ故なのかわからないが、微かに安心した顔を私に見せた。
「あ、それと……」
「まだ行きたいところがあるのか」
「うん……家族みんなで行った教会前の花園に」
「教会前の花園か。どこの教会だ?」
「よく覚えてない……でも、不思議な花がたくさん咲いていたのは覚えてる……」
「不思議な花か。この世界にはいろいろあるが」
「え、と……昼夜で黒と白に変色して、四季で赤、青、黄、緑の四色に変わる花なんだけど……」
聞いたことがある。確か、名は何だったか。頭痛とともに記憶を思い出させる。
「トリニオス、だったか。時の神が愛でた色彩の花だと聞いたことがある」
「たぶんそれのことかも」
いまだ思い出せないままでいる患者は口を小さく動かした。
今は秋から冬にかけているので黄色だろう。冬になれば青に染まる。
私はタブレットノートからネットワークを接続し、「トリニオス 教会」と検索する。
「……アルモス教会か」
調和と混沌を司る唯一神を信仰するアルモス教。この世界には数百を超える宗教が存在する。多すぎるのでいちいち覚えてられない。しかし、その教会の場所は案外ここから遠いわけでもなかった。
「それのことかもしれない。行ってみれば思い出せるかも」
「そうか」
記憶が曖昧だが、十年前のことだ。無理もないだろう。
検索したついでにトリニオスの変色について検索をかける。
土から水分とともに吸収されたアルミニウム等と色素アントシアンが混じることで変色するアジサイとは異なり、光量、温度、湿度で分泌される色素バランスが変化する。または細胞プログラムで周期的に変色の補助として働く説もあるという。
それらの条件によってジベレリンやサイトカイニンなどの植物ホルモンの分泌量が変化することにも色素と関係があるらしいが、何より発芽してから一年を通して栄養成長し、葉芽を形成していき、花芽形成という生殖成長の後に咲いた花は四年間その姿を保ち続けるという。花言葉は当然『四季』と、
(『死期』……? 駄洒落か?)
笑いすら起きなかったが、とりあえず誰かが決めたのだろうと思い、タブレットノートのバックライトを消す。
「前からずっと思っていたが、ここには花すらないんだな」
初日からそうだったが、辺りを見回しても花瓶らしきものは一切なかった。あるのはこの間名の知らない少年が間接的にプレゼントした7色の蝶の折り紙ぐらいだ。スタンドの傍に家族写真と共に置いてあるので気に入ってはいるようだ。
「うん、お見舞いに来る人いないから……」
物哀しげに窓の外へ首を向ける。枯れかけた紅葉が冷たい風に吹かれ、葉を散らしていく。
「テレビがあるのにそれをつけないのは何でだ?」
「……変なものが視えるの」
「変なもの?」
幻覚だろう。自分の脳が作り出した映像に過ぎない。だが、これも立派な症状なので問いかけてみる。
「電源をつけたらとても怖い死神が話しかけてくるの。今そっちにいくからって」
「それは恐ろしいな」と根拠のない同情をする。
「でも……夜中、テレビ消していても、誰かが話しかけてくるの。こっちに来ないかって」
「そこまでいくとはな。それは自分の心を強く保たなければすぐにやられてしまうぞ」
「……治してくれるんじゃないの?」
他力本願か。口から出そうになったが、今ここでいうことではないと判断した。敢えて別の言葉を選んだ。
「治すとは言ったが、最終的に左右されるのはアイリス、君の生きたいという意思だ。僕ら医者は主力であるが、あくまでサポート役だ。君の気の持ちようですべてが変わる」
「私の……気持ち?」
「あぁ、強い心こそが、一番の薬だ。強く生きろ」
「……うん」
小さい返事だった。しかし、不安そうな表情は少し和らいでいた。
「よし、いい返事だ。じゃ、また明日な」
「……うん」
彼女は金色の瞳で私を見て、不器用にこくりと頷いた。やはり体が弱っている。いつもなら何かしら反発してくるからな。
私は真っ白な病室を後にする。いつも感じる薬剤の強い匂いが弱まった気がするが、大丈夫だろうと、一瞬の思考のみで済ました。
8
あの瞳を忘れられない。
どこか懐かしくも感じられた。ただの他人だというのに。
彼女から感染った私の症状は感覚までも侵蝕しているのか。今すぐにでも治療法を見つけなければ。
あいつはただの患者だ。血など繋がっていない、ただの他人だ。
そう、あいつはただの、何も知らない病弱な少女だ。
ファルモス市、ジェスタの聖丘。墓地であるこの場所は白い尖塔と聖母「リーリア」の像を中央に、綺麗に墓石が並べられている。ここの宗教の墓石は十字架でもなんでもない。石板ともいえるプレートの墓。裏に刻まれている鳥は魂を運ぶ不死鳥だという。私はそこに来ていた。
「……」
寒気だった昼の空は薄い雲が覆い、薄暗くなってる。寒さで身を縮めたような木々は茶褐色の枯葉を手放し、冷たい礫土の通路へと転がす。
私はある墓の前に花束を持ち、ただずんでいた。冬の寒い風が黒い髪を揺らし、体温を奪っていく。
目の前の墓には「Whalo A Cosmic」と刻まれていた。
ホワロ・コズミック。私の母であり、無差別殺人を犯した死刑囚。あの優しかった母が何故そんなことをしたのかは知る由もなかった。ただ、どんなに世間が消えるべきだと非難した悪人だったとしても、私の母であることに変わりはない。失った悲しみは今でも覚えている。
「……元気だったかい、母さん」
私は墓の下に埋まっているだろう母の遺体に語りかけ、花束を添えた。冷たい風が肌に沁みる。
電脳界では死者をデータとして電脳化、保存される。場所によって供養の方法は異なるが、人体は物資として効率よく別の形として再利用している。逆にいえば、その個人の遺物がいつまでも残らないということだ。
この現実世界をイメージした世界は目の前に広がる景色のように、墓に死体を埋める。分解されないプラスチックのようにずっと墓の中で遺体が残っているのだ。おそらく、この墓の下には母の白骨体が眠っていることだろう。
私は黒い鞄を持って立ち上がり、歩を進めた。
「……」
死とは、世の中をうまく動かしてくれるシステムだ。死がなければ、すぐに世界はオーバーヒートを引き起こす。それを防ぐための完璧なプログラムがアポトーシス。この自然の摂理に何度私たちの先祖は抗ったことだろう。そしてこの墓に眠る者たちのようにゆくゆくは死んでゆく。
――外に出たい。生きて外に出たい。
あの言葉がなぜか一週間経った今でも頭痛と共に頭の中で繰り返される。
その願いを叶えてやりたい気持ちは少なからずある。約束したから。
しかし、この電脳界がどれだけ理想の世界に更新したって、現実が夢と相対している限り、常に残酷性をもつ。
だが、医者である以上、人を治す者である以上、救わなければならない。患者が生きたいと願う限り。
「あ、もしかして! いつかの死神様じゃない?」
近づいてくる砂利を踏む音。同時に遠くから聞こえてきたこの声は聞いたことがあった。女性であるにも関わらず、声自体好きではない上、必要以上に構ってくるという嫌いな性格を兼ね備えたあいつの声が。
「……ラッセル、何故君がここにいるんだい」
「いやだなぁゼクロスくぅん。あたしにだってちゃんとお参りする人ぐらいいるよー。あと、ちゃんと『ヘレン』って呼んでよぉ」
「……その猫撫で声をやめろ」
「いやん、ゼクロスくん怖い顔しないのっ」
どうもこういう可愛さを振舞う、甘ったるい高音声は生理的に好かない。だが、向こうは生理的に私を好んでいる。こういうところでも理不尽は起きるのだ。
「貴様のような輩がいるから、選別者のイメージがおかしくなるんだ」
「それゼクロスくんが言っちゃう?」
確かにそもそもの原因は私にある。だが、こいつも死生裁判士のイメージをおかしくしているのは間違いない。
同じ選別者の一人「ヘレン・ラッセル」の服装は私と同じように礼服の姿だが、茶髪のポニーテールと長い睫毛、すらっとした体格と茜よりも豊かな胸、皮肉にも見た目のデフォルトが高い。種族的に私と顔の骨格が少し異なるが、外人であれ、その顔立ちは整っているものだった。
「そんなことよりだゼクロスくん、困ったことに暇だった私ヘレンは最近多忙のあまり死にそうになっている」
きりっとした顔つきで凛々しい声を出す。こいつは一時期声優にでもなろうとしていたのだろうか。
「いいことじゃないか。それだけ信頼されているんだろう」
「もう疲れたのよ。だからあたしを慰めてぇ~」
「寄るな気色悪い」
抱き着こうとしたラッセルの頭部を片手で掴み、進行を止めた。
「いい歳なのに彼氏もいない独り暮らしのあたしを慰めてよぉ~ゼクロスせんぱ~い!」
「まだ二十六の未熟者が何を下らんことを言っている。あと先輩ではない。同期だ」
「カラダは先輩でしょ、熟練者さん?」
「黙れ」
私は掴んだ手に力を入れる。媚びた声でくだらないことをほざいたラッセルは「痛い痛い痛い!」と掴んだ手を離そうとする。どさくさ紛れに喘ぎ声を入れる余裕があるのも腹立たしい。いや、口元がにやけているし、そういう性癖かもしれない。個人的に悪寒が走るが。
私は手放す。ラッセルはフラフラとし、「本気で痛いわこれ」と本音が漏れたのを私は聞き逃さなかった。
「あーあ、折角同じ選別者、それも同期で、あの話題になっていた天才死神のゼクロスくんに久しぶりに出会えたのに」
がっかりした表情で背の低いラッセルは私を上目使いで目を潤わせるが、鬱陶しいだけだった。
「僕と仲良くなりたかったら、とりあえずその変態馬鹿な性格を治すことだな」
「ゼクロスくんがあたしを調教すればいい話でしょ?」
「あぁそれもいいかもな、最近記憶を書き換える技術を独学で身に着けてな、まだ実践していなかったんだよ。これを機にまともな人間になってみるかい」
「……本当にやりそうだしやめとく」
流石のラッセルも一歩引いた。脅しという形でありつつも本気の目で言ったのだからそういうリアクションを取らなければ本当に常人ではない。
「正しい判断だ。そろそろ帰りたいんだが、もういいか」
「あーちょっとちょっと待って! 聞きたいことがあるんだってば」
「……? なんだ」
ろくなことでもなさそうだが、とりあえず聞いてみることにしよう。
「UNCだっけ。医者や研究者の間でちょっと話題になっている新型感染症。ゼクロスくんも研究しているんでしょ?」
当然、知っていたか。公表はともかく、そこまで隠すことでもない。
「そうだが、ラッセルもか?」
すると、豊かな胸を大きく張っては威張るように意気揚々と話し始めた。
「とーうぜんよ! 選別者の勘が言ってるんだもん、あの病こそ『死亡宣告』するべきって。知っている誰もが警戒し始めてきたわ」
UNCの存在を知りつつもそれの研究や薬物が開発されないのは、いや、その進行が遅いのは、UNCが稀少病だからだ。難病の治療薬の開発には利益が最優先される。患者数が少なければ儲からない。故にUNCの治療薬開発を行うのは、もの好きや偽善者くらいのものだろう。だが、知名度が上がり、噂にでもなったということは、それだけ感染が広がってきたのだろう。
「やっとあの細菌の恐ろしさがわかってきたか」と呟くように言った。
「細菌っていうより虫だよね、アレ。脳髄に入り込んで、いいように利用されるのも予想できるし」
「治療に関するヒントは掴めたかい」
「んー……魔法の存在する世界に行って万能的な治療薬とか、まぁそれこそ魔法でUNCを滅しようって思って魔術師に頼んだんだけど」
魔術で感染を治療するか。そういえば試したことがなかった。魔力で弱めたり、圧縮したり、高度なものだったら分子配列を変えることだって可能だ。私は微かに彼女の次の言葉に期待した。
「従来の病原体には効果あるんだけど、肝心のUNCには効果なかったみたいで……」
「……どういうことだ? まさか魔力耐性でもあるのか?」
少し気を乱したかもしれない。だが、ここまでいくと逆に笑えてくる。
「でも実際にそういうのいるよ? 薬剤耐性菌がいるように、魔力耐性の生き物がいるように、魔力耐性菌が存在するのよ」
「……わかったのはそれだけか」
「んー、こっちは特に何も。手詰まりって感じ。そもそも何しても死なないからなぁアレ。寿命もないし、ただ増えていってるし、まるで癌細胞」
癌細胞か。正常の細胞の遺伝子に異常が生じ、分裂や増殖の制御を受け付けなくなった自律的な細胞。いわば不死の細胞とも言っていい。確かに当てはまっている。
「そうか。ま、こっちも手詰まりと言ったところか。電脳界の医療機関の『Cプロジェクト』に賭けたいところだよ。あれほどの万能薬は他にないだろう」
「うわ、死神ともあろうお方がそれに頼っちゃいますか」
「別にいいだろう。正直あれには敵わない。僕だってただの電脳族の人間だ。死生裁判士の一人に過ぎない。上には上がいるんだ」
「まぁ、それはそうだけど」
風が吹く。ラッセルの髪が揺れ、周囲の枯葉は芝生へと入っていく。
「そろそろ行っていいかい? そっちも暇じゃないんだろう」
「あぁ、うん、そうだね。あ、そうそう! 最後に一つ。ここの近くに『楓花』っていうお花屋さんができたから、折角だし寄ってみれば?」
「……何故だ」
その店の名は初めて聞いた。母に添えた花束はそれとは別の花屋で購入したものだった。
「ん? だってゼクロスくんスーパードライの常温ダイヤモンドフェイスだからお花で心を癒して――」
「余計なお世話だ」
私はそう吐き捨て、その場を辞す。彼女の呼び止める声が聞こえたが、無視を続けた。
何が花で心を癒してだ。最後までろくなことを言わない奴だ。
私は駐車場に着き、黒い高級車で病院へと向かう。
「……花、か」
花は確かに見れば美しいものだ。家にいくつか飾ってある。
花は子孫を残すための方法として形成された自然の産物。いわば生殖器にあたるが、これまでの歴史の中で性器としての機能をもつ花は人々に愛されてきた。見た目もそうなのだが、私が思うに、人の裸が最も美しいと評されてきたように、生殖器もまた芸術的で、神秘的だ。愛の権化だと言える。それを花に置き換えるのも、つくづくデジャヴが感じられる。
私は鼻で溜息をつき、まっすぐ行くはずの道を右へと曲がった。
9
研究後、私はいつものように一日一回アイリスの部屋へと向かう。殺菌室で立ち止まり、滅菌された後、第二の扉を開ける。
「元気にしていたか?」
患者以外誰もいなことを確認した私は院内用ガスマスクを外した。
カニバリズム、自食症の件以来、アイリスは自分では取り外せない人工呼吸器をマスクとして装着されている。そこから常時鎮静剤を与えているので、あのような暴走はないだろう。
「うん、大丈夫……」
そう言ってはぼうっと私を見る。意識が朦朧としているのか。少し危ないかもしれない。
「寝ておけ。体に負担かけるな」
「うん……」
素直に起こしていた上体を倒す。傍に数冊の本が置いてあった。
「お、もしかして『沈黙の窓』を読んでいたのか」
個人的に好きな作家の藤井大輔が著した推理小説のひとつだ。今まで見かけなかったが、案外こういうジャンルが好きなのだろうか。
「う、うん……な、なんとなく読んでみたくなっただけだけど」
「ほぉ、でも嬉しいね。僕もその本好きなんだよ。あぁそうだ、用は早く済まさないとな」
「……?」
私はもうひとつ持っていた少し大きめのビニール袋から中身を取り出す。
「……っ」
アイリスは目をまんまると大きくした。まさに驚きの一言だっただろう。
「どういうのが好きかわからなかったから、僕なりに選んできた」
アイリスの前に出したもの。それはフラワーアレンジの入った花籠だった。ピンクや白、オレンジや黄色などの色とりどりのガーベラがアレンジされてあった。
「ピンクのガーベラは崇高な美しさ、オレンジは我慢強さ、黄色は究極の美しさ、ガーベラ自体には希望という花言葉があったかな。まぁ元気の象徴の花だ」
アイリスは驚いたままで、何も話してくれない。だが、次第に反応が出てくる。
泣いていた。
涙を流していた。体を震わしながら、涙を流していた。
「……それだけ嬉しかったのか」
こくりと頷いた。真っ白な部屋に微かに嗚咽の声が聞こえる。
「……そうか」
私はベッドに座り、彼女の頭をやさしく撫でる。さらさらとした長い金髪。とても美しく、それでいて儚い。まるで花のようだと私は微笑んだ。
「はは、涙こぼれてるぞ」
私は人差し指で彼女の涙をすくうように拭きとる。恥ずかしかったのか、それとも嫌だったのかアイリスは顔を赤くし、慌てて「両手」で涙を拭い取る。
「――っ!」
一瞬気が付かなかった。見間違いか、いや、そんなはずはない。
「悪い、ちょっと『それ』みせてくれ」
「?」と涙目のアイリスは両の手を見せた。
「……っ!」
治っている。自食症で半分以上なくなっていた右手も、手首さえなかった左手も何もなかったかのように元の細い、きれいな手に戻っていたのだ。
昨日までは包帯だったはずだ。だが、形状的に巻いてある包帯の形が少し変わってきているとは思ったが、まさかこの短期間で完全に再生しているとは。
なんの前触れも因子も不明の状態で再生していることもそうだが、驚いたのはそのスピードだ。筋肉から神経まで完全に再生しており、何より早すぎる。知らぬ間にレーザン先生はこれほどまでの技術を、いや、だとしたらとっくに情報として広まっている。少なくとも研究に携わっている私たちの間では。
「その手……」
呟くように訊く。アイリスは右手と左手をを見ながらぽつりぽつりと答えた。
「ずっと、むずがゆかったの。それをレーザン先生に相談して、包帯を取ってみたら、治ってた」
「いつのことだそれは」
「え、今日、だけど……?」
「レーザン先生に何かしてもらった記憶はあるか?」
「特に何も……どうしたの?」
いや、落ち着け。あの手術の時にレーザン先生が再生基盤でも、いや、そのとき傍に居たがそのようなものや行為はなかった。説明もされていない。一応、壊死を防ぐために毎日診てはいたが、特に変化はなかった。ここのところ点滴以外なにもしていないし、注射も手術から今日までの間はなかった。そもそも薬物による再生など聞いたことがない。
いつ、何をアイリスにしたんだ。
「……いや、なんでもないよ。無かった手が早く治ってちょっとびっくりしただけだ。無事に治ってよかった」
だが、今考えたところで何も出てこない。今は余韻に浸ろう。
私は看護士の落合が来るまで、ずっとアイリスと小説の話をしていた。思った以上に話が合い、私にとっては嬉しいひと時だった。
窓際に置かれた花籠のガーベラの花が、この薬剤臭い無機質な白い部屋を明るく見せていた。