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第二章 一節  ささやかなもの

     1


 無意識で作ってしまったシナリオを人は真実と勘違いする。例えば「盲視」。視力を失ったのに相手の表情やものが視える現象だ。だが、この現象はただの変わった症例である。意識的な視覚系が機能してないが、無意識の視覚系は無傷のままである場合、盲視が起きるのは十分に摂理にかなっているからだ。脳には互いに独立して機能するふたつの層があるということを物語っている。

 私は経済新聞の記事「人生の成功の秘訣は無意識にあった」を読んでいて、ふと無意識についてのことを思い出していた。

「ねぇ、平均よりは女子力レベルの高いエリート女子大生を呼んでおいて、それをすっぽかして新聞読むことはないんじゃないの?」

 心を落ち着ける場所は自宅と、いつも行く喫茶店だと決めている。だが、今回は失敗した。自宅にするべきだった。

 私は新聞を片手に、ブルーマウンテンの珈琲に口をつける。

「ちょっと、聞いてるの?」

「……ひとつ、僕は君を呼んでいない。勝手に君がついてきただけだ。そしてもうひとつ、自分に自信を持つことはいいが、度を越えると自己陶酔者ナルシストと呼ばれるようになるぞ。大抵の若い男は自分から可愛いという奴を嫌うらしいから気をつけろよ」

 新聞を読みながらそう言うと、前の方から溜息が聞こえた。

「もう……少しは構ってもいいんじゃないの?」

 媚びを売るような声が聞こえるが、所詮年下の色気は大したことはない。

「そういうのはどっかの酔っぱらいのおじさんにでも吹っかけてくるんだな、茜お嬢さん」

 すると、グシャ、と新聞の荒く掴まれた音と共に取り上げられる。数多の黒い文字配列の景色が一変し、喫茶店の景色と波島茜の半ば怒ったような顔が映る。

「いい加減そのドライな性格卒業したら? そんなんだから恋人できないのよ」

 私はそのつんとした目つきを見上げながら珈琲を啜る。

「昔はいたさ」

「所詮『昔』よ」

 彼女は椅子に座り、新聞を折りたたむ。

「それで、どうだった? 劣性遺伝の患者さんとは仲良くなれた? まぁあなたのことだからどうせ嫌われたと思うけど」

 挑発したような目と声で問いかける。こいつは俺にどうされたいんだと思いながらも、足を組み直す。

「極端に毛嫌いしていたよ。名はアイリス・ネーヴェ、十七歳の少女だ」

 すると、茜は嬉しそうにニヤニヤした。

「どうした」

「いえ、なんでもないわ。ただ、妙な気起こらないのかなって思っただけよ」

「……医者も死生裁判士もそうだが、治療に私情は、特にそのようなけしからぬ思考は――」

「あーあー、わかったから、冗談を言った私が馬鹿だったわ」

 茜は耳を塞ぐ。それが一瞬頭を抱えているようにも見えた。

「それで、症状はどうだったの? あ、レーザン先生とは仲良くなれた?」

「まぁ、友好的な人だったからすぐに打ち解けたつもりだ。それよりも患者の方だ。見た目とは裏腹に症状は酷かった。『死亡宣告』したよ。見た目以上に内組織が破壊されている。僕に怒鳴りつけていたのが不思議なぐらいだよ」

 すると、茜は心配そうな顔をする。

「そう……余命は数か月程?」

「そうだな。永くはもたない」

「……」

 急に黙り込んだ茜の表情を見ずに、振動したスマフォの画面を開く。大学時代の友人からのメールだった。

(アルフレッドからか。……あいつライブやってるのか)

 内容はライブの誘い。OBの関係で特別にチケットを半額にするという。あのときのあいつはバンド始めたばかりで実力も全然だったが、人間数年で変われるものなんだと感心した。そこそこ有名になっている。

「……ゼクロス」

「どうした」

 私はアルフレッドからのメールを返信し、彼女を見る。

「いつも思うけど、患者に対しての思いやりとかないように見えるんだけど」

「……何を言っている、僕はこれでも完璧に治す思いで患者と接してきた」

「でも冷たい態度でしょ、正直」

「なんだっていいだろう」

「それにしてはツンツンしすぎなんじゃないの?」

「……苦手なんだよ」

「え?」

「仕事関係でなら仕方なくも同業者とは話せるけど、患者やそこらの人間と話すのは苦手なんだ」

 茜は阿呆の顔をしたまま私を見つめる。そして吹き出したように笑い始めた。

「何がおかしいんだ」

「ふふ、あはははっ、え? あなた人見知り? ギャップありすぎでしょ、あっははは!」

 茜は笑い続ける。ここまで笑っている彼女を見るのは久しぶりだが、自分のことで笑われるのはあまりいい気分ではない。

「そこまで笑うことか」

「あははは、あー笑ったわ。だってあなたらしくないもの。人と話すのが苦手って、あぁでも言われてみればそんな感じがするわ。暗いもの」

 茜は笑い終え、だが、小馬鹿にしたような表情で私を指す。うんざりした私は無視し、テーブルの上の新聞を取っては広げ、話題を変える。

「……最近やけにいろいろな国で流行病が起きているらしいな。ちょっとした免疫不全もあれば一昔前に流行したペストや天然痘までもが急にな」

 私の意図を読んでくれたのか、茜は私の話題に乗る。少し笑い堪えているのが目に留まるが。

「でもこの世界じゃ治療法あるから過疎地域でもすぐに対策されて流行も終わるでしょ」

「まぁそうだろうね。あの病以外はな」

 私は新型バクテリアのことを思い出す。昨日改めて自宅にて研究していた擬態微生物。様々な条件を与えるとそれに応じてゲノムレベルで変異する奇妙な細菌バクテリア。その原型は不確かだが、現在線虫のような形状を保っている。本当にバクテリアなのかと疑ったが、矮小であり明確な核を持たず、その上自力で分裂するので少なくともウイルスではないのだろう。生物学的基準は時に厄介だ。

「でもあなたなら何とかするでしょ。あの致死率90%のエボラ出血熱の治療法を開発したんだから。それにあのレーザン先生もいるんだし、他の研究者や医者も集まるんでしょ? なら大丈夫よ」

 茜は誇らしげに語る。自分のことのように自慢するが、臨床微生物学を専攻しているこの女子大生は何を根拠にそう思うのか疑問に思う。

 そのとき、ヘヴィメタルの曲調と共にデスボイスの歌声が聞こえてくる。茜は少し高級そうな赤い鞄からその音源であるスマフォを出した。

「その着信音なんとかならないのか」

「うるさいわね、好きだからいいじゃないの」

 テレビ番組を見て今どきの若者は感覚がずれていると聞くが、茜ほどずれている人はそこまでいないだろう。学生時代にいたアニメ好きのマニアの方がマシに思えてきたりする。

「あ、ごめんゼクロス、友達に今から遊ぼうって誘われたから行かないと」

 友人も同じようにどこかずれているのだろうなと思いつつ、

「専攻の方は大丈夫なのか?」

「だいじょーぶ! そこらへんは真面目にやってるから」

 それじゃあね、と茜は急いで喫茶店を出ていった。それほど急かす意味はあるのかとその友達に訊いてみたいものだと思いながら、ふと目の前のテーブルの上を見る。

「結局あいつの分まで払うことになるのか」


     2


 私はリノリウムの白い床を見つつ、半面の白いガスマスクの緩みがないかをチェックした。

「それでは改めて、死生裁判士のゼクロスさんだ。よろしくやってくれ」

 最先端再生医療を研究するリノバンス第六病棟統括のレーザン先生が私の隣で紹介してくれた。

 リノバンス医院内の感染症研究センターのメインルームには私とレーザン先生、そして四人の白衣姿の男女がいた。全員、感染を防ぐ半面マスクとゴム手袋等を着用しており、体格と目、髪の色以外で区別はできなかった。身長差は様々だが、一八〇㎝越えの私より背の高い人は一人だけだった。

 研究室の広さは義務教育を修得する学校の教室四つ分に及び、六カ所に大きな実験台が配置されている。数えきれないほどの電子機械や薬品、実験装置で埋め尽くされている。三方の壁も机や試験棚、研究施設用のフリーザー、ドラフトチャンバーなどが置かれていて、一種の機能美が迫力を生み出している。

「トーマス・ライアンだ」と、まずは壮年のレーザン先生と同年配の落ち着いた、しかし性格の明るそうな爽やかな顔つきの男が口を開いた。金髪と碧眼が目立つ。

「よろしくお願いします」と笑顔で握手を交わした。

「ジャドソン・クラウス。よろしくお願いするよ」と穏やかそうな顔つきの痩身の男は皺一杯の笑顔で手を差し出す。皺と白髪の混じった薄毛が目立つ辺り、五十代半ばだろう。

「フランソア・ハントよ。フランでいいわ」

 フランソアは、思慮深そうなタイプの女性だった。トーマスと同じ髪と目の色であり、私よりは年上だが、それ故の落ち着きをもっている、美しい女性だった。どこぞの臨床微生物学の悪趣味な女子大生にもこの落ち着きを見習ってほしいものだ。

「コウム・リュウリョウ」と一番最後に一九〇㎝ほどの三十代前半に見える短い黒髪の東洋人は名乗った。

 香霧瀏亮コウムリュウリョウ、そう言えば聞いたことがある名だ。

「もしかして……あのときの」

「あぁ、一年前君のお世話になったよ。あのときはありがとう」

 そう言って微かに笑みを向けた。

 一年前の夏、船内で香霧が発病し、倒れているところを救った記憶が脳内から引きずり出されるように思い出す。そこで彼の名と職業を知ったが、まさかこんなところで出会えるとは思いもしなかった。

「お、まさかの知り合いだったか」とレーザン先生は意外そうな顔をした。

「ええ、一年前に……」

「まぁ、感動の再開トークは長引くのがお約束だから、悪いがあとでにしてくれ。まぁ彼らと彼女は全員俺の知り合った友人という名の協力者だ。医薬学や外科内科においては優秀だし、皆新型病原体の研究をしている」

「あれ、六人だけで行うのかよ」

 そう言ったのはトーマスだった。おそらく詳しいことは聞いていないのだろう。仲が良いほど連絡事項が疎かになるのはプライバシーだけにしてほしいものだ。

「あー……他にも協力は願ったんだが、残念ながら、都合悪いといって断られたよ」

「私がいたからですか?」

 私は余計なひと言を口にする。だが、確信はあった。それが伝わったのか、レーザン先生は困った顔を浮かべて頭をガシガシと掻く。

「……断られた内の六割はゼクロスさんの名前を聞いた途端に、な」

「……」

 評判というものはつくづく不便なものだ。レーザン先生も私と同じことを考えているだろう。

「まぁいいじゃないか。六人でもなんとかなる。私の研究所には三人しかいないわい」

 ジャドソンは大きく笑う。

「まぁ、そうだな。こっちは二倍だし、十分な人数だ」とトーマスも笑う。全体の雰囲気が変わった気がした。

「よし、それじゃあ確認事項や詳細は先程も言ったし、昨夜の送った資料にも書いてある通りだから割愛して、早速研究を始めようじゃないか」

 レーザン先生は体格の割に大きな手をパンと叩く。各自が行動に移り、私も早速研究に移る。機材の場所は資料ですべて頭の中に入っているので、自宅の研究室にいるような気分だった。自宅の研究室と違うところは機材の多さとそのクオリティ、そして一人じゃないことだ。多人数でやる程、効率はいいが、独創性が劣るのが難点だなと考えながら、目の前の実験に集中した。


〔記録ノート 1〕

 第六周期 年号一七六七 十月八日。

 本日よりラルク・レーザン医師を筆頭に新型細菌感染症「UNCアンク」の本格的な研究を開始。予め採取してあった患者の血液サンプルと排泄物を基に媒体の回収と実験を繰り返し、治療法と抗体の生成法を編み出す方針で行う予定。

 擬態微生物の一種でもある「UNC」の形状は比較的他の病原体よりは見つけやすいため、作業が捗る。だが、対抗策は見つからない。二面性を持ち、ひとつは運動能力を有した、雄性生殖細胞ほどの活発性、もうひとつは膨張して球形に近い形状と化し、その場に固定するタイプが確認できた。だが、特にこれといった影響を与えることなく、ただ静、動を繰り返すのみ。規則性はなし。

 患者「アイリス・ネーヴェ」の容体は現在のところ異常は見られないが、悪化しているのは間違いないだろう。以前までは機械と看護師の報告より、発熱、咳、嘔吐、下痢の症状が特に多かったという。昏睡状態も多々あるとのこと。現在はレーザン先生による延命治療を受けている。

 各々の担当者、会社に報告。正式に許可を貰い、明日からは彼らの一員として研究に臨むことができる。これを機に不死の病の流行を確実に防がなければならないだろう。


     3


 レーザン先生の指示通りに、空いている時間帯に新型バクテリアによる感染症の劣性遺伝をもつ患者のアイリスの病室に顔を出しているが、入るなり「出ていけ死神」の一点張りであった。

(まったく、どうすればいいものか)

 アイリスの面会を行って五日目。未だ嫌悪の仲のままだが、別にそれはそれで構わないと思う。どちらにしろ、私は研究の協力をするのであって、彼女を主体的に治療するわけではない。するのはレーザン先生だ。最終的には彼に任せることにしている。

「……ん?」

 今日はいつもの病室とは違っていた。いつもとは別に昼の明るいときに入室したのもそうだが、そこにいたのは患者のアイリスだけではなかった。

「……あ、こんにちは!」

 元気よく挨拶をしたのは、看護師の服装を着た二十代辺りの黒髪を一つに結った女性だった。やはり白い全面マスクをしているので黒い目しか確認できないが、若い女性故の綺麗な瞳をもっていた。念のためにガスマスクを着用していてよかったと心の片隅で安堵する。

「あぁ、どうも。君は確か落合香音おちあいかのんだったね。波島茜の友人の……」

「はい、そうです! 茜がいつもお世話になっております」

 はきはきとした声ときびきびとした動きで頭を下げる。礼儀はいいが、どこか変にも思える。その言葉だけを聞けばまるで茜の保護者のようにも感じ取れ、少し滑稽に思えた。

「あぁいいよ、それよりもそこの露骨に拒絶したような顔をする患者さんを何とかしてくれ」

「……っ、おまえがここから出ていけばいい話でしょ!」

「あ、ちょ、アイリスちゃん! 体に響くよ!」

 相変わらずの態度。だが、担当看護の落合が体を張ってその怒りを鎮めてくれた。

「落合さんの言う通りだ。無闇に叫んではまた咳が止まらなくなるぞ。今日こそは私がいても大人しくしていろよ。本心としては、いい加減慣れてくれと願ってはいるが」

 私は病室の端にあるパイプ椅子を展開し、窓際に座る。カーテンは開いており、窓から光が射すが、季節もあってか、僅かな温もりしか感じられない。寧ろ紫外線よりも患者の視線の方が鬱陶しく感じる。あれだけの元気は内組織を診査した辺り普通はないはずなのだが。

「ねぇ、なんでアイリスちゃんはゼクロス先生を嫌うの?」

 落合は素朴な顔で患者に訊く。その質問に逆に私は疑問を感じたが、恐らく茜の入れ知恵だろう。

 患者は歯をギリギリと鳴らし、露骨に嫌な顔をしながら、

「あいつは死亡宣告や安楽死や手術の失敗で多くの命を奪ってきたし、死体を売買しては実験材料にするし、なにより他の選別者と違って兵器の開発を協力しているのが許せないの! それも全部お金目的で! 香音さんは選別者の倫理問題の事件の話知ってるでしょ?」

「勿論知ってるよ。でもゼクロス先生は人を治すために一生懸命頑張ってやっているんだし、それに徹夜してまでアイリスちゃんの病気を治そうとし――」

「違うよ! どうせ裏でお金のやり取りしているか、レーザン先生にバレないように私をサンプルとして奪うに決まってる!」

 成程、嫌っていた理由がやっとわかった。今までの経歴を思い返せば患者側としてはそう思う人も確かにいるだろう。

「……残念だが、君の予想は外れだ。レーザン先生からの依頼で、今回はそういうのは無しにした上での協力だ。まぁやろうものなら君を殺してサンプルにするという選択は可能だが、あくまで目的は新型感染症『UNC』の治療法を見つけること。そういう無駄な行為をするのは極めて非効率的だ」

 それに、と付け足し、

「落合さんもあまり私を庇うような発言は慎んだ方がいい。死生裁判士は医者でありながらもほとんどの医者や世間一般の評価はよくないからな。茜なら大丈夫だが、大方の人間関係が崩れるぞ」

「……はい、すいません」

 素直に謝る落合に対し、患者は未だ嫌悪と懐疑的な目で私を睨んでくる。

「そこまで極端に嫌っていると寧ろ滑稽だな」

 すると、患者は本棚から本を取り出し、私に向けて投げつけてきた。しかし、病人であり、衰弱した身体のためか、本は私の手前に落ちた。

「ちょっとアイリスちゃん! ダメだよそんなことしちゃ」

 落合に注意され、少し反抗的な態度を取りつつも、何とか怒りを収めていた。第三者がいると何かと助かる。

「確かに、本を投げつけるのは本とそれを書いた著者に対して失礼だな。もっと大切にあつか……」

 私は立ち上がり、本を拾おうとしたが、その本のタイトルに目がいった。

「……『戦争の行方』……」

 本屋でみかけたことがある。数週間前に出版された本だ。

「お前みたいな死神は知ったことじゃないだろうけど、作られた化学兵器や生物兵器で世界中の多くの人が死んでいるの。紛争が終わっても汚染は除去できずに誰も住めない環境になっているし、それのせいで病気の人が増えていくのよ」

「……」

 私はパラパラと内容を見る。すると最近起きた紛争地帯に使われていた兵器の名と効果に見覚えがあった。

 PAX・C1、L2K6、BRAIM……私が開発した生物化学兵器が載ってあった。それによって多くの人が死に、生き延びても重体の病に苦しむ。環境も感染地帯と化し、媒体という媒体を侵していった、そう表現できるような写真が幾つも見られる。

「住める場所も、食べるものも、家族も、自由も失って、息をすることすらできない人たちがたくさんいるの。おまえの兵器のせいで!」

 その息は荒々しくなる。過呼吸に近いが、構わず患者は話を続ける。

「病人や死人が増えていってたっぷり稼げて、さぞかし気持ちがいいでしょうね! 普通ならとっくに監獄送りなのに、なんで釈放されるのよ!」

 その悲痛の叫びは彼女の身体に負担がかかった。「ゲホッ、ガハッ」と痛々しい咳と嗚咽をし、血と胃酸と多量の唾液が混ざった粘液を吐き、シーツに染み込んでいく。

「アイリスちゃん!」

 落合はアイリスを寝かし、応急処置をとる。患者は痙攣を起こし、うまく呼吸ができてないが、看護師の腕が良ければ、十数秒すれば楽に呼吸ができるだろう。私の出る幕ではない。ただ見ているだけだった。

 すぐに発作は収まり、落合は安堵の溜息をついた。だが、横になった患者は荒く呼吸しながら私を睨みつける。発作の痛み故の潤んだ瞳は鋭く、怒りと憎しみが込められていた。

「……落合さん、患者の精神状態が安定してきたら速やかにレーザン先生からもらっている薬を全部与えてくれ。……いや、意識が戻った後でいい」

 私はそう伝えて、病室を後にする。意識を失った患者の枕元に一冊の本を置いて。


〔記録ノート 2〕

 十月十四日。

 UNCアンクの研究を始めてから六日が経った。現時点では治療に関係する手がかりなし。繁殖力が強く、冷凍保存していても分裂を続けている上、その速度は速い。細胞殻は堅固であり、あらゆる環境に耐えうる程。その環境があまりに過酷な場合、少しだけ変異し、別の形状、形質に変異することが判明したが、死滅はしなかった。

 ひとつ興味をそそられたことは、細菌どうしが互いの遺伝子のやり取りをしているところを確認できた。人間でいう交配セックスをしていたことになる。これによって環境だけでなく、抗生物質の耐性をもってしまうことの証明ができる。詳細は研究ノートより。

 マウスと家畜用鳥類にUNCを投与してみたが、3対2の比率で発症する個体とそうでない個体に分かれ、症状も発疹、臓器不全、神経麻痺などバラバラであったが、どの個体も必ずどこかに癌が確認できた。これらが何を意味しているのかは後に解ってくるだろう。

 患者の容体は推定通り悪化してきている。以前に三度ほど手術をしたとレーザン先生から聞いた。狂乱状態、急性脳炎、免疫不全を発病していた記録が残っていた。ここの病院の腕も優れてはいるが、よく患者が死ななかったものだと逆に感心したほどだ。

 余談だが、患者は細い割に病院食をがっつり食べると聞いた。実質、必要以上の病院食は与えられないため、腹の虫を微かにいつも鳴らしている。そのためか、唾液が多く、私に対して怒鳴り散らす度唾が飛んでくる。まるで犬のようだ。

 とりあえず今は発病を抑える薬で何とかするしかないだろう。少なくとも、特異型の患者を死なすわけにはいかない。誰もが、そう願っているはずだ。


     4


 雨は小さいころから好きだった。屋根や地面に弾けるやさしい音、身体を濡らされた時の心地よい冷たさが安らぎを与えてくれる。濁った青と曇天の空。気を落ち込ませる天候は私にとって丁度の良いものだった。

「流石ですね、これは売れると思いますよ」

 いつもの喫茶店。微かに聞こえる雨音に耳を傾けながら古川さんの執筆した小説の原稿を読んでいた。作品が完成間近になる度、読書家の私に一部を読ませてくれる。

「ゼクロス先生、あんたここの所寝てないだろ」

 だが、感心していた私の言葉を置き、古川さんは呆れ口調で心配そうな目で私に問いかけてくる。

「ただでさえ不健康そうな真っ白い顔なのに、青白さ越えて紫に見えてきたぞ。特に目の下のくま。幻覚だと願いたいほどだ」

「知らないうちに麻薬乱用しているかもしれないですよ?」

「はっはは! それだけは勘弁だなぁ」

「古川さんは原稿の締切に追われることってないのですか?」

 いかにも夜更かししていない、健康的な顔色の古川さんは爽やかに笑顔を向ける。

「一度もないなー、そういうことは。ま、俺は幸せ者だっちゅうことだ」

 二カッと古川さんは雨の湿気を忘れさせるほど爽やかに笑う。

「やっぱり流石ですね、僕なんか追われてばっかりですよ」

「いやそういうもんだろ医者ってもんは。普通に労働基準法破ってるしな。まさに理不尽の常識化の権化と言ってもいい程だ。先生の方が流石だよ」

 ありがとうございます、と古川さんに読み終えた原稿を返す。

「そういや先生、AIBEアイビー社が新しい技術の普及を発表したっての知ってるか?」

「あぁ、物質世界の現実物質リアルマターの簡易電脳化ですよね。大容量の物質でもすぐに電子変換してEメールのように他の国や世界に転送できるよう更新アップロードしたと聞きましたけど。確か有機物いきものもそれが可能って……」

「やっぱり知ってたかー。ま、この技術はこの先当たり前のように利用されるだろうな。一人一機の携帯端末みたいに」

「最近じゃあ金属生命の人工開発とそれを利用した『生きる再生機械リバースコンピュータ』、まぁ昔でいう『粘菌コンピュータ』の応用化が可能になるほどですからね。政治の『リーベルト議員の問題言動』や『電脳界コードの改修の費用不足』、それと『他世界との安全保障協力の協議』のニュースが希薄に見える程、テクノロジーが発達してきてますよ」

 一気に話した私は喉を潤すため、珈琲マンデリンを口につける。苦味がふわりと舌と鼻腔に広がっていく感覚がたまらない。

「軍事兵器も進んでいるしな」

 私はそれを聞き、自身の開発した数々の生物化学兵器を思い出す。特に気にしているものではなかったはずだが、どうしてか最近になって、それが頭を過る。

「……まぁ、そうですね。現実拡張の武器やナノマシン、麻薬濃霧とか聞きますが、どれもテロや紛争に使われましたしね」

「ゲームに出てくるような空想機械マシン全身武装フルアームが実現してるのがダメなんだよ。普通に戦争に使われる以外なにがあるって話だ」

 それもそうだ。だが、利益と自国の安全、新しい何かを得るためには武力を使わざるを得ないときがある。仕方ないことなのだろう。その駒として私はそれに加担しているのが何とも言えない。

「あ、そうだ先生」

 古川さんが突然話題を振る。その表情は半ば嬉しそうにも見えた。昼頃になったのか、雨に少し濡れた客が増えているのが声の数で分かる。店員は少し忙しそうだ。

「『赤い蜂』って知ってるか?」

 赤い蜂。聞いたこともない。

「なにかの本のタイトルですか?」

 私がそう言うと、古川さんは大笑いする。そこまで変なことを言ったつもりはないのだが。

「いやぁ先生でも知らないことがあるんだな。ちょっとうれしい気分だねこりゃ。じゃあ『青い薔薇』って聞けば流石にわかるだろ」

「……遺伝子改良のことを言っているのですか?」

 古川さんはにたりと笑う。

「まぁそうだな。世界各地の野性薔薇八種の人工交配……じゃなくて、バイオテクでアントシアニンの細胞内局在場所である液胞の酸性条件下でも、青色色素であることの多いデルフィニンを作り出すために必要な酵素の遺伝子cDNAを他の花から単離して、遺伝子導入することで実現した『不可能・奇跡』を象徴する花。それこそが『青い薔薇』だ」

 丁寧に説明してくれた古川さん。遺伝子学のこととなると少し早口になるのが彼の癖でもある。

「『赤い蜂』と一口で言っても、チャイロスズメバチやベッコウバチのような赤っぽい蜂もいるんだが、俺が言いたいのはそれじゃない。『医薬用』に造られたMedical-Beeだ」

「所謂クスリバチみたいなものですか?」

 人を刺してアナフィラキシーではなく治療薬ワクチンを注ぎ込むという考えなのだろうか。だとしたらかなり非効率的だ。

「まぁそんなもんだ。提案者はただ単に作ってみたかったっていうだけの理由で研究開発したんだとよ」

「随分といい加減な研究者ですね。でも作ったってことは何かしら情報として流れるはずなのですが」

 そうでなければ、古川さんがこの話を知った経緯がわからない。

「闇に葬られたんだよ。失敗したから。それも最悪の形で」

 古川さんは肘をつき、笑みを浮かべる。

「情報が抹消されたってことですか?」

「その通り。作られた蜂は人を治すどころか、通常以上に人を襲う殺戮蜂キラービーになっちまった。どっかのB級映画みてぇな話だろ? 積極的に人を刺して、薬を入れるならまだしも、アナフィラキシー以上の猛毒だからな。ま、被害者はそこにいたほとんどの研究者で、全員死亡したよ。運よく逃げ延びた研究者の一人が俺の友人の兄。なんとか殺人蜂を全部駆除できたんだとよ」

 そういえば、研究所の実験のミスによる閉鎖が行われたというニュースが半年前に報道されていた。それの真相がこれか。

「そのことについてはわかりましたけど、古川さんは結局何を伝えたいんですか?」

「ん、あぁ、その生き残った研究者が『赤い蜂』という名で闇市の行商人をやってんだよ。『レッド・マーケット』つったか確か」

「レッドマーケットって、臓器売買している、あの……」

「いや、死生裁判士せんせいが驚かれても……」

 レッド・マーケット。開催期間、場所共に不明であり、不定期に行われる闇市場の一種。主に人骨、臓器、精子、卵子、血液、代理母、毛髪、養子縁組など、人体を家畜のように扱う市場である。

 当然、それは営利目的で行われ、且つ法に違反している無許可活動である。

「ま、先生にとっては商売の妨げになる存在だな。ただ、『赤い蜂』は他の商売人とはちょっと違っててな」

「違う?」

「裏の間でしか知れ渡ってないが、『危険人物』として警戒対象にされているらしい。まぁ会う機会はめったにないと思うが、先生なら何かの用でそこ行ってばったり出会うかもしれない。そんときは十分に気をつけろよ」

 有益な情報かどうかはともかく、何故、インドア派の古川さんがそのようなことを知っているのかが気になった。

「ちなみにこの話、ネット仲間のユリアナさんから直接聞いたことな。たまたま俺と同じ地区に住んでいたんだ。そいつがまた別嬪さんでな……」

 そのときのことを思い出しているのか、少しにやけていた。

「それでは今度紹介してください」

「えー、さすがの先生でもこれは譲れねぇな。だけど彼女、ネットの間じゃかなりの情報通だから、知りたいこととかあれば頼んでみるといいぜ。あとで彼女のメールアドレス送っておくが、変に手を出すなよ?」

 私は苦笑する。

「わかってますって。大丈夫ですよ。あ、そろそろ時間ですのでお先に失礼します」

 これから研究がある。あの口うるさい患者は薬の副作用で睡眠状態に入っていると連絡が入ったので、今日は静かに診査できそうだなと思ったりする。

「おう、また今度な先生。けど今ザーザー降りだぞ。もう少しここに残らねぇのか?」

「大丈夫です。時間もそこまでありませんし」

 私は席を立ち、コートを羽織る。

「それに好きなんですよね、雨」


     5


 ダークスーツから寝室用の黒い服に着替える。用具や服のほとんどが黒一色なので、本当に自分は黒が好きなのだと実感する。

「……」

 今日の昼からそうだったが、いつも以上に具合が悪い。うまく思考が働かない。刺す痛みと鈍痛が交互に繰り返し、その上ぼうっとする。

「……うぅ……くそ、なんなんだ」

 そう呟き、私はすぐにベッドに入る。だが、楽にはならず、それどころか頭痛が激しくなり、眩暈が起きる。

「……やっぱり、感染していたか……」

 あのときガスマスクなしであの患者の病室に入った以外の原因が思いつかない。劣性遺伝の患者のこれまでの症状を思い出し、ゾッとする。愚かなことをしたものだ。

「研究に支障をきたす前に早く何とかしなければ……」

 そのとき、一本のコーリングが部屋に鳴り響く。単調なメロディが痛む頭に響く。

「こんな時間に誰からだ……!」

 半ば苛立ちの声を出し、フラフラと電話の鳴る方へと歩く。

「……まさかのレナード准将からか」

 画面を見、苦笑した私はスマフォの通話ボタンを押し、自身から名乗る。

『――おぉよかった、こんな時間に悪いな』

「いえ、構いませんよ」

 野太い声が頭に響く。最早どの音でも頭痛を来すだろう。互いの姿が見える拡張現実領域の実写リアルビューを普段使わないのはこの表情を読まれないようにするためだ。表情を偽れるアバター機能は個人的に好かないだけだが。故に音声だけの電話のみで対応している。

 軍事兵器の交渉関係で繋がりをもった軍兵の一人であるレナード准将はこちらの気も知らずに流暢に話し始める。

『兵器を作ってほしいんだが』

 軍事関係の方々との会話の際、必ず二言目には「兵器を作れ」と言われる。私は一切感情を出さず、要求意見を訊く。

「どのようなものを作ってほしいのですか?」

『敵国の兵だけでなく一般市民も支配できる、そうだな、ウイルスのように感染させて感染者を自在に操れるような生物兵器がいい。労働力にしたい』

 他の国の軍兵の上司とは違い、遠い領域エリアの軍事機関のレナード准将は相変わらずいい加減で抽象的な無理難題の注文をしてくる。

『できれば来月までに製作してほしい。場所はいつものとこだ。報酬はいつも通りで。それでいいな?』

 半ば強制にも聞こえるレナード准将の依頼だが、仮に忙しくても、病にかかっていても、私はいつも通り承諾して開発に取り掛かる。すべては利益のためだと思って。

「はい、わかりまし――」


 ――作られた化学兵器や生物兵器で世界中の多くの人が死んでいるの。紛争が終わっても汚染は除去できずに誰も住めない環境になっているし、それのせいで病気の人が増えていくのよ。


 ふと、あの患者の言葉が思い返される。それを始めに、あの本の文章と図として記載してあった記事の悲惨な写真が脳内から湧き出てくる。特に気にもしていない他人事だったはずが、どうして痛む頭をむず痒くさせるのか。それに、どうしてあの患者の声が聞こえてくるのか。


 ――住める場所も、食べるものも、家族も、自由も失って、息をすることすらできない人たちがたくさんいるの。おまえの兵器のせいで!


 頭痛が少し収まる代わりに思い出していく。どうしてその思考が思い浮かんでくるのか理解できなかった。ただ、このまま私はどうしなければいけないのか。

相手は返事を待っている。早く答えなければ。彼の機嫌を損ねるわけにもいかない。


 ――病人や死人が増えていってたっぷり稼げて、さぞかし気持ちがいいでしょうね!


『――おい、どうした? 何か不都合でもあるのか?』

「……すみません、その依頼はお断りします」

 電話越しでがたりと物音が聞こえた気がした。頼めば必ず了承してくれる人物が初めて断ることに驚くのも無理はないが、だからとはいえ、少しオーバーだろう。

『何故だ、何が不満だ? 何か理由でもあるのか?』

 質問してくるレナード准将に対し、冷静に答える。

「いえ、私ではそのような器用な兵器は造れないのです」

『以前に軍事兵器の回路に侵入させてコントロールさせるナノマシンの製作を行ったのはどこのどいつだ』

 その声には苛立ちが含まれていた。だが、私は単調に話を続ける。

「言葉を返すようですが、もう作る気にはなれないのです」

『――っ、どういうことだ!』

 レナード准将は怒鳴り出す。これだけで彼が普段どのように仕事をしているのかが把握できるなと呑気に考えていたが、頭痛ですぐに考えることをやめる。

「そのままの意味です。自分の都合で殺されたり苦しんだりする人を増やしたくないのですよ。ましてや私の開発した兵器で苦しまれる人々がいるだけで胸が痛くなります」

演技染みた声色で、私は言う。

『お前らしくない冗談だな選別者。今までの残酷ともいえる死神の姿はどこへいったんだろうなぁ』

「御冗談を。私はあくまで『選別者』。人の生死を判別する者です。わざわざ大量の命を奪う理由がどこにあります? 死神でもそのあたりの判断はしなければ失格ですからね」

『その気になればその身柄をどうにでもすることができるんだ。兵器を作れ、コズミック死生裁判士』

「……お断りします。それに、死生裁判士は軍と同様の権利を持っています。権利剥奪して私を捕まえることは不可能です。選別者が嫌われている理由はここにもありますのでご了承を」

『……貴様には幻滅したよ。我が軍との交渉はこれで最後だ。もう依頼することはない』

「ええ、ご自由に」

 ガチャン、と電話を切られる。

「……ふぅ」

 私はベッドに腰を置く。

 一国の軍を敵に回してしまったか。それも私情の問題、否、一時の気分で。あの患者の言葉で。

「……まったく、なにをやってんだろうな」

 天井を見上げ、私は深い息を吐く。だが、気持ちは清々しかった。

 頭痛はもう収まっていた。


     6


 翌朝、電話がかかってきた。レーザン先生からの緊急コールだった。

 例の患者の身体が突然臓器不全と壊死が起き始めている。意識はなし。死ぬのも時間の問題だという。

 急いでリノバンス中央病院に駆けつけ、簡単な状況を聞き、手術室にて緊急集中治療の補助をした。

 幸い、病の侵攻が遅かったのと、再生医療分野のレーザン先生がいたため、二十時間を越えた戦いは成功という形で幕を閉じた。

「とりあえず壊死した部位は少しずつ再生しているが、アイリス自身は未だ衰弱したままだ。絶対安静を取らねばいつ命を落とすかわからない」

 手術後、疲れ切った顔のレーザン先生は真剣な目でそう報告してくれた。先生の最先端再生医療技術がなければ患者は死んでいただろう。

「けどよ、何故突然発症したんだ?」手術に協力してくれたトーマスは腕を組む。

「それはわからない。もともと酷い症状は何度か訪れてはいたが、ここまで危険な組み合わせは初めてだ」

「……」

 私は黙ったままだった。

 UNCが攻撃性に切り替わったという考えもある。ただ、疑問に残っているのは発症原因ではない。

 何故、死なずにすんだのか。

 レーザン先生の再生医療と他の協力者によって死を免れることができたのは明確。だが、それだけでは患者は助からない。病原体が攻撃をやめない限り、再生回復が順調に進むはずがない。

 それにしても、ここ毎日患者を診療してきたが、茜の言ったような異常な性癖は見られず、優性遺伝の特徴であるランダムな症状しか現れてこない。それに、哺乳類、鳥類では癌細胞が発生したのにヒトでは一つも確認しなかった。

「――とりあえず、あとは先程来たフランと香霧と看護師さんたちに任せて今日は休もう。駆け付けてくれてありがとうな、トーマス、ゼクロスさん」

「クラウスさんはどうしたのですか?」

「ああ、ジャドソンさんは担当患者の手術の真っ最中だったから来れなかったんだ」

 私の問いにトーマスが答えた。

「そうだったんですか」

「悪い、私は先に休んでいるよ。お疲れ様」

 レーザン先生はそう言っては統括室へと向かっていった。逞しかった背中が疲弊で小さく見えた。

「んじゃ、俺らも休むとしますか、ゼクロスさん」

「そうしましょう」

 この後のためにも、今のうちに休まないと体がもたない。私たちは帰宅せず、病院で寝泊まった。


     7


「……」

 夕日が白い病室を照らす。だが、その光がかえって薄暗く感じられる。手術は成功したものの、未だ昏睡状態のまま。患者が寝ているベッドの前に私はただ見下ろすように見つめていた。

「アイリスちゃんのこと心配?」

 声をかけたのは研究協力者のフランソア・ハントだった。私は振り返る。

「いえ、心配というよりは死なれてしまったら困る、ですかね」

「そう。それは研究材料を失ってしまうから困る、という意味?」

「死なれてしまっても、その死体はサンプルとして研究対象にしますよ」

 私の発言があまりにも道徳心がなさ過ぎたのか、フランソアの表情はガスマスク越しで固まったままだ。本心とはいえ、流石に冷たく言い過ぎたか。

「しかし、彼女に治すと言ったからには死なせるわけにはいきません。患者はその言葉をあてに一生懸命生き続けようとしていますので。それがいちばんの理由ですかね」

 それを聞いて安心したのか、フランソアの表情が緩む。

「アイリスちゃんは小さいころに無差別殺人に巻き込まれて家族全員を失ったの。天涯孤独の患者ってことは『死亡宣告』したあなたも当然知ってるでしょう?」

「ええ、まぁ、そのショックによる免疫低下で感染して、それが劣性遺伝の――」

「私が言いたいのは病気のことじゃないの。アイリスちゃんの人生のことよ」

 他人ひとの人生を知ったところで治療につながるのかと思ったが、フランソアの表情を見、それを口にするのは適切ではないと判断した。

「何度かアイリスちゃんと話し合って仲良くなったんだけど……」

「それだけでも結構な進歩じゃないですか。僕なんか存在を否定されるほど嫌われていますからね」と性に合わない自虐をした。

「そうね、早く退院したいの次にはあなたの話なのよ。全部悪口だから、相当ストレスたまっているのよ。あなたに対して」

 そのストレスで容体が悪化しなければいいがと思ったが、そしたら自分は研究だけに没頭すればいい話だ。現に香霧とジャドソンは研究のみであり、患者アイリスに一度しか会っていないという。しかし、誰一人私のように嫌われた人はいなかったらしく、「謙虚でいい子だったよ」と口を揃えて言っていた。いかに私だけが嫌われているのかがよくわかる。

「……」

 私は黙ったまま対応した。フランソアは話を続ける。

「でも、そこまで嫌う理由は話してくれないの。とても悲しそうな、でもどこか怖がったような目をして口を噤んでしまうのよ」

「……? 僕の時は怒鳴りながら世間に晒されている事実を大袈裟にして話してくれましたけど」

 変な話だ。それとも症状の一種なのかと別の意味で冗談にも笑えないことをふと思いつく。人によりけりなのだろう。

「そうなの……でも何かを隠しているのは間違っていないと思うわ」

「まぁ、いずれ患者の方から話してくれますよ。僕以外の誰かにね」

 私は「お先に失礼します」と病室を出た。現在のところ異状がないので、これ以上あの部屋にいても、何の生産性もない。それにフランソアは夫もいるし二人のお子さんがいるので対象外だった。

 廊下に出、私は院内用ガスマスクを取り外す。廊下には何人かの患者服を着た病人たちが歩いていた。その行先はどこなのか。そのようなものは知ったことではないが、どのみち全員同じ道だ。

 そのとき、下から少年の声が聞こえてくる。視線を落とすと、頭と片目に包帯の巻かれた十歳ほどの黒髪の少年がこちらを見つめている。無知故に純粋な丸みのある目を見ればわかる。私のことを知らないようだ。

「どうした、何か用か?」

「おにーさんってアイリス姉ちゃんの病気を治しているお医者さん?」

「あぁ、まぁそうだが」

 患者アイリスとは院内での知り合った仲なのだろうか。

 すると少年は私に何か鮮やかな色のついたものを渡してきた。

「これ……アイリス姉ちゃんに」

 それは折り紙で織られた簡単な形の蝶だった。七つあり、それぞれ別の色だ。しかし、しわが目立ち、少し歪な形だ。何度も折り直したのだろう。

「アイリス姉ちゃん言ってたんだ、たくさんチョウチョの折り紙作って、病気の人にわたせば、病気が治るって。でも僕、七匹までで精いっぱいだったけど……治るかな?」

 よく見ると少年の指や手が微かに震えており、動作制限が見られる。ばね指だろうか、それともそれ以上の障害か。だが、その状態で七つも折るのは大変な努力が必要だ。患者アイリスのために一生懸命折ったのだろう。

 私は手を出し、それをすべて貰う。

「大丈夫だ、簡単には治せない病気だが、治してみせる。必ずな」

「本当? 本当に? アイリス姉ちゃんに会える?」

「本当だ。ここの病院は優秀な医者がたくさんいる。だからおまえもしっかり治して、元気な姿でアイリスを迎えてやれ」

「……うん! 頑張る!」

 少年は満面の笑みで返事した後、すぐに走り去ってしまった。

「……」

 そのとき、412号室が開き、フランソアがマスクを外しながら出てくる。

「あら、こんなとこでなにしてるの?」

「あぁ、丁度良かった。これをアイリスに渡してくれませんか?」

「蝶の折り紙?」フランソアはマスクを片手に、落としそうになるも受け持った。

「アイリスと仲が良かった少年からのプレゼントです。それでは」

「え、あ、ちょっとゼクロスさん!」

 フランソアは呼び止めるが、私は急ぎ足でその場を後にする。あれは私から渡すべきではない。私のやるべきことは不治の病のバクテリア「UNC」の治療法を発見すること。仮に発見できなくても「開発」すればいい。どちらにしろ、治療法を編み出すことに変わりはないが、あの娘は私を必要としていない。それなら極力関わらなければいい話。

「……」

 景色の見える渡り廊下の窓の前で立ち止まる。沈みかける夕日の色は先程の蝶の折り紙の色によく似ていた。


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