第一章 二節 静かな夜
1
大学を出ると、寒い風が肌に刺さる。ここの大学は山にあるためか、麓の町よりも寒い気がしてならない。私は乾燥した冷気を吸い、白く染まった水蒸気を吐く。気温は10度以下。指先が冷える。
私はすぐにでも自宅に帰りたい気分だった。
「ゼクロス先生」
だが、ひとつの声が私を引き留める。振り返ると、知り合いの男性である古川敏之さんがこちらへ駆け寄ってきていた。私より少し年上であり、相変わらず無精髭が似合う男らしい顔つきの渋い人だと会うたび思う。
「古川さんじゃないですか。どうしたんですか、外に出るなんて珍しい」
しかし、顔に似合わず、古川さんは普段は自宅に引き籠っており、独学で遺伝子学をはじめとした生物学に手を付けている。趣味の範囲で勉強しているため、当然、専門家ほどではないが。職業は作家らしく、SF小説をよく書いているらしい。だが、どこからみてもギターを弾いているボーカル担当のミュージシャンに見えるのは私だけではないはずだ。
「俺だってたまには外に出たくなる時があるさ。世話になった教授に会ってちょっとしたネタを聞いてきたんだ。小説の参考資料としてな。先生はやっぱりなんかの研究関連でここにきたのか?」
「まぁ、そうなりますね」
私の職柄は世間上あまり好かれておらず、寧ろ嫌っている人が多いため、私のことを知っている人のほとんどは避け、陰口を言っているのだろう。だが、私のようなただの若造がなぜ世間に知れ渡っているのかと聞かれれば回答はすぐに出る。マスコミだ。詳細については話す気も、思い出す気にもならないが、茜や古川さんのように、私に対し友好的な態度をとる、もの好きな人たちも少なからずいる。
「そうだ先生。よかったらちょっとどこかで話さねぇか?」
「いいですけど、古川さんは何で来たのですか?」
「バス。あと三十分待たなきゃいけねぇ」
古川さんは右手首の時計をこちらに見せつけるように見た。それを見る限り、成程、良いメーカーの高価な時計のようだ。
「そうですか……あぁそうだ、私が気に入っている喫茶店があるんです。そこまで車で行きましょう。話はそこでということでいいですか?」
「いいのかい先生」
「構いませんよ。あと、いつもいってますけど、先生と呼ぶのはちょっと遠慮していただけませんか」
古川さんは私のことを「先生」と呼ぶ。学歴上、確かに私は先生と呼ばれてもおかしくはない程の資格と専門知識を携えている。だが、先生と呼ばれるような職には就いてない。それに私自身、呼ばれ慣れていない。
「俺が気に入ってんだ。いいだろ先生」
古川さんはニッと爽やかに笑った。
私は苦笑を含めた溜息をつき、車に乗った。
2
「そういえば先生は国立感染研究所(NIID)で研究しているんだっけ」
喫茶店の端の一席で私と古川さんはそれぞれ注文する。最初に話を切り出したのは古川さんだった。
「いえ、協力させていただいている研究所のひとつですけど、基本私だけで研究や仕事を行っていますよ」
しかし、これからはもっとNIIDで世話をかけるかもしれない。
快く死生裁判士を受け入れてくれるかはわからないが、時が経てば、そのような下らない差別は関係なくなるだろう。
今の時代はある程度平和だ。だが、いつそれがどのような形で崩れるかはわからない。もしかしたら、近いうちにそのときが訪れるかもしれない。私の杞憂にすぎないのだが。
「独学に近いよなそれって。やっぱすげぇな先生は」
尊敬の眼差しに対し、私は作ったような笑い方をする。
「嫌われていますので、一人でやる他ないんですよ」
「『選別者』だろ? でもそんなのただの役職だしよ、人数が少なくても、他にも先生と同職の人はいるんだろ? なのに先生だけ異常に知れ渡っていて嫌われているってのも変な話だと思うぜ?」
古川さんは喫茶店の受付を睨むように見つめ、
「悪い風評だって、どうせ報道陣が変な情報を大袈裟に流すのが原因だろ。それを信じ込んだ馬鹿の群れがこの世にごまんといるのが腹立たしい。さっきの受付の奴等も先生を見た途端、表情が変わったからな。殴ろうかと思ったぜ」
私は珈琲を口につけ、息を一つ吐く。コピ・ルアクの独特の複雑な香りが鼻腔に籠る。
「それはちょっと遠慮してください。そういうものですよ世の中。マスコミも好きでやっているわけではないと思いますし。確かに嫌な気分ではありますが、慣れたことですし、仕方ないことです。でも、ちゃんと理由はあるんです。世間から受け入れてもらえない訳が」
「もしかして見た目か? そりゃあ確かに人間は九割見た目で決めるし、先生って病的なほど肌が青白いし、目つきが冷たいし、細長い体形だし、暗そうだから死神といわれるのも納得できるけどよ、長身痩躯で眉目秀麗というモテ要素はちゃんと備わっている時点で――」
「あの、古川さん、それじゃないです」
「ありゃ、それじゃなかったか」
確かに見た目は擬人化した死神だと学生時代言われたが。古川さんは頭を掻く。
「それじゃあやっぱり……あの報道されていたことか。『死生裁判士の倫理問題』ってやつ」
それを耳にし、胸のあたりが刺さったかのように痛み出す。
「死生裁判士の倫理問題」。一年前に取り上げられ、その影響が現在も続いている、非常に厄介な世間流行だ。私にとっては事件に近い。
「医学及び医療は、病める人の治療はもとより、人々の健康の維持もしくは増進を図るもので、医師は責任の重大性を認識し、人類愛を基にすべての人に奉仕するものである」。電脳界の世界保健機関(WHO)が定めている医の倫理網領注釈である。医師、人を治す者の為すべきことを考えるとき、常に倫理(ethics)と道徳(morality)が常に伴う。形は何であれ、医療行為は人類愛に基づく自発的行為であり、営利目的で行ってはならない。現に営利なしでは生きてはいけない世の中なので、そのような医師は多くいるが、医師は良心と医の倫理に従って医業を行うものである。
だが、死生裁判士はそれに反する行為が多くみられていると認識されている。特に、ほとんどの医業を習得しており、医院に務まらず、自営業であらゆる依頼を受けていた異色の私は、選別者になる前から評判が良くなかった。ただ、医療や手術の腕は認められていた。
スポーツ選手の筋肉増強、美容整形、性転換手術、人体改造、紛争地帯へ送る生物兵器の製造等、倫理的、法律的、社会的に問題となることを依頼されたがままに行っていた。それも、金銭目的で。
その上、患者の余命や生死宣告、死体解剖、死体の取引、遺体をサンプル扱いする「死生裁判士」に就職したのだ。未来発展、医療技術向上の社会を目指すことには医学連盟と変わりはないが、やることがほぼ相反している故、大半の医師や世間一般からは嫌われている。
「まぁ、あれも一理ありますね……」
「でもよ、あそこまで言わなくてもいいのにな。報道する奴等も、ネットでなんか下らねぇこと言う奴等も、言うだけ言って行動しねぇ専門家も言い過ぎなんだよな。先生はタイミングが悪かったんだ。別にあんなの気にする必要ないと思うぜ?」
その言葉に救われる。だが、事実は事実だ。社会は完璧でなければ排除される。一切のミスは許されない、理不尽以前の社会の掟。掟を破った私はそうなりかけたのだから。
私は一年前、選別者として必要以上に人を死なせてしまった。ほとんどが病を患った罪人であり、その時の医療技術と私の未熟さでは医学的に助かる見込みはなかった。だが、それを許さないという声が沸き立ち、倫理問題として訴訟され、一度私は逮捕された。記者会見も嫌というほど行った。それが、「死生裁判士の倫理問題」。私から始まったことである。
しかし、私の説得力もあってか、なんとか釈放され、職も失わずに済んだ。だが、世間の評判は最悪。選別者という用語が悪い方向で世界に認識されるようになった。一部では選別者撤廃という反対運動が行われているという。
「ありがとうございます。まぁそれが一番の理由だとおもいますが、もうひとつあると思うんですよね」
「へぇ、それってなんなんだ?」
古川さんの言葉に答えようとしたとき、丁度携帯端末の電話が鳴る。
「少々失礼します」
私は宛先をみる。無名。登録されていない人からか。
通話ボタンをタッチし、自分から名乗ろうとした。
『――死生裁判士のゼクロス・A・コズミック氏か?』
「! ええ、そうですけど……?」
『突然の電話で申し訳ない。私はリノバンス中央病院第六病棟総括のラルク・レーザンだ』
(レーザン……茜が言っていた医者か。何故私の連絡先を知っている)
『例の新型病原体の治療研究をしているのだろう? よかったら私と協力してくれないか? いや、協力してほしい』
「……っ?」
『あぁ、話は落合さんの友人から聞いたよ。彼女も中々押していくタイプだね。連絡先もその彼女から頂いた、というよりは貰ったに近いが』
電話越しでレーザンは軽く笑う。
落合……落合香音の友人ということは、やはり茜か。あいつは本当に余計なことをすると言わんばかりの行動力を兼ね備えている。
「私は構いませんけど、本当にいいのですか?」
『世間の評判は最悪に等しいらしいが、腕は確かなのだろう? 職柄や過去云々で優秀な人物を手放すほど、私は馬鹿ではない』
「……」
それに、と付け足し、
『今は新聞にすら載らないほど感染は小規模だが、今すぐにでも感染を根絶せねば、電脳界は手遅れになる。今は君に協力する他、最善の方法はない』
その声は真剣そのものであった。覚悟をもった声だ。私は身を引き締める。彼の本気が電波を通じて耳に、脳髄に、心に伝わってくるのが分かる。
「……わかりました。協力しましょう」
重い声で、私はそう答えた。
『ありがとう。それじゃ早速、今日の二十時にリノバンス病院に来てくれ。北側にある第六病棟の三階統括室で待っている』
私は了承し、電話を切る。そして珈琲を一口。
「誰だったんだ、先生」
古川さんが覗き込むように私を見る。
「あぁ、リノバンス医院のラルク・レーザン先生からです。感染している新型バクテリアの研究に協力してほしいとのことです」
すると、古川さんの表情が半ば驚いたかのような表情に変わる。
「ラルク・レーザンって最先端再生医療の研究開発をしている有名な医者じゃないか。再生医療と感染はあんまり関係ないと思うんだけどなぁ」
「まぁ、何かしら関係があるんですよ」
私は砂糖を一切入れていない珈琲を飲み干す。
「そのようなわけで、突然用事ができてしまいました。すみませんが、お先に失礼します。あ、帰りはどうされますか?」
「んー、俺ん家こっから近いから歩きで何とかなるよ。わざわざ先生のお世話になってちゃ迷惑かけるからな」
「はは、そんなことありませんよ」
「なぁに、俺がそうしたいから、そうするんだ」
古川さんは笑う。私も笑みを向けた。
「わかりました。それじゃ、また今度」
「おうよ、久々に会えてよかったぜ、先生」
私は席を立ち、古川さんに別れを告げた。
どこからか冷たい視線と陰口が聞こえてくるが気にはしなかった。
私が世間に嫌われているもう一つの理由。人によっては、特に古川さんのような、あまり物事に気にしないような人物であればどうでもいいというかもしれない。だが、世間はそうではないみたいだ。
私の母の名は「ホワロ・A・コズミック」。
かつて処刑された殺人者の名だ。
3
午後七時五十五分、リノバンス中央病院第六病棟にて。
私は統括室の扉を開けていたところだ。
開け放たれた部屋から薬品の匂いを一杯に含んだ風が吹き抜けていく。暖房で暖められた白い空間は、冷え切った体を温めてくれる。よく磨き上げられていた白いフローリングには、ソファとガラスのテーブル、壁には数えきれないほどの書類と本が、五つある棚に敷き詰められていた。窓の外は暗かったが、それがかえってこの部屋を明るくさせている。
「やぁゼクロスさん。待っていたよ」
デスクに座って何かを書きつけていた男が立ち上がり、壁と同じ色をした白衣をはためかせて近寄ってきた。
四十代前半に見え、顔の皺が少し目立つ。中肉中背の人物で、色は黒くも白くもない。平均的といってもいい。白髪の混ざった縮れ毛の医師は、屈託のない笑顔で両手を広げ、私を迎え入れた。
「ようこそリノバンスへ。私がラルク・レーザンだ」
電話のときと同じ声。だが、そのときの真剣な声とは異なり、愉快そうな、明るい声だった。
「死生裁判士のゼクロス・A・コズミックです。お招きありがとうございます」
「礼を言うのは私の方だ。よく来てくれた」
右手を差し出すと、レーザン先生の分厚い手のひらは予想を超えた力で私の右腕を引き込んだ。袖から伸びた腕には、筋張った筋肉がうねっている。
「それで、協力というのは?」
私はあまり世間話を好まない。失礼だと思うが、手早く本題に入る方が時間も短縮されるし、どうでもいい話に付き合う必要がない。
レーザン先生は「あぁ」と、ガラスの棚から何かの書類を取り出す。
「小規模かつ発生場所、時期ともにバラバラな新型病原体の劣性遺伝に感染した患者がいる。生憎、私は再生医療専門なんでね。ある程度はともかく、劣性の特異型となれば私もそう易々と扱うわけにもいかない。変なことで患者を死なせるわけにはいかないからな。他の病棟の人達でもよかったのだが、敢えてというのも失礼だが、腕に信頼のあるゼクロスさんに協力を求めた、というわけだ」
「つまり、その劣性形質の細菌の研究の協力をして新薬を作る、ということでしょうか」
「その通りだ。あと、他の研究者や知り合いの医者にも協力を願ったよ」
レーザン先生は書類を片手に部屋から出ようとする。
「では早速、その患者に会わせるよ」
統括室を出、私はレーザン先生の隣を歩く。階を一つ上がるところで、レーザン先生は持っていた書類を私に手渡す。
「これが劣性形質の新型病原体の患者のカルテだ。名前はアイリス・ネーヴェ。十七歳の少女だ。電脳型はD型プラス、親も兄弟もいない。小さい頃に殺されたらしい。それ以上のことは何も言ってくれなかったが、とにかく、彼女は身体的にも精神的にも不安定だ。いや、そのときのショックで心を閉ざしている。感染病以前の問題だ」
私はカルテをパラパラと見るが、あることに気が付く。
「その患者を診るということですか? え、と……私が、ですが?」
どうやら少し私は勘違いをしていたようだ。立ち会いが病原体だけでなく、まさか患者とも立ち会うとは。
「この病院に劣性をもつ患者はアイリスしかいない。通常とは異なる形質が、もしかしたら治療解決の糸口を掴むかもしれないと思うんだ」
その前向く表情に冗談などは見られない。本気なのだろう。
「さ、ここだ」
着いた部屋のプレートには「412 Ailice Neve」と書いてあった。
「ゼクロスさん、これを」
渡されたのは白いガスマスクだった。全面マスクであり、目はガラス越しで露わになっているが、鼻と口の部分はキャニスターで覆われている。
「ガスマスク? それだけ感染力があるのですか?」
「念のため、だ。万が一感染したら救えるものも救えない」
マスクのベルトで頭部を固定し、先生は白いスライドドアを開ける。
小さな空間と目の前にはもう一つのドア。壁には幾つもの噴射口が設置されていた。
「……ここはもともと手術室だったのですか?」
「いや、リノバンス全棟がこんな感じだよ」
ブォォ、と噴射口から強い風が吹き付けてくる。薬品の強い匂いが鼻にくる。同時に全身の肌がピリピリと痛む。
(電磁波か……結構強めだな)
バイオバーデンを限りなく減らすための滅菌法のひとつ。だが、このヴァーチャルな電脳界で通じるのかどうかはわからないが、少なくともここはより物質世界に再現した領域だから大丈夫なのだろう。
数秒経ち、噴射が収まる。レーザン先生は第二のドアを開けた。
統括室と同じ、いや、それよりも純白に感じられた病室。暖かくも涼しくもない、無音の空間にあったのは、ひとつの白いベッドと小さい本棚、そして一人用の机と、電源のついていない液晶テレビがあった。
そのベッドの上にひとりの少女がいた。金色の髪は蛍光灯に照らされ、輝いているが、その金色の瞳には活気が見られなかった。少し痩せてはいたが、人形のように顔立ちは整っており、肌も病的なほどに白かった。何を見ているのか、真っ暗な窓の外を眺めていた。
その少女はドアを開ける音に気が付いたのか、ゆっくりとこちらへと顔を向けた。
「レーザン先生、その人って……」
十代特有の透き通った声。弱弱しい声だ。
「あぁ、君の治療に協力してくれるゼクロス先生だ」
「ゼクロス……?」
私を呆然と見る目。
嗚呼、その瞳は何度も見てきている。
「……コズミック……」
口の動きが、そう語っていた。
瞬間、号哭にも似た怒号が白い部屋を響かせる。
「帰って! この部屋から出てって!」
「……」
予想通りの反応。威嚇するかのように、怯えるかのように叫ぶ。
「アイリ――」
「大丈夫です」
注意しようとしたレーザン先生を止め、彼女の吐く言葉を受け止める。
「出てけ死神! この人殺し!」
そう叫んでは、枕や置いてあった本を投げつける。
「一旦出ましょう。彼女に私は必要ないみたいです」
私はそう告げ、その場を後にした。あとからレーザン先生が付いてくる。
「すまないゼクロスさん。普段は大人しい娘なんだが、あんなに叫んだのは見たことがない」
私が死生裁判士だと知っておいて、よくそんな皮肉が言えるものだ。
「いいですよ、ああいうのは慣れてますので」
白いガスマスクを外し、私は笑みを浮かべた。
「それで、私はまず何をすればいいでしょうか」
「そうだな、まず、『死生判別』をしてくれ」
その一言には少し驚いた。
「万が一、『死亡宣告』……安楽死対象となった場合は、どうするつもりですか?」
「何を言っているんだゼクロスさん。もしそうなったとしても、私はあの娘を救う。あくまでそれは『医療的殺害の許可が下された』ということであって、必ず殺せというわけではない。死生裁判士の目から診て、アイリスがどの現状にいるのかを確かめたくてね。ゼクロスさんは私よりも若く、その上医業も長けている。ゼクロスさんだって好きで死亡宣告しているわけではないだろう」
「ま、まぁそうですが……」
好きでやっているのならば、今頃私は収容所にいる。
「それなら、協力して彼女を、いや、彼女をはじめとした新型感染者を救おうじゃないか」
今のところ感染規模は小さいが、いつ拡大するかわからない。早期対策が重要となる。故にこの医師の必死さが伝わる。
「まず、アイリスと仲良くなるところからだな」
そう言ってレーザン先生は笑う。
今まで私が審査してきた人の約八割は嫌悪していたが。
「私と接してきた患者と仲良くなったことはありませんよ。例え完治した患者でもね」
「じゃあ今日で最初に仲良くなれる患者だな」
何を根拠に。私は「はは」と笑う。
「私から説得するよ。ゼクロスさんはここで待っていてくれ」
レーザン先生は再び病室の中へ入る。
(……)
まだ外見しか見てはいないが、瞳孔、表情筋、肌にうっすらと見える血管などを診た辺り、特に異常はなかった。病弱そうに見えたのは元々か、それともやはり精神的なものか。
劣性遺伝をもつ病原体。それがどのような形質、いや、症状をもたらすのか。茜は確か異常な性癖をもつようになると言っていたが。
「――ゼクロスさん」
気が付くと、目の前にレーザン先生が怪訝な顔をして私を見ていた。また自分の思考の中に浸っていたようだ。
「なんとか説得はして許してくれたから、診ても大丈夫だ」
彼女の嫌々そうな顔が思い浮かぶが、そのようなことは気にしない。私は再びレーザン先生と共に病室に入る。
ガスマスクを装着し、病室に入る。彼女は私を見た途端、更に警戒を強めた、そんな表情をする。
「警戒しなくてもいいよアイリス。君の病気を治すのに協力してくれる、新しい医者だ」
ほら、ゼクロスさんからも、とレーザン先生は私を見る。
「別に殺しに来たわけではない。そこだけは勘違いするな」
そう言うと、キッと彼女は睨みつけてきたが、特に感情は沸いてこない。
「ゼクロスさーん、あんたそういう冷たい態度で話すから人に好かれていないんじゃないのか?」
呆れ口調でレーザン先生は肩をバンバンと叩く。少し痛みを感じた。体格はそこまでだが、力は結構強いようだ。
「先生、早く終わらせてください」
機嫌の悪い彼女は、今すぐにでも私をここから出て行ってもらいたいのだろう。特に好かれたくもないが、逆に極端に嫌われるのも腹立たしく感じる。
「彼女もああ言っているので、早速診察しましょうか」
レーザン先生はマスク越しで溜息を一つつき、「そうだな」と頭を掻いた。
「それじゃあ、服を脱いでもらおうか」
「……」
彼女は渋々と上を脱ぎ始める。あくまで私は医者と同等の資格は持っている。そのあたりは認めているのだろう。
病院服を脱いだ彼女の躰は、痩せていたものの、女性らしい丸みのある体つきだった。未発達だが、少し膨らんでいる乳房が女性らしさを引き立たせている。赤と青緑の血管が浮かび上がっていたが、それがかえって、曲線美を強調させる。病を患っているにしては、とても綺麗な肉体だった。
「じっとしてろ」
「ゼクロスさん言い方冷たすぎ」
後ろでレーザン先生が何かをいうが、私は構わず診査器具を取り付け、彼女の身体に触れる。
いつも行っている故、感覚や反射のみで診査をしている。診査の間、他のことは考えないように、ただ本能的に、無意識に、肉体の危険信号に耳を傾ける。脳波、心拍、呼吸、瞳孔、筋肉の動き、動脈……あらゆる「声」を目で、耳で、指で感じ取る。
人体は異常を来すと必ず何かの信号を発する。それがどんなに小さくても、気づかなければ人を治せない。医学を語れない。
電脳族である自分の身体から、電波を発し、異常部位を探す。また、患者の発している波長が乱れているかどうか、一定の周期かを感じ取る。ただの人間でそこまでできるのはいないと思うが、別種族故にできることだ。
異常を知るということは、正常、つまりは基準を知らなければならない。だが、常識というものはいつ変わるのかはわからない。常に視野を広げ、情報を更新しなければ、人間同士が支えて生きている社会の時代についていけない。つまりは生きていけない。
診査を終える。否、審査を終える。
「……」
「ゼクロスさん、どうなんだ」
真剣な表情でレーザン先生は訊く。彼女も同様、私の診査結果に興味はあるような目をする。
「……まず、今行ったのは『患者がこの先、生きるに値するか否か』及び『安楽死の許可が下されるか否か』及び『生存確率と推定余命』、つまり『死生裁判』、まぁ世間でいう『死亡宣告』されるかどうかの審査です。どのような症状か、肉体に異常はないかということはカルテに書いておきます。詳細部分や治療法はちゃんとした医療機器を使うことを強く奨めます。あくまで『宣告』であり、『執行』ではないので、勘違いはしないように」
私は服を着終えた患者の目を見る。死んだような目に、僅かだが光を感じる彼女の瞳には、もう既に命の行先が示されている。
私は一切の感情を示さず、事務的に、無機的に診断結果を報告する。
「――『アイリス・ネーヴェ』。あなたを『死亡宣告』する」
「……え?」
4
《「死亡宣告」においての最低条件》
1.将来において生命維持する価値のある存在か。
2.有効な治療法や予防法が見つからない、治療が困難な病をもつか。
3.遺伝的血のつながりがある者、配偶者が存在するか。存在したとして血縁者、配偶者が死を望み、それを患者が同意するか。
4.この先、人類に大いに影響する(治療サンプルとしての利用価値又は感染等の悪影響をもたらす危険な存在)か。
「……嘘、だよね……」
さっきまでの振る舞いから一変し、患者は呆然とした顔で、私の言ったことが冗談であってほしいために、微かに笑みを向ける。未だ信じられないような眼差しを向ける。
「ねぇ、嘘なんでしょ? ……治るんでしょ? ねぇ?」
このような態度になるということは、やはり生き延びたかったのだろう。矛盾しているが、現実から目を背いている以上、生きる資格はない。死を受け入れるのも、ひとつの生存法だ。
「何故嘘をつく必要がある。事実を言ったまでだ」
「ゼクロスさん、少し口が過ぎるぞ。アイリスの気持ちを考えてくれ」
「レーザン先生、患者に嘘をついてもお互いに首を絞めるだけです。隠す必要はないですよ」
レーザン先生はガスマスク越しで歯を食いしばり、だが納得したのか、これ以上は口を出さなかった。
「あぁ、言っていなかったな。余命は……」
「嫌! 聞きたくない!」
「余命は約二ヶ月だ。受け止めろ」
聞こえたのか、患者は甲高い声で叫ぶ。女性の声というものは相変わらずうるさいものだ。
「あぁ……ぁぁあああ……嫌……嘘よ! こんなの……嘘に決まってる!」
私は溜息をつき、呆れるあまり脱力する。
「このまま過ごせば『必ず』死ぬと言っただけだ。勘違いするなと先程言っただろう」
それと、と私は付け足す。
「『宣告』とは関係なしに、その病を治すと言ってるんだ。レーザン先生や他の医者の方々と協力してな。君の信頼しているレーザン先生がいるなら安心するだろう」
「……」
患者は黙り込む。少しは納得したようだが、やはり「死神」扱いしている私のことは憎んでいるようだ。
「アイリス、先生は全力で君の病気を治してみせる。今は不安で仕方ないと思うが、希望は捨てないでくれ」
レーザン先生は患者の前へ行き、手をがしっと握る。少し安心した表情になり、こくりと頷いた。それをみたレーザン先生は目尻に皺を浮かべ、微笑む。
興味がなかった私は後ろへ下がる。精神面では死生裁判士よりも医者に任せた方がいいだろう。
「よし、なら大丈夫だ。それじゃ、明日血液検査をするから」
「え、ち、注射ですか?」
少し怖がっている。ずっと入院していても慣れないものは慣れないのか。
「先生、せめて年に一回で……」
「残念ながら月一回なんだよ」
「私あれ嫌いです」
「先生は好きだけどなー」
はっはっは! と豪快に笑ったレーザン先生を見て、患者は苦笑する。
「じゃあそういうことで、覚悟しとけよ? あっはっは!」
じゃあいこうか、とレーザン先生は私の肩を叩き、病室を出る。その際、レーザン先生は患者の方へ振り向き、二カッとガスマスク越しで笑いながら中指と人差し指を立て、「アディオース!」と言った。これだけ明るい人なら、懐いてもおかしくはないな。
私は振り返らず、レーザン先生に次いですぐに病室を出た。
「あ、ゼクロスさん、このあと都合悪いか?」
統括室に向かう途中、ガスマスクを取ったレーザン先生は私にそう訊いた。
「あぁすみません、仕事が残っているので」
「そうか、じゃあ済まないが、明日も来てくれるか? 時間は今日中に連絡しておく」
「わかりました。あの、どちらかといえば私は治療研究の方に専念したいのですが……」
「それも兼ねて、アイリスと仲良くしてほしいんだけどなー。それにゼクロスさん事務的すぎるから好かれないと思うんだ」
「そりゃあ仕事ですからね。それに、懐かれても辛いだけです」
レーザン先生は困り顔で頭をガシガシと掻く。
「んー、そう思っているのは君だけだと思うけどな。人を治す者は何も身体だけではない。心のケアも必要なんだ。ゼクロスさんならそのくらいは知っていると思うが」
「……」
黙り込んだ私を見て、レーザン先生は息を一つ吐く。
「ま、これからそうしていけばいい。あぁ、今回は特例で君に診査を頼んだが、今後の感染病原体の研究協力と患者診査に関する詳しいことは今夜書類にして送るよ。まぁ明日にでも話そう」
「わかりました。では、私はこれで失礼します」
「ああ、ありがとうな、ゼクロスさん」
ガスマスクを返した私は挨拶を交わし、廊下を曲がる。レーザン先生の足音が段々と小さくなっていく。
「……」
薄暗いリノリウムの廊下の真ん中で、私は歩むのをやめる。
「……はぁ」
踵を返し、ただある場所へと向かった。
「……」
412号室。私は目の前の重く、白い扉を開く。除菌室で全身を電磁波による殺菌をした後、二枚目のスライドドアを開けた。
「……っ!」
個室の白いベッドで上の空となっていた患者、アイシス・ネーヴェは病室に入ってきた私を見た途端、不意を突かれたようにびくりと体を震わし、目元を白い袖で拭く。
「な、何しに来たの!?」
威嚇しているようにも見えるが、声が震えている。私を憎んでいても、死神と評されていてはやはり怖いのだろうな。
そして、もうひとつの意味で驚いている顔がみられた。
「顔を隠して挨拶をするのは礼儀に反しているからな。改めて挨拶を交わしに来た」
私は院内用ガスマスクをしていない。露わになった私の素顔を見てここまで驚かれるのもどうかとは思うが。もしかすると、この患者はレーザン先生の素顔も知らないのかもしれない。
「……そこまで驚くか」
「だって……その、ここにくる看護師さんもレーザン先生もみんなマスクをつけているから……それに、挨拶って……」
「やっぱりみんなそうしているのか。顔を見せずに心のケアとは、先生もよく言ったもんだ。まぁ無理もない、感染するかもしれないからな」
私は鼻で笑い、呟くように言う。
マスクなしでこの部屋に入ったということは、感染したリスクが伴っている。杞憂で終わればいいのだが、そこまで現実は甘くはないだろう。
「そ、それじゃあ何で……」
「レーザン先生が言っていたんだ。少しは患者と仲良くなれって。それに、おまえを治さなければならないからな、リスクなしで医者は語れないだろうし、素顔を知らずして仲良くなれるわけがない」
私は患者に近づき、視線の高さを合わせた。唖然とはしているが、未だ懐疑的な感情を抱いているようだ。
「……」
私は何をやっているんだろうな。何故こんなことをしているのか聞きたいところだが、生憎その答えは私の無意識の中に在る。
「……っ、近づくな死神! 騙そうと思ったら大間違いよ!」
「騙したつもりはないが。ま、これからも死神をよろしく」
私は手を差し出した。だが、パチンと弾かれる。
「とにかく出てって! ナースコールするわよ」
「看護師は警察じゃないぞ」
私は軽く笑い、「まぁ、よろしくな」と言い、その場を後にした。
病院を出、空を見上げる。この世界に月はない。すっかり暗くなり、白い息さえも暗闇に消えていく。人の気配もなく、ただ冷たい風が吹くのみ。
あまりにも静かな黒の世界へと私は歩いていく。星ひとつない夜空に淡く輝くのは、点滅する人工衛星だけだった。