第一章 一節 選別者
1
昔は生き物を殺すのが怖かった。
虫でさえ殺すことができず、それどころか、死骸を見るたび嗚咽し、嘔吐した。最初に見た虫の死骸は四肢がバラバラに千切れ、頭部が潰れ、肌色の粘性のある体液を漏らしていた。残酷な死に方だった。
一生動くことの無い命。神様から授けられた、母親の恵みから生まれたかけがえのないただひとつの命。人間だけではない。動物も、虫も、魚も、一匹一匹には必ず一つだけの命がある。生き物は多々ある命を犠牲にした上で生きている。幼いころの私は、それが許せなかった。
「……男性三人、女性二人、内三人が罪人……五日、死去」
だが今は違う。命を失うことも、奪うことも恐れているどころか、進んで行う殺戮者になっている。
正確には、命を救う医学者だが、私はその中でも異色とされている役職に就いている。ただ、一つ言えることは、私にとって医者などただ命を弄んでいるようにしか見えない。
「死因……全員、シンノンブレウイルスによる肺水腫。急死」
運命的に事故に遭い、病気にかかり、死んでいくのはごく自然なことであると私は考える。だが、医者は無理矢理それを「治し」、「延命」させる。決して悪いことではないが、酷い場合、本人の意思ではなく、周りの意思で生死を決められたりする。
「治療遅延の原因……潜伏期間内の集中治療を行えなかった、リバビリンの投与が遅かった。そして関係者の報告・連絡の遅延」
無論、誰しもがより長く生きたいと願う。死にたくない、けど死にたい、死ななければならないという者もいないわけではないが。
生存願望、それを叶えるのが我々医者である。
「……また解剖か」
否、私は正確には医者ではない。医学、死生学を主に学び、医師免許等を持ち、一応標榜科の一通りの医業と歯科の診察・治療の資格や技量は得ているが、私はもう医者ではない。
「選別者」。この世界ではそう呼ばれている。
別称「死神」。少なくとも私はそう評されている。
正式名称「死生裁判士」。生死を判定する派遣医師である。
医療は勿論、安楽死にも手掛け、死体の病理解剖、検査を通して病の原因や治療法を見つけることを中心に行う。役割内容が多い分、随分と忙しい。また、これは職業というより個人で取り組んでいることだが、裏手企業から細菌兵器やワクチンの製造も行っている。
最大の特徴は、患者だけでなく、健康な人々の生死を決めることができ、医学的殺害と死体を使った研究を許可されていることだ。
「……テスト失敗、ワクチンは創れず、か……」
但し、生死宣告及び殺害は厳正な法の下、条件が揃った上で許可が下される行為なので、そのようなことはほとんど起きない。
だが、現時点で治療不可な病や、生存率が30%以下の患者、罪人においては優先的に死体サンプルとして安楽死の推奨はできる。そしてその死体をこの先の未来繁栄のために研究資材として利用する。
「いっそのこと、齧歯類を一掃させるナノウイルスを造るか」
しかし、この職はあくまで死体の立ち合い、取り扱いの自由が許可されているだけで、生きているうちは決してサンプルとしての利用は禁じられている。殺害も、安楽死の実行のみ。だがそれは本人の依託をもとに行われることである。強制は厳禁であり、法的処罰を受ける。だが例外もある。
「……はぁ」
薄暗い一室、一つのスタンドが唯一の明かりとなっており、パソコン入力を終えた私は椅子に体重を深くかける。青白い肌がさらに青白くなりそうだ。徹夜して丸一日働き、今は朝の六時半。二日間睡眠をとっていないことになる。
約四十時間勤務。医者は手術等でかなりの体力を削られるが、この職もかなりのハードだ。今までの中での最高断眠記録は一八六時間、約八日間寝ていない時期もあったということだ。普通ならば海馬の活動が低下し、幻視や妄想が現れる。体力も限界だ。
だが、仕事は不定期に来る。五日連続もあれば、一週間以上の休暇もあるので、そのときにじっくりと休むことにしている。
最も、ある意味で独立している以上、仕事が来るという表現は間違ってはいるが。
「流石に寝ないとな……」
私はそう呟き、そのまま寝付いた。
2
人は人種問わず夢を見る。
睡眠中に脳が活動し、その刺激によって記憶が呼び起され、夢という現象が発生しているという。だが、夢というものは曖昧なもので、覚えている夢もあればすっかり忘れてしまった夢もある。その要因としてレム睡眠やノンレム睡眠が関連してくる。
私は不思議なことに、毎日見た夢ははっきりと覚えている。だが、今日見た夢は些か不快なものであった。同時に、不思議な夢でもあった。
「……まだ一時間しか寝て……あぁ、十三時間も寝ていたのか」
寝ぼけ眼を擦りながら私は壁に掛けられたアンティーク時計を見る。そして、腕時計を見て再確認する。十九時半。確かに十三時間眠っていたようだ。
「充電しないとな」
私は椅子から起き上がり、棚から薬品を取り出す。それを一口飲み込み、「電脳族」特有のエネルギー、人間でいう糖質を大量且つ急激に補給させる。そして、机に立てかけてある機械でできた小さい筒のようなものを手に取り、そこから五本の短い針が突出し、それを首元に刺す。バチン、と放電音が鳴る。
「っはぁー……」
潤ったように、気持ちよさげに私は溜息をついた。バフッと、ベッドに倒れこむ。
人間は食物を食し、消化吸収を行い、栄養分を補給する。電脳族も普通の人種と同じ食物を食べることはできるが、消化経路が異なり、最終的には電子などの粒子を得る形となっている。また、電力もエネルギーの一つだ。人間の食事は電脳族でいう充電である。
そんな無駄な解釈を一瞬だけ思い浮かばせ、機械の筒の針を首から抜く。
「……」
仰向けに寝転がり、先程見た夢を思い出す。
私が弄った死体の霊が蘇り、私を襲ってきたというどこかのアクションホラーゲーム的要素がある夢であった。だが、不思議に思ったのはそのあとだ。
突如真っ暗になり、私は黒い鎖に縛られていた状況に陥ったのだ。手足、胸には大きな釘が刺さっており、目の前には一匹の真っ白な鳳蝶がひらひらと舞っていた。真っ赤な複眼で何かを語っているようにそのときは感じられた。
蝶は言っていた。「自由になりたいか」と。
言葉を交わさず、その蝶の言っていることがわかるとは、どこまで私は妄想が激しいのか。夢というものはまったくもって不可思議だ。私はふっと笑った。
そのとき、ノート型パソコンから着信音が鳴る。私は起き上がり、パソコンの画面を開く。
「……茜からか」
私は少しだけ嫌な顔を浮かべただろう。
電脳界は数多の世界を繋いでいるグローバルコミュニティエリアと評されている世界だ。また、世界の中にも多種多様の国があり、市があり街がある。故に、様々な言語の名がある。様々な種類の名前があるが、一般に大きく「漢名」「和名」「英名」「欧名」の四種に分かれる。茜は和名、私は英名にあたる。
「……なんだ、今からじゃないのか」
明日の正午にいつもの食堂か。また面倒な話を持ち込むのだろうと私は肩を落とす。
「まぁ、いいか」
了承の返信を送信する。私は指を鳴らし、壁に貼り付けられている五十インチの薄型テレビの電源を入れ、チャンネルをニュースへと意思のみで変える。「雷人族」ほどではないが、電脳族は鍛え方次第である程度の電気電子を操れる。その中でも私は好奇心で訓練を重ねたおかげで、その操作性はネット内の簡単なハッキングも可能なほどにまでに至った。電脳界内でも、より現実世界に再現されたこの領域や、本当の現実世界や多世界で電気電子機器を使う際、操作性の優劣問わず本当に便利になるので、学生時代に鍛錬をやっておいてよかったと思う。
ニュースは相変わらずマイナスな情報ばかりだ。最近ではくだらないことまで報道するので有益な情報が得られない。ネットだと莫大な分、偽情報が多い。
「……論文改竄問題ねぇ」
研究者を会見や取材で虐めている間にも、問題起こして研究中断させている間にも、今流行している多種多様の病は感染を続けている。
上げては落とす掌返しの茶番劇をつくるマスコミや、それに感化される野次馬は一体どこまで真実が見えていないのか。
(もう感染は取り返しのつかないことになっているのに)
無論、私も全力で対策は行った。だが、これまで以上に数が多く厄介なものであり、多くの医者や研究者を苦しめている。
私は窓を開ける。真っ暗な空の下には眩しいほどの電灯が並び、冬着を着た大勢の人々が歩いている。冷たい空気が部屋の中に入り込む。
「……」
電脳界に住んでいる以上、他の世界より最先端且つかなり便利な世界に生涯を送ることになる。最近人気となっているのは、ゲームの世界に入って様々なジャンルの異世界を満喫することだそうだ。電脳界は現実拡張として他の世界を疑似体験できる。故に、電脳界は多種多様の世界を体感できる。だが、何故このエリアのような、わざわざ不便な現実世界を再現した世界を好む輩がいるのか。私には理解しがたいことであった。もっとも、理解などしたくはないが。
そのおかげで病原体の変異が従来の種より激しい。他の世界から来る人も多いこともあるが、環境によって変化するのも病原体の特色だ。電脳界を一気に閉鎖してみたいものだ。そうすれば患者が減り、ハードな仕事も減るだろう。いや、減ったら稼ぎがなくなるか。
私は明日入ってくるだろう厄介な頼みごとに備え、シャワーを浴び、準備をした後、ベッドで再び就寝した。
3
翌日、私はスーツに着替え、ノートパソコンと資料をカバンに入れ、髪型をチェックする。最後にマフラーを首に巻き、波島茜のいるウェルテルト国立大学へと向かった。
ウェルテルト大学院生である波島茜は臨床微生物学を専攻する優秀な人物であり、私の友人でもある。私より年下であるが、性格からか、どうも上から目線の話し方をする。別に構わないが、病原体に関する経験や知識は豊富だ。微生物について気軽に話すならまず、この人だ。
私の通っていた大学と彼女の通う大学は仲が良く、共同研究を行うことが多々ある。それをきっかけに私と彼女は出会い、話の合う仲として時折こうやって会いに行ったりする。
大学に着き、黒い車を停めた後、駐車場の近くの食堂に入る。
黄色い壁が特徴的で、一面ガラスの壁もあり、中はとても広い。中央には小さな電波塔があり、時刻や学内情報がモニターとしてそこに表示されている。天井付近にはカラフルな雲のオブジェが吊られている。
「久しぶりだね、茜」
食堂の端辺りの席で、顔に似合わずカツ丼をがつがつと食べていた彼女に私は微笑みかける。彼女は食べるのをやめ、水を一杯飲んで、ものを飲み込む。
「久しぶりね。顔がいつも以上に青白いから、仕事の方は捗ってるようね」
大人の女性のような声調で話す。声がきれいなので構わないが、背が低く、成人とは思えない若さを保った顔つきなので、頑張って大人っぽく振舞っているのだろう。
「過労死するほどにね」
「いいじゃない、就職難に遭うよりはよっぽどマシよ」
「過労死で死んでいく若者も少なくはないけどね」
私は彼女と向かい合わせで席に座る。艶やかな黒い長髪、小さく膨らんだ胸元を開け、金色のネックレスが強調される。かわいい顔して、結構大胆な格好をしてくる。
「それにしても、スーツってどんだけ真面目なのよ。他大学とはいえ、ちょっと浮いてるわよ」
若干引き気味に彼女は言った。
だが、それを倍に返す。
「冬なのにそんな胸元開けた服を着る君もそれなりにどうかとは思うけどね。あと女子大生がひとりでカツ丼を男気よく食べる姿も違和感があったよ」
「……まぁ本題はというと」
眼を逸らしながら話題を変える。皮肉を言うのは得意なくせに、言われるのには慣れていないようだ。目が少し潤んでいる辺り、結構傷ついているようにも見える。
「お金になる話よ。はっきり言えば」
「仕事か。『宣告』か、それとも死体の解剖か」
テーブルに乗りかかり、アプローチしてくるが、私は冷たく返す。
「何よ、つまんない男ね。そうよ、仕事よ。頼まれた話じゃないんだけど、ゼクロスって今の流行病とは別に独自で今流行りかけている新型感染の研究もしているのよね。あ、何か食べる? なんなら奢るけど」
「いや、行く前食べてきたから大丈夫」
気前がよく、人が良いのも彼女の性格だ。だが、女の子にお金を払わせるにもいかないので、私は断った。
「そう、ならいいけど。それで、まず知ってほしいことがあるのだけど」
「なんだい?」私は気軽に返答した。
「西村教授の話から知ったのだけど、新型の病原体、今までプリオンだと思われてきたけど、れっきとした感染症を引き起こす細菌だってことがわかったの」
「……っ?」
プリオンとは、病気の原因となる異常性をもつ蛋白質性の因子である。ウイルスではないが、自己増殖し、脳にある正常なプリオンから感染性のある異常なプリオンに変え、脳に広汎な破壊を起こす。熱に強く、紫外線処理しても感染性は減少することなく、今のところ有効な治療法はない。
だが、細菌となれば話は別だ。プリオンとは違い、有効な治療法が見つかる可能性が高い。環境によってはそれだけで死滅する場合もある。
「……細菌、なのか……?」
だが、私は耳を疑った。事故死した死体に偶然感染していた見たことない病原体を調べても、あれはプリオン以外考えられなかった。気になるところもあり、感染者を探しては研究した時があったが、成分も蛋白質だけであり、細菌がもつ核酸やこれといった小器官などはみられなかった。可能性は見出してはいたが、それでも細菌だとは断定していなかった。
懐疑的な表情を浮かべている私を見、彼女はこう言い放った。
「擬態微生物(Mimesis microbe)って聞いたことある?」
「!」
私は声が出なかった。どうしてその考えが思いつかなかったのか。悔しくて、奥歯を噛み締めたが、彼女には気づかれないように冷静に振舞った。
「よく自然の中に溶け込む、というより同化するという意味での疑態微生物が挙げられるのだけど、この新型は見た目だけ変わる擬態なんてものじゃない、遺伝子から真似する奇妙極まりないバクテリアよ。ウイルスじゃなくてね。各エリアで数種類の症状に分かれる原因不明の病が流行って、それがやっと3種類のプリオンだってわかったのに、結局1種類のみの細菌だったって話になったらもう嫌になっちゃうわよね」
「遺伝子を自らの意志で組み替えるのか……?」
「そうよ。より適応し、より死なないように、より繁栄しやすいようにね。厚かましいことこの上ないわよね」
その眼は笑ってはいなかった。私は黙ったままだった。
「ちなみにそのバクテリア、ウイルスにも真菌にも擬態できるわよ」
「大きさも形もそれぞれに合わせて変わるということなのか……?」
つまり、私の研究していたプリオン病も、そのバクテリアの変化したものの一種に過ぎなかったということか。
「多少の限度はあるけどね。擬態なんてレベルじゃない、進化退化どころか、それを逸脱した変異を呼吸するかのように簡単に行う、神の冒涜に近い生物といっても過言ではないわね」
恐ろしいことだ。遺伝子配列が変化するということは、有効な治療薬が作れないということになる。作ったとしても、奴等はすぐに耐性のある感染型へと進化するだろう。
それに、私自身の研究でその蛋白質性因子に擬態したと思われる矮小バクテリアを様々な方法で実験してみたが、高熱、凍結、放射線、真空、どれも完全には死滅せず、二回目以降は耐性が付いたのか、一匹も死ななかった。
幸い、殺戮兵器のような急死性はないが致死性はあり、一部の感染者が死亡している。また、風邪程の感染力はないため流行はしていないが、対症療法があるだけで有効な治療法ない。
正真正銘「不治の病」である。
「……ゼクロス?」
心配そうに、黙り込んだ私に声をかけてくる。
「……わかったことはそれだけか」
茜は首を振った。
「それがわかったのは一週間前。そして一昨日、そのバクテリアが不思議なことに一気に蠕形動物型に変異したの、電脳界全エリアで」
最初、彼女の言っていることが理解できなかった。
「……全部一種類に突然変異したってことか」
茜は頷いた。
「感染者から死体、サンプルケースに入っていたものまですべて線虫のような同種に変異したの。意思が共通しているかのようにね」
細菌の以心伝心? 何の為に? 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。私はそう思った。
「随分とおもしろい冗談だね。細菌同士がネットでもやって、みなさんで一斉に変異しましょうって拡散でもやったっていうのかい」
私は半ば笑いながら言った。だが、彼女の目は笑ってはいない。
「共時性が考えられるけど、おそらく電波みたいなものを体内で生成して発信し合ったという考えもあるわ。だけど、私は――」
「人為的な行為としか思えない。そう言いたいんだろう」
私は彼女の言葉を補った。
でも、と付け足す。
「『電脳界』は次元を超えた国際的ネットワークステーションともいえる世界だ。いろんな世界からいろんなものが混み合って、ましてや電脳的環境変化によって混合、進化、変異して、子供の考えたような細菌兵器ができたっておかしくはない。よりリアルな世界の現実拡張を行った分、病原体もなにかしらの耐性が付いたのだろう。自然と新種が産まれて、勝手に数種類の病原体パターンに分かれて、また一種類に戻ったってありえない話じゃない。現にそうなっているんだからね。それで、症状とか感染経路で分かったことはあるかい?」
「えーと、マウス実験で分かったことなのだけれど、症状は咳、貧血、不眠症など様々だけど、致死性の病にかかることはあまりないわ。感染経路は素晴らしいことに全経緯よ。今のところ治療法はないけど、それぞれの症状に見合った薬を服用し続ければ大丈夫だと思う。ただ、変異してエボラのように急死性の症状になったりしたら大変なことになるけど」
茜は一呼吸置き、
「ただ、それらとは明らかに異なる症状を発生させる劣性遺伝子を持つ、特異型の個体がいると聞いたことがあるわ」
ただの劣性形質を特異型と呼ぶとは。塩基配列的に正しくはないが、それだけ逸脱しているのだろうか。
「少数派だけど、第Ⅲ期までそのバクテリアの共通形態があるの。症状は、第Ⅰ期は異常な性癖や精神不安定、幻聴幻覚。第Ⅱ期は脳や神経の異常発達によるホルモンバランスや肉体の不安定化、第Ⅲ期は……」
「どうした?」
茜の表情は、何かを躊躇ったようなそれだった。
「……いえ、そこから先は私も知らないの。ただ、聞いた話だとなんていうか……ごめんなさい、よくわからないの」
申し訳なさそうに目を逸らした。
「そうか……電脳型、いや、人種共通か」
「ええ」と彼女は頷く。
「気になることがあったけど、ゼクロスってそのバクテリアの研究しているのでしょ? あなたのことだから知っているかと思ってたけど」
それを聞き、私は苦笑する。学生の人数がある程度少なくなっていることに気が付く。
「あぁ、他の仕事でなかなか手が付けられなかったんだ。二週間ほど手を付けていない」
それを聞いた茜は「本当に?」と驚いた表情を見せるので、私は小さく首を縦に振った。
「相当忙しかったのね。まぁいいわ。それで、仕事になるっていうのは、その特異型を患った病人を、私の友達が務めている病院のレーザン先生が担当しているらしいの。私の友達も、その患者の看護を担当しているから」
「その患者を診ろって? おいおい、それは主治医に任せておいた方がいいんじゃないか? 他人の病棟までズカズカ入って、横取りみたいだろ」
金になる話ほど、胡散臭く、宛てにならないものはない。そのような形だったら診察料といったものは貰えないだろう。
「協力という形でいいのよ。それに、その患者が死んだら最優先であなたのサンプルになるじゃない」
こいつも中々無神経なことを言う。
「死体っていろいろ不便なところはあるんだけどな」
「でも新型バクテリアは死体にまで感染するわよ。それに、一種類にになったんだから培養もできるし、十分なサンプルがとれて、ワクチンが作れる。ほら、解決の糸口は見えたわよ。西村教授も、他の研究者も昨日から急いで行動に移っているわ。ほら、あなたもそれに貢献しないと!」
「そう簡単にうまくいくといいけどね」
私は呆れた溜息をつく。「もう」と茜もため息をつき、
「そーいうマイナス思考がダメなのよ。ほら、話は以上よ。早くワクチン作りなさい」
「話が異常で整理がつかないのだが」
「そーいうつまらない駄洒落は飲み会でも使えないわよ」
「?」
そのとき、昼休み終了のチャイムが鳴る。
「やば、もうそんな時間? じゃ、また今度ね!」
そう言い、茜はヒールの音を鳴らしながら走り去って行った。周りを見渡せば、あまり学生がいなかった。大方の学生は午後の三限に講義を履修しているのだろう。
「……」
帰って研究するとしよう。
その前に私は学食を食べることにした。茜が食べていたカツ丼を食券で買う。値段の割においしくはなかった。