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再終章 純白の死に讃美歌を

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 これは「死神」の物語の後日談です。序章から終章だけでも物語としては完結できますが、このもうひとつの終章は違う形で、違う視点で描かれた短編の物語です。

 これは参加させていただきました「あなたのSFコンテスト」終了後に書いてみたものです。小説としてはどうかと思いましたが、番外編、おまけといった気分で読んでみてください。読まれた方々の中で万が一、「死神」のイメージを崩してしまった方がいれば申し訳ありません。しかし、コメディ要素は殆どありません。


 この話は作者が個人的に書いてみたかった、予め設定していた非公開の物語を載せたものです。あくまで曖昧且つ書こうか迷っていたボツに近い話であり、伏線をすべて回収する話ではありません。話もうまくまとまっていないので、少々理解し難いことをご了承ください。また、「死神」の話を読んでいない場合、更に理解し難いかと思います。

 その死は、正しかったのか。


 神は聖なる天と渾沌の地を創られたという。闇は淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを動いていた。「Let there be light(光あれ)」、その言葉で光と闇は分かれ、光は昼と呼び、闇を夜とよんだ。

 天地創造、創世記の内容は終末記同様さまざまであり、それはそれで面白い。

 あの青天の霹靂「ニュクスの惨劇」からどのくらいの年月が過ぎ去っただろうか。とある神話の夜の女神の名を取った電脳界の「第六期の大絶滅」の歴史は浅いというのにもかかわらず、今生きる人々でそれの存在は知っているものの、それがどのような経緯で訪れたのかを正確に知る者はいない。

 しかし無理もない話、戦争を体験したこともない平和の時代に生まれ育ってきた子供に、戦争の本当の恐ろしさを説得だけで知らしめることはできない。正直なところ、私自身もその惨劇を直に体感したことはない。

 体感すれば、死ぬからだ。


 このエリアは電脳界再現領域「67-F03」に移転された再現世界リヴァイバルのひとつであり、私「ヘレン・ラッセル」が選別者――死生裁判士として勤めてきた区域に属する。その区域のひとつであるファルモス市の墓地「ジェスタの聖丘」に、花屋「楓花ふうか」から買ってきた花束を目の前の墓に置いた私はうっすらと映っている電子回路模様の空を見上げる。

「いつになったら完全に復旧するんだろう」

 しかしこれだけの広い世界、すべての崩壊しかけたデジタル世界を直すのに時間がかかるのも無理はないだろう。

「ニュクスの惨劇」は本来「ふたつ」の厄災が重なったことで訪れた世界転変である。

 ひとつは世間や政府の報道で有名となり、常識と化している「黒い瘴気」による「瑕疵現象ゴースト」が起き、「電脳獏ウイルス」が発生したこと。特異的な素粒子「電脳物質」の均衡を崩し、配意的不安定を引き起こす、つまり私たち電脳族をはじめとした電脳物質でできた存在が根本的に「消失デリート」する、「死」よりも恐ろしいことが今現在も続いている。他の種族で例えるとするならば、肉体を失うという「死」に加え、魂をも輪廻せずに消滅するに等しい。

 この黒い瘴気による現象「ゴースト」は電脳界の全生物の最大24%を消失させた。人々は報道陣マスコミや専門家の言葉に感化され、絶滅寸前にまで追い込んだの元凶もそれだと信じ込んでいた。

 しかし、そのゴーストが引き起こされた科学的な理由は不明だった。

 だが、私はその理由を――真実を知っている。

「……」

 真実を知った時、あのときの私の顔はどのようなものだっただろう。ポーカーフェイスなどできていなかったはずだ。

 私は有給休暇で偶然に当時の奇病「UNCアンク」のワクチンを接種していないときに時空軸の異なる他の世界へ旅行したため、急死して結晶化する病状を免れることができた。そのことを知った時は驚きを隠せなかったけれど。

 私も研究し、治療法を探っていた病原対象の擬態微生物(Mimesis Microbe)「UNC」がまさかの人為的に創られたHERV(ヒト内在性レトロウイルス)だとは思ってもいなかった。

 そのウイルスがきっかけで「ゴースト」は発生したらしいのだ。電脳界全域が感染し、普及されたワクチンによってすべてが資源と化す完全絶滅に陥りかかった感染崩壊パンデミックコラプス。それが、もうひとつの災厄であり、本当の元凶であった。

 ニュクスの惨劇の前にそれを知ってから、旅行帰りにもかかわらず、すぐさま故郷でんのうかいを放り出して他の安定した世界に逃げた自分の罪は重いだろう。私が過ごした別世界では8年ほど経っているが、電脳界は数百年もの年月が経過していた。二つか三つほど時代が変わってもおかしくはない。それでも、見慣れた聖丘の墓地が残っていたのは驚きだった。

「……んー」

 私は尊敬し、惚れていた同期の選別者ほどは頭の良くない思考力で考える。そういえばいつもの糖分パフェ食べてないや。

 他の領域はすっかり化石と化して深い所へと埋まり、地層のように新しい世界に積み上げられているのに、どうしてリノバンス地区とファルモス含むその周辺の地区が変化してないのだろうか。

「……わからんなぁ」

 やっぱりどうでもいいことには頭が働かない。それ以前の話、

「なんでゼクロス君の元カノが私にそんなとんでもないことを伝えたんだろう」

 ワクチンが新物質資源である結晶化につながることも、UNCの真実も、それらを企てた「シュレイティアの意志」の存在も、すべてそのエイシスという女性から教わったものだ。それにしても、知らない美人に不意に声を掛けられるとドキドキするものなんだと知った。私はそっちの方ではないと思ってはいたが、悪くはないとも思っている。

 しかし、そんなことよりも、あの無愛想なゼクロス君に恋人がいたのは驚きだった。てっきり愛情の片鱗すらない女たちと夜の営みを続けているのかと思っていたけど。

「どうしてなんだろうね、フォール・ネーヴェ先生」

 私は月に一度お参りしている、墓に刻まれた名を口にする。

 私を死生裁判士にするきっかけをつくった、アルモス教の牧師であり、ゼクロス君の最期の患者「アイリス」の父親。

 私は墓の前に座り込み、微笑みかける。

「エイシスさんから直接聞いたよ。アイリスちゃんに『シュレイティアの意志』を『触れさせた』のは貴方だって」

 自分で言っていて思うが、どうしてそこまでのことをエイシスさんが知っているのかが気になる。

「なにをどうしたらその意志に『触れられる』とか全くわかんないけど、貴方は自分の娘をいつか発覚・自覚させて自分と同じ境遇に置こうとしたのかな? でも貴方は発狂してなか……あぁ、発狂するラインに踏み込む前に死んじゃったんだっけ? 無差別殺人ラリッたホワロに巻き込まれて」

 私はケタケタと哂う。ちらほらいたはずのお参りに来た人は既にいなくなっていた。否、元々この町に住む人も「再現されたもの」だ。生きた電脳族ではない。

「別に信じるのは勝手だけどさ、広めようとするのはいけないんじゃない? ていうか宗教浮気だよ? 貴方も貴方でどうかしていたわね」

 私は哂うのをやめない。ずっとニヤニヤしている。

「あと、折角だし言っておくね。貴方を慕っていたのは、あなたの不死病を治した先生があの『プラグライト医師』だったからよ? 別に貴方自身尊敬していたわけじゃないわ。模擬よ模擬。ま、死んでいるから今更言ったって遅いけどね」

 私はにこっと微笑み、立ち上がる。

「黄泉還し」の異名を持つ天才医師「ストル・プラグライト」。実在しているか解らないシュレイティアとは違い、生ける神と呼ばれる程の医学者である。その偉大なる名は電脳界にまで広まっていて、ゼクロス君も知っている偉人の一人だ。ゼクロス君のことだから敬っているわけでもなかったけれど。でも、その人なら、電脳界の惨劇を防げたかもしれない。

 だけど、正直ゼクロス君でも、このとち狂った意志を防ぐことができたと信じている。

「でも……死んじゃったのかな」

 俯き、好きだった、いや、愛しているに等しかった彼を思い出す。どのような形であれ、不快に思いながらも私に接してくれたのは嬉しかった。彼の為なら奴隷になってもいいと思ったときだってある。記憶を書き換えられるのは御免被るけど。

 彼は今、どこにいるの?

 死んだなんて認めない。絶対に認めない。

 でも、どこにもいない。どの世界にもいない。

 私は舌打ちをし、歯軋りする。

「全く……みんなみーんな死んじゃった。親も友達も仕事関係の人もみんな……ふふ」

 右腕を横に伸ばし、指を鳴らす。軽快に響いた音を合図に、周囲の祖先の礎を、骸が埋まる石墓すべてを一斉に粉砕する。聖丘の中心の女神「リーリア」の像をもその音で砕け、倒壊する。当然、目の前のフォールの墓も地面に埋まっていた遺骨ごと木端微塵だ。

 私はくすくすと笑う。なにがおかしいのか、自分でもよくわからない。

 ただ、こんな人業離れした能力が魔力や超能力でもないのが不思議だ。ウイルスのような実物もあれば精神のように虚栄のもある「シュレイティアの意志」は本当に不可解だ。

 ピタリと笑うのを止める。突然悲しくなってきた。風が吹き荒れそうな曇り空特有の薄暗さが空間を染める。

「あのときのこと知ってる人なんて、エイシスさんぐらいだろうなぁ……」

 でも、と小さい声で私は呟いた。

「ゼクロス君は死んでほしくなかったな……」

 無粋で冷酷で、人付き合いが悪そうな無神経っぽい男だったけど、それでも、惚れた男に変わりはなかった。あんな完全無欠な人が他の一般人と同じように結晶化したなんて信じたくない。

 そういえばエイシスさんはゼクロス君の行方を知っているのかな。何処であえるかわからないけど、聞いてみよう。

「いけないわねぇ、神聖な墓地を壊すなんて」

 私は声の聞こえた方へ振り返る。目を見開きそうになるも、冷静を取り戻す。

「……どちら様で」

 ダマスク模様の紫色の日傘を差し、赤い蝶の髪飾りをつけた、貴婦人らしき容貌の美しい金髪の女性。顔やスタイルに多少は自信ある私でも、その女性の美しさはエイシスさんとは違った美貌さが威圧として圧し掛かってくる。

 紅と蒼をメインとし、黒と白の刺繍模様もあるドレスだが、どこか和服の様にもみえる。中華文化も混ざっており、どのファッションジャンルなのか、通である私でもわからない。それは異界の者である以外、何者でもないことを示している。

 その点、私はそこらの人に見られても違和感ない服装だ。ジーパンにブラックの冬用ジャンパーを羽織っている。ブラウンに染めている髪の型は相変わらずポニーテールだ。

「そうねぇ、あなたの知りたいことを知っている人、とでもいえばいいかしら」

 これまた遠回しに言うめんどくさい人が現れた。そのようなことを言ったって、喰いつく私ではない。

 その女性は「ふふ」と落ち着いた様子で微笑み、

「当然、疑うわよね。そんなことで話に乗らないって顔をしているわよ」

 読まれている。見た目からしてただの人間じゃないけど、この大物感溢れる雰囲気を醸し出すのはやめてほしい。

「私に何の用で」

 とりあえず、用件を聞いた方が早い。ゼクロス君が仕事でもそうしてきたように。

「別に。神様気取りの男を怒らせた人に会おうとしているだけよ」

「……それって……」

 私の思考を読み取ったように、女性はくすりと笑い、口を開いた。

「この世界の発音では『シュレイティア』だったかしら。世界を繋ぐ電脳世界なだけあって、本来の発音とそこまで異なってはいないわね」

 やはりシュレイティアの意志と関わる人物だったか。しかし、その非実在の人物を怒らせた人に会うとはどういうことか。

「元々この世界は滅ぶはずだった、というよりは滅ぶべき世界だったと言った方が正しいわね」

「……? どういうこと」

「そのまんまの意味よ。もともとこの世界は現象によって生まれた『独界』のひとつ。電脳質で構成された特異的な世界をシュレイティアは目をつけ、実験場としてそこにウイルスを投入インストールさせた」

 女性は傘をくるくると回す。癖にも見えるが、そんなことはどうでもよかった。

「独界」とは数多ある世界群を5つに分けられたジャンルの一柱に属する、中でも特異的な世界群に分類された世界。ひとつひとつの世界規模が大きく、また四大法則が存在し、エネルギー、構造、基底状態等がそれぞれ異なるものの、どれも安定しているらしいが、医薬学中心に学んできた元死生裁判士の私では、それ以上の事は分からない。

「結果として変質的デジタル空間にあなたたち電脳族が生まれたわけだけど、発見した電脳物質と一段と強い電磁気力、そして環境の良質な電波性を技術として利用して、他の世界へ接続コネクトした。それがあなたたちの過ちであり、シュレイティア自身のミスでもあったのよ」

 シュレイティアのミス。なんとなく予想はできたが、今から一時間半後に大事な合コンこと合同コンサートパーティがあったことを思い出す。親に急かされた結婚に繋がるかもしれない大事な約束事だが、この女性の話も気になるものがあった。

「人間の身勝手さが予想を上回ったって感じ?」

 本当に存在しているかのように彼女は話し続ける。本当に神様はいるのか知らないが、シュレイティアは実在すると仮定した方が話を飲み込みやすいだろうと私は判断した。

「そうね。彼が『厄介事』に巻き込まれている間に、電脳界は数多の世界へと進出しちゃって、その世界の来るべきはずの『系』や『環境』、そして『歴史』を変えてしまったのよ。歴史を書き換えることは危ないって物語はよく聞く話だとは思うけど、まさにそうよ。特に、別の世界からの進出があったならね」

 今では便利となっている電脳技術やグローバルを越えた世界進出も、本当はいけないことだったのか。しかし、それがダメなのは所詮神様の都合にしか過ぎないのだと思う。

「それとは関係なく、シュレイティアは一本の樹から森へと育った場所をすべて資源として伐採するつもりだったのだけどね」

 育った樹が勝手に別の農地へ根を張っていったと把握すればいいのか。農家にしたらはた迷惑な話だろう。

「早く発達した分、電脳族絶滅、電脳界閉鎖の未来も早まったのだけれど、それを邪魔した男がいたのよ」

 その女性は流動する電子回路と無数に流れる化け文字の映る天を見上げ、その麗しい口で、確かにその名を答えた。

「――ゼクロス・アラー・コズミック。シュレイティアの怒りに触れた重罪人よ」

「――ッ!」

 愛しき彼の名が挙げられたとき、飛び上がりそうになった。喉奥から出てきそうになった言葉を堪えるが、表情を隠すことはできなかった。

 どういうことか聞きたかった。どうしてゼクロス君がそのような境遇に置かれたのかも、今どうしているのかも、すべて。

「どうしてと思われても、私がそう安々と教えると思って?」

 指で口元を抑え、くすくすと笑う。その仕草は好きにはなれない。

「……やっぱり思考を読んでるんだね」

「顔に出ているだけ。でも、あなたが今すぐ知りたいことをひとつ教えてあげる」

 すぅ、と息を吸い、

「彼は死んだわ。『黒い瘴気』――『ゴースト』という厄災を生み出してね」

 それは、あまりにも突飛で、酷な知らせだった。一番知りたい、でも知りたくなかったことだった。

 認めたくない場合、大抵出てくる台詞は目に見えている。でも、そう訊かざるを得なかった。

「……嘘、でしょ?」

 なんでそんなことがわかる。なんでそんな根も葉もないことを知っている。

「残念だけど、本当よ。あなたの記憶に沁みついている彼はもう、どこにも存在しない」

 ――ゼクロス君の何を知っている。

「そんなの認めるわけねぇだろ」

 パチン! と指を強く鳴らした。

 目の前の大地が膨れ上がり、破裂するように爆発し、噴き上がった土埃が豪雨のように降り注ぐ。周囲の木々も幹の芯から暴発し、ゆっくりと倒れていく。

 女性は明らか巻き込まれた。いや、彼女を狙ってやったのだ。外したなんてことはない。感情のあまり他の場所まで影響を与えてしまったが。

「――名前を教えることはできないけれど」

 目の前が煙のような真っ白な手に覆われる。一つや二つではない、顔も頭も、腕や脚も、体中に手という手が覆い尽くし、服の中に潜り込んでくるのもある。視界が奪われた分、肌が敏感になる。

 声を出そうにも、首を絞められ、声帯が潰されかけている。

「……ぁ……は……ッ」

「私は『神』に従える『記録者』の一人として、あちこちの世界を視て廻っているの。ちょっとした管理や点検、と言った方が解りやすいかしら?」

 夢であってほしい。これが現実なんて、私が死ぬなんて、そんな馬鹿なことがあるはずがない。骨が軋み始める。血の巡りが悪くなる。あぁ、このあと合コンがあるのに、彼氏ができるチャンスだったのに、なんでこんな……。

「そうね、男が出来ないのは辛いことね」

「でも安心して」と優しく私の頬を撫でている感触がする。だけど、とても冷たい手だった。

「これは夢よ。永遠に覚めることのない無意識の深海。辛くても、すぐに幸せに切り替えられる不思議な世界」

「――ッ!」

 手首が、足が骨髄ごと握りつぶされる。首も、頭部も、肋骨も圧迫され、内部から熱いものが湧き上がってくる。それは、冷たい手に覆われている私にとっては気持ちのいい温かさだった。

「おやすみなさい。ヘレン・ラッセル」

 額にキスされた感覚を最期に、神経を麻痺させんばかりの激痛がぷつりと途切れた。



「――そして淑女ヘレンは、愛し続けた男の姿を思い浮かべ、命の降るさとから旅立っていった……」

 女性の目の前にはフォールの墓に背もたれたヘレンの遺体。花に包まれた彼女の眠るような死に顔は生きている時以上に美しいものだった。

「魂無き亡骸は裸の女体を逸脱した美しさを誇る……ね。強ち間違いではなさそうね、かれの言うことも」

 女性はそう呟き、前を見る。

 ヘレンの不思議な力による影響が嘘のように、ジェスタの聖丘は完全に修復されていた。墓もすべて、傷一つ付いていない状態へと戻っている。

 否、そもそもそのような事態が起きていたのか。修復・再生以前に、何事も起きていないとしたら。

「『意志』も所詮は実体を持たない幻……シュレイティアは完全じゃないのよ」

「例外の対象はないわけじゃないけど」と、空を見上げる。

 脳を持つ者は、脳が創り出した幻想セカイで生きていく。それが共有され、大きなセカイが生まれる。すべては幻。思い込みの無意識に過ぎない。

 創り出しているからこそ、霞んで見えないものもある。

「……」

 ゼクロス。ただの電脳族が幻と真の境界を渡ることなどシュレイティアは予想していたのだろう。しかし、タイミングが悪かった。

 女性は空間に電脳界ならではの拡張現実のスクリーンパネルを出現させる。「あら、こういうのも便利ね」と少し感心した声を出す。

(ゼクロス・A・コズミックを始め、ヘレン・ラッセル、ギリア・ファインマン、エイシス・エマートソン、ホワロ・A・コズミック、ラルク・レーザン、トーマス・ライアン、アイリス・ネーヴェ、フォール・ネーヴェ……『意志』に触れた者は計8名、内生存者0名、存在者1名、知った者は……多いわね)

 半透明のモニタを閉じる。ここでひとつの疑問が女性に思い浮かんだ。

 電脳界において『シュレイティアの意志』に触れた者の分布範囲がほぼ一か所に集結している。

 どういうことだ。そう考え、すぐに思いつく。

「まったく、一番厄介なのはあの娘かもしれないわね」

 何を考えているんだか。シュレイティアの犯した罪の尻拭いよりも、惨劇を免れられたもうひとりの死神を止めた方がよかったのかもしれない。

 記録者はひとつ息を吸っては吐き、サァァと砂のように粒子化してはこの世界から存在を消した。

 聖丘に優しい風が吹く。墓に飾られたヘレンは今も夢を見続けているのだろう。

 終わることのない夢を、現実と錯覚して。


     *


『現在、お客様のご利用されたいサイトエリアはアクセスできません』

 このコールを聞いたのは何度目だろうか。

 思い通りにいかず、苛立ちの声を出すが、道をすれ違う人々は気にも留めない。携帯端末をジーンズのポケットにしまう。

(あぁクソっ! なんで『あそこ』だけアクセスできねぇんだ)

 焦りを内面に潜め、不機嫌な俺――ロミット・ワドルは学生時代の親友の無事を知りたい一心だった。

 こんな感情、ひと月も経てば忘れてしまうだろうに。しかし、らしくない言葉を最後に音信不通になるのは、誰でも気になるに違いない。

 昼下がりの煉瓦街。蒸気自動車の渋滞で大通りは埋まり、歩道は溢れる人で追い抜かすことさえできない。

 電脳界の被害は酷いものの、ほとんど修復しているはずだ。電脳界自体は入界アクセスできる。それなのに、あいつの住んでいた区域だけアクセスできないのはどういうことだ。

 絶対になにかがある。あいつもその何かに巻き込まれたに違いない。

 せめて無事でいてくれ。あの完全無欠主義の男が感染崩壊パンデミックコラプスである「ニュクスの惨劇」の犠牲者になるはずがない。

 俺は今にも降りだしそうな曇天を一瞥する。この曇り空が晴れるように、あいつの消息も明確になればいいのだが、そう上手くいく世の中ではない。

 左手の煉瓦道に内部の見える檻状の籠トラックが通りかかる。その中には瀕死状態の牛や豚などの家畜が詰め込まれていた。当然、社会で生き抜ける力がない廃人も含めて。

(どーして人間ひとは肉が食えるんだか)

 俺は菜食主義とまではいかないが、少なくとも肉は食べないと決めている。この世界にはないが、肉の触感を味わえる遺伝子改良の植物が開発されている話も知っていることはさておき。

 小さい頃、牛や豚が拷問以上に残虐な方法で殺され、物のように加工され、肉となって食卓に並べられる事実を知ったことがきっかけだった。あまりのショックで親には二度と肉が食べたくないと泣き叫んで以来、我を通さない心優しかった両親は、肉を食わせるように教育することはなく、食卓に肉料理を出すことはなかった。その代わり両親だけで夜に外食することは多くなったこともしっかりと覚えている。

(そういや俺が肉は食わないって知ってからあいつも俺の前では一度も肉食べなかったな)

 その時のことを思い出し、同時に食べなくなった理由を訊いたことも思い出した。

 あいつは俺の気を使ったが、そのことは口にせず、「本当は肉なんてもの食べなくても人間は生きていけるんだ。おいしいからやめられないのを科学的に食べないよりはいいと説明しては誤魔化しているだけに過ぎないよ。こんないつでもどこでも優雅に食べられる時代に弱肉強食と述べる人はおかしいと思うね」と余計な言い訳を残して、そう言ったのだ。そのときから、こいつとは仲良くなれる気がしたと感じた。

 他の建物と区別がし難い横幅の広い3階建ての煉瓦製の社宅に入り、二階の自宅に戻る。

 俺はベッドに全体重をかける。ベッドだけでなく床も軋む音を立て、まるで自分の弱さを主張するかのように妙に部屋に音が渡る。

「どこでなにしてんだよ……ゼクロス」

 俺は大の字で仰向けに寝転び、親友の名を呟いた。

 生きているのか。いや、生きているに決まっている。

 ひとときも手放すことのない愛用の携帯端末で電脳界とニュクスの惨劇について検索し、新しい情報がないかいろいろなサイトを片手で、指で操作していく。

「……表面的な情報は更新なしか」

 電脳界とはいっても、何もかもが全部バーチャルだのコンピュータだのでできているわけではない。基盤的なものは共通しているとはいえ、平衡のための創られた法則ルールがある。サイバーパンクのような世界やバーチャル空間はあるにはある。しかし、それよりも再現世界リヴァイバルが割合として多いのだ。再現へんかんされた物質は物質世界の物質とほぼ同等の性質をもつと教わった。

 故に、物質世界に再現された仮想世界は、電脳界で最も電脳的特性を失った区域といえる。当然、生命的「死」という事象も存在する。電脳族の本来の死も似たようなものだが、医学的にではなく、物理化学理論的に異なるらしい。

 ゼクロスは理解しているらしいが、俺はさっぱりだった。デジタイズや電子化は勿論だが、確か振動数条件と真空誘電率と換算質量の数値がどうのこうので、スペクトルの3つの系列が通常と違うと言っていたけど、なんだったか覚えていない。何しろ難しすぎるからだ。

「特異的世界とはいえ、世界構成においての基本中の基本を理解できない低脳キミでも医者になれたのは奇跡といっていいね」と、あいつが語りかけている錯覚を覚え、壁の本棚に詰まった医学書を一瞥した。

「……裏サイトはほぼガセネタだからなぁ」

 そう言いつつも、一般市民中心に管理され、呟かれた非公式サイトをくまなく調べる。一時間は経っただろうか。

「……」

 最近になって更新された情報はあるにはあったが、どれも信憑性の低いものばかりだった。

 しかし、どのサイトにも載っていて、記憶に残っている用語がひとつだけあった。

「――『電脳界の冥王(エレイル・タナトス)』……」

 冥王ハデスの名をもつのにもかかわらず、死を象徴したタナトスの名が挙げられる意味があるのだろうかと思いもしたが、死神といえばあいつも世間ではそう呼ばれていたなと思い返す。

 電脳界の災厄、そして「ニュクスの惨劇」を引き起こした張本人だと書き込みされている。どこかの誰かが自然現象を神だの前の時代の人間の仕業だと煽りたいのだろう。

「……? 『ニュクスの惨劇は一度にふたつ起きていた』?」

 ますますネットにのめり込む。依存者が増えるのも無理はない。

 そのとき、インターホンが鳴り響く。

「誰だよこんなときに」

 ベッドから起き上がり数メートル先の玄関へと気怠い身体を乗せた足を運ぶ。

「はいはーい、いまいきますよー」

 足音を鳴らし、ガチャリとドアを開ける。

「よっす! お邪魔するぜぃ!」

「……なんだ、ルシャか」

 金髪に近い髪色に染めた、キャップを被った短髪の女子大生。俺とは年も近く、ショートパンツに黒ニーソ、ジャケットといういかにも若者らしさをアピールしている。化粧は丁度いいが、実のところよくわからない。

「え、ちょ、5日ぶりの彼女だよ!? なんでそんなリアクションなの? もしかしてたったの5日で冷めたのかいチェリー君」

「もう卒業したわ偏差値40め」

「うわ、ひど。そっち医薬大卒業だからって調子乗るなよ。それに童貞捨てさせたの誰のおかげだと――」

「あーもう! とにかく入れバカ!」

 俺は彼女ルシャの腕を掴み、家の中にいれる。自分の彼女だけあって可愛いし、どこかのストリート連中とは違って、不良女児というわけではない。しかし、少々口が過ぎる時がある。

 相変わらず、こいつの声はやけに響く。上に壁が防音対策されてないから他の部屋に声が聞こえたりする。こいつと一夜過ごしたときも、四方の部屋の住民からクレームが来て面倒になったこともあった。

「ロミットは家でナニしてたの?」とニヤニヤしながらベッドに座っては胡坐をかく。

「おまえの考える事とは180度違うことだ。調べものだよ」

「まったまたー、ナニをしらべていたんですかね~」

「ハッ倒すぞ」

「どーぞご勝手に」と彼氏おれのベッドに横たわってはじっと俺を見つめる。「流石バカだな」と俺は目を逸らし、机の椅子に座る。

「電脳界の『ニュクスの惨劇』について調べてたんだ」

 ルシャはこの世界のただの人間だ。縁のない話だが、彼女にとって電脳界は一度訪れてみたい世界でもあった。ただ、今までは不安定でアクセスさせるわけにもいかないと断り続けている。

「あぁ、この間言ってた昔の天災でしょ? 友達結局見つかったの?」

「……それはまだだけど、今『電脳界の冥王』っていうワードがあちこちで流れててさ」

 俺はパソコンを起動させる。ルシャはふーん、と大して興味なさそうだった。

「まぁ、それは今さっきわかったことだけどな」

「勝手に言うけど、その冥王がこの間説明してくれた電脳界のゴーストを創り出しているってこと?」

 偏差値40の割にそういうところは偏差値50辺りなんだな。

「そういう考えもネットではあったよ」

「でもその冥王ってどこからきてそんなことしたんだろうね」

「そこまで知ってるはずないだろ。人が勝手に神様めいおうのせいにしたいだけだ」

 俺はさり気なく言い切ったが、珍しくルシャは「そうかな」と納得しなかった。いつもは何も考えずに賛同するはずなのに。

「冥王自体は自然災害かもしれないけど、それを引き起こした人間がいないとは言えないと思う」

「よくわからないけど」と付け足しては笑った。

「……惨劇を引き起こした人間……」

「……ロミット?」

 俺を呼ぶ声で、顔を上げる。ルシャが心配そうな目でこちらを覗きこんでいた。

「あ……なんでもねぇよ。考え事だ」

「それは見て分かる。そんなことよりさ、明日妹の誕生日なんだよね。プレゼント買うの付き合ってくれる? そのために直で来たんだけど」

 俺はふっと窓を見つめる。なんとなくというよりは、窓の外から音がしたからだ。

「……雨降ってるぞ」

「このぐらいどうってことないよ」

 この世界のこの国の住民はスコールでも降らない限り雨とは認識しないのか。

「そもそもなんでおまえの妹のプレゼントに俺が付き合わなきゃならねぇんだ」

「普通の彼氏だったら喜んで付き合うよ? ほれほれ、これを機に妹もプレゼントで堕としなって」

「……それ彼女おまえが言っていいのかよ」

「私は3人でするの憧れてたんだけどロミットは――」

「あーわかったわかった! 付き合うからそれ以上話すなって!」

「じゃあ出発だね。傘はいらないでしょ」

 そう言ったルシャは俺の腕を掴み、行きたくない湿った外へと連れて行く。調べ物はまた今度になりそうだ。

(……)

 進んだ延命治療で何とか今でも若者として生きている今日、同族の友人は皆死んだ。死亡一覧で全てを見た。ただ、俺の知っている中で、死亡一覧に乗っていない消息不明の友人が2人いた。

 ひとりは臨床学のワイト・アルト。電脳界の外にいる可能性が高いが、生きているかどうかは不明。

 そして同じ学部学科だったゼクロス・A・コズミック。何処にいるかすらわからない。

 ふたりには当然生きていてほしいと願う。一日でも早く、生きていると確信できる日がくるよう、俺は祈る。


     *


 鏡を見るのは嫌いだった。

 鏡は、自分の姿をそのまま映す。

 それはありのままの姿を見せるということだ。

 ありのまま、本来の姿、真実……しかし、どちらが鏡の自分なのか。

 私の前に映る姿は、私の思い通りになったことは生涯一度もない。

 それは、今においてもいえる。

「――面倒な死神げんかくだ」

 電脳界統合会議を終え、誰もいない無機質な全面鏡の通路に映る自身の姿を見て、そう吐き捨てた。

 エイシス・エマートソン。生まれたときに授かった私の名。しかし今、そこに映るものは私ではない。

 語らぬ死神の姿。

 マネキンのように顔がなく、真っ白な正装スーツを着た、足首から下の無い黒骨の死神。ただ、正面に立って私を見つめているだけ。像のように動かず、私と同じ動きを一切しない。

 そのおかげで髪の手入れや服の着こなし、つまり自分が今、客観的にどのような姿なのか確認できない、そんな悩ましいことが日々起きている。

「……」

 電脳族の祖先から宿っているUNCのHERV(ヒト内在性レトロウイルス)。変わった幻覚も、自覚症状なしの思考回路の捏造も、症状のひとつ。私も電脳族に生まれた時点で感染していた。彼も感染し、その上『意志』に触れてしまったから、奇行を繰り返し、遂には瑕疵かしそのものになり、運命シュレイティアに抗う冒涜を起こしてしまった。そのおかげで、今もこうして電脳界は滅ばずに存在している。

「――エマートソン官房長官、ここにいましたか」

 声を掛けられ、振り向いた私の目に映ったのはブレット政務官だった。

 しかし、それはあくまで外観の話。私は呆れた目を向ける。

「なんの冗談かしら、『記録者シュライン・パールス』」

 かしこまったスーツ姿、髭の剃り跡が残っている40代男性の肥満体型、顔までもが粒子化し、風に流される様に散っていく。その中から赤い蝶の髪飾りをつけた眉目秀麗な金髪の女性が現れる。

 紅と蒼をメインとし、黒と白の刺繍模様もある和、洋、中が混ざっているドレスを着た貴婦人。ダマスク模様の紫色の日傘は閉じて杖替わりにしている。

 彼女が現れる時、大抵は時空の流れが停止に近い領域へと転換されている。原理は不明。

「わざわざ真名で呼んでくれて感謝するわ」

 その女性シュラインは相変わらずくすくすと微笑みかける。私は腕を組み、

「その真名は一つだけではないんでしょう? それで、何の用で電脳界中枢区ここに来たのかしら」

「ちょっとした用事のついでに、貴女に聞きたいことがあるの」

「……」

 このシュラインという女は私と同じ『記録者』である。しかし、私は世界を自在に渡るれっきとした記録者ではなく、電脳界専門の記録者だ。それでも他の世界へ赴くことはある。また、このことは同職者以外知れ渡ってはならない。神に誓って。

 しかし、同じ務めの人物でも、この女だけは特に警戒している。何を企んでいるのか見当がつかないからだ。

「不服そうね。まぁいいわ。本来知れ渡ることのない『シュレイティアの意志』をあの区に広めた理由はあるのかしら、死神さん」

 この女は本当に訊かれたくないことを皮肉を含めて訊いてくる。悪い意味で勘がいい。ここで嘘をついても彼女はすぐに見破る。

「ええその通りよ。ウソもそうだし、誤魔化すようなことも言わない方が身のためよ」

「……」

 ここは仕方ない。正直に吐くとしよう。

「『意志』の感染の危険性は十分に把握しているわ。でも、そうでもしないと電脳界は消失する」

「愛着ある故郷を守ろうとした。それが貴女の理由かしら」

「……」

 カツン、と私は改めて彼女に身体を向けた。

「根を張り、枝を伸ばしている電脳界の存続は交わるはずのない世界や時代を繋げ、時には現象をも渾沌へと陥らせる危険性をもっている。でも、世界を繋げてから何年の時が経ったのかしら。多世界の存在を知り、多世界同士のコミュニケーションが行われる新時代が来たのよ。数多ある世界は今、この世界無しでは生きていけない」

「でもリスクはあるわ。今になってもね」

 現実と非現実、魔術と科学、異人種、異生物……混ぜてはならないものを混ぜる危険性――その最も想像しやすい代表例として戦争が挙げられるが、それはとうの昔に全盛期を迎えて、今は収まっている。

「電脳界がなくなってしまう方がリスクはあると思うけど」

「現時点ではその通りよ。でも、この世界は延命治療で無理矢理生かされているようなもの。本来プログラムで死ぬはずの予定を狂わしたのよ、あなたと、あなたの元愛人は」

「……『シュレイティアの意志』で滅ぼされるなら、その『意志』で防ぐことができる。そう考えて数人に触れさせるきっかけを作った。皮肉にも、唯一の成功者が彼だなんて思いもしなかったけど」

「思いもしなかった、ね。それが本当かどうかはいいとして、この先起こるであろう『シュレイティア』でさえ畏れかねない『現象』が何か……貴女は御存じ?」

 時代と歴史、現象の混じりよりも恐れられる出来事。電脳界を消滅させようとしたシュレイティアでさえ恐れるものとは一体何なのか。

「知らないようね」

 小さくため息をついたシュラインは月明かりに照らされたかのような、天の川のような流麗な髪を揺らし、

「細かいのはいいとして、大きく問題は二つあるわ。ひとつは、専門家シュレイティアのやり方以外で世界を終わらせるにしても、自然に終わるとしても、被害は最小限では済まされない。ましてや、数ある世界群の半数とコネクトしているこの無限世界では、接続先の世界にも甚大な影響を受けるわ。でも、存続させるよりも無理矢理終わらせた方がまだいいのよ」

「……?」

 それは何故なのか。無理矢理生かしては駄目だが、無理矢理死なせるのは良い。その理由がわからない。その方が被害が酷いのではないのか。

「『禁じられた終焉カタストロフ』……デミス現象の解放よ」

「……どういうことなの」

 デミス現象。「発生」ではなく、「解放」。

 解放という言葉を聞く限り、とても現象の名だとは思えない。しかし生物でも機械でも神でもない以上、やはり現象なのか。

 脳内に浮かんだことを彼女は読み取ってくれるので、それについての解答をしてくれる。最早会話など必要ないのではないのかと思ったりする。

「正直なところ、私もそれについてはよくわからないけれど、それは現象であるにもかかわらずシュレイティアと同じ『幽閉者』であって、決して『デミス現象』が存在している『世界』に接続コネクトしてはならない」

 電脳界は人工的だけでなく、自然と他世界に繋げてしまう「根」のような現象をも発生させる。しかしそれは電磁力場・次元・時空論としては僅かな亀裂が生じるようなものだと聞いたが。

 その思考さえも、シュラインは読み取ってしまう。

「その亀裂だけでも解放を可能にするのよ。それだけじゃない、電脳物質に含まれる独特の粒子が世界の次元等の境界を緩和、そして不安定にしてしまうの。現にそれが原因で大質量のブラックホールが異常な頻度で発生しているのよ」

 だとすれば電脳界は電脳物質を生み出す分泌腺。製造工場とも巣窟ともいえるが、ともかく膨大な物質量だ。

「……」

 幽閉者といった、まるで人のような扱い。だが、現象といった、人知を超えた扱い。それは現象というより神という言葉がその終焉の名を冠する現象にしっくりときた。

「仮にシュレイティアを創造神と例えるなら、ソレは破壊神ね。とはいっても、どちらも元々『神』なんて大それた名はなかったけど、現時点において無限地獄デミスだけは最優先で封じなければならないってことだけは理解して頂戴」

 私は頷いた。様々な世界を見、様々な人種を見てきたが、この女は私以上に色々な世界を見てきている。その人がいつものように人を試しているような話し方はせず、真剣な口調で警告しているということは、それだけ危険なのだろう、デミス現象というものは。

 とんでもないことをしてしまった気がするが、もう手遅れだ。他の策を練らねば。

「わかっていると思うけど、電脳界を残す為に『意志』を広めた罪は免れられないわよ」

「……」

 シュラインは前へ進み、立ち尽くした私を通り過ぎる。

「どこへ行くの」

「貴女の愛していた罪人のところへ」

「……っ?」

 その言葉は真なのか。彼は生きていたのか。

 思わず彼女を見てしまった。

「貴女が考えているような理想、いえ、最悪の想定はないわ。死んでいるけど、生きているわよ」

「……」

「何をそんなに彼を遠ざけたがっているのかは敢えて探らないであげるけど……不思議よね、かつて愛し合っていたふたりが、今は死んでほしいと願っている」

 憎んでいるわけではない。殺したいわけではない。だが、私たちのあのときの出来事を理解できるはずがない。いや、解ってほしくないだけだ。

「……ま、そんな下らない戯けは思い出にしまっておきなさい」

「……」

「またね、もうひとりの死神さん」

 サァァ、と粒子状になっては散りゆく花びらのように舞いながら消失していった。瞬間、時が動いた感じがする。だが、この胸の痛さは変わらなかった。

「……ゼクロス」

 今は、貴方を愛することができない。

 例え死んだとしても。そして、生きていたとしても。

 会いたい気持ちはない。

「貴方の罪はもう、背負いきれないの」

 囁くように、鏡に向かって呟いた。

 何も語らない死神に向かって。

 そのとき、後ろから足音が聞こえてくる。急用なのか、急ぎ足だった。

「――エマートソン官房長官、ここにいましたか」


     *


 様々な文化が混ざり合った帝都市街の東方地にある傾いた旧市街。空は半ば雲が多く漂っているも、夕焼けに染まり、薄暗さを感じさせない、燃えるような空を体現させている。

 瓦屋根の木造建築の街並、規模の大きい寺院や五重塔が所々に腰を据えている。人は集り、狭い道は無法地帯と化している。寺を積み木のように積み上げたような不格好な建造物は古く、今にも崩れ落ちそうだ。

 薬莢と麻薬と香水の香り、そして人間の臭いが混じり、男の悲鳴と女の喘ぎと赤子の泣き声が交差する。

 繁華街の様な街並の奥に、他よりも一段と高い、天へと貫く大楼閣。巨塔ともいえる空中楼閣は、巷では『童謡の摩天楼』と呼ばれている。有名な童話に出てくる「こどもたちの塔」のモデルになったからだという。

 雲間を越える最上階。赤みに帯びた板床に敷かれた絨毯は動物の毛皮をコーティングしたものであり、壁には子象や人間の剥製、「ゆらめき」というタイトルの油絵、黒染めの人骨等が飾られている。観葉植物は大麻など、すべて麻薬の材料になるものだ。蝋燭のついた紙燈籠や骨董品の壺、大皿、刀、そして赤い椅子。

 襖戸を開けたのは黒い白衣を着た男。死刑執行人の服装でもあるそれを着ている男は手提げていた黒革の鞄を書類と羽ペンが散漫しているテーブルの上に置き、奥を見る。

 中華思想を取り入れた東洋の広い個室の窓際に属する奥には、簾が垂れ下がっている。その先には明らか誰かがいた。着物姿の誰かが開いた窓の外を眺めている。影は分かれど、その色や顔までは窺えない。

 すでに気がついていたようで、簾の先にいる主はぽつりと言葉を発する。

「……ここにもてなす物は何もないぞ」

 男の若い声。しかし年寄りのような声量で、不思議な感覚をもたらせる声色だった。

「必要ない。土産を持ってきた」

 渋みのある声で黒い白衣の男「ストル・プラグライト」は返事をする。彼の顔つきは40代にしては若すぎた。僅かに顎に無精髭を生やしている。

「はは、冥土の土産か?」

「強ち間違ってはないな。冥府『地霊峯山』で頂いた練饅頭ものだ」

 プラグライトは鞄から包装された箱を出し、簾の下に置く。その男は箱を手に取り、すぐに包装を破った。

「酒はないのか」

「私は医者だ。それが薬だろうと、職としてそんなもの用意する訳にはいかない」

「相変わらずお堅いことで」

「堅くて結構。饅頭は好きだっただろ。どうだ、冥界と喩えられる国の好物はどんな味がする」

 男は箱を空け、15個入っている黄土色の練り菓子を口に放る。

「美味けりゃなんだっていい。……甘苦いなこれは。おまえの薬でも入っているのか?」

「冗談も大概にしろ。本来なら15種の薬剤を与えるところだ」

「最近いいことでも?」

「寧ろ嫌なことがあった。その気休めだ」

 その内容を言うこともなく、プラグライトは椅子を持っていき、簾の傍に寄り、その男に近づく。外から爆音が残響のように聞こえた。無法者が暴れているのだろう。

「調子はどうだ」

「答えたところで、どうせ当てにするわけではないんだろう?」

「ふっ、まぁそうだな」

 黒い医師は笑う。その反面、男は不機嫌そうな声を出す。

「治療はもういい。僕を誰だと思っている」

「一人の患者だ。人間だろうと神様だろうと、私の患者であることに変わりはない。そうだろう」

「……まったく、『神殺しの神』に口出しする奴はそういないぞ」

「だろうな。『神を救う神』に文句を言う奴もそういない」

「おまえは正真正銘の『神』になっちゃいねぇ」

「信仰されれば誰だって神様だ」

 プラグライトは医療器具の入った鞄を持ち、簾の中へ潜り入る。



「まだそのことで気にしてるのか。おまえにしてはらしくないな」

「最近その名が広まっているのが腹立たしくて仕方がない」

「微妙に本名と違うからか」

「そうだ」

「そういうところは固いんだな」

「名前を間違える奴は大嫌いなんだ。おまえだって報告書や葉書に違う名前書かれたらその企業とか信用できなくなるだろ。『サトル・ブログライト』なんて書かれてみろ。僕だったらその会社とは縁を切るね」

「その間違いは例え話でも酷いな」

 プラグライトは診査を終え、男から少し距離を置いた。

「それにしても、おまえは本当に無茶する奴だ。だから俺の仕事も増えるんだ」

 深いため息でも付きたそうな声で愚痴を言う。しかし、男は反省の欠片もなく、言い返した。

「前回よりは症状は収まったはずだぞ。いいから早く出ろ。お前が入ると狭いんだ」

 プラグライトは簾の外へと追い出される。診察の礼すらなかった。

「前回が今までの中で最も酷い症例が出たことをもう忘れているのか。それでさっき言ったこと……本当なのか?」

 懐疑的な声を浮かべる。男は当たり前かのように、威張るかのように話した。

「確かにEASTイースト計画は失敗した。ASTは全部回収できなかったけど、まぁ少しは――」

「失敗は許されない。そう言ったのはおまえだったよな」

 結晶質の新物質『AST』。それを得られれば今後の革新複合材料研究に大いに役立てることができる。同時に、採集場所である電脳界の終了プログラムの第二段階が完了し、仕上げに取り掛かれる――はずだった。

「俺がとやかく言う権利はない。言い訳は聞いてやる」

 静かに言うと、男は息ひとつ吐いた。

「……扱いづらい世界だったよあれは。再現できる特性を持つとはいえ、独特の素粒子がある上にバリオンや電子の数が他と異なっていたからな。精を出した……いや、確かに計画に欠陥はなかった。が、あの男のおかげで訪れるはずの結果が出てこなかった。あれはひどい失敗ケースだよ。何時何処の世界でも誰かが僕の研究の邪魔をしてくる」

 プラグライトは少しばかり興味を示した。簾越しの男を見る。

「おまえの実験プランを妨害する奴が電脳界にもいたのか。誰なのかわかるか」

「僕が知りたいよ。記録者シュライン報告しらせを待つしかない」

「そうか……他のプランに問題がないから、それ以上の罪が重なることはないと思うが、よりによって最重要プランをミスするとはな。お前らしくない」

 過ぎたことは仕方がないと思ったのか、プラグライトは小さく笑った。

 もう一度という手もあるが、時空を超えれど、相手は瑕疵かしを司る電脳ウイルスだ。タイムスリップによるリセットも効かないだろう。一度失敗すれば、もう手遅れだった。

「まったく、腹立たしいことだ。当然神々は怒り、そのやらかした男に天罰が下るようにするだろうよ。本当なら、僕が直々にその男に天誅を下したいところだ」

「少なくとも、幽閉者だということを忘れるなよ」

「ファック……あの堕落おちぶれた畜生クズと同じ幽閉者たちばにあると思うと反吐が出る」

「デミス現象のことか。あれは冗談にも釈放されるべきではないな。そのためのEAST計画でもあったが、このまま電脳界凍結できずに解放されたら、大質量ブラックホールの発生頻度が7800万倍になるだろうな」

「ハン、医学者のくせにバカいうぜ。ビックバンの数の間違いだろ」

 ブラックホールなんか数億倍の速さで蒸発するさと、鼻で笑った。

 流石の医者も専門外は専門外だ。学生時代ならともかく、そこまで知る必要性もない。

「何れにしろ、それだけの被害では済まされないということだ」

「アレばっかりはどうにもなんないね。そもそもあんな世界破滅主義者デバステーター、誰が幽閉したんだ」

矛盾完解ヴェルトンにでも訊いてみたらどうだ」

「冗談でもないね。あいつのいる世界にすら行きたくない」

「同感だ。あれ以上の鬼才も、あれ以上の厄介者もいない」

 プラグライトは赤い椅子に腰をかけ、資料を読みながら話す。幽閉者である男は土産の練り饅頭を頬張っているも、そこまで満足はしていなさそうだった。

「そういえば一度立ち会ったそうだな、その破壊者デバステーターに」

 ぴたりと幽閉者の動きが止まった。饅頭を食べるのをやめ、ものを飲み込んだ。

「それもヴェルトンから聞いたか」

 しかしプラグライトは答えない。仕方なく、幽閉者は窓際に肘を置き、赤い夜空を見ながら話し始めた。

「ソレを幽閉者扱いしているからだと思うが、どっかの誰かさんが人型ニンゲンだと噂してたな。けどよ、あんなのはニンゲンとはいわない。現象だ。そこらのビッグチルやビッグクランチが可愛くみえたね」

「……視えたのか?」

「一瞬だけね。異常ぼくだからこそ成し遂げられたことだ。そこにいただけで原子核ごと蒸発するほどのエネルギー。弱い力、強い力、重力、電磁力……すべての基礎的な相互作用が光速を越えることによるゲージ粒子の交換不可。そこはビッグリップと変わりないが、あれがただの『余波』だと思うと流石の科学者ぼくでもゾッとしたよ。虚数時間さえも無視し、次元を超える熱的死は絶対零度を越える。無限の時間は不滅を滅し、膨張する空間は根源を絶つ。まさに乱雑エントロピーの極限から無限大への表明だ。『デミス現象』による『ラスカース崩壊』……それに耐えられる物質がどこにある」

 強い声にプラグライトは簾の先の男を見る。資料をテーブルの上に置き、椅子に背もたれる。町の薬莢臭さがこの部屋にまで染み渡る。

「……ヴェルトンの話だと、その現象が破壊するのは物質それだけではないらしいな」

「『神』をも滅ぼせるってか? 否定はしないが、所詮は分解者リソソームの分際で『神殺し』の肩書きがあるなんて、『神象殺戮ぼく』も黙っていられないな」

「やめておけ。あの現象の本質に触れれば、疎水性あぶらみたいに嫌厭された不可解物質おまえでさえも蒸発するぞ」

「ははっ、笑えるね。現象と本質。向かい合った概念が混ざっている存在か」

 何がおかしいんだか、とプラグライトは無視をし、資料を再び見る。

「つくづく思うが、なにをどうしたら、『そんな体質からだ』になるんだ。暇があれば研究しているが、どうしてもわからない」

「おっと、僕に恋しているのか? 嬉しいことだな、男性同性愛者ゲイに好かれるのはいつ以来だ」

 プラグライトは無表情のまま男を見るが、その目はどこまでも冷たかった。その目を見、男はクスクスと笑う。

「冗談だよ冗談。元々人間だった僕はヒュドラに恋したのさ」

「ヒュドラに……?」

 幽閉者の言っていたものは、九つの頭をもつ怪物のことではなく、もっと小さい「ヒドラ」のことだろう。

 ヒドラは数ミリメートルほどの小さく細長い身体を持ち、一端に頭、他端に足を持つ。頭と口の周辺に神経毒をもつ触手があって、それをイカやタコの足のように揺り動かしている。ヒドラはイソギンチャクやクラゲ、カツオノエボシの仲間に属する二十種の細胞しか持たない両性固体だ。

「ハンチントン病に侵されていたときのことだったよ。『彼女』の出会いが、幹細胞ステムセルの応用性を教えてくれて、不治の病であったハンチントン病を治すことができたんだ。僕が神になる由来ステム、まさに恋人ヒュドラ幹細胞ステムセルにあったんだよ」

 悠々と語る幽閉者の素振りは簾越しでもわかる。演劇者のようだった。

「それが第一歩となったわけか」

「でも僕は浮気性でね。その次に恋したのはトコフィリアだ。ヒュドラよりも小柄で、人間味がある。何より彼女はたくさんの子供を産んでくれる。多産トコフィリアの名がつくのも、その理由だ。その出会いが老化エイジング熟成エイジングに変えてくれた」

「しかしだ」と幽閉者は強く言う。

「人はグラス、命は形をもたぬ水。罪が死を招き寄せて死がグラスを壊す、水がこぼれて、終わる。……終わるのだよ。説明も何もいらない。壊れるように僕たちの身体は、いやそれだけじゃない、世界がそうなっているんだ。僕たちは水であって、零れるようにできている。塵であって、塵に戻るように世界はできている。胎盤のように世界あかごを支えるユグドラシルも所詮は樹。芽吹けば、やがてその樹木を枯らせる。いつか見てみたいものだよ、ユグドラシルが死を迎える美しさは絶世そのものだろう」

 幽閉者は肩を竦める。苦く笑い、盃の濁り水を飲み干し、

「また悪い癖だ。僕はすぐに話を変えながら長くしようとする。つまりを言えば、僕は単細胞生物アメーバよりも遥かに簡単で単純なソーマを持っているからだ。複雑なほど、おわりの萌芽を咲かしてしまう。君の言葉でいえば、変異・変化の本質を持ち、生物的論理であるゲノムを排除し、人間を墓場へと連れていくきっかけである神経細胞ニューロンを消去したに過ぎない」

 プラグライトは腕を組み、足を組み直す。深い溜息は香壺こうごの煙を揺るがした。

「……全く、今だけヴェルトンをこの場に連れていきたいところだ。どれが嘘で真か理解し難い。矛盾だらけだ」

「まだ解りやすく言った方だけどね。企業秘密しんじつを言っても、君程度の限られた神経回路シナプスでは到底理解できない。ダークエネルギーが充満する宇宙のように膨張する知能を持たない限り、話が合わないだろうね」

 終わりのない不老不死にでもなればまだ可能性はあるんじゃないかと茶化す。プラグライトは無表情のまま古臭い天井を仰ぐ。

「仮に不老不死だろうが、終わりはある。限りのない無限の時間が、神々はおろか、すべてを破壊する。そう教えたのはお前だったはずだ」

「それなら、もう一度『楽園むげん』を手にすればいいだけさ。それか、破壊されない存在になるかだ」

「信じるものは人それぞれだな」

「要は好きにしろということだ。理論は人生の学びの象徴。決めるのは神でも何でもない、この世界そのものだ」


 赤い夜空は相変わらず燃えるように映え、下界を赤く照らす。血を流し、暴言が溢れ、頽落した下界は腐るばかり。害悪の匂いが汚物のように爛れ、充満している。

 壊れた地の遠くに咲く巨大な紅桜の老樹。鬼の山とも呼ばれるほどの巨大さはここからでも十分に美しく見える。

 それを眺めつづける幽閉者は医師の名を呼ぶ。

「『死』……『終焉おわり』は絶対的な事象だと……君はそう論じるのだな」

 プラグライトは何を言っているのかあまり理解できなかった。何を伝えたいのか。

「ああ、存在するものはすべて、終わりがある」

「……僕も近いうち、夜が訪れて、散り往くのか」

 突然らしくない言葉を発する。しかし、黒衣の医師はそれに動じることも、同情することもなかった。

「そうだ」

「夜明けとともに忘れ去られて、何も残らなくなるのか」

「おまえのしてきたことはこの先永遠に残る」

 師の言葉のように。愛するものが捧げた詩のように。偉人の遺した文明のように。受け継がれるものは存在する。

「そうか……」

 幽閉者は空を見上げる。炎の海を見上げ、その深海までを見通し続ける。遥か先、遙か先の深淵へ向け、神は言葉を捧げる。

 神の御告げは下界へと、神羅万象へと。

「それなら、決して終わることのない夜を……迎えることのない夜明けを創造つくろうか」

 シュレイティアの意志の赴くがままに。

 世界はいつだって、神の気まぐれだ。


     *


 その死は、忘却。

 空白に侵される。

 

 そこは、墓場だった。

 冷たい雨の日だった。

 なだらかな緑の丘の小さな墓標。そこにいたのは私だった。真っ黒なスーツに真っ黒な外套を羽織り、真っ黒な傘を差している私は、心がないようにも見えた。墓を見つめたまま、一切動かない。

 さらさらと降り注ぐ粉雪のような霧雨はその墓を濡らす。白い曇天。暗さはまるでない。

 私は何を見つめている。何を思っている。

 無の表情は雨により哀愁漂う表情を作り上げる。

「……」

 墓に花束を捧げ、墓の向こうの生い茂る草むらを見つめる。

 ここは……嗚呼、以前に一度訪れたことのある場所だ。しかしいつの記憶か憶えていない。

 違う。記憶にはない。創り上げられた記憶だ。こんなところ知る由もない。

「それなら、墓に刻まれた名を見てみるといい」

 頭の中で反響するかのように、誰かの声を聞いた私はその墓の主の名を確かめる。

 アイリス・ネーヴェ。確かにその名前が刻まれていた。

「ここにいたのね」

 視線を墓から右へ向ける。強い風が後ろから吹き付ける。

 傘を差した赤い蝶の髪飾りをつけた金髪の女性。虚ろ心の私には興味を持つことも、それ以外の特徴を上げる気にもならなかった。

「……初めて見る顔だが、いつか一度出会ったことがあったかな?」

 この女性は嘲るような笑いが得意なようだ。顔面の筋肉、皮膚の僅かな薄い皺から判断できる。しかし、彼女に笑う様子はなかった。

「いえ、これが初めてよ。でも、私は前から貴方のことを知っているわ」

「……僕に何か話でも?」

「ええ、ちょっと説教をしにきたの」

 このとき、ほんのわずかに笑みを向ける。偽りの笑み。何を考えているかは明確ではないが、どんな感情を示しているのかは解る。

 しかし、敢えて私は嘲笑を返した。

「説教……今までの愚行の数々を丁寧に懺悔させるのかい? もしかして神様の使いか何かかな」

「数百の愚行を重ねてきたとしても、貴方の犯した一つの罪には到底及ばないわ」

「……僕が滅ぶはずだった世界を救おうとしたことかい?」

「流石ね、物分かりが早い男は嫌いじゃないわ」

「それは褒め言葉として取っておくよ。……やっぱり君はシュレイティアの意志に関わっているようだね」

 女性は笑う。くすくすと静かに笑うが、これが最も純粋な笑みに近いのだろう。灰色に染まりきっているが。

「残念、半分外れよ。貴方は電脳界を存続させたという重罪を犯している。このまま電脳界が領域を広め続ければ、どうなるかご存じ?」

「その言い草だと、他の世界すべてが滅ぶ……という予測ができるけど、仮にそうなるとしても、僕にしたらどうだっていい」

 私はアヤメ色の目を細め、口角を上げた。

「結末がどうであれ、いつかはなんにも無くなる日が来る。それは自然なことだ。僕は自分の……それだけじゃないな、愛してきた人たちの故郷の世界を人工的な運命で失いたくなかっただけだ」

「……そう」

 随分と関心がなさそうな表情だ。つまらない答えだったか。丁度いい、私もこの話はつまらなくて仕方がなかった。

 私は墓を見る。

「なぜ、墓場は闇の中で光らないのか、君はご存知かな?」

 その女性の口調を真似て、視線を向けさせる。答える気がないのか、「さぁね」とそっぽを向いた。どうやらフラれたようだ。

 普通は墓場は光らない。それは当たり前であり、逆に何故、墓場は光るという考えを持っているのか。まだ知らなかった私はそう考えたものだ。

「生者が取り除くことができなかった、絡み合い、ぶつ切りにされ、破壊された細胞はリポスフチンという老廃物になる。それは蛍光をぼんやりと放つのだが、そんな発光物が詰まった墓場が光らない理由は当然、それを分解者びせいぶつが食しているわけだ。……でも、ここはそんな科学げんじつが通用しない場所だってのは僕でもわかる」

 私は女性の方を見、黒い傘を手放す。風で飛ばされ、草原を転がり往く。

 女性も私を見ていた。ゴミクズでも見るかのように。

「……私から手を下す必要はないわね」

 何を根拠に見抜いたのか、女性はくるくるとダマスク模様の傘を回した。

「合格かい? そりゃありがたいことだ」

 皮肉を言うが、彼女は笑みを向けない。冷たい瞳。まるで私を見ているかのようだ。

「誰の手を下さずとも、貴方から勝手に亡ぶのだから――」


 

 そこは、墓場だった。

 冷たい雨の日だった。

 なだらかな緑の丘の小さな墓標。そこにいたのは私だった。真っ黒なスーツに真っ黒な外套を羽織り、真っ黒な傘を差している私は、心がないようにも見えた。墓を見つめたまま、一切動かない。

 さらさらと降り注ぐ粉雪のような霧雨はその墓を濡らす。白い曇天。暗さはまるでない。

 私は何を見つめている。何を思っている。

 無の表情は雨により哀愁漂う表情を作り上げる。

「……」

 墓に花束を捧げ、墓の向こうの生い茂る草むらを見つめる。

 ここは……嗚呼、以前に一度訪れたことのある場所だ。しかしいつの記憶か憶えていない。

 違う。記憶にはない。創り上げられた記憶だ。こんなところ知る由もない。

「それなら、墓に刻まれた名を見てみるといい」

 頭の中で反響するかのように、誰かの声を聞いた私はその墓の主の名を確かめる。

 アイリス・ネーヴェ。確かにその名前が刻まれていた。

「また、泣いてるの?」

「……っ!」

 懐かしい声。愛おしかった声。

 ふっと振り返ってみれば、そこには――。



 ……。

 これで何度目だ。

 夢を視るのは。

 どこまでが夢。

 いつ目を覚ます。

 今度はどんな夢だ。どの記憶だ。

 

 淑女マリア・クリボネと夕食の約束に遅れそうになったときか。

 教授ジェイムズ・サックスの研究所に共に籠っていたときか。

 所長ブラウン・シュタインマッハと揉め事を起こしたときか。

 軍人グレイ・ワイナーと酒を交わしながら朝まで語り合ったときか。

 友人ロミット・ワドルと講義の席が隣になり、勉学を妨害されたときか。

 愛人エイシス・エマートソンと別れたときか。

 同僚ヘレン・ラッセルに食事に誘われたときか。

 医師ラルク・レーザンとチェスで夕食代を賭けて勝負したときか。

 患者アイリス・ネーヴェとふたりで冬の夜に教会に行ったときか。


 ……いい加減、目を覚まそう。

 私は死んだのだと。

 電脳界を救うためにシュレイティアの意志に立ち向かって、死んだのだと。

 もう、電脳界に存在していないのだと。

 私は消失したのだ。

 ならば、何故考える私が存在している。意志をもっている。

 まだ、完全には失っていない。それか、有象ではないと認識されているか。

 未だに視界を失っている以上、何も知ることができない。真っ白な深淵に溺れている。

 見えるのは、ビジョンのみ。

 現実をもたないデジタルの魂は幻想に縛られている。思考さえも、ままならない。

 身体も、ままならない。

 私は、私であって、私ではない。一人だけじゃないんだ。

「次はどんな夢を視るのだろうな」

 目の前の私が語る。

 誰でもいい。この白い十字架に張りつけられた私を救い出してくれ。

 目の前にいる無意識を――死神を出してはならない。

「心配はない。おまえの代わりに電脳界セカイを生かす。それだけだ」

 おまえはずっと夢を視ていろ。そう言われたとき、白い鉄杭がいつのまにか胸に打ち込まれていた。心臓を貫き、脊髄を貫き、白い十字架に突き刺さる。

 血は出ない。しかし、息ができない。

 今度こそ死んでしまう。死神じぶんに殺されてしまう。

「『意志』は実在しない。しかし、心の中に存在する。その遺伝子こころに寄生した『意志ウイルス』が肉体にもたらす病気えいきょうは、時に私のような者を作り上げてしまう」

 その声は、次第に遠ざかっていった。否、私の思考する存在が閉ざされようとしている。

「ひとつ言うとすれば、私とおまえがこうして存在できたのも、一種の『愛』だろうな」

 死を越えた愛。それは、理屈では到底敵わない事象。

 その言葉を最期に、私は眠りについたのだろう。

 また、夢の中を彷徨うのか。また、幻想に踊り狂うのか。


 私は願う。


 いつか、私をこの純白の十字架から解放できることを。

 そして、自分自身の『死神』を殺すことを。

 死神の鎮魂歌を捧げることを、私はこの愛する電脳界せかいに願う。



 ――Let there be light.


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