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第四章 三節  黒い涙

     1


 黒い煙霧体エアロゾルが選別者の青白い肌から発生する。それから感じ取れる不気味さは瘴気と例えても納得がいく。

「……なんだ突然」

 レーザンは目を細め、然程驚く様子もなく、死にかけた選別者の全身から染み出るように湧き出てきては、まとうように漂う黒い気中分散粒子を眺める。肌だけではない、着ている黒いスーツとコートからも煙霧体が発生している。

 パキン、と選別者の左の首筋から頬にかけて肌がひび割れる。陶器を落とし、罅が入ったかのように。

 ピクリ、と指が動いたのをレーザンは見逃さなかった。

 何かをしでかす前に片付けよう。そう思ったレーザンに反し、足が動かなかった。

「……?」

 足元を見る。自身の立っている場所が少し凹み、歪みに耐え切れず、罅が入っていた。そして、真っ黒の煙が少しばかり床元に漂っている。

 生命的危機。そう感じた瞬間にはもう遅かった。

「――ぉごぁッ!」

 レーザン自身、その速度は捉えきれないものであったと後になって感じた。それ以前の話、何が自分を襲ったのか見えなかった。だが、腹部に空いた槍にでも刺されたかのような傷口から、焦げ臭い腐臭と全身麻痺を確認し、自分は雷のような強い電撃を正面から直撃したと判断できた。

 書類や資料が詰まる程並べてあるガラス棚ごと壁に埋もれたレーザンはゆっくりと顔を上げ、正面の先にいる選別者を見た。

 電子音、放電音、機械音が混じり合ったような音がしんとした研究室に流れる。Dub-Stepにも似た重低音は選別者から聞こえてくる。スマフォの着信音ではない。彼自身から聞こえてくる。

 半壊したデスクにもたれかかっていた選別者が重低音のブースト音と共に、糸に吊るされたかのように不自然にゆらりと起き上がる。重力を感じさせない、まるで操られているようなマリオネットを連想させた。

「……こりゃあ、『意志』に一歩近づいた、って感じか?」

 いや少し違うな、とレーザンは選別者に語り掛けるように独り言を言う。壁から抜け、立ち上がる彼の腹部は再生を始めていた。

「自分の『意志』自体が表に出てきやがったか」

 まさに死神のお出ましだな、と歯を剥き出して笑う。

 意識じぶんを失う代わりに「意志」によって「変化した無意識」を曝け出したと、レーザンはそう解釈した。

「Dem……imfortixel-ΩgmKeπbrNolθhUpk$#zxannPt」

 死神と化した選別者は意味をなさない言語を呻くように発する。その虚ろな瞳は紫色に染まり、微かに発光しているようにも見える。

「言葉は通じねぇみてぇだな。もともと話の通じねぇような気難しい奴だったが、こりゃあ拳で語り合うしかねぇようだな」

 自分の力を信じたレーザンは構えることすらせず、指を鳴らしながらメキメキと筋肉を少し隆起させ、血管を膨張させた。

 ビギッ、と床を歪ませ、たった一寸二歩で9m先にいる死神の懐へ入った。

「――ッらァ!」

 彼の重い一撃は死神の腹部を深く抉るように殴り上げる。常人よりも遥かに超えた腕力は、人の身を爆発させるかの如く風穴を空けることなど容易だった。死神の胴体は豆腐を床に打ち付けたようにドパァンと破裂しながら奥の壁に打ち付けられては床に倒れる。だが、死神の破裂した身体から撒き散らされたものは赤い血肉でも臓器でもなく、大量の黒い液体のみだった。

「――!?」

 同時にレーザンの身体が急激に重くなり、思わず床に膝をついてしまう。バギギ、と床が割れつつある。天井の破片が落ち、中のパイプがベゴベゴと音を鳴らし、凹んでいる。

「クソ……重力かッ」

 レーザンは周囲に漂う黒い煙霧体を睨み、引力で重くなった体を足で踏ん張っては持ち上げる。

 それに対し、倒れた死神は副煙流に似た黒い煙を全身から発し始めながら、再びゆらりと立ち上がる。胴体には穴が空いていたままだったが、周囲に飛び散った黒い液体が気化し、気流に乗るように彼の身体に集まっては修復していった。

「……ハハ、マジか」

 レーザンはその光景を見、苦笑する。

 電脳界の領域エリアによってはありえない話ではない。だが、自然現象として定められた現実再現領域リアルエリア内で科学的再現不可な現象が起きることは、法則的にありえないと言われている。それが可能地なった場合、「電脳でんのう瑕疵かし」が発生したといわれる。

「比喩抜きで瑕疵バグを引き起こすウイルスになりやがったか……そういやテメェの電脳型はV(ウイルス)型だったな。ま、関係ねぇ話だが……なッ!」

 力技で過度重力から抜け出し、レーザンは自分より背の高い死神の目の前で踏み込んでは跳び、頭部を殴りつける。

 レーザンの予想通り、頭部はドパァンと弾けるが、黒い液体と化す。それが床に落下する前に霧状、煙霧体、煙へと状態変化しては、頭部に集結し、元に戻る。

 黒い瘴気を放ち続ける死神は振り返り、レーザンを確認した。肘を伸ばし、右腕を上げる。だらんとした指先はレーザンを指していた。

 重低音が聞こえた瞬間、死神の右腕が風船のように破裂する。爆発にも似たそれは、破裂の衝撃波のみで第二研究室内を粉砕させた。壁、床、天井もろとも崩れ、下へと落ちていく。



 第六病棟地下二階のボイラー機械室にレーザンは墜落する。それに対し死神は重力を無視するようにゆっくりと地に降り立った。

 年期が入っているため、あちこちが錆びついており、湿気臭く、タービンの排気音が反響する。コンクリートの壁に水管ボイラーや円環ボイラー、鋳鉄ボイラーなどがひしめき、円柱やボックス型の大きな機械が設置されている。薄暗く、白と緑の蛍光灯が緑色の床元や通路を仄かに照らす。石綿アスベストの天井を崩してきたため、地下一階の研究室が見え、ボイラー管が引きちぎれたように壊れている。

 レーザンの顔面と防いだ両腕は衝撃波で骨ごと抉れていた。少しずつ再生していきながら口を開く。

「やってくれるじゃねぇかゼクロス! 俺の研究室をぶっ壊しやがって! 医院長にどう説明すればいいんだ全く」

 愚痴を零しながら投球速よりも速い脚力で死神を斬るように足の甲で蹴るが、触れるなり霧のように分散する。手応えはなく、まるで空を蹴っているかのような感覚だった。跳びかかって浮いた身体は死神を通り過ぎては後ろの大型ボイラーに激突し、壊してしまう。

 黒い煙霧体が立ち上がったレーザンの右腕にまとわりつき、有炎燃焼し始めた。

「あ? これ可燃性かよっ」

 振り払うが、一向に消える気配はなく、どんどん燃え移っていく。

「クソ、しゃあねぇ」といい、レーザンは燃え移っていない右腕のつけ根を左手で掴んだ。

 その時、燃え上がった炎が急に電気に変わり、レーザンの神経を強い電撃が走った。

「ギ……ツァ……っ、ぁ……ありえんのかよそんなことッ」

 あまりの電圧と電流の強さに身体が怯む。だが、レーザンの思惑通り、自らの発火する腕を身体から分離することに成功した。まるで、蟹が敵から逃れるために自らの脚を自切するように。

 燃焼とは、発熱と発光、つまり火を伴う激しい化学反応であり、酸化反応のひとつ。燃焼の条件には可燃物、酸素、点火源の三つが存在しなければならない。それに対し放電は電子や陽子などの素粒子固有の性質に由来し、電荷の移動や相互作用によって発生する物理現象である。

 発電などでエネルギーとして火と電気は互いに変換できるが、それ自体を、その黒い煙霧体エアロゾルから発生し、変換できることにレーザンは疑念を抱いていた。

「……実体はないが、その黒いもやと煙で自在に様々なエネルギーや物質に変換できるってか? SFもいいとこだぜこりゃあ」

 なくなった右腕の根元から薄い膜を張った球体が風船を膨らますように膨張していく。その中には肩と繋がっている未発達の折り畳まれた関節のない右腕が入っていた。

 膜が破け、体液にまみれながらもキチン質の赤白い甲殻を纏った完全な腕が再生する。レーザンは外殻を掴んでは剥き、ずるる、と腕の甲殻を脱ぎ捨てた。袖は先程の現象で燃え尽きてしまったが、腕は何事もなかったように元通りになっている。

「てことは、さっきから薬物臭ぇのもテメェの仕業ってことだな。残念だがゼクロス、UNCの特性をもった俺には火も電気もこの階層に充満させた有毒物質も外的損傷もすべて無効だ! 俺は絶対死なねぇ体を手に入れたんだよ!」

 言葉の通じない相手にレーザンは叫ぶ。それに応えたかのように死神の左腕の義手から機械音と孵化するような割れる音が聞こえてくる。漂う黒い煙霧越しの紫の瞳はレーザンを見つめたまま。虚ろだが、意志がある。強い目だった。

「……とはいえ、テメェにすら触れられないんじゃあ、決着がつかねぇ」

 有機物特有のグロテスクな音を響かせ、死神の左手から肩にかけて大量の機械やケーブル、回路基板や金属などが混合した無機物質の塊が袖を破っては躍り出てくる。歪な形でぎこちなく流動する巨大な黒い金属質の腕はまるで黒い翼を連想させる。パキパキ、と死神の白い顔に黒い罅が侵食し、その隙間から黒い血が流れる。

「0010010010110101001010100……AthausGcmgYax……1Gn9bQns82zv……al3……Leysin」

 最後に名を呼ばれた気がし、おぞましく感じたレーザンはそれを警戒しながら、ズボンに入っていた小型端末機器のタブレットを出しては操作する。

「質量保存の法則を無視してんな。バグが起きればありえん話でもないが、なんで金属製でもない義手だったところからギアやボルトが出てくるんだろうなぁ」

 そう言いながらレーザンはタブレット操作を終える。

 瞬間、翼が羽ばたくようにレーザンに物理的一撃を放つ。亜音速の一振るいを前に、間一髪避けたが、タブレットをもっていた右腕とごと散り散りになった。着地時の違和感で足元を見ると、右足首も吹き飛んでいた。

 地鳴りと地震が起き、上の方で災害警報が鳴り響いている。今頃地上はパニックになっているだろうと、避けたレーザンはそう思いながら右後ろへと振り返る。そこにはボイラー機械など一切なく、あるはずのなかったトンネルがずっと続いていた。パイプや鉄骨が粘土のように捥ぎ取られている。

「工事には向いていそうだな、その腕」レーザンは軽く笑った。

 だが、前を向いたときにはその姿が消えていた。あちこちで黒い煙のようなものが風のような速さで不規則に流動していることから、自らを変換、分散して移動しているのだとレーザンは判断した。

「ハン、最早バケモノというより、意志ある新物質だな」

 瞬間、その頭部は水風船のように内側から弾けた。だが、蟻塚が作られていくように、細胞は分裂、分化を繰り返し、中枢神経も、骨組織も、毛髪もすべて元通りに再生していく。

 熱膨張破裂。外場に加えられた力に対しての変化の抵抗力ラグによって発生した、エネルギー散逸と水分子の並進運動、回転運動で引き起こされた分子間運動によって温度上昇した故の熱力学的現象。マイクロ波という程良い速度の電場変動に変換し、レーザンの頭部にまとっては、その現象を任意に発生させたのだろう。だが、膨張に至るまでの速さが尋常な程に速い。

「頭を狙ったって無駄だ。黙ってほしいならちゃんと口で伝えろ感覚性言語症野郎。再生できるならウェルニッケ野を治したらどうだ」

 すると、レーザンの再生しかけている右腕に緑と青が混じった半透明の細かな正六角形が鱗のように覆う。電脳空間のようなものが、樹が育つように再生する腕を纏う。再生形式は毎回異なるようだ。

「受信したか」と呟く間にも、右肩や右側の肩甲骨にまでそれは及んだ。

 ブゥン、と重低音に似た電子音がレーザンから聞こえる。不定形の右腕や右肩全体に回路模様のレーザー線が走るが、突然青と緑の電脳膜が赤く染まる。

「やべ、エラーか」

 少し焦りの表情を見せる。本来あるはずの右腕自体に何かを受信しようとしたが、受容器の右腕が再生途中の不定形且つ未完成であるため、電子移動ロードが正常に受信機能を作動しない。

 放電にも似た現象が右腕から発生する。中途半端に現実拡張を引き起こそうとしているので、無理矢理受信され電脳化していた物体と右腕が結合する。レーザンにとって表現し難い圧迫感と異物感、拒絶感が走り、声すら出ないほどの激痛を伴ったが、自らの身体の細胞が適応し、すぐに自分の体の一部となった。

「こっから反撃戦だ、死神野郎」

 右腕と絡んだ重量感のある黒い機械は「GAU-8アヴェンジャー」に似たガドリング砲だった。だが、右腕と一体化したためか、従来のものよりも全長は約三m超と小さく、六銃身四セットの多連装発射機を搭載しており、シャープとは言い難い。肩から肩甲骨にかけて電気モーターやエンジンのような巨大なシステム装置がケーブルと共に接続されている。重さや体積を考慮しなかったような独特の設計デザインだった。

 シュレイティアが若き頃に遺した軍用兵器。

「――『レジネスト』。戦争に抗う平和を意味した神器、『シュレイティアの意志』において創られたものであり、力のある人間兵器ヒューマン・アームに装着されるはずだった変形兵器トランス・ファイアだ。まだまだ俺の手、いや、今の科学力では三割も発揮できねぇが……」

 キュィィン……と駆動音が聞こえる。そして、耳を劈くほどの轟音と放たれた無数の対戦車小型榴弾がボイラー室を無残な廃墟へと変える。装弾数二七〇〇にして2.97秒で弾切れ。電脳界の現時点での兵器でさえ叩き出せない、構造的、機能的に不可能な数値である。

「あぁ、神経と繋がっちまったから自動オートじゃねぇのか」

 レーザンはそう呟きながらガドリング砲を、質量を無視したかのように変形、収納させ、金属質の腕にさせる。黒い瘴気は一つに集まり、ゼクロスの姿へと戻る。その様子はスモークアートを連想させた。身体から影にも見える黒色の電気を放電していたが、床や瓦礫に直撃しても焦げたりしなかった。

「弾はこんだけしか用意できなかったが、まだ前菜オードブルにしか過ぎねぇ。メインディッシュはこれからだ」

 カチリとスイッチ音がし、再び軌道音が鳴る。

 死神は両腕を触手のように雷へと変換しては分散させ、前へ翳し、ストリーマ放電のようにレーザンに向けて黒い電撃を放つ。

 金属腕にまとった電気膜が発生したのを見てすぐに、レーザンは裏拳で死神の電撃を弾き返した。やっぱりな、という顔をしてはニィッと余裕の笑みを向けた。

「……」無表情の死神はただ現状を見つめるのみ。

「電脳界や電脳族はすべて『電脳物質』でできているのは知っているよな? レジネストは何も物質世界に生きる生き物だけじゃねぇ、『電脳物質スパーク』を消滅させる兵器でもあるんだよ」

 そう言いながらレーザンは腕を変形させ、超電磁砲レールガンを模ったレール型の武器になった途端、燃焼物のように光った何かが音速の七倍の速さで撃ち放たれ、死神に迫る。

 今まで受け止めてきた死神だが、突然目が眩むほど発光しては一瞬でその姿を消した。レーザンの撃ち放った光は瓦礫を巻き上げ、壁を、床を抉り取っては前方に筒状の半径五〇㎝程の大きな穴を、数十m先へと空けた。

 そのときと同時だった。レーザンの全身に無数の穴が空き、彼の後ろには死神が立っていた。だが、空いた穴は塞がっていき、損傷した右腕の兵器も有機物のように再生していく。レーザンはなんてこともない顔で振り返り、語る。

「やっぱりその真っ黒なエアロゾルも電脳物質のようだな。それにさっきからあんまり仕掛けねぇのって、うまく体を使いこなせてねぇからだろ。なぁ無意識のゼクロスさんよぉ。いくら身体の九割を無意識が支配していても、残りの一割の意識と役割交替したら使いこなす方が難しいはずだぜ?」

 レールガンから電脳分解エネルギーが発生し、現実拡張の電脳質の剣が精製される。

 死神は右足を地面が割れる程深く踏み込む。すると、床から無色の高圧ガスと真空波が至る所から噴き出てくる。巨大な槍のように床から天井へ突き抜けるものもあれば、軌道変更し、レーザンの方へホーミングしていくものもある。触れるものを高圧と真空圧で消し去るかの如く抉りては吹き飛ばす。だが、レーザンは見極め、悉く避ける。

「真空にも変換できるのは量子論としてはぶっ飛びすぎてるぜ?」

 気圧でさえ電脳物質でできている為、右腕の現実拡張のエネルギー体の剣で斬り、消滅させることも可能だった。レーザンは歯を出して笑いながら死神へと迫る。

 死神の腕が変質変形し、銀色の鋭利な両手剣の刃へと変換される。レーザンの一斬りを受け止めようとしたが、いとも簡単に剣と化した自身の腕がすっぱりと斬れ、勢いは収まることなく、胸部も横一筋に斬られた。

 黒い血が流れる。死神は表情を一切変えないが、身体は怯み、再生する様子がなかった。

 その隙を突き、レーザンは踏み込み、右腕の剣を振り上げた。黒い鮮血が舞い、死神の前身が深く切れる。

「……っ、が……ぁ……」

 死神の口から真っ黒な血を吐き出す。紫色に光る煌めきが弱まり、初めて表情が変わったのを見て、レーザンは嗤う。

「お、そろそろ意識の方のゼクロスが帰ってくるか? まぁその前に死ぬだろうが」

 レーザンは乱れるように剣を振るう。この世界に存在する物質はすべて電脳物質という原子核よりも小さい不可解物質からできている。それが分解されてしまえば、原子を壊されたに等しい。

 死神はレーザンの猛威を避け、黒い煙霧体を彼の身体に纏わせた瞬間、氷結させる。だが、分子配列を無理矢理動かすように、凍ったままレーザンは活動を続ける。内側から熱を帯び、次第に氷結が融けていく。

 死神は両腕を前へかざし、右腕から氷塊と冷気、左腕から溶融物質と炎をジェットの如く撃ち放つ。レーザンの右腕が八本指の二関節あるアーム状に変形し、死神の放った物質をすべてそのアームの手のひらの半球型のレンズに集結させ、一つのエネルギー体に変化させたあと、そのひと塊を放つ。

 秒速1700m。砲弾の如き速さで反射された混合物の塊に衝突した瞬間、死神は弾けるように炎体、電流体、煙霧体、煙体、レーザー光線、放射線、波動へと変換しては分散し、嵐の如く四方八方からレーザンに襲い掛かるものもあれば、避けるものもあった。だが、右腕に纏った電脳分解エネルギーに触れるなり消滅してしまう。

「無駄だ無駄ァ! レジネストがこの腕にある限り俺には勝てねぇよ!」

 分子配列が変わるかのように細かに腕が変形し、数メートルのカノン砲へと変形する。排気音エグゾーストがレジネストの機体を振動させる。

 集結し、人間の形となった死神は五体を取り戻すにしても、あちこちから黒い液体を流しては身を崩す。

「……ハァ……ハァ……ッ」

「大分戻ってきたか。ハハッ、おかえりゼクロスくん」

「――レーザァァァンッ!」

 重低音と共に黒い蒸気を発した死神はレーザンを憎悪の目で睨み、その名をたける。

「そう呼ばれなくても自分テメェの名前ぐれぇ知ってらァ!」

 そう叫んではカノン砲を死神に向けて発射した。榴弾も徹甲弾でもない、電脳分解粒子が集まったエネルギーでできた極太いプラズマ状の光線が軌道周囲の物体を風圧で吹き飛ばしながら迫りくる。

 死神は両腕を黒いエアロゾルへと変換する。一点に集中させては黒いガス球状を形成し、強い引力で周囲の物質を引きずり込む。一瞬で凝縮した瞬間、超新星爆発の如く前方へ爆撃を放つ。星雲のようなガスと闇色の波動が視界のすべてを吹き飛ばした。



 砂埃が舞い、地下二階全部屋の天井と壁は崩れ去り、地下一階までの最深部の天井が見える。風の通る音が聞こえる程、広い空間へとなっていた。

「……は……が、放せッ」

 崩壊した病棟地下の中央には、獣や竜のように力強く、だが不定形とも歪ともいえる、金属光沢のある巨大な黒い死神の右腕に押し潰されていたレーザンがいた。鋭い爪と鱗、そして羽毛のある黒い腕は爬虫類と猛禽類が合わさったような形をしている。それに対し、レーザンの右腕の兵器はバチバチと放電し、ひしゃりと壊れている。

「クソ……ッ! ぅあガ……ッ、なんで再生しねぇんだ! テメェもろに喰らったのになんでまだ動けるんだ!」

「……聞こえていたよ。僕のことウイルスだと、バグだと例えていたね」

 ゼクロスはこの静寂な空間よりも静かな声で語る。異形の腕と繋がっている首筋の肌や血管が黒く染まっており、頬にかけて罅割れたかのような黒い血管が侵蝕している。同時に、幾何学的な電脳回路の模様が浮かび上がっていた。彼の腹部は先程のカノン砲により風穴が空いていたが、徐々に塞がってきている。紫の瞳の蛍光ルミネセンスは消えていた。

 ゼクロスの無意識しにがみは消え、意識じぶんを取り戻していた。だが、それにもかかわらず、死神の煙霧体質を保持していることに、レーザンは歯を食いしばりながらその理由を必死に考えていた。

「それじゃあ、あなたが再生しない理由はすぐに解るだろう」

 答えは明白。目の前の男は電脳界せかいを侵す瑕疵ウイルスになったからだとレーザンは理解した。電脳界の現象や法則に欠陥バグを与えるウイルスを前に、レーザンに為す術はなかった。

「あなたは僕に感染した。適応力も耐性力も、そして異常なまでの再生力は衰えている。その機械もね」

 グシャ、とレーザンをさらに床に押し潰した後、その巨大な黒い腕は霧と化し、分散され、線香のような流動ある黒煙と化す。再び集結、凝縮され、普通の腕に戻る。

 だが、レーザンは死ぬことはなく、衰えたとはいえ、ほんの少ずつ再生し始めている。ただ、右腕の機械兵器は潰れたきり、駆動することも、再生することもなかった。

「何故だ……! 何かの間違いか……? シュレイティアの意志は完全ではないのか……っ」

 レーザンは悔しそうに腹の底から呻くように、絞り込むように吐き出す。信じてきたものは何だったのか、自分は間違っていたのか、そんな声だった。

 ゼクロスは振り返り、仰向けに倒れている、二カ月の間共に協力し合ってきた医師に言葉を置いていく。

「愛する以上の尊敬を捧げていた偉人を今、疑いかけている愚かなあなたにひとつだけ救いの言葉を捧げよう。その刻まれた傷と共に覚えておけ。シュレイティアは確かに完全だ。……ただ、あなたが完璧でなかっただけだ」


     2


 リノバンス第六病棟の地下一階、二階は完全崩壊といっても過言ではなかった。幸いその前に起きた少しばかりの地面の揺れや轟音で地下にいた数人の看護師や従業員は避難し、誰一人巻き込まれることはなかった。病院全棟だけでなく、周囲の町にも影響があり、地震、パイプや配線の破損、地盤の脆弱化等、大きな工事が必要となるだろうが、幸いなことに、患者も一般市民も死人は誰一人出ず、十数人の怪我人が出たが、全員軽症で済んだ。

「……さて」

 シュレイティアの意志を誤って進んだ者には死を捧げる。ましてや、利用するなど言語道断。

 そうでなくとも、このまま放っておくわけにもいかない。危険因子は排除に限る。可能性をゼロに近づけるために。

「……」

「目が覚めたかい、レーザン『先生』」

「……生きて……いる、のか……?」

 リノバンス医院内の手術室。手術服を着た私の目の前には麻酔で体を動かせないレーザンが横になっている。幾つか怪我はみられたが、大体は再生しきっていた。それだけ時間が経っていたということになる。だが、侵蝕も同時に進行している。これ以上怪我を負っても常人並みの再生力だろう。

「……前にも言ったが、バグが起きた以上、もうUNCのような特性はほぼ失ったに等しい。その上大量に全身麻酔を投与した。抵抗したって無駄であることをご理解願いたい」

 マスクをしている私の表情がどのようなものか、レーザンからみれば全く分からないだろう。だが、今の私は無表情に等しかった。

「……何のマネだ」

 つま先から首までは動かせずとも、顔はなんとか動かせる。レーザンの問いに私は淡々と答える。

「『レーザン先生』の真似、とでもいえばいいか」

「……?」

「それでは僕からも訊きたいことが幾つかある。実験台としてのアイリスはさておき、患者としてのアイリスを始め、病を患った人がいれば当然治そうとする」

「当たり前だ。そうでなかったらなんだというんだ」

「では、死にたいと願う患者がいたらどうする」

「生きる希望を与えるだけだ。自殺へ走らないように話し合い、自分の足で前へ進めるように希望を与える」

 模範的に善き回答なことだ。

「その希望が、外へ出ることだとしてもか」

 その質問がアイリスのことだと察知したレーザンは目の色を変える。

「わざわざ死ににいくようなことの何が希望だというんだ。より長く生きている方がいいだろ。安静にしていれば苦しむこともない」

「絶望と共に生きるか、希望をもって死ぬか、どちらがいい」

「生きる方がいいに決まっている。絶望があったとしても、その先に希望というものがあるだろう」

「……生きる執着心。それがあなたのUNCの研究を実現させたのか」

「ああそうだ。永遠に生きられるために、不自由ない体になるために、俺は不老不死をこの世界に実現しようとした」

「……そうか」

 それが望んだ答えならば、手術室に運んで正解だった。

 私は低い声で笑った。

「……なにがおかしい」

「不老不死、そんなもの今の技術じゃ簡単にできる。だけど、どうしてやらないのかは既に分かるだろう」

 人口問題、資源不足、倫理問題……不老不死であることのデメリットは、メリットなどに比べればどれだけ深刻な問題に転ぶか。人類衰退の未来が訪れることに変わりはないのに、この医者は自分の願望という名の欲望を正当化しようと社会にまで話を持ってきてしまった。どうやらそっちの頭は悪いようだ。

「生きることの素晴らしさ。これは義務教育でも常識として刷り込まれる。だから死にたくない生存欲が産まれ、延命しようと、健康でいようと、美しくいようと、そして遂には不老不死になろうとする。研究者と医者の大半がまさにそれを証明している。しかしだレーザン先生、一度は考えたことあるかい? 『死ぬことの意味』を、『死ぬことの素晴らしさ』を」

「『意味』だと……っ? ふざけているのか、死ぬことに意味などない! 死は医学においてあるまじきものだ。何が『素晴らしさ』だ。何かしらのストレスで死にたい奴がいても、心の底からそう思うやつなどいない。生きたくない奴はいねぇんだ!」

「いるんだよ。少なからずとも、この病院にひとりいる」

 憤慨したレーザンの話を切るように、大きく出した声は一寸の間、静寂を迎えた。だが、言葉を把握したレーザンは顔色を変える。

「――っ、アイリスは殺させねぇ! おまえのような死神なんかに――ッ!」

 私はレーザンの右腕にメスを入れる。

「……なっ」

 当然、驚くだろう。私は無言で肉を裂く。

 シュレイティアの描いた設計図をもとに造った機械と神経や筋肉線維が接続された気持ちの悪い腕。システム部分はあのとき既に大破され、残っているのは、腕の部分だけ。肩の関節からいこうか。

「何をしている! やめろ!」

「叫ぶな。麻酔はしてるし痛みはない。それに、手術は失敗しない」

 関節部分が密接に絡んでいる。私はのこぎりでゴリゴリと削ってから電動メスで骨ごと切り落とした。

「待て! それをどうするつもりだ! レジネストを造るのにどれだけの労力と金と時間をかけてきたと思っている!」

「そうはいっても、もう使い物にならんだろう。それに人を殺しかねんものだ。後で専用の機械で処分する」

 そう言っては壁際に置いてあった頑丈な金属ボックスに入れて施錠する。万が一勝手に動き出しても困るからな。

「それじゃあ先生、いや、ラルク・レーザンに問おう。四肢も筋肉も血液も神経も骨も皮膚も臓器も入れ替えられて、薬漬けの毎日と縛り付けるような管や機械機器に繋がれて延命措置を受け、ただでさえぼろぼろで、仮に治っても未完成のUNCを利用した実験段階の試作品の再生力では自由に外で遊ぶこともできない。ずっと病院にいないと生きていけない。だが、病院にいても短い命だ。そして、治療にどれだけの人の犠牲が伴っているかを知ってしまったアイリスは死にたいと願っている。それでも生き永らえさせようと治療を続けるのか」

 だが、レーザンは即答した。いい加減にしろと言わんばかりの目で、当然であるかのように。

「死ぬよりはましだ! ゼクロス、テメェには生きることの尊さや感謝がまるでない。わざわざ殺してどうするんだおい!」

「わざわざ生かすのもどうかとは思うがね」

 といいながら、右足にメスをぷすりと入れる。

「――テメェ……ッ」

「ああ、どうしてこんなことするかとはいっていなかったね。レーザンさんに生きること、そして死ぬことについて教えるためだ。死生観についてまるでわかっていないからな」

 そう言っている間にも両脚を切り落とし、何の躊躇いもなく傍の粉砕機で粉々にした。

「……っ」レーザンの表情は唖然としていた。何も感じない故に、現実味がないのだろう。

 人の中枢は単純なものだ。麻痺すれば何も感じないのだから。少し弄れば騙すことも、記憶を変えることも、幻覚を引き起こすことも、体の自由も奪うことができる。

「じゃ、次に行こうか」

「ま……待て! 待ってくれ!」

 今のレーザンはまるでまな板の上の食材だ。それを調理する私は、同じ調子で左腕を切り落としては粉砕機に入れる。肉と骨の砕け、裂ける音が聞こえる。そしてすぐ血管を縫い、人工皮膚を覆い、縫合する。

 今のレーザンに手足はなかった。まるで赤子のように小さく見える様は情けなくも感じる。本当にあの最先端再生医療で有名なレーザン医師なのか疑ってしまうほどだ。マスク越しで私は口角を微かに上げた。

「これでも生きたいって思うか?」

「や、やめてくれ、死にたくない……ッ」

 とうとう危機感を感じ始めたレーザンは哀れな顔で助けを訴える。

「じゃ、手術を続行する」

「やめろ! 続けないでくれ! 頼む! これ以上は――あぁあぁあああっ!」

 腹の肉を裂く。肌の上をメスの刃がツーッとなぞり、赤い水滴がぷくぷくと湧き上がる。ぱかぁ、と花が咲くように現れた臓器たち。鮮やかな赤に包まれ、綺麗なものだった。

 この手術は簡単なことこの上ない。ただ、摘出すればいい。癌を取り除くように、肝を、毒のあるものを取り出すように。

 まずは脾臓ひぞう膵臓すいぞうあたりか。思いつけばすぐに切除、接合、廃棄。

「クソぉ……狂ってやがる! テメェは狂ってやがるッ!」

 声が裏返るほど、必死の形相で叫んだ。

「知ってるよそんなこと。そもそも、それぐらいの精神じゃないと医者なんてやっていけないだろう。無機的で、事務的、そして冷酷な判断がなければ死につながることもあるからな」

 そういいながら引きずり出した小腸と大腸を切除する。柔らかいものはゴミ箱に放る。

「ぁぁあ……」と声を漏らすレーザンがどこか愛らしく思える。「哀らしく」とも表現できるが。

 肝臓と胆嚢を摘出。十二指腸ごと胃を切除。人工臓器で食道と接合。

「ほとんど内臓がなくなっているが、見てみるかい?」

 私は上の円形の鏡を傾け、レーザンに見えるようにする。押し付けられた現実を前に、レーザンの顔は見ていられないものになる程歪んでしまった。

「ぁぁああううぁああ! やめろ見せるな! もうわかった、もうわかったから!」

「何を解ったんだ。しっかり答えろ」

 肋骨の前面を電動メスで切り落とす。堅いものは粉末機へ。露わになった肺は面白おかしく動いている。呼吸が荒い。

「おまえの言っていた死ぬことの意味についてはよくわかった! だからもうやめてくれ! これ以上続けないでくれ」

「では死にたいと」

「嫌だッ、死にたくないぃッ!」

「では続行する」

「ァあぁぁああああぁッ!」

 レーザンの喉が張り裂ける程の悲痛の声を右から左へ聞き流す。肺を片方切除。思いのほか軽い肺胞の集合体を握り潰してはゴミ箱へ捨てた。気管からすーっ、すーっ、と空気が漏れている。

 息苦しくなったのが顔を見てよくわかる。

「はぁ……、ぁはぁ……息……死にたくなぃぃぃ」

「そうか、まだ生きたいか」

 私はもう片方の肺を切除し、手早く人工肺へと繋げる。数秒の窒息に見舞われたレーザンは死を間近にしたような恐怖に陥った顔をしている。あの殺し合いで一度たりとも見せなかった顔だ。それを見、私はマスク越しで歯を出して笑った。

 すべての臓器を摘出し、胴体は空洞になった。筋肉組織もくり抜くように切除したので背骨が見えている。まるでしゃべる人型の大きな器だ。レッドマーケットに並べれば売れるだろうと思いながらも、男性器に手を触れる。

 感覚はなくとも、なにをしようとするのかわかったレーザンはぞっとした顔を浮かべた。

「……おいやめろ……やめてくださいお願いしますなんでもしますから――」

「じゃあ大人しくするんだな」

 膀胱ごと、子孫を残すための、代用の利かない大切なものを切除し、ゴミ箱へ。

「ぁ……」

「既に家族はいるだろう。そこまで必要性はない。代用はなくとも人工多能性幹細胞がある。希望を捨てるなといった医者はどこのどいつだ?」

 この状態でも生きているのが不思議に思えてくる。実に滑稽だ。

「さて、これでもまだ、生きたいか?」

「……いぎたいでず。ぃがぜてぐださぃい……っ」裏声が出る程必死に、涙を流しながら切望する。あのときのような頼もしさがまったく感じられない。

 臓器がなくとも、再生医療や人工臓器などがある。まだ生きる希望が彼にあるということか。

「では続行する」

「……ぁえ……っ、あぁぁあやめでくれぇぇあああ!」

「情けない声を出すな。死なないだけまだいいんだろ? 死ぬよりましなんだろ?」

 喉を切開し、声帯と甲状腺を切除。これでもう、感情のままに叫ぶこともおろか、話すことさえできない。ただ、呼吸する音しか聞こえない。

「これでもまだ、生きたいか」

 声の出ないレーザンは千切れそうな首を縦に振る。麻酔によってその速さはゆっくりだった。

「これでも生きたいとは……あなたの生への執着心は凄まじいものだな。まぁ、生きているのは奇跡だからな。命は大事にするべきなのは私でもわかる。だが、その生の大切さを踏みにじったような不老不死など、僕にしたら反吐が出るよ。死ねない苦しみと変われない苦しみをろくに味わってもないのに、よく自分からわざわざなろうと思ったもんだ。別の意味で尊敬するよ、レーザン」

 頬筋と表情筋を切除する。片目と片耳を切除。頭部を電動器具で切開し、バカリ、と頭蓋骨を取り外し、脳が露わになる。その脳にコードを繋げる。まるで物語にでも出てきそうなマッドサイエンティストを思い出す。脳だけで活動する様は、こどもの頃の私にとって衝撃だった。

 そんな思い出を片隅に置き、目の前のマッドサイエンティストを見る。感覚器を片方失えど、それでもまだ、五感はある。まだ不自由ではない。

「確かに死ぬことはいいことかと聞かれれば全然よくない。ま、だからといって過剰に無理矢理生かすのも駄目かといわれれば駄目だと答えるね。レーザン自身も薄々自分のしていることに違和感があったんだろう」

 だから、こうなってしまうのも仕方ないさ、と私はレーザンの胸部に手を入れる。握ったのは艶やかで、光で煌びやかに輝く、赤い心臓。まだこうやって鼓動を続けているのが生命の美しさを感じる。心がどれだけ穢れていても、その深奥には必ず輝く何かがある。

「レーザン、あなたは今もこうやって生きている。生きようと必死に足掻いている。醜くとも、生きようとしているこの心臓はとても美しい」

 それを、引きちぎり、握り潰す。

「だがあなたはこれを放棄した。その愚かさは罪として永遠に残るぞ」

「……っ」

 すぐさま人工心臓に脈を接合する。一時的に心電図が横一本線になったが、再びリズムを刻み始める。

「さて、機械表示としてはあなたは死という形容的現象を味わった。それでも、まだ生きたいか」

「……」

 涙腺をまだ切除していなかった。涙を浮かべ、首を僅かに横に振った。

「やっと理解できたようだな、レーザン」

 無理矢理した行為だが、どのように転んだとしても、最初から私はレーザンを救うつもりなど毛頭ない。

「アイリスは死にたがっている。死を望む者に生を与えるのは自分の傲慢でしかない。死を求める者に救いの手を差し伸べるのは医者ではない。死神だよ」

 そして脳に繋がった装置を起動させる。耳鳴りのような超音波の音と共に、空っぽの身体の医師は静かに機能を停止した。


     3


 幾つもの有機物の塊へと分解された医者を処理し、器具等を片付けた後、手術室を後にした。時間を見ると朝の四時五十分。真夜中にかけて手術を行ったので、幸い他の人に気づかれることはなかった。

 スーツ姿に着替え、トレンチコートを羽織る。

 すべての患者がまだ眠っている夜明け。誰もいない薄暗い廊下に足音が響く。

 渡り廊下を通じて病棟を移動し、階段を上る。人の気配はするが、誰一人とすれ違うことがない。肌寒い空気が院内やコートの表面を冷たくする。


 412号室。私はもう意味をなさない二重ドアを静かに開けた。

「……」

 シンプルな電子音を閑静な病室に響かせる心電図。ベッドを囲む数々の機械、輸血の管や酸素マスクが、愛した少女の身体を縛り付けるように繋がれている。少女は静かに眠っている。

 装置の画面と心電図を見るが、かなり衰弱していることが見て分かった。感染ではない、細胞が自ら機能を停止しようとしている。

 生に抗う現象。これも感染因子によるものなのか、彼女の意志によるものなのかは分からない。ただ、死を受け入れていることはしっかりと伝わってきていた。

 他の装置の調節を確認する。やはり麻酔量の設定があの時と変わっていなかった。この量では誰だって眠ってしまう。だが、意識を覚醒すれば、容体は悪化し、一時間もしないうちに命を落とすだろう。

「アイリス……」

 少女の名を告げる。

 私は黒いハットを取り、顔を寄せては少女の金色の髪に触れ、眠る顔を見つめる。消えかけた命。美しく、愛らしい寝顔だった。

「――愛してるよ」

 そして、眠る少女の唇にキスをした。

 おやすみ、アイリス。そう言葉を残し、私は装置の電源をすべて切った。

 死にたいと願った少女。最初は傲慢でしかないと思った。今この瞬間にも、あの医師の言う通り、少しでも長く生きていたいと願う人は世界中にごまんといる。

 だが、私はその願いを叶えようとした。本人が望むことを否定する権利はない。愛していたからこそ、尚更だった。

 だが、愛した私よりも、彼女は自分の血肉と化す犠牲者を増やさないように、人々を救うことを選んだ。それも、彼女なりの愛なのだろう。

「……」


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。


 心電図の音がやけに耳に入ってくる。その間隔は次第に広がっていき、虚しい音へと変わっていく。


 ピッ、ピッ……ピピッ……ピッ……。


 もうすぐだ。もうすぐ、迎えがやってくる。

 彼女は今、どのような夢を見ているのだろうか。最後ぐらい、いい夢を見ていてほしい。


 ピッ…………ピッ…………。


 窓側のパイプ椅子に座った私は、彼女を見届ける。

 もう少しだけ、小説の話をしたかった。チェスの勝負をもう一度したかった。あと一度だけ、彼女の笑顔を見たかった。


 ピッ……。


 彼女の本当の願いを叶えてやりたかった……!


 ……ピー――……。


 朝日が窓から暖かな光を差す。震える背中を慰めるように、やさしく撫でている。私の前には小さな影ができていた。眠った少女は朝日に照らされ、白い肌を輝かせる。

 愛した人を救えなかった。「愛してる」、その一言さえ伝えることができなかった。

 私は、何をやっているのだろう。目が霞んで、ぼやけて何も見えない。

 こんなにも愛おしいのに。こんなにも想ったことは……。

「……」

 立ち上がり、何も告げることなく、その場を去った。

 最期の彼女の顔は、微笑んでいるようにも見えた。


 どこかの偉人が、死に勝るものは愛だと述べた。だが、愛ゆえに死を選ぶ者もいる。どのような形であれ、愛故の意志は、誰にも止めることはできない。妨げてはならない。

 意志は信念であり、それは、貫くべき願いなのだと。ただ、それは必ずしも、叶うとは限らない。

 助けたい願いは、助けられない絶望が起き、生きたいという願いは、生きることができない妨げが引き起こされる。願望や欲望はすべて相反する。二律背反の世界で、両方を得ることはできない。どちらか一つしか、選ぶことはできない。

「あ、ゼクロス先生!」

 第六病棟の一階エントランスを歩き、ハットを被ろうとしたとき、後ろから声をかけられる。数メートル先の出入り口の自動ドアを前にして立ち止まり、振り返ると、落合が小走りで駆け寄ってきていた。

「どうした」

「あの、昨日からアイリスちゃんに投与されている麻酔の量が増えていることを、レーザン先生に伝えてどうすればいいかと探しているんですけど、レーザン先生みませんでした?」

「……さぁ、僕は見ていないよ」

「そうですか……わかりました。ありが――」

「でも、麻酔の量を増やしたのはレーザン先生だから、そのままでもいいと思うよ」

「わかりました。ありがとうございます」

 満面の笑顔を向け、大胆に深々と頭を下げる落合に、私は軽く会釈をし、病院から出る。


 雪の積もった駐車場。雪を気にすることなく、私は自分の車を目指す。少し曇り始め、雪がチラチラと降り始めた。奥に見える曇天を見る辺り、おそらく数時間後に天候が悪化するだろう。

 コートのポケットから自動車のキーを出そうとした。

「……?」

 自分の車の前に誰かがいる。真冬であるにもかかわらず、オールシーズンの黒い無地のスーツに膝程の黒いスカートを履いている。黒く長い艶やかな髪と美しく整った顔立ちに覚えがあった。

 ゾッとした。先程の記憶が吹き飛びそうになるほどの衝撃とともに、背筋に悪寒が走る。

「……ッ、エイシス……!」

 何故ここにいる。いや、何故今になって会いに来た。

「ひさしぶりね、ゼクロス。何年ぶりかしら」

 淡々とした波のない口調、流れる水のように透き通る、女性らしさを引き立たせた少し低めの声。だが、その美しく、不思議な気分にさせる黒い瞳はいつみても、本心を闇で隠している。

「聞きたいことは山ほどあるとでも言いたそうな顔をしてるわね。……奇遇ね、私もよ」

 口紅の塗られた柔らかな唇の動きに懐かしさを感じる。

 でも、と付け足した。

「もう時間は残されてないの」

 その一言で、彼女の言いたいことを把握できた。

「……まさか、知っているのか」

 エイシスは腕を組み、ふぅ、と白い息を吐く。冷たい風が雪と共に肌に当たる。

「ええ、知っているわよ。私たちに感染したウイルスのことも、あなたが『意志』によって開花したバグのことも」

「――っ」

「どうして知っているのかとでも言いたげね。そうね、見ればわかるわよ。そういうオーラがあるの。ウイルスのことは私の知人が教えてくれたわ」

(知人だと?)

 ありえない訳ではないが、私以外にもUNCのゲノムに同化した人工製ウイルスを発見した人は僅かながらもいるようだ。

「……それじゃあ、あと三日でウイルスが活性化してパンデミックが起きるのも……」

「ええ、知っているわ」

 淡々と答えた。相変わらずこの女だけはいつも何をし、何を考えているのかよくわからない。

「『シュレイティアの意志』の引き起こす出来事は回避不可よ。想定外も想定された上で考えられた『何か』。だけど、彼が想定していなかったほどの物理法則を打破できるような、この世界でいう『瑕疵バグ』を引き起こせば何とか対抗できる。私はそう考えているわ」

「……つまり、僕が何とかしなければいけないと」

「その通りよ」

 他人事のように口だけを動かした。私は深いため息をつく。朝日はとうに雲に隠れ、雪の降る流れが少し速くなる。

「そんな簡単に肯定しないでくれ。あと三日で電脳界全人類に感染したウイルスを治すなんて、無茶にもほどがある」

「電脳界の不具合バグを発症させるウイルスみたいなあなたが言うことかしら」

 あまり言われたくない言葉だった。だが、彼女にとっては皮肉でも何でもない、ただの事実として言ったのかもしれない。

「……だが、そんなこと――」

「いいの? 放っておけば滅ぶわよ」

 初めて心の底から真剣に告げられた気がした。

「……それは」

「残念だけど、私は手を貸してやれない。変化を止めることができるのは、あなただけ」

 エイシスは背を向け、コツコツと、私から離れていく。

「――っ、エイシス、待ってくれ!」

 彼女は顔だけを振り返らせ、小さく口を開く。風でなびく黒髪が美しく思えるのも、これが最後なのか。

「さようならゼクロス。またいつの日か、会えるといいわね」

 降りゆく雪と共に、彼女は立ち去っていった。その腕を掴もうとした。だが、足が動こうとはしない。勇気を出せない。その一歩を、踏み出すことができなかった。

「エイシス……」

 そして、かつての愛人の姿は吹雪とともに消えていった。

「……」

 ハットとコートの肩に雪が軽く積もる。今ならまだ間に合うが、呼び止めることをあきらめた私は、雪を払っては車の中に入った。

 エイシスとの関係はもう、壊れたままなのか。


     4


 リノバンス病院の怪奇的な死亡事故と地下施設の爆撃的崩壊は新聞やニュースにまで及んだ。知らぬ間に起きた患者の突然死。そして、その主治医の消息不明。専門家や院内の患者と看護師の話をもとに、様々な噂が世間に流れていく。病院の評判にも影響が出てきていた。

 事故なのか、事件なのか。年が明け、その議論が始まったころに、変化は起きた。

 あれから一週間後、電脳界に住む全人類のゲノムに共生してきた、未発見のHERV(ヒト内在性レトロウイルス)が化けの皮を剥がし、牙を剥き出した。悪性転化したのだ。

 細胞変性による全細胞の機能停止。それは全身を蝕み、脳死、全臓器不全へと陥る。発症時期は個人によって不定期。発症率、致死率共に100%という生物兵器にも匹敵する数値を叩きだした。発症後、一時間もしないうちにすべての細胞が急速変異を遂げ、死に至る。強制プログラムとしてネクロトーシスが引き起こされるが、従来の壊死のような、組織が枯れるように炭色に腐食するものではなく、死亡後、結晶のように細胞の変性転化が引き起こされる現象が相次いでいる。優秀な人材も死亡し、二週間もしないうちに幾つかの領域も社会的崩壊してしまった。

 誰かが言った。資源を使い果たしてきた我々が、資源になる番だと。為す術もなく、人類は原因不明のパンデミックに見舞われている。

 間に合わなかった。一睡もすることなく研究を続けても、ウイルスの治療法が見つからないまま時を迎えてしまった。

 この電脳界に居続けて生き残れるのは、逆にウイルスを感染し、消滅させた自分だけなのだろうか。このまま、誰もいなくなるのだろうか。もう、諦めるしかないのか。

 人間として、人々を救うことを。

「……これが、お前の望んだ『意志』なのか」

 シュレイティア。そう呟いては広がる景色を仰ぐ。

 ほんの数日前までは人々が絶えることはなかった大都会。高層ビルが並び、空中回廊と呼ばれた立体道路が幾つも交差している。建造物の隙間から見える青い上空には、機械でできた空中都市が流れる貨物船のようにゆっくりと浮遊していた。

 道路も、建物の中も、人間の形に似た結晶体が目に入る。雪の降り積もる美しき廃墟。絵にもなる光景だった。

 私は車一つ通っていない道路の中心を歩く。積もった雪に足が埋もれ、岩石のような結晶体にも雪が被さっていく。

 私は携帯端末タブレットを開く。最後に連絡を取ったのは大学時代の友人のロミット・ワドルか。研究で切羽詰まっていた上に、鬱になりかかっていたので、少しらしくないことを言って電話を切ってしまったことを思い出す。心配したのか、そのあとに十件ほど彼からの不在着信が履歴に残っている。

 私はタブレットの電源を消し、傍の廃車の上に置いた。前を見つめ、一瞬だけの放電を自身から放ち、雷と変換してある場所へと向かった。


 標高1㎞を越える白い電波塔の頂上で風を浴びる。雪が冷たい。ロングコートが上空の強風で強く靡く。眼下には無数にある鉄色の文明の遺跡と化した廃墟都市。遠く感じた空中都市もすぐそこにあると感じられる。反射して光る結晶体の輝きはここからでもわかる。最果てにも近い地平線の上には、衛星をモチーフとした巨大な球体の建造物が浮いているのが見えた。

「……こちらとしては、おまえの望む計画みらいの糧になるのはごめんだ。悪いが、その意志ウイルスに刻まれた遺伝子プログラム変異かえさせてもらう」

 黒い煙霧体を発生させる。周囲は黒い靄に包まれ、時折電流が走る。自身から黒い蒸気と煙を揺らめく炎のように沸き立たせる。法則を無視する瑕疵かしの具現体は気流をも無視し、風に流されることもない。周囲の煙霧はそこに停滞したまま。

 ウイルスにウイルスが感染する。この話は決してありえない話ではない。

 一人の死神は、偉大なる神を侵す。この世界のアポトーシスを起こさないために、この世界を狂わそう。死ぬことのない、癌細胞に変異させて。

 無情の自然摂理に善も悪もない。ただ、救世主に完璧な正義など存在しない。世界は詭弁であり、正義と語る者は偽善だ。汚れ役を引き受けた悪を排除して正義気取りをしている奴等のことを善と見なされる。この先、私は悪として、何も知らずして救われた生存者たちの恨みを買うことになるだろう。それでも、世界を失うよりはましだ。

 雪が止み、風が強く増していく。どこまでも吸い込まれていきそうな黒い闇が天地を覆い尽くす。それは空間をも浸透し、他の領域にも流れ込んでいることだろう。

 私は右目から黒い涙を一滴だけ流した。その一滴も蒸発し、舞い踊る煙霧の一部と化す。黒い虚構に呑まれ、溺れ、染まっていく。もう何も感じない。

 白い巨塔の黒い死神は、白い世界を黒く染める。

神様シュレイティア、覚えておくがいい」

 死へと誘う因子こそが、この先の未来を進化させる。

 目に見えない死神こそが、世界を救っているのだと。


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