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第四章 二節  Paradigm・Shift

 科学と同じように、出現ウイルスにも国境はない。彼らの移住を妨げるものは何もない。あらゆる障壁を越え、二十四のタイムゾーンのどこにでも自由にいくことができる。

              ――リチャード・M・クラウス


     1


 あまりのショックに身を強張らせ、アイリスを直視してしまう。二人しかいない病室だが、うるさく聞こえる程の無音が、この空間だけを切り取ったかのような隔離感を錯覚させる。視界も頭の中も真っ白に染まっていた。

「……どういうことだい? 前まであんなに生きたいって言ってたのに。一緒にいたいって願ったはずだろう」

「そのまんまの意味だよ」

 だが、驚くほどアイリスの表情はおとなしいものだった。もう起き上がる力はないようで、横たわった状態のまま布団を被っている。

「わかったの。この十年間、私は数えきれないほどの人たちに迷惑をかけていたんだって」

「そんなの、誰だってそうだろう。迷惑かけずに僕らは生きていけない生き物だ。気にすることは――」

「でも私は人を殺している」

 聞き捨てならないことを耳にした。小さい声で何と訴えた。

「……殺している?」

 何を言っているのかわからなかった。患者が人を殺せるはずがない。そのような私の疑問に浮かべた表情に応えることなく、アイリスは訊いてきた。

「ねぇ……教えてよゼクロス。この病院のしていること、知ってるんでしょ?」

 酸素マスクをつけている彼女の口元は呼吸による水蒸気で曇っていて、どうなっているかはわからない。だが、その目は悲しそうにも感じ取れるが、私は心を落ち着かせることで精いっぱいだった。紅茶か珈琲でもあればと願うが、生憎この部屋にはそのようなものは置いていない。

 この病院が、彼女の担当医が何をしているのか。彼女の治療の主導権はすべて彼が握っている。横から入ってきた選別者ではどうすることもできない。

 彼女の問いに対し、すぐにはこたえることができなかった。

「……何かを見たのか」

 沈黙の末、私がそう言うと、アイリスは力のない声で肯定した。

「もう、これ以上……私ひとりの命に大勢の命が失われるのは嫌なの」

「……」

 病室の暖房で冷えた体が温まってくる。私は冷静な表情を保ったままだ。

「夢を見たの」

「夢……?」

 アイリスが話を振った。

「真っ黒な服を着ていて、でも肌は真っ白で、それで顔がなくて、陽炎みたいにゆらゆらと揺れている人が目の前にいたの。白く光っている大きな蝶が何匹もその人の周りに飛んでいたんだけど」

 白い蝶……何かで少しだけ印象に残っていた気がしたが、何だったか。

「その人が教えてくれたの。点滴の血のことも、移植で使われた臓器のことも、薬の原材料のことも。私が生きるために、誰かを犠牲にしなければいけないことを」

「……」

「それに、この身体はもう、私の身体じゃない。皮膚も内臓も心臓も腕も足も血液も全部、死んでしまった誰かのもの……だけど次の手術で頭の中も誰かのものになってしまうの……」

 涙が零れていた。拭うこともできないまま、目尻に沿って流れていく。

 夢は記憶したものを整理する際に発生する。意識のある時に何かの情報を見てしまったのだ。だが、いつ、どこでそれを見たのか。残酷なことに、ショックを受けている私の裏側に冷静な私が考えを巡らせていた。

「夢の中で言ってくるの。『返せ、帰せ』って。私の中の身体は持ち主のところに帰りたがっていて、体の一部がない持ち主は私の身体にくっついたものを返してほしがっている。みんなの身体を奪っているのに、こんな生きているかどうかも分からない状態でずっと生き続けている。……もう、怖いの。耐えられないの。いっそのこと、薬も治療も手術も全部やめて、すぐに死んだ方がいい」

「……君の願いはどうなるんだ」

 芯の通った声で彼女に訴えた。あの夜に願った自分の望みを、私の望みをどうするつもりだ。

「ゼクロスとは一緒にいたいよ。病気も治したいし、外に行ってゼクロスと一緒に町の中歩きたいし、おいしいものもたくさん食べたい」

「じゃあ生きたいんじゃないのか」

「生きたいよ。すごく生きたい」

「それなら――」

「でも」

 言葉を遮る。私は口を噤んだ。

「生きているだけじゃ、ダメなの」

 その儚い目は悟っていた。もう、この病気は治らないのだと。

「僕は、君に……生きていてほしいんだ」

「……ありがとう」

 そう笑った。涙の跡が残っている。

 外は吹雪だった。風で降りかかってくる雪が病室の窓を叩き付けているが、それでも音は聞こえない。

 何も、聞こえない。聞きたくない。

「ひとつ、お願いがあるの」

 アイリスは言う。私の気も知らずに。

「もう一度、『死生判別』してほしい」

「……」

「わかっている。けど、これではっきりしたいの。治せるのか、治せないのかのどっちかに。治せるとしても、どのぐらいの犠牲がでてしまうのかも知りたい。……いいかな……?」

 覚悟を決めた顔。私にはそう見えた。

 彼女は受け入れたのだ。

「……」

 もう、考えるのはよそう。

 ただ、患者かのじょの望みを叶えればいい。

 それが、医者というものだ。

「わかった」

 私は布団をゆっくりと剥ぎ、起き上がれない彼女の身体をやさしく脱がした。

「……」

 あのとき診た身体とは程遠く、最早ぼろぼろの皮膚一枚の下にすかすかの細い骨だけがあるといってもいい。常人よりも発達していた内部の肉体もすっかり衰えているが、そのスペックが今の彼女を生かしているといっても過言ではない。そのためか、触感以外の感覚器官は、多少は麻痺しつつもまだ機能している。生命維持は全身に繋がれた管と延命装置でなんとか保っている。これをすべて外せば、一時間もしないうちにその命を失うだろう。

 毎日診査した日々を思い出す。あの時の方がまだ健康的だった。

 まだ、笑顔が輝いていた。

「……」

 診査を終える。審査を、終える。

「――『アイリス・ネーヴェ』」

 アイリスの金色の瞳を見つめる。目があった途端、彼女は微笑んだ。だが、どうしてこんなにも儚く思えてしまうのだろう。

「……」

 私は口を開いた。

「あなたを……」

 駄目だ。感情を顔に出すな。これは公平な死生裁判。私情を挟んではならない。無機的に、事務的に診断結果を報告しろ。

 私は騙る。彼女に、語る。

「――あなたを、『死亡宣告』する。……僕には、治せない感染症だ」

 すまない、アイリス。

 私は未熟者だ。

 いっそのこと嘘をつきたかった。最後まで希望を持たせたかった。だが、最後に希望を奪われるのは辛いだろう。

「……わかった。……ありがとう」

 それでも、アイリスはやさしく目を細め、また微笑んだ。

 やめてくれ。そんな顔をしないでくれ。

「……すまない」

「ううん、いいの。ダメならダメで、構わない」

 救えない患者を目の前に、私はどうすればいい。こんなところで情けなくなってどうする。死亡宣告など、自分の判断にすぎないではないか。

「治せないとわかってよかった。もう、毎日の薬の副作用や治療で苦しまなくてもいいんだね。ドナーの犠牲も出ないんだね……」

 安心しきった顔だった。

「私ね、ここまでUNCと付き合ってきたからわかるの。UNCの正体がどんなのかって。ワクチンはできたけど、まだ私以外にも感染している人はいるんでしょ?」

「……っ?」

「だから、私が死んだとき、サンプルに使って。それで、世界中の人達を救える薬を作って」

「……」

 この後の言葉の予想はついていた。

「……もうひとつのお願い、いいかな」

 私は黙ったままだった。

 アイリスは今まで思ってきた以上に、強かった。立派だった。

 アイリスは受け入れている。いや、自分の行き先がわかった以上、その道を望んでいるのだ。だからこそ、私も受け入れなければならない。

 ――彼女の死を。

「私を死なせて」



 人は結局、いつかは死ぬ。手術が成功しようが、誰の犠牲も出ない治療法で病気が治ろうが、結局は死ぬ。

 彼女は立ち向かっている。死という不可解の絶対的事象に。

 怖くないはずがない。だけど、勇気を出して、自分の望むことも捨ててまで、名前も顔も知らない人たちを守ろうとしている。消え入りそうな小さな灯火を奮い立たせて、病と、死と闘い続けてきたのだ。

 死ぬことは負けではない。死ぬことの意味を見つけ、人々のために今度は自分が犠牲になろうとしている。いや、戦おうとしている。

 アイリスは死の恐怖に打ち勝ったのだ。

「……わかった」

 静かに言った。声を震わせないように、感情が顔に出ないように、いつも通りの私を振舞った。

 ベッド周りにある数々の装置には数えきれないほどのスイッチがあるが、操作方法はすべて把握してある。

 私は大型の延命装置の電源を切ろうと機械機器に触れた。


「――ッ」

 意識が飛びかけた。

 あまりにも突飛な出来事に何が起きたかわからなかったが、私は頬を殴られ、床に倒れているというのは把握できた。

「ゼクロス! テメェ今何しようとしたァ!」

 見上げた先にはレーザン先生が鬼気迫る顔で私の胸ぐらを掴む。

「レーザン……先生……?」

 アイリスは呆然とその光景を見つめる。尊敬していた医師の純粋な怒りを目の当たりにしたのだ。少しは混乱してもおかしくはない。

「この装置の調整をちょっとでも狂わせてみろ! 投与する薬を1㎎でも間違ってみろ! 患者は! アイリスはすぐに死ぬぞ! それをわかった上で何をしようとした!」

 じんじんと痛む頬に触れることすらできず、私は先生の怒りに燃えた瞳を貫くように鋭く見た。

「答えろゼクロス!」

 先生は詰問する。だが、それに応えるつもりなどなかった。答えたところでどうなる。

「……場所を変えませんか。患者の前ではみっともないでしょう」

 レーザン先生は振り返る。そこには少し怯えた目をしたアイリスがいる。先生は手を離し、ゆっくりと立ち上がった。

「アイリス、突然で悪いが、少し麻酔を増やす。今のは少し刺激が強かったな。すまない」

 やさしい口調でそう言っては装置を弄り、全身麻酔量を増やした。アイリスは私とレーザン先生を見つめたままゆっくりと瞳を閉じ、眠りについた。

 そしてレーザン先生は声質を変え、起き上がろうとした私を見下した。

「ゼクロス、話がある。……来い」


     2


 ついていった先は、リノバンス中央病院第六病棟地下一階の第二研究室だった。二か月間過ごしてきた場所であり、数日前ジャドソンが死亡した場所でもある。ここまで来る道中、不自然なほど人の姿が確認できなかった。

 研究室の鉄扉に鍵をかけ、レーザン先生は私の顔を一瞥だけして、ゆっくりと歩いては自身のデスクへと向かう。

「俺の言いたいことは分かるな?」

「……はい」

 ここまでつれてきたことに意味はあるのか。いや、そんなくだらないことより、私は一歩でも言葉を間違えれば処分が下される、そのような状況に陥っている。

「その前に……いや、それよりもひとつ聞きたいことがある」

 レーザン先生は静かに口を開ける。不気味なほどおとなしい、いや、静かな怒りを潜めている、そんな表情だった。

「――どうしてアイリスを外に出した」

 心臓から嫌な音が聞こえる。だが、想定はしていた。いつか察するだろうと思っていた。先生も気付きが早い。

「おまえなら承知していただろ。彼女はもう、弱りきっている。それを何故、あんな雪の降った日に外へ連れ出したんだ。あの子が救われないかもしれないんだぞ!」

「……」

「ゼクロス、おまえはアイリスを治したいんじゃないのか。お前の行為は殺すつもりとしか思えねえぞ。何故あんなことをしたんだッ」

「レーザン先生」

 私はぽつりと言葉を置いた。

「僕からもひとつ、あなたに訊きたいことがあります」

 息を一つ吸い、そして言葉にする。

「そこまでして彼女を救いたい理由がレーザン先生にはありますか」

 突然の話題の切り出しに「は?」と呆気にとられた目で眉を寄せた。だが、特に考えた様子もなく、当然であるかのような顔で語る。

「……どういうことだ? 医者として当然のことだろう。患者が病気で死ぬことは医者にとって敗北、いや、罪に近いことだ。医者は救う者として患者を治す。君も言っていただろう」

 当然、即答が返ってくる。そういえば私もそんなことを言っていた。しかし、その言葉に含まれる意味としては根本的に考えていることが違うだろう。

「確かにその通りです。しかし先生、あなたがそこまでして救おうと、いや、死なせないようにしている理由は他にあるんじゃないでしょうか」

「……なにが言いたい」

 とりあえず話は聞いてくれるようなのでこちらとしては助かる。話を聞かずに自分の主張ばかり押し付けてくるような人でなくて良かった。

「アイリスの容体の変化に違和感があったんです」

 レーザン先生は「違和感?」と眉を潜める。

「僕がリノバンス病院に来た最初の日、アイリスの内組織は酷くボロボロでした。日が増していくにつれ、悪化した上に突然の機能不全や壊死。普通ならばそれで死んでいます。ですが、手術後、一命を取りとめたどころか、一週間もしないうちに回復の傾向にあたりました。回復は分かります。ある程度の組織再生もわかります。ですが、その早さがあまりにも早いんですよ。実質、自分で自分の両手を食べて、短期間で完全に再生しました。失礼ながら、レーザン先生の再生医療技術でも、そんな一か月未満で手の神経、筋肉、血管、皮膚すべて元通りに再生するほどのものは無いでしょう?」

 先生は腕を組み、話を聞いてはくれているが、その表情は不機嫌にも等しい。

 私は弁論を続行する。

「その上、衰弱しては超回復による常人以上の肉体スペックを得、またいくつかの症状発生、そして衰弱、超回復の繰り返し。しかし手術で使用した再生治療や延命措置などのデータを見てもそのような能力性アビリティがあるわけでもない。最初はUNCの攻撃的共生のハイ・ロー・スパイラルかと考えましたが、他の特異型の患者を見比べて分かりました。傾向は似ていますが、明らか症状に人の手が加わっています」

「そんなわけがないだろう。症状はアイリスの身体状況とUNCの特徴の相互作用で特有の影響を身体に与える。極論でいえば共進化ともいえる。感染した個人によって症状が異なるのがUNCの性質だ」

「それは優性遺伝形質の話です。アイリスは劣性遺伝形質、それもその中の例外という珍しい個体ですよ」

「個体という言い方はやめろ! アイリスは人間だ。それに肉体的機能が上がったのは尋常じゃない抗原であるUNCに対抗するために、免疫向上と超回復もそれ相応に起きたんだろう。確かに共通症状を引き起こす普通の劣性形質とは異なるが、それに何の違和感がある」

 確かに遺伝子レベル級の変異を呼吸の如く簡単に行う奇怪極まりない擬態微生物のUNCならばおかしくはない。

「だとすれば、彼女特有のUNCが棲みついているわけです。それに感染した私も同じようなことが起きるとは思いますがね。それに、彼女の血液を使って動物実験をしてみましたが、どれも彼女のようにはいかず、通常の特異型の病状を引き起こしました」

「……アイリスから感染……? ……っ、ゼクロス、おまえまさか」

「さて、私のことはどうでもいいのです。話を続けますが、先生はUNCの影響に彼女の肉体も無理矢理ながらもついていっていると言いましたね。ですが、彼女に宿ったUNCアクマはそんな生易しいものじゃないはずですよ」

 レーザン先生は黙ったまま、私を睨む。だが、演技染みた口調で構わず話を進める。

「普通ならば彼女は既に命を落としています。それでも生きているのはレーザン先生、あなたのおかげといっても過言ではありません」

 ですが、と付け足す。

「それは同時にアイリスの肉体をUNCに対抗できるようにするということです。より強靭に、より死なない身体にするように」

「……そうだな、確かにそういう言い方にもなる」

 レーザン先生は表情を変えず、少し納得した。

「自食症、精神疾患、パラノイア、凶暴化……そして内分泌の異常と『治療』でUNCの毒牙についていくように免疫や肉体の強化が促されている。これはどういうことでしょうかね。心身共に攻撃的な特性になった人は、いや、動物に属する生物の類ではたったの一個体しかいませんが、僕の記憶違いですかね」

「……」

「僭越ながら、前にデスクに『置いて』あったレーザン先生の記録ノートを拝読しました」

「――ッ!」

 思わず声を荒げそうになる先生だが、歯を食いしばり、拳をぐっと握っている。

「先生はUNCを利用した、究極といってもいい再生医療技術を手にしようとしていることを知りました。その願望とそれに伴った努力が読んでいてよくわかりました。ですけど、読み終えたときにちょっと気になる言葉があったのです」

 間を作らず、私はすぐに言い放った。

「『被験体』という言葉ですよ」

「……」レーザン先生は黙ったまま私の話に耳を傾けているが、この状態がいつまでもつか。話を聞かなくなれば、もう終わりだ。

「ノートの記録だと、一個体だけ、中々死なない『動物』がいるそうですね。あと、ノートの実験記録とアイリスの病状や治療、回復の日にちが怖いぐらい一致しているんですよ」

「……」

「……話が長くなりましたね。結論を言いますと、レーザン先生はUNCの特異型に感染しているアイリスをいいことに人体実験している。違いませんか?」

 沈黙が走る。だが、それはすぐに、レーザン先生の溜息で打ち破られる。

「……ゼクロス、おまえ妄想にもほどがあるぞ。確かに人々の病や傷害を治し、アイリスを救いたいためにUNCを使った特効薬を創ろうとしたが、そのためにアイリスを実験対象したつもりなんてない」

「いえ、先生は確かにアイリスを研究対象、『新人類の第一人者』の試作品として利用している。僕ら研究者の目を欺いて、勘付かれないように薬の分量や種類を選び、装置の調整も本来の治療とは異なり、微妙に狂わせていた。ときにはそれを看護師の所為にしてましたよね。移植の頻度も多かったのもそのためでは?」

 レーザン先生のこれまでの行為に抜け目はほぼないに等しい。人によってはふたつの考え方に偏るだろうが、大抵は表向きが正しいと判断する。

「試行錯誤、まぁどちらの意味にもなりますが、先生は同時に人類の進化を図ろうとした。病で苦しまない、死を恐れない、今の貧弱な人類から屈強な種族に変えるために」

「どこのSF映画の話をしているんだ。変な考えは――」

「レーザン先生、患者ではなくアイリス自身を診てほしいとあなたに教わったことは忘れません。ですが、いくらなんでもアイリスの稀少な難病をいいことに医療のための実験動物モルモットにするのはどうかとおもいますよ」

「何言っているんだ、俺はアイリスを救っている。彼女が生きるために俺は命を救っていると、そう何度も言っているだろ。人聞きの悪いことを言うな」

「巣食っている、の間違いでは?」

「……っ」

 レーザン先生は煙草の箱を開け、一本口に咥える。ストレスが溜まったのだろう。

 火をつけ、一服した後、

「……考え方次第ではそう読み取れる。しかし、俺が意図的にそうしている明確な証拠などどこにもないだろう」

 私は思わず吹き出した。それを聞いた先生は「何かおかしいことでも言ったか」と睨みつける。

「レーザン先生、あなたともあろうお方がまさか『ここ』が何の世界かわかっていないなんて、僕としては残念です」

 私は口角を上げたまま、説明を続けた。私の目つきはおそらく侮蔑したような細い目になっているだろう。

「ここは電脳界。捨てるほどの情報が流れている世界です。容易ではないですが、僕のシナプスと世界のLANを繋げて共有することだって可能なんです」

「……? そんなこと電脳族で可能なのか」

「これまでで数万人に一人の割合で電脳族が可能とした脳内操作技術です。専門的ですし、複雑なので、わざわざそこまで極めようという人が少ないのが知名度の低さの原因ではあります。度を過ぎれば犯罪ですからね。習得にはかなり苦労しましたが、ありえなくはないでしょう」

 正直なところ、これは嘘だった。とはいえ、技術としてできないわけではないし、一応私もできるスキルだ。しかし、そうしてしまったら先に私が捕まってしまう。

 話を戻しますが、と加える。

「あなたの論文のひとつに『不老不死の生命学』『医療と病における新しい人類進化と滅亡』というものがありました。内容もそれなりに一致してましたし、これも十分な理由になるはずです。まぁ、よかったですね、UNCという都合のいいものが発生したおかげで数年のみの研究で実現しそうになって」

 私は軽く笑う。今の浮かべている表情がどうなっているかなど、知ったことではない。

「ばっちりと僕の脳内にあなたの記憶データがありますし、いくつもコピーしていろいろな場所に保存してきました。アイリスの改造手術のデータをね」

「……」

「これを報道することだって可能です。『究極の再生医療』という名の『進化の為の人体強化』の開発とは、中々面白いこと考えますね」

 その面白いは「くだらない」という意味で私は蔑みの笑みを向けた。

 レーザン先生は鼻で笑った。嘲笑でもない。ただ、純粋に口角を上げていた。

「UNCの正体もまともに知らないやつがよく言ったものだ」

 表情が変わっていた。怒りではない。呆れたように、急に余裕の表情になったことに不気味さを感じる。何か考えがあるのだろうか。

「いえ、知っていますよ。UNCの本当の姿を。流石の先生もその正体まで操ることができていないようですが」

「……答えてみろ」

 皮肉を言った私は一呼吸置く。右足のギプスが軋む音を立てる。

「『UNC』は人に注目させる、ただのフェイクです。しかしそれ自身に核心が秘められていました。UNCバクテリア自体ではなく、そのゲノムに寄生、いや、共生している新種のHERV(ヒト内在性レトロウイルス)。それこそが、UNCの正体です。昔から存在しているそのウイルスは単体で移動し、空気感染することもできます。既にほとんどの人類に感染し、潜伏し続けていました。しかし、症状は一切出さず、誰にも気づかれぬまま何百年も、何万年も時が過ぎていきました」

「それだけではない。その太古からいるウイルスは俺たち電脳族の進化の根本的要因でもある」

 それを聞き、目を丸くした。同時に、ある学者から聞いた話を思い出す。

 ウイルス進化説。数ある生物進化の仮説の一つに過ぎないが、ある植物と真菌とウイルスの共生による環境耐性についての論文が科学雑誌に掲載されてから急激にその説の信憑性が上がった。

 ウイルスは自己複製能力を持っていないため、感染した生物の細胞を利用して増殖する。寄生した細胞のDNAに自分のDNAを注入し、組み込んでは複製させる。ところが、何らかの原因によりDNAが組み込まれた段階でウイルスが活動を停止させる場合がある。寄生された細胞はウイルスの塩基配列シークエンスが加わったことで変異を起こし、細胞分裂のたびに娘細胞へと引き継がれていく。これはゲノムが変化した、あるいは感染したウイルスが宿主となった生物の遺伝子の一部を巻き込んで増殖するふたつのパターンに分かれる。このウイルスが新たに別の個体に感染し、活動停止すると、元の宿主の遺伝子が次の宿主のDNAに組み込まれたことになる。

 このような現象が生殖細胞で起こり、加えられた塩基配列が新たな機能を獲得する。そうなれば、それは進化となる。それが本当ならば、生物進化はウイルス感染によって起きたものだといえる。ジャドソンの言っていたことは、もしかしたらウイルス進化説のことかもしれない。

「そのウイルスのおかげで、今の俺たちがいる。かつての俺たち人類は運命が空間的電脳回路サイバースペース・コードによって、あるいは他外たがいの世界の人類だったら星によって決まると考えられていた。けどな、今は遺伝子によって、いや、遺伝子だけではない、エピジェネティクスといったものがウイルスと関わっては進化を繰り返してきたんだ」

 DNA塩基配列シークエンスの変化を伴わない細胞分裂後も継承され、遺伝子発現を意味するエピジェネティクス。ジャドソンはこれと突然変異、共生発生、異種交配、そして自然選択が進化を左右したといってはいたが、やはりUNCと関係があったのか。

 かつての偉人が『進化の木』の説を提唱したが、あれは大きく間違っているということになる。この先の未来、今の常識が大きく覆されそうだ。

「だけどな、そのウイルスは自然から生まれたものじゃない。創られたものだ」

「なっ――」

 驚愕の声を漏らす。数万年前、いや、電脳族の人類の祖先から存在しているウイルスが人の手で創られたという事実に驚きを隠せなかった。

「外の世界では宇宙から飛来してきたという話をよく聞くだろうが、電脳界だと別世界から飛来ダウンロードしてきたという話もある。けどな、このウイルスは外から投入トランスミットされた人工生命アーティフィシャル・ライフだ。UNCはそのレトロウイルスによってゲノム操作された寄生蠕虫ワームの細胞に過ぎない」

 そのゲノム操作で兵器のような擬態微生物が生まれたのか。

「どうしてそんなことが分かるんですか」

「製作者を知っているからだ」

 またもとんでもないことを言った。だが、その次の一言も驚くものだった。

「『シュレイティアの意志』。おまえならもう知っているだろう」

「――っ!」

「その顔は知っているようだな。ま、誰から聞いたのかは知らないがな」

「……っ! まさかとは思うが、クラウスさんが、いや、トーマスが死んだのは……」

 すると、レーザンは静かな目で嘲笑を浮かべた。

「勘違いするな。トーマスを殺したのはジャドソンだ。だが、ふたりに種をいたのは俺だがな」

「――っ、貴様……!」

「おおっと、そんな顔するな。『意志りろん』を間違えて捉えたり暴露したりする奴が悪い。『ミス』には『デス』を与えなければならないんだよ」

 遂に化けの皮を剥がしたか。まさかレーザンも『意志』に触れていたとは。

 これ以上危険な思想と関わっては流石にまずいと思った私は逃げ出そうと試みたが、知ってしまった以上、そう簡単には逃がしてはくれないだろう。

「それはさておき、そのウイルスの名前は知らないが、ともかく、この電脳界に授けられた『意志』のひとつはUNCに、いや、俺たち電脳族に共生して生きているHERVだ」

 レーザンは煙草を吸っては椅子に腰かける。

「ジャドソンが死んだのを知っているっつーことは、ああ、あんとき研究室にいたのか。UNCに宿るHERVの引き起こす未来予想図、いや違うか、計画を知ってしまったってわけか」

 レーザンの言うことが本当ならば、事態は深刻だ。今すぐにでも阻止しなければ大変なことになる。

「ゼクロスさん、冷静を振舞っても十分に焦っているってのが丸わかりだぜ?」

「……あんたは何故そう笑ってられる。――電脳界が滅ぶんだぞ」

 UNCだけでなく、電脳界全人類に感染した『意志ウイルス』の真骨頂こそ、予言とも例えられる終焉の真実だった。

 UNCの形成によって人々に危険性を感知させ、ワクチンを作らせるよう陽動する。結果としてUNCのワクチンが作り上げられるが、それは同時にウイルスとGPCR(Gタンパク質結合受容体)をメインとした受容体が活性発現するための糧にもなる。それによって短期間で表れなかった症状を発生させ、電脳質の分解反応と多量体分子の集結クラスターによって結晶核形成を引き起こす。結果として電脳質特有の新物質の結晶体と化してしまう。そして、その結晶体から放出される微細粒子によって、感染するように結晶体が広まっていくという。

 つまり、この世界の存在する生命、物体、大気問わず物質すべてが、否、電脳界の有象無象が新物質の結晶へと変わってしまう。それは空間をも侵食し、完全な電脳界の停止を引き起こすことになる。他世界の宇宙でいうビッグフリーズに近い。

「構わないさ、それこそ自然選択だろう。シュレイティアのやることは自然現象に等しい。絶滅も、戦争も、生命爆発も、天変地異も、すべて『意志』の思う先だ。俺たちは天命には逆らえない」

 結晶体の新物質と化した人類や動植物を新資源として回収するシュレイティアの単純明快な実験プラン。それを天命だというのはどうかしている。

 人工HERVの変異を止めなければ、あと数日で電脳界の人類が滅ぶ。本来ならばこんなことをしている場合ではない。

「シュレイティアの創ったウイルスという『種』がどのような『花』になるのかも気になるが、俺は神知の偉人シュレイティアの『意志』を継ぐ男として、研究を、望みを実現しなきゃならねぇ」

 決断を下した男の目には一切の迷いが見られない。どれだけ説得しても無意味だろう。

「話がおかしくなっているが、あなたの人々を救いたい願望はどうなるんだ」

 そうなってしまえば、レーザンの望みは叶わぬまま終わる。そのことについてはどう思っている。

「俺がいつ、『電脳界で』人を救うと言った?」

 そう言い、悪魔のような不気味な笑みを浮かべた。外の世界へ渡る気か。だがレーザンもそのウイルスに感染しているだろう。そういえばレーザンはワクチンを打ったのだろうか。

「さっきは天命だと言ったが、俺は正直巻き込まれるのはまっぴらごめんだ。勿論尊敬はしている。だが、俺もまだ正常だ。無駄な忠誠心で命までは捧げねぇ。俺は『シュレイティアの意志』と共に自分テメェの夢を叶える」

 レーザンは啖呵を切った。無茶苦茶だが、自分の信念を曲げない男ほど厄介なものはいない。

「だからUNCを利用したのか……」

 それも独学で、誰にも知られないように。

「ああそうだ。仮に行為かたちとして『意志』に従いながらも、俺は他の奴らみてぇに自我を失ってまで崇拝するほど馬鹿じゃねぇ。引き際が大事だ。逃げずに、だが立ち向かわない。肯定も否定もない、近すぎず遠すぎない。偏らないことが『意志』と安全に接することができる手段だ」

 椅子に深く座り、足を組み直しては誇らしげに言う。

「だがアイリスは違った! 『意志』に触れたにもかかわらず『意志』に反したのだ。それに気づいたのはワクチン接種後に再発が起きたときだけどな」

「……っ? アイリスが『意志』に?」

「あ? 見えてなかったのか? ……ああそうか、おまえまだ触れたばかりだからな。仕方ねぇか。アイリスも無意識に『意志』に触れたんだよ。何でかは知らねぇが」

 だからアイリスはあんなことを。すべては『意志』に触れたから、心が変わったのか。曖昧になっていた決意が固まったのか。

「ま、覆されることのないはずの事象にも例外のひとつやふたつは存在してくる。寧ろそれを『奇跡』だと俺は思うね」

「その奇跡を利用して、自分の手で新しい『意志』を創ろうとしたとでも思ったのか?」

 新しい歴史をこの男は創り上げようとした。それだけは確実だろう。莫大な願望は、時として歴史に刻まれることだってある。

 レーザンはデスクに置いてあった灰皿に煙草をすり潰し、もう一本を吸い始める。周囲が少し副流煙臭くなる。

「受け継ぐ、と言った方が正しいな。いや模倣ともいえる。俺ごときの存在がそんなことできるはずがない。だが、さっきも言ったが、『意志』を受け継ぐと同時に、新しい形で俺の意志を、望みを叶えたい。それは最終的に大勢の命を救う。別に俺は神になるつもりなんてない。けどな、世界を救える男にはなってみせる。そのためならば俺は人の身を捨てたってかまわない。そう思ったよ」

「他の奴等とは違うと言ったが、やはり自身に溺れ、意志という宗教に陥ったようだなレーザン。尊敬という信仰は人のためと悟っても、所詮結果は人を殺す剣となるからな」

「黙れ!」

 レーザンが叫ぶ。しんとした空気の中、レーザンは灰皿に吸った煙草を押し付けて、がたりと立ち上がった。

「図に乗るなよ死生裁判士。神の智シュレイティアは偉大だ。彼の発明と研究開発は、人知を越えている。生涯をかけてやっと手に入れた彼の複製設計図も、俺の脳では未完成のままだ。だけどな、それでも今の技術より六十年は進んでいる」

 複製設計図という言葉に反応する。それがどのようなものかは予想もつかない。医療と関係しているのだろうか。

「だが」

 三発の銃声が鳴る。彼の手にはS&W-M649のリボルバーが私に向けられていた。

 痛みに耐えられず、喉から搾り取ったような掠れた声がキリキリと漏れてくる。

 胃と左肺に裂傷、肋骨の骨折。体から滲んでくる血を見、私は膝をつく。

「そんなものを用意せずとも、殺すのはこれだけで十分だ」

「……クソ医者が……ッ」

 再び銃声が研究室に響く。銃弾が左鎖骨を粉砕し、私は横に倒れた。

「それはこっちの台詞だクソ野郎。勝手に俺の患者に手ェ出していいと思ってんのか」

 咽頭部が熱くなってくる。消化器官に漏れた血が溢れてきている。

「そもそも、テメェみてぇな無神経が医学を語ってんじゃねぇよ。論文の一つも書かずに何が学者だ。人類の為に行わずして何が研究者だ。ワクチン創ろうが手術で人を救おうが、軍に貢献しようが、犠牲になった人の方が多いことに変わりはねぇ。おまえはただ人の不幸を生み出しているだけにすぎねぇだろうが!」

 レーザンは怒鳴り散らしては私の腹部を蹴る。水風船が破裂するように、口からひと塊分の血が飛び出てくる。

 自分のことを棚に上げて、よく言えたものだ。そう言おうとしたが、うまく声を発せない。

 なにより、何故、誰も来ない。銃声が鳴ったんだぞ。外にまで聞こえていないのか。

「なぁゼクロス。科学とはどういうものかわかるか。大した業績を上げられなくとも、日々の研究の中で、自分しか知らない小さな発見をこつこつと積み上げているんだ。それが科学の惹かれるところであり、至高の幸福だ。自然の謎を解くことで、麻薬でも吸ったかのような頭のふらふらする幸せを得られる。テメェみてぇに知識程度しか科学を知らない関心のない奴にはわからんだろうがな」

 私を見下しては口角を上げる。少し収まった私はやっとのことで声を出すことができた。

「ゲフォッ……だが、恐ろしい側面もあるだろう……核兵器を開発した科学者たちも……おまえような快感の虜になったのだろうな。大量虐殺できる原爆作りをしたいんじゃない、かつての……ぅぐ……偉大なる科学者の予言が現実化すること、そして人類が手にしたことない莫大なものを得ることに興奮し……痛っつ……だが……未知への挑戦がもたらす陶酔感は、人類社会にとって諸刃の剣だ。『シュレイティアの意志』もそれと同じだろう、レーザン」

「ハッ、減らず口が。まだそんだけ話せるとはびっくりだな。本当に死神だと思ってしまうぜ」

 レーザンはしゃがみ、私の眼前でそう言っては大きく笑う。だが、今まで向けた、場の雰囲気を良くさせるような、安心感のある笑い方ではなかった。

「じゃ、長話も飽きただろ。死神はあの世で魂が来るのを待ってるっつーもんだ。とっとと逝ってこい」

 髪を掴まれ、銃口が持ち上げられた私の眉間に突きつけられる。

 そして、三度目の銃声が研究室に響いた。


     3


「ねぇゼクロス」

「……なんだ」

 少し機嫌の悪い私はベッドで寝ているアイリスに返事をする。

「ゼクロスって恋人いたんでしょ?」

 油断すればすぐ変なことを言う。またあの口の軽い看護師か。悪気がなければなんだっていいわけではない。

「ああ、いたよ。今はどこに行ったんだか連絡もつかない」

「なんで別れたの……?」

「容赦なくプライベートに触れるのはあまりよくないと思うが?」

「……ごめん」

 俯き、申し訳なさそうに謝った。私は溜息を一つつき、ぽつりと言葉を添えるように、呟いた。

「願い事を叶えてやれなかったからだ」

「願い事?」アイリスは顔を上げる。

「約束、といってもいいか。とても大事な約束を果たせなかったんだ。それで、彼女は離れていった」

「どんな願い事だったの?」

「それは流石に言えない。いや、言いたくないんだ。これ以上問わないでくれ」

「……うん」

「それ以来、人の約束は、望んでいることはすべて叶えるようにしている。それがどんなことであれ、僕に託された願いは必ず叶えるようにしていたんだ」

 だから、と続け、

「アイリスがこの病気を治したいと願っていることも、何としてでも叶えてやらないといけないなと思っている」

 真剣な顔で話してしまった私はアイリスの頭を撫でては少しだけ笑った。その時の彼女の表情は柔らかなものだった。

「……うん、そのときがくるの……私待ってるから」


     4


 真っ白な研究室に静寂が包み込む。反響音は空へと消え入り、静止した空間へと化す。

「な……ガ……ッ」

 静寂を破ったのは、悲痛にも似た医師の呻き声だった。

「あ、あぁあ……ひグぁッ……」

 拳銃の落ちる音がすぐそばで聞こえる。だが、それよりも男の声の方が近かった。

「……」

 小型のリボルバーを握った手首が、自分の右腕に握りつぶされている。

 銃口は真上を向いていた。頭部に銃痕もなければ、掠り傷もない。

 身を起こし、膝を立て、片足で踏ん張ろうとした。痛みはある。怪我もある。だが、身体を動かせない理由にはならない。

「……僕はッ、まだ……死んではならない……っ!」

 まだ、愛しき人の救いの願いを叶えていない。

 まだ、約束を果たしていない。

 囁く声よりも弱弱しく、だが、芯の通った何かが含まれていた。

 右手の力が弱まり、解放されたレーザンは後ずさりしてデスクに強くぶつかっては床に腰を打つ。体勢も崩れかけ、デスク上の物が床に散らばる。

「テ、テメェ……ッ、マジモンのバケモンかよ……!」

 まさに苦虫を噛み潰したような顔だった。右手首はあらぬ方向へと捻じれている上、右手が紫色に近く変色していた。血が巡っていない。

 がくがくと足を震わしながら、私は身体を震わし、ゆっくりと立ち上がる。

「人間の底力、というものだよ……」

 血は流れているのにもかかわらず、何故か段々痛みはなくなってきている。なくなるというより、意識が朦朧するようにぼやけてきている。

 自分を失いかけている。

「……レーザン、これでもう弁解では済まされないぞ」

「くっ……」

 奥歯を食いしばるレーザンは、立ち上がった私をただ見上げる。

「『シュレイティアの意志』は常識が通用しないんじゃないのか? そのことを知っている奴らは皆常識のすべてを疑っている、そう思ったんだがな」

 私は足元に落ちたリボルバーを拾う。苦痛はもう感じなかった。

「ハハ、詰めが甘かったなレーザン。そんなものの有無以前に、僕たちには『人間の意志』がある。逆境に打ち勝つ、強い心が時に医学的に、科学的に解明できない奇跡が起きたりするんだ」

「……」

 カチャリ、と拳銃をレーザンに向ける。あと二発か。

 ドォン! と立ち上がろうとしたレーザンの右のすねを撃った。

「ッ! はがァ……ッ!」

 咄嗟にレーザンは身を倒した。おそらく貫通はしただろう。

 形勢逆転。己の意志が不可解な奇跡を引き起こした。

「その前に訊きたい。そもそも、シュレイティアという男はどういう人なんだ」

 『意志』については知れても、この偉人についての情報をあまり得ていない。これを機に話を振った。

 やはり足だけでは全身に負担はそこまでかからない。仮に手足を失ったところで命に別状はないのだ。レーザンはこちらを上目使いで睨みつける。まるで私が悪役にでもなったようだ。

 患者を生かそうとする者と殺そうとする者。私が後者の立場である以上、あながち間違いではない。

「シュレイティアは神の存在を科学的に証明し、彼は本物の『神』になった偉人だ。死して尚、生きている超越者だ。『天智創造』の神としてあらゆる世界に文明を与え、創り上げている。人類において彼以上の天才はこの先何億年経とうが誰一人出てこないだろうよ」

 どこかの御伽噺おとぎばなしに出てきそうな人物だ。学者だと考えられるが、分野は何なのかも気になるところだ。

 口から出てきた言葉は、軽蔑の意が込められていた。

「天災ともいえるね。この世界も、他の世界も、すべてその男の手に委ねられているのなら、まさに悲劇だと思うが」

「悲劇……? 何を言っているんだ、これは素晴らしいことじゃねぇか」

 まるで物語を語るかのようにレーザンは口を広げて話す。安静にしていればいいものを、無事な左手と左足を駆使してはデスクに体重をかけ、立ち上がった。

「かつての思想家『スピル・オートリオン』は言っていた。『不可解である程恐ろしいものは無く、故に人はそれを神と名付けた。デウス言語ロゴスであり、言語ロゴス世界オーラムそのものである。原理がなければ人は前に進まない』と。シュレイティアこそ『神』そのものだ。道標となる神がいなければ人類は前には進まねぇ。人類は自分たちの力で切り拓いてきたと錯覚している。すべては彼の計画に過ぎねぇんだ。終点の歴史へと進んでいるんだよ」

「その男についていけば間違いないと、そう言いたいのか?」

 負傷したレーザンは落ち着いた表情で「ああ」と頷いた。

「そうだ。多少の犠牲は伴うだろうが、シュレイティアにとっては実験過程に過ぎねぇよ。ただ研究材料を消費したという感覚だろうな」

「成程。だとすれば情けない話だ。結局は他力本願じゃないか」

 ぴくりとレーザンの表情が微かに変わる。

「俺たちはそういう生き物だ。食糧なしで生きていけるか? 自然なしで、世界という空間なしで生きていけるのか?」

「……それは極論だろう」

「極論じゃねぇ! 事実だ! 少なくとも、この電脳界ではな!」

 レーザンの息が荒れる。叫んだとき、瞳孔がおかしくなったようにも見えた気がした。

「だがその真実を世の中の馬鹿専門家共も、政治の馬鹿共も認めてねぇ! それが世間に広まるんだ。ウイルスが感染するようにな!」

 レーザンは息を一つ置くこともなく、

「考えてもみろ! 間違った歴史しんじつが常識として伝染している! 『シュレイティアの意志』こそがワクチンだ!」

「僕たちをウイルスに例えるか……まぁ、例えればいくらでも噂は生まれるだろうな」

 それでも、と一歩踏み出す。傷口から血が軽く噴き出る。

「そんな理不尽を許すわけにもいかないだろう」

「ハン、若造は理不尽が大嫌いだねぇ。不条理、不憫、不幸、不可解、理不尽。あぁ確かに俺も大嫌いな言葉だ! 憎たらしいことこの上ない。だけどよ、それをいつまでも拒絶しているようじゃ、この世界、この社会で生きていけねぇぞ。過酷な環境に耐えられない生き物はすぐに死んでしまう。刃向うんじゃねぇ、受け入れ、適応順応できる奴らが生き残る。それが大人ってものだよゼクロス君」

 それにな、とレーザンは話を続ける。

「俺は医者としておまえにずっと言いたかったことがある。死体にも人権はあるんだ。歴史から継がれてきた魂に対する礼拝、礼儀。選別者はそれをすべて踏みにじる。仕事だから仕方ないという問題じゃねぇ。それを認めた内政もどうかしている。祖先や神、仏に対する尊厳がまるでないと、どっかの雑誌に中傷されてあったなぁ」

「死人に口なし。そんな不確定な存在に礼を詫びるのも変な話だが?」

 レーザンは笑う。救いようのない死神だと、大きく笑った。

「ははは、そう言ってしまえばおしまいだぜ? なぁおい、いい加減にしろや人でなし野郎」突然怒りを露わにした。精神面が歪んでいる。

「それはどっちの台詞だい? アイリスを実験台にしている自分を棚に上げておいてよく言えたものだよ……!」

 私は咄嗟に拳銃の撃鉄を起こし、引き金を引いた。銃弾の向かう先は、レーザンの額。距離は約3m、速度は時速1300㎞。条件としては撃ち抜くのに容易だった。

 だが、やはり拳銃という殺人の器は圧倒的有利を誇る故の心の余裕ができる。それが、誤算を生んだ。

 レーザンが無理に立ち上がった理由。それは、あと一発の銃弾を避けるため。

 反射による左足の踏み込みと、右足に負担をかけないことによる重心崩しにより、反射にも似た瞬発力を発揮する。それよりも銃弾の速度に反応した反射神経に驚かされる。

 だが、驚いたのはその次の行為だった。

「……っ?」

 本来ならばそのまま倒れるだろうと思った。だが、撃たれたことで脛に穴の開いた右足を踏みとどまり、倒れんばかりに体を支えたのだ。左ひざを床につけ、右膝を立て、身体を屈めたままレーザンは動かなかった。表情が俯いて見えないが、何かを呟いたかのような小さな声が鼓膜に大きな音として響いた。

「……あぁぁ、やーっと回ってきたか」

 回ってきた、という言葉に嫌な予感がした。よくみると、体重をかけているはずの右足から血が流れてきていない。

「レーザン……おまえまさか……ッ」

 取れかけた右手が修復されていく。血の気も戻り、くしゃくしゃに丸まった紙を元に戻すかのように、徐々に再生していく。脛の穴もいつの間にか塞がっていた。

「言ったよな? 俺は救うためならば人の身を捨てると」

「……ッ、バケモノが」

 こいつも『赤い蜂』と同類か。いや、少しケースが違う。

 だが、いつ薬を服用した。

「四大元素の火は時に文明を発達させるものでもあれば滅ぼすものでもある。それはウイルスにも同じことが例えられる。細菌バクテリアだが、俺はUNCをそういう方向に利用したんだよ」

 あと数日で起きるパンデミックも恐ろしいが、それよりも目の前の引き起こされたバイオ・ハザードから逃げなければ。圧倒的不利だ。勝算はない。

「今の俺には兵器も毒も放射線も通用しねぇ。UNCの耐性力は伊達じゃねぇってのは共に研究してきたおまえもよくわかっているはずだろ」

 それは瞬きをする間に起きた。

 目の前にレーザンが迫り、腹部に強烈な衝撃を受け、間を置く暇もなく真上の堅い天井に背を衝突し、床に落ちる。薬品の匂いが染み付いているだけで、床の味は何もしない。

 背中に降り積もる、砕けた天井の粉は粉雪を連想させた。

 呼吸が上手くできない。腹部が抉られるように殴られたので横隔膜が破けたのかもしれない。

 起き上がろうとする頭を踏みつけられる。軽い脳震盪のうしんとうが起きた。

「知っておけ選別者。死体の弄びは最も人類の怒りを買うとな……ッ」

 上からレーザンの声が聞こえる。腹の底から煮えたぎる声は床をも震えさせる。

「……自らの意志をもつ生きた人間を弄ぶのもどうかと思うがな……」

 ガン、と踵で頭部を蹴られるように強く踏まれる。ミシリ、と頭蓋骨にひびが入った音と、プチプチ、とクモ膜下下腔の毛細血管の千切れる音が痛みと共に感覚器で奏でられる。

「テメェが生き返るように俺の右手首を握り潰したのには驚いたぜ。火事場の馬鹿力とはこのことだな。だけどよ、ただ使われなかった残り40%の筋力を発揮したってな、所詮人間の100%はたかが知れている。新人類の第一歩を踏み出した俺に勝てるわけねぇんだよ」

 横腹を蹴られるが、その力は凄まじく、軽く吹き飛んだ私の身体にぶつかったデスクはぐしゃりと半壊し、奥の壁に強く衝突しては勢いが止まる。肋骨も同様、内臓ごとぐしゃりとやられているだろう。

「ごふっ」と血を盛大に吐く。足元がびちゃびちゃと赤い液体で濡れていく。

 意識が失っていく。目の前が霞んできている。

「人間とは脆いものよ。肉体も、精神もな。大脳は発達したが、獣のような牙や爪、第六感、筋力……本来の野性の力を失った。唯一残ったのは優れた投擲能力スローイングだけだがな」

「ま、そんなことはどうだっていい」とレーザンは告げる。

「要は生き残れるかどうかってことだ。俺がお前に言いたいことはそんなことじゃねぇがな」

 意識じぶんが遠のいていく。体はもう、動かない。

「アイリスは絶対に死なせやしねぇ。一秒でも長く、生きながらえさせてみせる。おまえなんかに殺されてたまるかよ」

 このまま殺され、死んでいくのか。

 だが、そこまで怖い気はしない。死んだ先には黄泉があるだの無しかないだのというが、どちらであれ、私にとってはどうでもいいことだった。死を受け入れようとした私は走馬灯を見ることはなかった。

 意識が薄れる。気が遠くなるほど、あの死神の声が強まっていく。だが、あのときのように流暢に話しかけてくるわけでもない。何を言っているのか理解できなかった。

 しかし、これだけは理解できる。

 私の役は終わった。あとは、代役に任せればいい。


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