親友の結婚
よく晴れた日の朝、ローラは港街の船着場に居た。
白い大きな客船が到着し、客が下船し始める。今日は1ヶ月ぶりにキャリーが戻ってくる日だった。そして同時に、アーロンの結婚式の日でもある。
1人また1人と乗降口から流れる人波をを食い入るように見つめるローラの目が、やがて栗色のお下げの少女を見つける。
懐かしいその姿に、ローラの顔には自然に笑みが広がった。
「キャリー!」
ローラが名前を呼ぶと、キャリーがこちらを振り返る。そしてその顔をぱっと輝かせた。
ローラは人の間を縫い、キャリーのもとへと駆け寄った。
大きな荷物を肩から下ろし、キャリーがローラを迎える。手が届く距離に来ると、2人はどちらからともなく抱き締め合った。
「久し振り…」
「うんっ」
変わらない妹の声に涙が出そうになる。ローラはそれをなんとか堪えると、改めてキャリーと向き合った。
「宮殿のお仕事は順調?」
「あー、…うん」
曖昧な返事が引っ掛かる。ローラは「何か、あった?」と窺ったが、キャリーは慌てて首を振った。
「ううん!順調だよっ。厨房に入ってお仕事してるんだけど、物凄い広さなの。お友達もできたよ」
「よかった…」
ローラは安堵しつつ次の質問を口にしかけたが、思い直して言った。
「色々聞きたいけど、とりあえず結婚式だもんね。着替えないといけないし…。続きはまた夜にゆっくりとね」
「あ、それがね…」
キャリーは悲しそうに眉を下げる。
「実は一日しかお休みもらえなかったの。だから今日、式が終わったらそのまま帰らないといけない…」
「…泊まっていけないの?」
ローラの問い掛けにキャリーがこくりと頷く。
「…そっか…。忙しいのね…」
落胆を顔に出さないよう、ローラは必死で笑顔を張り付けてそう言った。今日キャリーが帰ってきたら食べさせようと色々買ったものが、どうやら無駄になってしまうらしい。けれども本当の休みはまだ先なのだし、きっと無理を言って戻ってきたのだ。それは仕方が無い。
自分に言い聞かせながら、ローラは地面に降ろされていたキャリーの荷物を手にして言った。
「とりあえず一旦家に戻ろう?結婚式の支度しないとね」
その後、他所行きの服に着替えた2人は王都の教会へと向かった。
結婚式が執り行われるのは王都の名所でもある教会だった。
歴史と伝統を感じさせるその壮麗な建造物を、ローラは今まで遠くから眺めたことしかない。
それを改めて目の前にして、ローラとキャリーは2人して茫然と佇んでいた。
「すごいねぇ…」
「そうね…」
圧倒されて、他に言葉が出てこない。教会自身の造形もさることながら、壁に彫られた彫刻のひとつひとつが格調高い芸術作品のようだ。
まるでおとぎ話の世界に入り込んだような気分で、ローラは感嘆の吐息を洩らした。
「入りましょう」
今日は堂々とここへ入っていいのだ。そう思うと気持ちが浮き立つ。
ローラとキャリーは招待状を手に、受付けらしき場所へと向かった。
「うわぁ、広い!!」
入り口から一歩足を踏み入れ、キャリーは歓声を上げた。ローラも後に続きながら頬を紅潮させる。
真っ直ぐ祭壇へと繋がる赤い絨毯、両側に連なる飾り付けられた長椅子、そして最奥にはやはり彫刻が施された縦に長い窓。それが吹き抜けの天井近くまで届き、色硝子から降り注ぐ陽光がその下にある祭壇を神々しいまでに輝かせていた。
足が竦んだ様子で、キャリーはローラの腕に縋る。
「姉さん、どうしようっ。場違いだよっ」
「そ、そんなことないわよ。招待してもらったんだから…」
「どこに座るの??」
「どこって…」
2人はおろおろと辺りを見廻した。教会の中ではすでに招待客らしき人々がぽつりぽつりと腰掛けている。
自分達の席は何処だろう。とりあえず、後ろの方だろうか。そんなことを考えていると、不意にキャリーが声を上げた。
「――あ、ルイとパティ!」
キャリーの目が懐かしい黒髪とブラウンの巻き毛を発見する。名前を呼ばれた2人は揃って振り返った。キャリーの姿を認めて手を振ってくれる。
「よかった!知ってる人いたよ!」
キャリーは安堵しながらそう言うと、姉の背中を押してルイ達のもとへと急いだ。
やがて教会にはどんどん人が集まり、席はみるみるうちに埋まっていった。
リンの招待客はほとんどが学校関係で、キャリーは久し振りの友人と話が盛り上がっている。
アーロンの招待客と思われる人達は恐らく彼が現在所属しているローランド近衛騎士隊の騎士なのだろう。どこか近寄りがたい気品を感じるのは、彼等が貴族だと思うせいだろうか。仲間内で、楽しそうに談笑していた。
中央に敷かれた絨毯の向こう側に未知の世界が広がっている。ローラは落ち着かない気分で、彼らを盗み見ていた。
その目がふと最前列の空席に気付いて留まる。そこは恐らく親族席で――。
突然、近衛騎士隊側の席が水を打ったように静かになった。訝しく思いながらローラは彼等の視線の先を追う。そこには今まさに教会に入ってきたばかりの女性の姿があった。
教会に広がる奇妙な静寂に、ローラは思わず固唾を呑んだ。それが女性の存在のもたらすものであることは明らかだった。
長い黒髪を綺麗に結い上げたその女性は、肩を出した膝丈のドレスを纏っていた。
ドレスは髪と同じ漆黒だが、生地に宝石が散りばめられているように表面が輝きを放っている。
魅惑的な体を包むドレスの裾を微かに揺らし、彼女はゆっくり堂々と歩みを進めた。目を引く豊かな胸元は、やはり眩しく輝く宝石で飾られている。
彼女の動きに、騎士達が腰を上げかけたのが分かった。その瞬間、女性は片手をすっと上げてそれを制する。それだけで、騎士達は凍り付いたように動きをとめた。
女性は印象的な紫色の瞳を細めて優雅に微笑むと、人差し指をその形のいい唇の前にそっと立てた。
騎士達はそれで全てを了承したようだった。
静かにまた座りなおし、全員黙って前を向く。
先ほどまでの空気は一変し、誰も口を開かない。
女性は再び歩みを進め、やがてローラの隣を通り過ぎて行った。
白い肌、美しい背中が遠ざかる。シンプルな黒いドレス。それでも隠し切れないほど、彼女は光を纏って見えた。
彼女が最前列席に腰を掛けるのを、ローラはただ凍りついたように見詰めていた。
心臓の鼓動が、内側から体を叩く。
固く握り締めた手は堪え切れず震える。
ローラは逃げるように、その目を固く閉じた。
”俺には、どうしても忘れられない人が居る”
頭の中には、忘れかけていたキースの声が苛むように甦った。
分かっていたこと。覚悟していたこと。
今日ここに来れば、彼の選んだ人と顔を合わせることになる。何度も何度もそれを自分に言い聞かせ、心の準備は出来ていたはずだった。
それなのに、いざとなると息もできないほどに苦しい。
静まり返った教会の中に、ローラの鼓動だけが鳴り響く。
宝石なんてひとつも持っていない。
せめて見劣りしないようにと高い生地を買って、自分で作ったドレスを握りしめる。涙だけは、零してしまわないように。
知っている。自分がどれ程高価に着飾っても、あんなに華やかにはならない。
ただそこに立っただけで、誰もが目をとめるほど…。
―――あんな人と、張り合っていたなんて…。
自分自身が滑稽だった。
どれだけ追いかけても、届かなかったのは当たり前だ。
もっと早く彼女を知っていれば、あんなに苦しむ前に終わりに出来たのに――。
「間もなく、式を執り行います」
誰かの声が、目を閉じたローラの耳に届いた。
教会には、アーロンが先に入ってきた。
いつもと雰囲気の違う真っ白な衣装を身に纏っている。その生地には銀色の刺繍が施されており、とても上等そうに見える。近衛隊の騎士達がにやにやしながら見送る中、照れ隠しなのか足早に祭壇に向かう。そこで神父の指示を受け、入口を振り返った。
ローラはそんなアーロンの姿をただぼんやりと眺めていた。
「なんかお金持ちっぽい」
キャリーが小声で囁く。ローラはその言葉に苦い笑みを洩らした。
「当たり前でしょ?もう貴族なんだから…」
上級兵士として出会ったアーロンは、いつしか騎士になっていた。
かつては自分達と同じように王都の集合住宅に住んでいたが、今は国王から与えられた領土に建つ大きな屋敷に住んでいる。
今日は式の後、その家でお食事会が開かれるとのことだ。
同じ苦労を分かち合えていた人。
今はもう、こんなにも遠い――。
アーロンが見守る中、やがて再び教会の重厚な扉が開かれた。
外の眩しい光を背負い、青年が1人、足を踏み入れる。その姿が目に入った瞬間、ローラは再び心臓を握りつぶされるような苦しさを覚えた。
自分の中のどうしても消せない面影が、それに重なった。
黒の礼服は彼のすらりとした長身に似合っていて、気品すら感じさせる。キースは入口を振り返り、すっと手を差し延べた。その先に、少女が姿を現す。真っ白な光に包まれながら。
純白のドレスの裾を揺らし、リンはすっと一歩進み出た。その顔は艶めくベールに覆われている。金色の長い髪は綺麗に結い上げられ、やはり真っ白な花々で飾られていた。
リンはその手を差し延べられた掌にそっと乗せた。
手を取り合った2人は見詰め合い、小さく言葉を交わす。キースの顔に穏やかな微笑みが広がった。
再び涙が突き上げる衝動を堪えながら、ローラは固く手を握り締めた。
リンの体が完全に教会に入ると、キースは手を離し、かわりに腕を差し出した。白いベールの下でリンが嬉しそうに微笑む。そしてその腕にそっと自分の手を添えた。
2人は祭壇へ向かって歩き始めた。
腕を組んだ2人が、ローラの視界にゆっくりと近づいて、やがてすぐ隣を通り過ぎる。
近衛隊の騎士達が驚きの眼差しでリンを見ている。彼等は恐らく今日初めてアーロンの花嫁と対面したのだろう。
間近で見たリンの顔に、もう微塵も幼さは残っていない。
ただ眩しいほどに美しい、1人の女性だった。
誰の目も惹きつけずにはいられないほどの――。
初めて会った時、リンは12歳だった。キャリーと同じ歳だと聞いて、友達になってもらいに行ったのだった。あの時すでに、彼女は際立って愛らしい少女だった。
アーロンの妹だと、そう聞かされていた。
実際2人の間には兄妹愛しか存在せず、だからこそアーロンはほんの一時でも自分を恋人としたのだろう。
自分の身勝手な想いで終った関係だったが、もしあのまま続いていたとしても、きっと今目の前にある未来は変わっていない。
初めから、自分の存在の方が間違いだったのだ。
どうしてこんなにも、苦しい想いばかりが押し寄せるのだろう。
息が止まりそうなほど鳴り響く鼓動に、堪えきれずに涙が押し出される。ローラは慌てて顔を伏せた。
キャリーが隣で涙を拭いているのが分かる。
けれどもそれは自分とは全く違う、純粋で綺麗な涙だと思った。
こんなにも美しい教会で、神の前で、自分勝手な涙を流す。こんな自分に神様はうんざりして、もう見放してしまったのかもしれない――。
◆
式が滞りなく終了し、若い2人は神の前で夫婦となった。
全員で外に出て、陽光の下、招待客達はかわるがわる新郎新婦に声をかける。
人に囲まれっぱなしのアーロンとリンを、ローラはただぼんやりと遠巻きに眺めていた。
キャリーは友達と連れ立って、声をかける順番を待っている。
幸せな空気に満ち溢れたその場は、ローラの目にひどく遠く映っていた。
何気なく視線を巡らすと、遅れて教会からキースが姿を現した。その隣には、先ほど見た黒髪の女性が寄り添うように立っていた。
キースが彼女の耳に唇を寄せる。
何かを囁かれた彼女が、頷きで応じる。
2人は見詰め合い、また言葉を交わすと、どちらからともなく軽く唇を合わせた。
まるで劇場で芝居でも見ているかのように他人事な思いで、ローラはそれを眺めていた。女性がキースのもとを離れる。
彼女が歩いていく先に、待機していたのだろう騎士達が姿を現す。彼らに護衛されながら、女性はその場を去っていった。
その姿を見送り、キースはふと視線を巡らせた。
その青い瞳がローラを見つけて止まる。軽く眉を上げると、穏やかに微笑んだ。
「久し振りだね」
ローラの傍に自ら歩み寄り、キースはそう言った。
キースが目の前に居るのに、そして自分に声をかけているのに、ローラはそれが現実味のない遠い世界の出来事のように思えて少しも動揺しなかった。
「…ご無沙汰しています」
「元気?」
「…はい」
淡々と応える。何かが麻痺してしまったのか、不思議なほど平静だった。
「奥様は、帰られたんですか…?」
信じられない言葉が出てくる。自分から、わざわざ彼の妻の話題を出している。キースは彼女の去った後を見遣りつつ、「あぁ」と答えた。
「自分が居ると、騎士達が緊張するからってね。先に王城に戻ったよ」
彼の妻となった人が王族の姫であるということはキャリーから聞いていた。俄かに信じがたかったが、真実だったらしい。けれども改めて驚きも湧かず、ローラはただ「そうですか」と呟いた。
「この後アーロンの家で食事会が開かれるらしいけど、きみは行くの?」
ローラはふるふると首を振った。もうキャリーは帰ってしまう。自分1人で、行く気にはならなかった。
「…そう」
そう言って、キースはアーロン達を振り返る。2人はまだ、人々の輪の中に居た。
「あっちへ行かないの?」
綺麗な青い瞳が自分を見ている。もうきっとこれで最後だと思いながら、その目をぼんやり見返した。
「私は、後で…」
「…そうか」
キースは再びアーロンの方に目を向けた。
「それじゃ、俺は先に」
「はい」
ローラが頷くと、キースは「それじゃ」と背を向けた。
「――キース様」
去りかけたキースが足を止めて振り返る。
「…お幸せに」
小さく漏れた声は、掠れても震えてもいなかった。ただ流れるように口から零れ出した。
キースは改めてローラに向き直る。
「ローラ」
そしてまた優しく微笑んだ。
「――きみもね…」
結局アーロン達に声をかけることはできなかった。
ローラは興奮気味のキャリーと一度家に戻り、着替えをした。そして再び朝に居た港へ向かう。
「リン綺麗だった!すっごい綺麗だった!!アーロンも、ちょっとかっこよかったね!」
「…うん」
次に戻る時はちゃんと連休のお休みに。そう約束して、キャリーは慌しくまた海の向こうへと消えて行った。
1人家に戻ったローラは、日の射さない玄関で靴を脱いだ。
そしてゆっくり居間へと入る。
先ほどまでキャリーが居た気配だけを残し、部屋はまた静けさを取り戻していた。
ローラは立ち尽くし、しばらくただそんな部屋を眺めていた。
その景色が、徐々に揺れながら霞んでいく。
頬に伝う涙が、次から次へと床へ落ちていく。
狭くて古いその部屋はまるで自分自身を映しているようで、あまりにも似合って見えた。
親友が幸せになった日。
黒い想いに潰されそうな自分が居る。
美しい心を持った彼は狭い部屋から羽ばたいて、愛を得て眩しい光の中に飛んでいってしまった。
醜い心を持った自分はきっと永遠にこの場所で、届かない世界を夢見るだけの日々。
それでも夢を見ていた毎日は、まだ今より幸せだった。
”ローラ、きみもね…”
―――神様…。
目を閉じて、ローラはその場にゆっくりと膝を付いた。俯くその顔には、絶え間なく涙が伝う。
―――このまま変わらないなら、どうして…。
―――どうしてせめてキャリーだけでも、私に残してくれなかったのですか…?
冷たい部屋に、ローラの嗚咽が響いた。
絞り出すように、声を限りに泣きながら、ローラはいつしか床に崩れ伏していた。
もう二度と、起き上がれないかもしれないと思いながら――。