権力への挑戦
オリビエが居ないことで日々の悩みの種が消え、ローラは平穏な日々を送っていた。
仕事を終えると暗い街並みを歩いて家に帰る。そして暗い部屋に入る。
ランプに明かりを灯すと、朝と変わらない部屋の景色が照らし出された。
「夕食…つくろっかな」
誰もいないせいか独り言が多くなった。
なんとなく台所に立って野菜を手にしてみるが、食べたい物が浮かばずにぼんやりとする。そして結局今日も料理は始まらず、野菜は籠に戻された。
その代わりに果物を取り出し、軽く洗ってそのままかじる。それを手にしたまま台所を出ると、ローラは居間へと向かった。
長椅子に腰掛け、果物を黙々と食べる。そんな自分に、ふと苦笑が洩れた。
食卓以外で物を食べることを、ローラはキャリーに厳しく禁じていた。けれども今、自分がそれをやっている。キャリーが居たことで、自分の生活も自ずと規則的になっていたようだ。
キャリーが巣立ったらやりたいことは沢山あったはずが、今は何がしたかったのか思い出すこともできない。
部屋には暫く、ただローラが果物をかじる音だけが響いていた。
ある日の午後、寄宿舎の庭でローラはデイジーと伴に兵士達の洗濯物を干していた。
大量の洗濯物が次々と干し縄に吊るされて行く。暖かい風が、それを優しく揺らしていた。
「終わりましたぁ」
デイジーが空になった大きな籠を手に、ローラの側にやってくる。
「あ、じゃぁ次の持ってきて」
「はぁーい」
デイジーは寄宿舎へと戻りかけ、ふと足を止めた。その視線の先をローラも何気なく追う。1人の侍女らしき女性が、じっとこちらを窺っていた。
長い金色の髪が風に揺れている。大人びた雰囲気のすらりとした美人だった。
木箱を両手で抱えているところを見ると、届け物だろうか。ローラと目が合った瞬間、彼女は視線を逸らして歩き出し、寄宿舎の方へと去って行った。
「きゃぁ~、怖い怖いっ」
その背中を見送りつつ、デイジーは自分の体を抱いて大袈裟に騒ぐ。言葉とは裏腹に、顔は実に楽しげだ。ローラは不思議そうに「知ってる人?」と返した。
「めちゃめちゃ見てましたよー。興味津々なんですねぇ~」
「見てたって…誰を?」
「ローラさんをですよぉっ」
「…は?」
意味が分からない。デイジーはうきうきとした様子で、ローラに衝撃の事実を伝えた。
「知らないんですか?あの人昔、オリビエさんと付き合ってたんですよー」
「――えええぇぇぇぇ!!!!」
ローラの素っ頓狂な声に、デイジーは目を丸くした。あまりに信じ難く、ローラはふるふると首を振る。
「嘘、嘘、嘘っ…」
「え??」
「有り得ない、有り得ないっ…」
「有り得ないって!!――ローラさん、ひどい!」
ローラの反応に、デイジーは手を叩いて笑った。
腹を抱えて笑うデイジーを前に、ローラは呆然としていた。――恋人がいたのか。あの人に。
一度一緒に出かけただけだが、どう考えても彼が女性の相手に慣れているようには思えなかった。むしろあまりの無頓着ぶりに、腹が立ったほどだった。
けれども世の中にはそれを許せる心の広い人も居るということだろうか。きっと彼女もあの調子で追い掛け回されたに違いない。奇妙な仲間意識が芽生え、見知らぬ女性に同情する。その上彼女はちゃんとお付き合いまでしたというのだから…。
ローラは思わず既に姿の見えない侍女に尊敬の眼差しを向けた。
「すごい…」
「何がすごいんですか?」
デイジーが笑いながら問いかけてくる。
「……別に」
ローラは話を終わらすべく作業に戻った。デイジーはくすくす笑いながら改めて「いってきまーす」と籠を手に去って行く。
1人になり、ローラはふっと肩を下ろした。
――あのオリビエにも恋人と呼べる女性が居た。
ローラは思わず自嘲的な笑みを浮かべる。
それに引き換え、自分はどうだろう。気がつけば、そんな相手は今までに1人も居ない。あえて言うならアーロンがそうだが、お互い家族を護っていたせいで恋人らしいことは何一つしていない。
それにあんな短い期間では、恐らく彼の心にも自分が恋人だった記憶は残っていないだろう。
もうすぐ、結婚するんだし――。
それを思うと、祝福の気持ち以外におかしなもやもやが胸に湧く。その感情の正体が分からない。アーロンに対しての未練や恋心など、あるはずもないのに。
ローラは気持ちを切り替えるように大きく深呼吸すると、再び洗濯物を干す作業に戻った。
その夜、ローラはまた果物とパンという簡単な夕食をとり、早々にベッドに入った。
眠気はこないが、目を閉じる。そうすると、いつしか眠れるものだ。
そしてどれだけの時間が経っただろうか。
漸くうとうととし始めた時、突然家の鍵に誰かが鍵を差し込む音が聞こえてきた。
遠のきかけていた意識が瞬時に引き戻される。
ローラはびくんと体を震わせ、息を呑んだ。
誰かが部屋を開けようとしている。その事実に血の気が引く。ローラの家の鍵を持っている人物など、キャリー以外に居ない。
差し込んだ鍵は当然廻らないようで、何度かガチャガチャと鳴らした後、ドアの向こうの人物は苛立ったようにドアを叩き始めた。
暗い部屋に、ドンドンという乱暴な音が鳴り響く。
「うぉ~い、あけろよぉ~!!」
聞き覚えの無い男の声だった。ローラの体は恐怖に竦む。心臓が警鐘のように、胸を内側から叩いた。
「うぉ~い!」
ローラは頭まで毛布に潜り、耳を塞いだ。固く目を閉じるも、容赦なくドアは叩かれ続けた。
責め立てるようなその音は、その後しばらく続いていた。
◆
王都からの応援が加わり、兵士達はまたカルデアの復興作業に出て行った。
兵士達が居なくなった駐屯地でもキャリー達が一息つく時間は無い。何故か1人残っているライアードにあれこれ指示を出され、仕事は絶え間無く続いた。
さすがにレイシーもアニーやキャリーの仕事を手伝う余裕はなく、3人とも黙々と自分の作業をこなしていく。
そして時間はあっという間に過ぎ、また日暮れ時が訪れた。
夕食時、昨夜のようにまたライアードが食堂に姿を見せた。中央に進み、兵士達に向き直る。その顔を見るだけで疲れが増す気がして、キャリーは配膳を理由に顔を背けていた。
兵士達もライアードに注目する様子は無かった。
食事を前に手を付けられず、机に突っ伏す兵士の姿も見える。非常事態とはいえ、ほとんど寝ずの作業だ。疲れが溜まっているのはその姿だけでも明らかだった。
「えー、諸君」
ライアードは昨夜と同じ調子で口を開いた。
「応援が入ったが、報告によると思ったほど作業効率が上がっていない。一刻も早い復興が求められている。カルデア住民のために全力で取り組むように」
力強い声が食堂に響き渡る。言い知れぬ怒りが湧いて、キャリーはきつく唇を噛んだ。
まるで兵士達が手を抜いているかのような言い方が許せなかった。
できることなら、耳を塞ぎたい。
せめて無視をしようと、忙しく手を動かす。ライアードは反応の無い食堂の空気を気に留める様子もなく、言葉を続けた。
「夕食後仮眠をとり、再び作業場へ戻ること。各兵隊長の指示に従ってくれ。諸君の頑張りに期待する。――以上」
昨夜も聞いたような言葉で話は締められた。
言いたいことを言い終わった様子で、ライアードは立ち去ろうと踵を返した。
「――すみません」
低いよく通る声が響き、ライアードは足を止めた。兵士達が声の方に注目する。キャリーも思わず動きを止めた。
視線の先で立ち上がったのは、王都から来た上級兵士オリビエ・マーキンソンだった。
「…なにかね」
ライアードは面倒臭そうにそう応えた。
「作業の進め方について、ご意見申し上げたいことがあります」
ライアードが眉を顰める。オリビエは彼の了承は得ず、言葉を続けた。
「本日作業に当たった人員が増えたにも関わらず予定の成果を上げられなかった原因は、カルデア兵士の体力が極端に低下していることにあります。ご存知ないかも知れませんが兵士も休養を必要とする人間であり、あなたの道具ではありません。我々は彼等が充分な休養を取れるようにと派遣されているはずです。夜の作業は交代制にするなどの配慮をお願いいたします」
食堂の空気が一気に張り詰めたのが分かった。キャリーも身を硬くし、息を呑む。
ライアードの細い目がさらに細められ、先ほどまで無表情だったその顔が歪んでいく。
「…口の利き方に気をつけたまえ」
怒りを抑えた声で、ライアードは唸るように言った。
「…充分気をつけているつもりですが」
オリビエが無表情で応える。
キャリーは思わずレイシーとアニーに目を向けた。レイシーは蒼くなって固まっている。アニーは目を丸くして、事の成り行きを見守っていた。
ライアードは暫く黙ってオリビエを睨みつけていたが、やがてその目をカルデアの兵士達に向けた。
「諸君。王都の上級兵士がこう言っているが、カルデアの復興より自身の休養を優先したいという者は居るか?!」
ライアードの威嚇するような物言いに、兵士達が緊張する。手を挙げられる者は無く、ただお互いに顔を見合わせるだけだった。
ライアードは満足したように笑みを漏らすと、再びオリビエに向き直った。
「…この通りだ。皆、カルデアのために尽力することに異存はない」
「なるほど」
オリビエは嘲笑を浮かべて言った。
「カルデア駐屯地では完璧な独裁政治が成り立っているようで。あなたの一言で彼等の評価も運命も決まる仕組みですか?」
挑発的な言葉に、ライアードの顔は再び険しくなる。
「…王都の兵士には不心得者が居るようだ。報告の必要があるな。名前を聞いておこう」
睨みすえて言った言葉には明らかな脅しが含まれていた。キャリーはまるでそれが自分に向けられたかのように、血の気が引くのを感じた。
暑くもないのに、こめかみから汗が伝い落ちる。
そんなキャリーとは裏腹に、オリビエは極めて涼しい顔で応じた。
「上級兵士、オリビエ・マーキンソンです」
「――よく分かった!さっさと作業に戻れ!」
不意に「すみませーん!!」という少女の声が食堂に響いた。キャリーはびくんと震えながら、その声の主に目を向けた。片手を上げた格好で、アニーがそこに立っている。食堂全員の視線が彼女に集中していた。
「ついでに言わせてもらいますけど、侍女の仕事も3人で回すには無理のある量です!私達、昨夜ろくに寝てないし、今日も一日働きづめです!こんな体制で続けられません!」
キャリーは思わず息を呑んだ。
凛と声を張ったアニーには少しも憶する様子が無い。とっさに離れた場所に居るレイシーと目を見合わせたが、彼女もまたキャリーと同じように凍りついていた。
「侍女が生意気な口を利くな!!」
感情を露にし、ライアードが怒鳴り声を上げた。
その目が突然レイシーに移る。レイシーの肩がびくんと跳ねたのが遠目にも分かった。
「…きみも同じ意見かね?」
挑むような調子で問いかけられ、レイシーは慌てて首を横に振った。そして逃げるように目を伏せる。
ライアードの目が、今度はキャリーを捕らえる。その表情にはどこか勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。
「…きみはどうかね?」
背筋に冷たいものが走った。
ライアードの細い目がじっとキャリーを見据える。キャリーの体が、小さく震え始める。
誰もが、キャリーを見ていた。
目を伏せたレイシー以外は。
「…わ、私は…」
必死で絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。
「どうなんだね?3人では無理なのかな?」
ライアードが追い詰めるように問いかける。キャリーはぐっと両手を握り締め、怯える自分を抑え込んだ。
「――無理、です…!」
やっとの思いで、そう言った。
ライアードの顔から笑みが消える。そこには再び怒りの色が広がった。
「まともな侍女は1人しか居らんようだ!」
睨みすえる彼の目に耐え切れず、キャリーは顔を俯ける。ふんと鼻を鳴らし、ライアードは再び歩き出した。
「――どちらへ行かれるのですか?」
去ろうとするライアードに、オリビエが刺すように問いかける。ライアードは足を止めると「仕事だ」と短く吐き捨てた。
「仕事は災害地で行われています」
「私にはここでの仕事がある!!」
「どういった仕事でしょう。カルデアの復興より、優先すべき仕事ですか?兵士達に不眠不休で働かせておきながら、まさかご自身は高いびきということはありませんよね。”カルデアのために”が聞いて呆れます」
憤怒に打ち震え、ライアードの顔はみるみる紅潮する。
「…貴様…」
不意に、オリビエはカルデアの兵士達に目を向けた。
「カルデアの兵士諸君。私は今後カルデアの復興作業に、是非ライアード氏にも立ち会って頂きたいと思うのだが、どうだろうか。上官の指示を直接頂いた方が、皆も励みになるはずだ」
その言葉に、カルデアの上級兵士が1人、すっと立ち上がった。そして「その通りです」と賛同した。
「カルデアのために、力を尽くす覚悟はできています。上官の存在がそこにあれば、なおのこと力が湧きます!どうか、よろしくお願いいたします」
そう言って、彼は深く頭を下げた。後に続くようにカルデアの兵士が立ち上がり、頭を下げる。次々とそれに倣い、やがて全員がライアードに低頭していた。
ライアードはしばらくただ呆然とそれを見ていたが、やがて無言のままオリビエを睨んだ。
彼は薄く笑みを浮かべ「宜しくお願いいたします」と低く呟いた。
ライアードは唇を噛み締め、抑えきれない怒りに小さく体を震わせていた。
夜の集合時間を伝えて、ライアードは怒りを露にしたまま食堂を去った。
結局兵士達の願いを跳ね除けることなどできるはずもなく、ライアードは復興作業に参加することに決まった。
ライアードの去った食堂で改めて夕食が始まる。先程までとは違い、カルデアの兵士達の間でも談笑の声が生まれていた。
キャリーはまだ落ち着かない鼓動を両手で抑えながら、オリビエを見ていた。
彼が腰を下ろすと、ジミーが「おまえねぇ」と苦々しく言う。
「なんでいちいちああいう挑発的な言い方するのかね、全く。無駄に空気悪くしないでくれる?」
「…嫌いなんだよ、ああいうのは」
「いや、分かるけどさ」
オリビエはまた何事も無かったように食事を続ける。
キャリーの目にはその姿が殊更大きく映っていた。
食事を終えて食堂を出る兵士達を、キャリーとアニーとレイシーは並んで見送った。
ふと目の前をオリビエが通り過ぎる。その足が、アニーの前で止まった。
アニーとオリビエは顔を見合わせると、お互いふっと微笑した。
「加勢、有難う」
「どーいたしましてっ」
アニーは元気に応えた。
「実際現場に参加すれば、どうせあの男のことだ、すぐ音を上げる。結局体制を改善せざるを得なくなる。その時にまた改めて侍女に関しても意見してみるから、もう少しだけ辛抱していてくれ」
「…大丈夫なの?」
「何が?」
「そっちが」
アニーはオリビエを指差した。ライアードの脅し文句の件を言っていることは伝わったようで、オリビエは「あぁ、俺か」と笑った。
「心配いらない。王都の俺の上司は、あんな男の言葉を真に受けるほど小物じゃないよ」
初対面とは思えないほど自然に言葉を交わす2人を、キャリーは黙って眺めていた。
不意にオリビエのダークブラウンの瞳が、キャリーに移る。キャリーは思わずびくっと体を強張らせた。
彼の大きな掌が、キャリーの頭にそっと乗せられる。その穏やかな眼差しに、キャリーは何故だか泣きそうになって慌てて目を伏せた。
オリビエの温もりが離れ、やがて足音が遠ざかる。
アニーはそれを見送ると、うーんと伸びをした。そしてキャリーに向き直ると、その肩をぽんっと叩いて言った。
「希望が見えたからやる気でた!仕事するか!」
「…うんっ」
アニーの笑顔に、キャリーは力強く頷いて返した。
アニーが意気揚々と去って行ったその瞬間、キャリーの反対隣に居たレイシーが堰を切ったように泣き出した。
驚いて振り返ると、彼女は顔を覆って泣いていた。
「…レイシー?」
キャリーは戸惑いつつ、その顔を覗き込んだ。
「…嫌われた」
「え?」
聞き返すキャリーに、レイシーが震える声で訴える。
「私…オリビエさんにも、嫌われた…」
「え…そんな…」
「だって言えなかったもん…。私は言えなかった…。オリビエさん私のこと、見てもくれなかった…」
わぁっと泣き出したレイシーに、苦しいほどに胸が痛んだ。キャリーには、分かってしまうから。恐怖のあまり嘘を言ってしまったレイシーの気持ちも、そんな自分を嫌悪する思いも。
キャリー自身もずっと何も言えない子だった。闘うことができない子だったから…。
泣き続けるレイシーを、キャリーはただ抱きしめることしかできなかった。