カルデアの水害
キャリーがカルデアに来た日から始まった大雨は、その後激しく降り続いた。
結果、近年稀に見る豪雨になったという。
けれども小高い丘の上に建つ立派な離宮の生活にその影響はほとんど無く、やや食糧の入荷が遅れているが、備蓄が豊富なので現状は問題無いという程度だった。
働き始めたキャリーは主に厨房を担当するようになった。レイシーとアニーも一緒である。
だが仕事中はただ黙々と作業に徹しているので、特に仲が深まることはなかった。
レイシーと並んで野菜の皮剥きをしながら、キャリーはちらりとレイシーの籠に目を向けた。
レイシーが担当している野菜は自分と同じ量のはずだが、倍の速さで片付けられていく。本当に手際がいい。キャリーだって遅いわけではないはずだが、それを見ると変に焦りを覚えるのだ。
理由はレイシーの行動にあった。
レイシーの自分の担当分が全て下ごしらえを終えると、いつものようにキャリーの籠へと手を延ばした。
「手伝うね」
そう言って野菜を取って行く。キャリーはぎこちない笑みで「ありがとう」と応じた。
レイシーは気にしないでというように首を振って、愛らしい微笑みを返す。
―――今日も1人で終らせられなかった…。
再び手を動かしながら、キャリーは小さく嘆息した。
レイシーがこうして手を貸すのはキャリーに対してだけだった。少し前に同じ事をアニーにした時には、「人の仕事に手を出さないでよ!」と怒られたのだ。
レイシーに悪気は全く無かったはずで、アニーの反応には傷付いたのだろう。それから2人はあまり口をきかなくなった。
自然とキャリーとアニーの距離も、開いてしまっている状態だった。
正直に言えば、キャリーもレイシーの手は借りたくないと思っていた。任された仕事は1人でやり切りたい。けれどもレイシーは厚意でやってくれているのだから、アニーのように断るのは躊躇われた。
キャリーは複雑な想いで自分の籠から連れ去られる野菜を見送ると、また密かに溜息を零した。
◆
ある日、キャリー達3人はクレアからの呼び出しを受けた。その場で初めて、今カルデアが深刻な水害に見舞われていることを知った。
「豪雨のせいで、土砂崩れや洪水の被害が出ているらしいわ。今、カルデア駐屯地の兵士達が対応してくれているのだけれど、苦労されているようなの。彼等から身の回りの世話をする侍女を派遣して欲しいという要請がきたので、あなた達に行ってもらおうと思います」
駐屯地とは王都の本拠地とは別に各地に存在する軍事基地のことである。
カルデアには離宮が存在するため当然駐屯地も備わっている。騎士達は離宮内に生活拠点があり、駐屯地に居るのは兵士の身分の者達だ。
そこでは王都と違い、炊事洗濯も兵士が担っているという。
だが現在その余裕がないので、手の空いている侍女が欲しいと依頼が来た。まだ戦力として数えられていない新人が派遣されるのは、自然な流れといえた。
3人は直ちに荷物をまとめ、離宮を出ることとなった。
荷造りをしながらレイシーは「兵士さんかぁ。ここと違って男の人ばっかりだね」と呟いた。そしてふとこちらを向く。
「…キャリーは恋人居るの?」
唐突な質問にキャリーの返事は一瞬遅れた。
「全然いないよ」
キャリーは苦笑しながらそう答えた。
学生時代、恋が生まれそうになったこともあった。けれども結局特に何もなく今に至っている。残念ながら親友のリンのように、早々と将来の相手を見つけることはできなかったのだ。
「そうなんだ。キャリー凄く可愛いから、きっとモテちゃうね」
「そんなことないよ…!」
お世辞かもしれないのに、褒められると赤くなってしまう。レイシーのような綺麗な子から言われるのは、なおさら恥ずかしかった。
「レイシーは、居るの?」
思い切って聞き返してみると、レイシーはこくりと頷いた。
「…うん。地元に」
「そっかぁ」
にっこり微笑んだレイシーは、一段と可愛らしく見えた。
そんな2人から離れた所で、アニーは黙々と準備を進めていた。
◆
その後、キャリー達はカルデア駐屯地へと向かった。
街に出ると、確かに水害は深刻だった。主要な道路が水没しており、流木が至る所で行く手を塞ぐ。商店街も店を開けられない状態らしく、街は活気を失っていた。
馬車が走れる状態でもなく、馬と徒歩でなんとか向かう。
目的地である駐屯地に到着すると、そこには大きく平たい石造りの建物があった。そこが基地らしく、その後ろに建つ3階建ての建物が、兵士寄宿舎のようだった。
到着した3人は、中年の恰幅のいい男性によって出迎えられた。
グレイの髪には白いものが混じっており、その細い目からは神経質そうな印象を受ける。
「ここの責任者である上級兵士、ライアード・バキスンだ」
キャリー達もそれぞれ名乗ると、彼は早速3人を寄宿舎の炊事場へと案内した。
そこに足を踏み入れ、3人は唖然とした。
「きったねー!」
アニーが少々口汚く、だか的確に部屋の状態を評する。水害の影響もあって、そこは惨憺たる有様だった。
広い厨房の洗い場には汚れたままの食器が山と積まれ、置ききれない汚れ物が作業場をも侵略している。一度浸水したのだろう床は泥混じりに濡れて、生ゴミも至る所に散乱していた。
突っ立ったまま放心する3人に、ライアードは「ここを片付けて食事の支度からだ」と指示をした。
「普段は兵士達が行うんだが、今は人手が足りなくてやってられない。今全員出払ってるが、夜に一旦戻る。それまでに頼む」
ライアードはそれだけ言うと、3人を残して去って行った。
それからはもう必死だった。
掃除に奔走し、料理にとりかかる。口をきく間もないほどに忙しなく動き、なんとか夕食の支度が整ったと同時に、兵士達が戻って来たという報せをうけた。
彼等は質素な食堂に並べられた長机に思い思いに腰を掛ける。その顔には隠しきれない疲労が滲み出ており、誰も口を利こうとしなかった。
不気味な程の静けさの中、キャリー達は彼等のもとへ配膳してまわった。
淡々と盆を置いていくキャリーの耳に、ふと「お疲れ様でした」と労うレイシーの声が聞こえてくる。
彼女は1人1人に笑顔で声を掛けつつ廻っていた。
レイシーに微笑みかけられれば、兵士達は嬉しそうに「ありがとう」と顔を綻ばせる。
流石だなと、キャリーはいたく感心した。
誰かがレイシーの方を窺いながら「可愛いなぁ」と呟いているのが聞こえる。彼女は早くも兵士達の心を掴んでしまったようだった。
一方アニーはただ黙々と配膳している。仏頂面とも思える顔がいかにも彼女らしく、キャリーはこっそり笑みをもらした。
「えー、諸君」
食事を始めた兵士達の前に、不意にライアードが現れた。食堂を見渡せる位置に立ち、部下に向かって声を張る。
「今日はご苦労だった。この後仮眠をとり、再び作業場へ戻る。各兵隊長の指示に従ってくれ。明日からは応援も来ることになっている。一日も早くカルデアをもとの状態に戻そう。諸君等の頑張りに期待する。――以上」
それだけ言って、ライアードはその場を去って行った。彼は別室で食事をとるらしい。
兵士達はゆるゆると匙を動かして食事を進める。味に文句は言われなかったが、皆食欲はあまり無さそうだった。
大勢が集まっているはずの食堂は、しんと静まり返っていた。
◆
翌朝、キャリーは寄宿舎で目を覚ました。
2段ベッドが左右の壁に沿って1つずつ置いてある部屋を3人で使っている。目覚めた瞬間、自分達の部屋のドアが外側から激しく叩かれていることに気付いた。
どうやらこの音で目が覚めたらしい。
下段のベッドを使っていたキャリーは、むっくりと体を起こす。同じように反対側のベッドの下段に居たアニーが顔をしかめつつ起き上がった。
一瞬お互い目を合わせ、なんとなくキャリーが先に動いた。激しく叩かれるドアの鍵を外し、そっと開く。ドアの外に立っていたのは、ライアードだった。
「朝食の準備があるだろう!早く起きなさい!」
開口一番、彼はそう言った。
「…はい」
「のんびり寝られても困るよ。みんな頑張ってるんだ!」
「はい、すみません」
「早くしてくれ!!」
彼はそれだけ言うと、くるりと背をむけ去っていった。元気そうな背中を見送り、キャリーはパタンとドアを閉めた。
「くそおやじ」
アニーが舌打ちとともに吐き捨てる。
「…同感」
思わずキャリーも賛同する。アニーはキャリーの反応に、意外そうに目を丸くした。
「誰…?」
キャリーのベッドの上段から、レイシーが問いかける。
「ライアードさんが起きろって…」
「…そっか。行かなきゃね」
そして彼女も、動き出したようだった。
昨夜、食事の片付けを終えた頃にはすっかり夜も更けていた。
その時間から寄宿舎全体の掃除を頼まれ、さんざんこきつかわれて寝たのは深夜になっていた。ついさっき寝た気がするのに、たたき起こされる。そしてまた大量の食事の支度が始まるらしい。
キャリーはうんざりした気分で、着替えを開始した。
3人で厨房に向かっている途中、寄宿舎の入口で話し声がして、キャリーはふと足を止めた。
そこではライアードと向き合う形で男の人が2人立っていた。2人とも深緑色の軍服を纏った軍人のようだった。1人は黒髪で中肉中背、もう1人は体格のいいダークブラウンの短髪の男性だった。
ふとライアードがキャリー達に気付いて「あぁ、きみたち!」と呼び止めた。
「朝食に100人追加だ。よろしく頼むよ」
反応出来ないキャリーとアニーの後ろで、レイシーが「はい!」と元気良く応えた。
どうやら昨日ライアードが話していた応援部隊が到着したらしく、寄宿舎は俄かに活気付いていた。
食堂にも元気のいい話し声が響く。昨日見た兵士達とはうって変わり、彼等はとても賑やかだった。まだ仕事はこれからなのだろう。
キャリー達が配膳にかかると、若い兵士達がすかさず手伝いに来てくれた。器にスープを盛ると、率先して運んでくれる。その気遣いはとても有難かった。
その時、食堂に2人の男性が入ってきた。
先ほどライアードと話をしていた人たちだと、直ぐに気付く。兵士達よりは年長者だろうか。制服の色が違うところを見ると、上級兵士なのだろうと思えた。
2人が話をしながらキャリー達の前を通過する。
ふと黒髪の方の男性がこちらに気付くと、キャリー達のもとへやって来た。
「お疲れ様」
男はにっこりと人懐っこい笑みを浮かべて言った。
「お疲れ様です」
「王都から災害派遣の応援に来たんだ。今日から人が増えて悪いけど、よろしく頼むよ。俺は兵隊長のジミー・カーネル。それから…」
ジミーはふと隣に目を向けたが、もう1人の兵士の姿はすでに無かった。その姿を探して後ろを振り返り、苦笑する。ダークブラウンの短髪の男性は、すでに兵士達と席についていた。
「あっちはオリビエ・マーキンソン。同じく兵隊長だよ。悪いね、挨拶もなしで。無愛想なヤツなんだよ」
笑いながらそういう彼は、とても愛想がいい。キャリーもつられて笑顔になった。
「キャリー・ワイルダーです」
「レイシー・サンティスです!」
キャリーに次いで、レイシーも名乗った。ジミーの目がキャリーの隣の少女へ移る。
「兵士様達が気持ちよくお仕事できるように、精一杯お世話させて頂きます。災害で苦しんでいる方々のために、どうか頑張ってください!」
レイシーの言葉に、ジミーは嬉しそうに微笑んだ。
「有難う。とても心強いよ」
食事中、キャリーは水を入れたポットを手に各テーブルを周っていた。
空いているコップを手に取り水を注いでいると、ふと視線を感じて目を上げた。キャリーの向かい側に座っている上級兵士が、食事の手を止め、じっとキャリーを見ていた。
確かそれは先ほどジミーに紹介された、オリビエ・マーキンソンという名前の上級兵士だった。
凝視されている理由が分からず、キャリーは戸惑いながら彼を見返す。それで我に返ったのか、オリビエは「あぁ、失礼」と謝った。
「いえ…」
キャリーはそう応えて、またコップに目を戻す。2人のやりとりに、キャリーの傍に座っていた兵士が振り返った。彼にまでじっと観察され、キャリーは居心地の悪さを感じながらコップをテーブルに戻した。
「あぁ、確かに似てる…」
兵士が納得した様子で呟く。キャリーは目を瞬いて彼を見返した。
「え…」
オリビエは兵士の言葉に苦笑する。
「”確かに”って何だよ」
「やだなぁ、そう思って見てたんでしょ?隊長が女の子に興味持つ理由、他に考えられないじゃないですか!」
「うるさい、黙って食ってろ!」
兵士は楽しそうに笑い声を上げた。恐らくは上司と部下の関係なのだろうが、気安い間柄のようだ。彼等の言葉の意味にふと思い至り、キャリーは「あのぉ…」と口を挟んだ。
「もしかして姉のこと言ってます?私、ローラ・ワイルダーの妹なんですけど」
王都から来た兵士達ということで、ローラのことは当然知っているだろうと思えた。それは正解だったようで、2人とも驚いたように目を丸くした。
「妹か!!似てるわけだっ!」
兵士がどこか嬉しそうに声を上げる。そして改めてオリビエに向き直った。
「妹ですってよ、隊長」
「聞こえてるよ」
周りに座っていた兵士達も、一斉にキャリーに注目した。
「妹さん?」
「あぁーほんとだ!似てる似てる!」
皆が口々に騒ぎ始める。ローラが思いのほか有名なことに驚きつつ、キャリーはぺこりと頭を下げた。
「あの…姉がいつもお世話になってます」
「いえいえ、それは俺たちの台詞で!」
「え、ローラの妹さんがなんでここに??」
「何歳ですかー??」
兵士達に次々と声をかけられ、キャリーはたじろぎつつ質問に答える。レイシーもアニーも、驚いた様子でこちらを窺っていた。
そして真っ赤になるキャリーを見ながら、オリビエはその顔に穏やかな微笑みを浮かべていた。