約束
キャリーがいなくなって後、ローラは思っていた以上に張り合いのない毎日を送っていた。
家に帰っても誰も居ない。自分のためだけに食事を作る気にもならず、パンだけで済ませる。いつまでも起きている気にもなれず、早々にベッドに入る。それでも目は冴えてなかなか寝付けない。
たった1人欠けただけで、住み慣れた部屋はひどく冷たく感じた。
そんなある日、ローラは寄宿舎の食堂で仕事をしていた。
昼食前に、長机をひとつひとつ拭いていく。
ぼんやりとして作業していたローラは、食堂にはちらほらと現れ始めた兵士達の姿に気付いていなかった。
ローラを認めたデイジーが「あれっ」と眉を上げつつ近寄る。
「ローラさん、今日は厨房に入らないんだ」
「…え?」
顔を上げたローラに、デイジーは首を傾げて言った。
「逃げるのやめたんですか?」
その問いでハッと我に返る。
振り返ったローラの目には、食堂へ入って来る上級兵士達の姿が映った。
談笑する彼等の中にひときわ大きな男を見付けた瞬間、さっと血の気が引く。
―――大変!!
ローラは慌ててその場を離れた。
いつもはオリビエから逃げるため兵士達の昼休み前には厨房に入っているのに、今日はうっかりしていた。
今から厨房に戻るには彼らの目の前を通る必要があり、すでに手遅れだ。
ローラはとっさに近くにあった棚と棚の間の隙間に身を潜めた。
そんなローラの行動を、デイジーは目を丸くして見ている。
”こっち見ないで”と手振りで示すと、デイジーはその目を食堂の入り口へと向けた。
ローラからは死角になっていて見えないが、誰かに対し、笑顔で手を振っている。
…悪い予感がする。
不意にデイジーに応えて、相手が「お疲れ」と返した。
姿は見えないが、その声は嫌というほど記憶にある。ローラはデイジーに対し、恨みを込めて睨みつけた。何故わざわざローラの苦手な男の気を引くようなことをするのか!
ローラからの圧力をものともせず、デイジーは明るく言った。
「お疲れ様でぇす」
「何してるの、そんなところで突っ立って」
「お仕事、かな?」
「かな、って何。ちゃんと仕事しなさい」
オリビエが笑いながら応えている。その話し方は自分に対するものと随分違う。違和感を覚えつつ、ローラは棚の隙間で小さくなっていた。
「今日はローラさん、探してないんですかぁ?」
デイジーの無邪気な問い掛けに、ローラは目を剥いた。人が必死に隠れてるのに、一体何を言い出すのか。目だけでデイジーに抗議をするも、全く届く様子はない。
ふとオリビエの声が応えて言った。
「この時間は厨房に逃げてるよ。俺が現れるから」
―――え?
オリビエの意外な反応に、ローラは思わず硬直した。
”――もしかして、俺避けられてます?”
”そ、そんなことはっ…”
”…無いですか!それは良かった!”
少し前に交わした会話が甦り、ローラの胸にはふつふつと怒りが湧く。鈍い振りに、見事に騙された。
困っているのを承知の上で、あんな言い方をするなんて卑怯ではないか。
ローラの中ではオリビエに対する減点要素が、またひとつ増えていた。
「どうかなぁ~」
デイジーは一瞬ちらりとローラに目を向けた。ローラはぎくりと身を強張らせる。こっちを見ちゃダメ!と伝える間もなく、デイジーは「それじゃ、私はお仕事に戻りマース」と陽気に去って行った。
その足音が遠ざかる。
置いて行かれたローラは、身動きを取れず途方に暮れた。
僅かに間をおいて、不意に別の足音がこちらに近付いた。
しまったと思った時には遅かった。次の瞬間大きな影が体にかぶり、ローラはびくりと肩を震わせる。とっさに振り仰げば、予想通りの大男が棚の隙間に入り込んだローラを目を丸くして見下ろしていた。
―――デイジーの裏切り者っ!!!
心の中で絶叫するも、後の祭りだった。
何度か目を瞬いたオリビエが、不意にぶっと吹き出す。ローラの頬は紅潮し、同時に怒りも爆発した。
「何ですか!?」
挑むように問いかけると、オリビエは笑いを堪えながら「いや、すみません」と謝った。
「…何してるんですか?こんなところで」
知ってるくせにしれっと問いかけてくる。最早言い訳する気にもならない。
「見れば分かるでしょ!あなたから逃げてるんです!」
「なるほど」
初めてはっきりと口にした本音に、オリビエは応える様子も無くそう言った。動じない瞳が、じっとローラを見下ろしている。
「やっぱり避けてたんじゃないですか」
「そうですよ?!避けてました!分かってましたよね?!」
「はい、分かってました」
平然と答えるオリビエに、ローラの怒りは増幅する。
なんて悪趣味なんだろうと思った。
こっちは傷つけないように気を使って相手していたのに、何にも分かってないフリして追い回すなんて…。
「そこ、どいて下さい」
ローラはオリビエを睨みつけて言い放った。彼が立ちはだかっているせいで、棚の陰から出られない。
だがオリビエは動かなかった。
気まずい沈黙に耐えきれず、ローラは彼の横を通り抜けようと動く。その行く手を塞ぐように、オリビエは片手を棚にかけた。
オリビエの腕が目の前に来た瞬間、ローラは思わず後退した。
背中に壁を感じながら固唾を呑む。
ローラを追い詰めようとするその男に、言い知れぬ恐怖が湧きあがった。
「…どいて、下さい…」
「本音が聞けたところで、教えて欲しいんですが…」
ローラの言葉を無視して、オリビエが口を開いた。
「なぜ、俺を避けるんですか?」
一瞬言葉に詰まる。けれどもここで怯んだら負けだ。ローラは相手の目を真っ直ぐに見返し、はっきりと答えた。
「あなたが嫌いだからです」
こんな言葉は使いたくなかった。
けれども上手く取り繕って逃げようとしても、目の前の男は逃がしてはくれない。諦めて貰うには、そう言う以外に無い。
実際彼に対して嫌悪感を抱いているというのは、嘘ではなかった。
「俺のどこが嫌いなんですか?」
重ねて問われ、ローラは返事に窮した。
―――どこが…。
そこまで言わなければいけないのか。本人が望むのならば、仕方が無いが。
ローラはもう全てどうでもいい気分だった。
「断わってるのに、しつこく追い回すところとか。嫌がってるの分かってるくせに、話しかけてくるところとか。今だって、私が逃げたいの知ってるくせに、そうやって逃げられないようにして…」
「じゃぁ他に、どうすればいいんですか」
ローラの言葉を遮ってオリビエが問いかける。息を呑むローラに、オリビエの声が降る様に投げかけられる。
「逃げられて追わなければ、諦めることになります。俺はあなたに気持ちを伝えましたが、あなたは一度だってそれに対して真剣に向き合ってない。知り合ったばかりで、俺の存在を完全否定じゃないですか。それを素直に受け入れろというんですか?!冗談じゃない!――こっちだって、必死なんだ!」
オリビエの声に、ローラの体がびくんと震えた。
彼が感情的になるのを見たのは、思えば初めてだった。
いつだって飄々として、自分の好きなように動いて、他人のことなど何も考えてなさそうだったのに。
ローラは恐る恐る顔を上げた。その目が自分を見下ろすオリビエと合う。
「…どうして」
ローラは掠れた声で問いかけた。
「どうして、私なんですか…?」
それはローラの心からの疑問だった。
ほとんど接点はなかった。まともに話したのだってこの間が初めてだ。その想いがそれほど真剣だなんて、思ってもみなかった。
オリビエの目はもう落ち着きを取り戻していた。ローラの問いかけに肩を下ろし、ふっと微笑みを浮かべる。
「…そうですね。まずはそれから、聞いてもらえますか?」
ローラはしばらく黙って彼のダークブラウンの瞳を見返していたが、やがて目を伏せると小さく頷いた。
オリビエはそれを確認すると、「有難うございます」と言って、棚にかけていた手をそっと離した。
「…では、今夜食事に…」
そう言いかけ、オリビエは言葉を切ると、苦笑した。
「と、言いたいところなんですが、言えないんです」
「――え??」
ローラは思わず間抜けな声をあげた。オリビエはローラのそんな反応に失笑する。
「実は、地方都市で水害が発生しまして。自分の隊が災害派遣の応援を依頼されてしまったので、今日この後発つんです。しばらく戻ってこれません」
「あ……そうですか」
なにやら拍子抜けという感じだが、やっぱりちょっとホッとしてしまう。
そんなローラの心情は顔に出たようで、オリビエは即座に「今、”良かった”って思いましたね」と言った。
また見抜かれた。
でももう開き直ったので、別に気にしない。
「正直、思いました」
「…前途多難だな」
オリビエが独り言のように呟く。それは聞こえていたが、無視することにした。
「でも、約束はしましたから。今度はもう、逃げないでください」
「…はい」
オリビエの体が脇にどいたので、ローラは棚と棚の隙間からやっと出ることができた。
彼の前を通り過ぎ、ふと振り返る。
オリビエは黙ってローラを見詰めていた。
好きで好きで諦め切れなくて。そんな想いを、ローラも知っている。
気が済むまで追いかけたい。そんな気持ちも知っている。
でもだからこそ分かる。
彼はその想いを自分で断ち切ることはきっとできない。
追いかければ追いかけるほど残るのは、焦げ付くように後をひく痛みだけなのに――。




