幸せへの道
歩いている間に徐々に服は乾いてきたが、みすぼらしさは依然として変わらない。
そんな状態のまま、ローラとオリビエはやがて民家の点在する村へと辿り着いた。
農場や牧場が広がり、働く人々がぽつぽつと見え始める。
風を受けて回る大きな水車に、馬や牛の独特な臭い。のどかな村の風景は、一時王都の喧騒を忘れさせてくれた。
オリビエはすれ違う人達一人一人に、挨拶をしながら進んでいく。
顔が広いのねと感心してしまうと、笑いながら言った。
「小さな村だし、生まれた時から住んでるからね。知り合いばかりだよ」
「へぇ~…、いい所ね」
「そうだろ?」
オリビエが嬉しそうに微笑む。故郷の空気に包まれているせいだろうか、その笑顔はいつもよりいっそう鮮やかに映った。
オリビエの実家は木造の小さな建物だった。
ずいぶん前に建てられたのだろう、何度も修復した痕が見える。庭は広いが、そこに畑は無い。農場は別の場所にあるのだと、オリビエが説明してくれた。井戸の周りには綺麗な花が咲いている。
オリビエは迷い無く木のドアを開けると、家の中へ足を踏み入れた。
「ちょっ…!」
実家とはいえ、まさかノックも無くいきなり入っていくとは思わなかった。どうやら平和な村には施錠の習慣も無いらしい。
ローラは狼狽しながらオリビエの後を追った。
「――あら!!」
「おっ!!」
2人の女性の声とともに、オリビエが立ち止まる。ローラもその背中に顔から突っ込みつつ、足を止めた。
ぶつけた鼻を気にしながら、彼の背中ごしに中を窺う。
入っていきなり、そこは炊事場と食卓が一体となった空間だった。
大きなテーブルがその場所のほとんどを占め、椅子が6つ囲うようにして並んでいる。
声をあげたのは、まさにその炊事場に立って仕事中だったらしい、女性2人だった。
「オリビエじゃない!」
中年の女性が目を丸くしてオリビエの名を呼んだ。
白髪まじりのブラウンヘアを首の後ろで纏めた彼女は、皺のある丸顔に優しげな微笑みを浮かべている。恐らくオリビエの母親だろうと思えた。
その隣に立つのは彼女より若い女性だった。だが、ローラよりは年上に思える。
ひとつに纏めた黒髪に小麦色の肌という健康的な外見に似合う快活な声で「久し振りじゃん!」とオリビエを迎えた。
彼女は一体誰なのだろうかと、ローラは内心で首を傾げた。確かオリビエに女性の兄妹は居なかった気がするが…。
戸惑うローラを他所に、オリビエは彼女に応えて言った。
「カレン、久し振り。突然悪いんだけど、着替え貸してくれない?」
「なによそれ。っていうか、あんた濡れてる?」
オリビエの腕に触りながらカレンと呼ばれた女性が顔をしかめる。
「湖で釣りしてて落ちた」
「はぁ?!バカじゃないの??」
あははと笑う女性の後ろから、母親らしき女性もやってくる。
「何してるの、あなたは」
苦笑しつつそう言って、その目をふとオリビエの背後に向けた。
そこに居るローラとばっちり目が合い、お互いに暫し固まる。こんにちはとぎこちなく挨拶を交わすと、彼女はオリビエに問い掛けた。
「…オリビエ、どちら様?」
来てよかったんだろうかと、今更な不安が湧く。オリビエは特に気負いも無くそれに答えた。
「ローラっていうんだ。俺の、恋人」
「――えぇ!!恋人!?」
カレンが声をあげ、オリビエの背中を覗き込む。そしてローラを認め「わぉ!」と目を丸くした。
「可愛いじゃん!」
「あ、あのっ…」
ローラはオリビエの背中から離れると、改めて背筋を正した。
「ローラ・ワイルダーと申します。宜しくお願いいたします!」
体を二つ折りにして深々と頭を下げる。そんなローラに、カレンは明るく応えた。
「やだそんな畏まらないでーっ!はじめまして。長男ロランの嫁、カレンでっす!なになに、ローラちゃんも一緒に落ちたの??」
謎が解けた。どうやら彼女はお兄さんのお嫁さんらしい。
そういえばオリビエの兄は父親と一緒に農場を世話しているという話だった。きっと一緒に暮らしているのだろう。
「えっと、私が落ちて…。助けてもらいました」
カレンがまた楽しげに笑う。2人のやりとりを聞いていた母親も「まぁ」と一緒に笑った。
「なんか適当な服、出してあげて。着替えたら帰るから」
オリビエの言葉に、母親が即座に反論する。
「なに言ってるの!こんな状態で可哀想に。お風呂用意してあげるから、入っていきなさい」
「いいよ、面倒だから」
「あなたはいいでしょうけど…」
母親は相手を変え、ローラに直接声を掛けた。
「はじめまして、私はエレナ。この子の母親なの。――ね、そうして。体洗っていきなさいな」
優しい微笑みを向けられ、ローラの胸は感激に震える。
こんなに突然、しかもずぶ濡れで現れたのに、こんなに温かく迎えてもらえるなんて…。
「有難うございます…」
とっさに礼を言うと、それを承諾ととったのか、オリビエが振り返った。
「…いいの?風呂に入ったら夕食食べて行けとか言われるよ?」
「なにその言い方っ」
文句を言うカレンの隣で、母親はにっこりと笑う。
「よく分かってるじゃない。お魚もあるようだし。当然、我が家にも分けてくれるんでしょ?服だけもらってさよならなんて言わないわよね?」
オリビエは何も言えず、自分の手に提げた桶に目を落とす。確かにそこには彼が釣った魚達が入っていた。
「…いい?」
オリビエに問われ、ローラは「是非」と力強く応えた。
◆
用意してもらったお風呂場のお湯で体を洗い、髪も洗ってすっきりした上で、ローラは貸してもらえた服に袖を通した。
カレンの服らしく、膝丈のシンプルなワンピースだった。
濡れた髪は一緒に貸してもらった紐で縛って頭の後ろで纏めておく。そして脱いだ服を手に風呂場を出ると、再び食卓へ戻る。
そこでは家事をする2人の女性の傍ら、オリビエが座ってくつろいでいた。
「オリビエ…」
おずおずと声をかけると振り返る。ローラを見て、軽く眉を上げた。
「髪上げてるの、初めて見た」
「――あら、ローラさん」
調理場に向かっていたエレナがローラに気づいて振り返る。
「よかった。着替えぴったりだったわね。じゃ、オリビエ、あなたも行ってらっしゃい」
「うん」
オリビエは立ち上がると「ごめん、すぐ戻るよ」とローラに声をかけた。
「うん、大丈夫…」
オリビエは入れ替わりに風呂場へと向かった。
エレナはローラに「座って休んでいてね」と声を掛け、また調理場に向き直る。ローラは脱いだ着替えを自分の荷物に手早く詰めると、急いで自分もそこへ行った。
「あの、お手伝いします」
「あら、そんな…」
「えー、いいのぉ???」
遠慮しようとしたエレナの横からカレンが口を挟む。ローラはほっとして「やらせてください」とお願いした。とても黙って座っていられる気はしない。
カレンがそんなローラの気持ちを代弁するようにエレナに口添えしてくれる。
「お義母さん、こういう時は働かせてあげるのが優しさなんですよっ。気使わないですむんだから」
「そう?なんだか悪いわね~」
カレンの口添えで仲間に入れてもらえ、ローラはほっとしつつ食事の支度を手伝った。隣で野菜の皮を剥くローラに、エレナがふふっと微笑みかける。
「上手ねー。あの子の仕事場で、侍女のお仕事されてるんですってね」
「そうなんです」
どうやらローラが風呂を使っている間にオリビエから色々と聞いたらしい。自分のことを彼は、どんな風に話したのだろう。
「オリビエが女の子連れてくるのって、初めてですよねっ」
カレンがエレナに問いかける。
「そうなのよ。マメじゃないからかしらね、全然女の子の話聞いた事なかったし…。いい歳していつまでも独り身だから、ちょっと心配してたのよ」
意外な話に、ローラは目を丸くした。
物凄く簡単に連れて来られたから、この調子で過去に他の恋人たちも来ていたのかもしれないと思っていたのに。
初めてなのだと知っただけで、嬉しくて堪らなくなる。
「驚きましたよねー。ローラちゃん、うちの弟よろしくねっ」
カレンの言葉にローラはにっこりと笑って「はい」と応えた。
「可愛い~!やるな、あいつ!」
そんなカレンの反応はなんだか男前で、ローラは思わず吹き出した。
「なんとか結婚まで辿り着いて欲しいなぁ~。嫁仲間になれるといいんだけどっ」
カレンが独り言のように呟く。”嫁仲間”という言葉に反応して、ローラはぽっと顔を赤らめた。そんな風に言ってもらえるのは素直に嬉しかった。
「カレンったら」
エレナが苦笑する。
「あの子に怒られるわよ。まだお付き合いして間もないんだから、”結婚”なんて言うなって言ってたじゃない」
「そうですけどぉ~」
ローラの胸がズキンと痛みを覚える。浮いていた気持ちが、すとんと落ちるのを感じた。
”結婚なんて言うな”
そう言っていたのか。彼は。
結婚なんてどうでもいいと思ったばかりのはずなのに、改めて彼がそれを考えていないと知らされると悲しくなってしまう欲張りな自分が居る。実際、恋人になってまだ間もないのだから、その言葉は当然なのに。
「お付き合いしてくれるだけでも嬉しいわ。私の自慢の息子達だもの」
エレナの何気ない呟きが優しくローラの胸に落ちる。ローラは思わず彼女に向かって言った。
「オリビエさんは、本当に素敵な方です。私には本当に、勿体無いくらいです」
つい真剣に訴えた言葉に、エレナは少し気恥しげに、でもとても嬉しそうに微笑んだ。
「…有難う」
胸が熱くなって、何故だか涙が出そうになる。隣でカレンがすかさず身を乗り出し、ローラの発言に乗っかった。
「私もそう思ってますよー!ロラン、いいヤツ!」
「はいはい」
「ほんとに、ほんとに!」
必死なカレンにエレナが吹き出し、ローラもつられて笑ってしまう。
初めてとは思えないほど、そこは居心地のいい空間だった。
風呂場から戻ったオリビエは、炊事場で仕事に参加しているローラを見付けて眉を上げた。
ローラも気付き、振り返る。
「あ、おかえりなさい」
「ただいま…。もしかして働かされてる?」
「まぁ人聞きの悪いっ」
エレナがすかさず反論した。
「手伝ってくれていたのよ。あなたと違って、よく気のつくお嬢さんだから」
「どうもすみません」
痛いところを突かれ、オリビエが苦笑する。再び食卓につこうと椅子に手をかけたところで、エレナの制止が入った。
「オリビエ、父さんとロラン呼びに行ってちょうだい」
「いいよ」
オリビエは快諾すると、椅子から手を離した。エレナはローラの方を向くと「ローラさんも一緒に行って、2人に顔見せしてきて」と提案してくれた。
「そうだね。おいで、ローラ」
オリビエは賛同してローラを手招きする。
「あ、は、はいっ」
ローラは慌てて手を拭くと「じゃぁ、行ってきます!」と軽く頭を下げてオリビエの後について行った。
◆
「…緊張してる?」
少し離れた場所にあるという農場へ向かいながら、オリビエはそう問いかけた。
傾きかけた日が、残りわずかな光で大地を照らす。遮る物のない景色が広がる中、暁色に染まる砂利道を並んで歩いた。
「物凄く…してる」
「ごめん。結局面倒臭いことになった」
申し訳なさそうなオリビエに、ローラは慌てて首を振った。
「ううん。面倒臭いなんて思ってないわ!」
「そう?」
「うん、楽しいもの。お母さんもお姉さんも、とっても温かい人達で…」
ローラの言葉に、オリビエは嬉しそうに微笑む。その表情に、エレナの面影が重なった。
―――あ…やっぱり似てる。
親子なんだと、しみじみ思う。
エレナの言葉を聞いていると、彼女がどれだけ子供を愛して育てたか、よく分かる。そしてそれを溢れんばかりに受けて育った彼が、今度はその愛を惜しみなくローラに分け与えてくれている。
きっと彼は自分に子供ができたら、同じように愛して育てるのだろう。
彼の作る家庭は、愛で満たされるのだろう。
隣を歩くオリビエの顔や髪が夕日を受けて赤く染まる。その姿がやけに眩しくて、なんだか遠く見えて、切なくなる。
どうしてそんな気持ちになるのか分からないまま、ローラは足元の砂利に目を落とした。
◆
農場では男性2人が大きな鍬を引いた馬をそれぞれ歩かせながら、畑を耕していた。見渡す限りの広い農場では、一部で作物も育っている。むせ返るような土の香りの中、オリビエは彼らに向かって歩いていった。
ローラも一歩後を付いて行く。
自分達が辿り着く前に、2人の方がこちらに気付いて馬を止めた。
若い方の男性が、オリビエに駆け寄る。
長い黒髪を後ろで縛った彼は、オリビエより一回り小さいがやはり体格がいい。その顔には人懐っこい笑みが広がっていた。
「よぉっ!」
「久し振り」
兄弟が簡単に挨拶を交わす。
ロランと思われる男性は「久し振りだな。どした?」と問いかけつつローラに目を向けた。
近くで見ると、その顔はオリビエよりもはっきりとエレナに似ていた。
「あれっ」
「ローラっていうんだ。俺の恋人」
「へぇーーー!!!」
ロランは目を見張って大袈裟な声を上げる。ローラはぺこりと頭を下げ、「ローラ・ワイルダーです。宜しくお願いします」と挨拶した。
「どうもどうも、兄のロランです」
ロランも軽く頭を下げ、オリビエの肩を叩く。
「おい、うちのと取り替えろ」
「…カレンに伝えておくよ」
軽口を交わし、ロランは豪快に笑う。そして後ろを振り返ると、彼等の父親に呼び掛けた。
「おーい!親父ー!!」
構わず仕事を続けていた男性がまた馬を止めてこちらを見遣る。ロランは大きく手を振りつつ叫んだ。
「オリビエが恋人連れてきたーー!」
父親はその言葉に遠くで頷いたようだった。そしてまた仕事を再開する。どうやらわざわざこちらに来る気はないらしい。
そんな父親の態度に、ロランはやれやれと肩を竦めた。
「ごめんな、ローラ。愛想ないけど、あれで喜んでるから」
ローラは思わず吹き出した。どっかの誰かさんによく似てる。
「母さんに呼んで来いって言われたんだ。仕事引き上げて戻って来いよ」
「お前等もメシ食ってくの?」
「うん」
「なら上がるわ。すぐ行くから待ってな」
「よろしく」
オリビエはそう言うと兄と別れ、またもと来た道を歩き出した。ローラも再度頭を下げ、それに続く。
「後でねー」
後ろから聞こえるロランの声に、ローラは振り返って「はい!」と応えた。
2人でまた家への道を歩きつつ、ローラは「明るくて感じのいい人ね」と会ったばかりのお兄さんの印象を語った。
「うん。カレンとしゃべってると、うるさいくらいだ」
「オリビエは、お父さん似かな…」
「よく言われる」
オリビエの言葉に、ローラはふふっと笑った。
「昔は…よく喧嘩したよ」
「お父さんと?」
「うん。親父も俺も石頭でね。意見がぶつかると、どっちも譲らないからさ。…でもまぁ今思うと、俺が半人前だったな」
「そうなの…?」
「そう、思う」
オリビエは足を止めると、ふと遠くに目を向けた。木の柵に囲まれた土地には農場が広がり、ロラン達と同じように、働く人達が見える。
「……今は、親父の考えに共感できる部分が多い」
ローラは黙ってオリビエの話を聞いていた。彼はふと言葉を切ると、木の柵に近寄った。そこに腰を掛けて遠くを眺める。
夕日が穏やかに彼を包んでいた。
「うちの持っている農場、昔はもっと小さかったんだ。家族6人、生活するのにいっぱいいっぱいだった。親父の建てた小さな家にぎゅぅぎゅぅ詰めで。…学校にはもっと裕福な家の子供も居たし、貧乏を笑われたこともある。でも親父はいつも堂々としていて、こっちからすれば、なんで平気なんだって不思議だった。恥ずかしくないのかって思ったよ」
意外な話に、ローラは軽く目を見開いた。そんな劣等感を抱くオリビエを、とても想像できない。
今の彼からは――。
「親父はいつも言ってたよ。金や地位に跪くな、そんな物で人の価値を測るなと。例え裕福でも心が貧しければ軽蔑しろ。地位が高くても器が小さければ従うなと。…なんというか…、当時は負け惜しみのようにしか聞こえなかったけど…」
オリビエはふっと自嘲的な笑みを零す。彼は今心の奥で、過去の自分と対面しているのだろう。ローラはそんな彼を、ただ黙って見詰めていた。
暖かい風が、2人の間を優しく吹き抜ける。
「今はよく分かる。親父の言いたかったことが。親父は貧しい農民だったけど、心は誇り高い貴族だった」
ローラの胸が締め付けられるように苦しくなった。すぐ側に居るはずのオリビエがまた遠く感じる。その理由が、今なら分かる。
ローラの目には彼自身も、誇り高い貴族のように見えるから。
その眩しさに惹かれて、憧れて――でも、とても遠い…。
彼の姿がローラに、忘れていた大事なことを教えてくれる。
自分は彼の想いに応えてここに居るわけではない。1人の男性としての彼に、強く惹かれたから。ちゃんと自分の意志で、彼を選んだのだ。
それなのに。望まれたいと願うばかりで、待つばかりで、そんな自分では彼に届かない。
きっと、永遠に――。
「オリビエ…」
ローラの声に、どこか遠くを見ていたオリビエの目がふと戻る。
その目を真っ直ぐに見つめながら、ローラは両手をぎゅっと胸の前で握った。
「…私、夢があるの」
震えそうな声を必死で絞り出す。
オリビエはただ黙ってローラの話を聞いてくれる。
今は誰よりも、愛しい人――。
「将来、沢山の子供を産んで、うるさいくらいの家族に囲まれて暮らしたいの。その子達に料理を作ったり、服を作ったりして、皆でご飯を食べたり、眠ったりするの。…そんな普通の家庭を作りたいの」
ローラは言葉を切ると、深呼吸した。
高鳴る鼓動を両手で押さえながら、オリビエを見る。
勇気を振り絞り、一番大事な一言を続けた。
「…あ、あなたと…作りたいの!」
オリビエが驚きに目を見張る。
その目に困惑の色が浮かぶのが怖くて、ローラは目を伏せると弁解するように付け足した。
「今すぐになんて言わない。いつでもいいの。私はもうあなたしか考えられないから。いつまでも待てるから…。だから…」
心臓が胸を破って飛び出しそうだ。
それでも湧き上がる不安を無理やり押し込め、ローラは腹を括った。
「わ、私と…。結婚してください…!!!」
吐き出した声は震えていた。
けれどもその声は充分に大きく、のどかな景色に響き渡る。
ローラが口を閉ざすと静寂が戻り、また穏やかな風が頬を撫でた。
それを感じながら、ローラは恐る恐る視線を上げた。
その目が自分を見つめるオリビエと出会う。
彼はローラと目が合うと、その顔にゆっくり微笑みを浮かべ、招くように片手を差し出した。
涙で揺れる景色の中、ローラはその手に誘われるように彼の傍に歩いた。
差し出された掌に自分の手を乗せると、すっぽりと包み込まれ、引き寄せられる。
そしてローラの瞳を真っ直ぐ見詰めながら、彼は囁くように返事をくれた。
「…喜んで」
溢れる想いを堪えきれず、ローラはオリビエの首に抱きついた。彼の腕が自分を強く抱き返してくれる。
”喜んで”
この上無いその答えは、ローラの胸を激しく揺さぶって、もう涙を止めることも出来なかった。
「ほんとに…いいの?」
震える声で問いかける。ローラの耳元でオリビエが笑いを含んだ声で返す。
「どうして断るなんて思うのか、そっちの方が分からない」
そしてまた強くローラを抱き締めてくれる。
「…有難うローラ。嬉しいよ。こんな日が来るなんて、夢みたいだ…」
「…ほんとに?」
「本当だよ」
「でも…」
ローラは涙に濡れた顔を上げ、オリビエを振り仰いだ。
「今まで一度だってそんな話出てなかったし、今日だって、結婚の話はするなって…お母さんに言ったんでしょ?あなたはまだ結婚まで、考えてないんだと思って…」
ローラの言葉にオリビエが苦笑する。
「ローラ、忘れてるのかもしれないけど、俺はきみに”嫌い”とまで言われた男だよ?」
ローラは思わず目を丸くした。
かつて確かにそんなことを言った自分が甦る。――今となっては、信じられない。
ローラはふるふると首を振った。
「嫌いじゃないわ。大好きよ…」
ローラの言葉に、オリビエはぷっと吹き出した。何故笑われるのか分からず、ローラは思わず顔をしかめる。
「…なに?」
「いや、気付いてないかもしれないけど、その言葉も今初めて聞いた」
ローラは驚きのあまり、思わず「嘘よ」と言い返した。
「嘘じゃないよ」
「嘘よ、ちゃんと伝えたもの…!言葉は…違ったかもしれないけど…」
「…伝わってなかったわけじゃないけど…」
オリビエは言いながら複雑な笑みを浮かべる。
「きみの気持ちが俺と同じところに届いているなんて…、思ってもみなかったんだよ」
止まっていた涙が、またぶり返してくる。どうしてこんなに泣き虫なんだろう。自分で自分が嫌になってしまう。
でも仕方が無い。
幸せなんだから。
「…もう追い越してると思うわ」
「それは無いよ」
2人は見つめあい、ごく自然に唇を重ねあった。
赤い夕日が祝うように輝いて、未来を誓い合った2人を優しく包んでくれる。
”――好きです”
遠い昔の記憶がローラの胸に優しく甦った。
”悪いけど、きみに興味ない”
”知ってます。それでも好きです!――覚えておいてください!”
穏やかな幸せを捨て、叶わない恋に手を延ばしたあの日、意地も誇りも捨てて懸命に追いかけ、ただあの人を想ってた日々。
全てを失くしたと思った時は、何もかもが無駄だったのだと思った。
どんなに頑張っても、幸せは自分の手に入らないのだと思った。
でも違った。
だって、あの日、あの時、あの瞬間から、運命は今日の未来へと繋がっていたのだから。
あなたが私を、見つけてくれたから。
ちゃんと道は、幸せへと続いていた。
それが自分に見えていなかっただけで。
―――キース様…。
伝えたら、どんな言葉をくれるだろう。
―――ローラはまた、恋に落ちました。
唇を離した2人はまた見つめあった。
ローラが小さく囁く。
「キャリーに…。私の妹に会ってくれる?もうすぐ長期休暇で戻ってくるから…」
「…もちろん」
オリビエはそう応えて、ふっと微笑んだ。
「でもその前に、俺の家族と夕食を食べにいかない?」
途端現状を思い出し、ローラは目を丸くする。
「…そうだったわ」
2人は同時に吹き出した。
そして再び手を取り合うと、小さな家への道のりを並んで歩いて行った。




