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嫉妬と後悔

 悶々しながら久し振りに眠れない夜を過ごし、翌日ローラは寝不足の状態でまた仕事場に居た。

 自分を苛む感情の正体は分かっていた。ただの醜い嫉妬――。

 過去なんてどうしようもないのに、そんなものにまで拘ってしまう器の小さい自分を持て余す。

 たった1ヶ月の間に、オリビエは思っていた以上に深くローラの中に棲み付いていたのだと思い知らされた。



 昼の休憩時間、ローラは寄宿舎に来たオリビエとたまたま廊下で出くわした。

 オリビエの目がローラを見付け、柔らかく微笑みを形作る。それを見たら、弱っていたローラの胸はまた、泣きたいほどに苦しくなった。

 会いたかったはずなのに、彼の姿を見るのも辛い。

 そんな矛盾した思いを抱えるローラに、オリビエは「お疲れ」と優しく声を掛けてくれた。

 見慣れたダークブラウンの瞳を見上げながら、ローラはなんとか笑顔を返す。


「…お疲れ様」

「今日は遅番?」

「ううん」

「じゃぁローラの方が先だ。後から行くよ」

「…うん」


 言葉少なに応えるローラの様子がいつもと違うことに気付き、オリビエはふと「どうかした?」と問い掛けた。

 ローラは慌てて首を振る。

 

「ううん…!少し疲れが溜っちゃって」


 ――本当のことなんて、とても言えない。

 いつもだったら、何かあった時には真っ先に報告していた。彼はローラが嬉しいと思うことは一緒に喜んでくれるし、嫌なことは一緒に怒ってくれる。

 でも今日は何も言えない。

 こんな話に共感なんて、して貰えるはずがない。


「…今日はやめておこうか?」


 オリビエは気遣わしげにそう訊いた。

 ローラはまた、ふるふると首を振る。


「大丈夫。家に帰れば元気になるわ」

「…そう?」

「うん」


 オリビエがまた優しく微笑む。そして別れの言葉を交わすと、食堂へと入って行った。

 その背中を、ローラは暫く縋るように見詰めていた。


 ◆


 いつものように買い物を終えて家に帰ったローラは、直ぐに炊事場に入った。

 いつもオリビエが来る前に、料理の下ごしらえは終えてしまうのだ。今日も野菜を並べ、ナイフと伴にひとつ手に取る。

 だが皮を剥こうとしたその手は、ふと止まった。


 ”私、家政婦みたいだったもの”


 昨日のシンシアの言葉が、突然甦る。

 気付けば、自分も彼女とまるで同じことをしているではないか。

 頼まれもしないのに、何も出来ない彼の身の回りの世話を細々とやいて――。

 今まで一度も疑問に思わなかったその行為に、急に嫌悪感が湧いてくる。

 ローラは暫く野菜を手に立ち尽くしていたが、不意にそれを籠に戻すと、炊事場を出て行った。



 鍵の開く音で、ローラは長椅子から立ち上がった。手持ち無沙汰で無理に読んでいた本をテーブルに置くと、玄関に迎えに出る。

 靴を脱いだオリビエが、そんなローラに「ただいま」と言った。


「おかえりなさい」


 自分の家ではないが、いつからか自然にそんな挨拶を交わすようになっている。

 オリビエは居間へと向かいかけたが、立ちはだかるローラに行く手を阻まれて足を止めた。

 動かないローラに、不思議そうに「どうした?」と問いかける。


「…ご飯、作ってないの」


 オリビエが軽く眉を上げる。だが昼間の会話を思い出したのだろう、ふと「具合が悪い?」と訊いた。

 ローラは目を伏せ、首を横に振る。


「作りたくない気分なの」


 そんな気紛れを口にしたのは初めてだった。

 オリビエにとっては意味が分からないだろう。それでも理由は追及せず、代替案を出す。

 

「……じゃぁ、外に食いに行く?」

「酒場は行きたくない」


 硬い声で、ローラはそう返した。また少し沈黙が流れる。オリビエはやや訝しげに問い返した。


「…じゃぁ、何処に行く?」

「ちゃんとしたところに連れて行って」


 オリビエを振り仰いで、ローラはそう訴えた。唐突な依頼に、オリビエは目を丸くしている。

 いつもと違うローラの態度に、明らかに戸惑ってるのが伝わってくる。

 それでも、止められなかった。

 昔の恋人と同じになんて、して欲しくなかった。


「どうした?」


 訝るオリビエに、ローラは「どうもしないっ!」と首を振った。


「たまにはお願い聞いてくれたっていいじゃない!もっとお洒落で上品なところ、連れて行って!」


 オリビエは一瞬きょとんとしたが、直後ぷっと吹き出した。


「…なによっ」

「いや、悪い。そういう場所には、全く興味がない」

「興味が無いって…」


 ローラは思わず眉を顰める。苛立ちを抑えきれず、力を込めて言い返した。


「私は行きたいの!」

「本当に?」


 冷静に問いかけられ、ローラは「本当よ!」とムキになる。


「料理するの、苦痛だった?」

「…え?」

「俺が来るから仕方なくメシ作ってた?」


 そんな風に聞かれたら、答えられない。ローラは返事に窮して目を泳がせた。

 嫌々だったことなんて一度も無い。

 でも今日だけは、我侭を聞いて欲しいのに。

 そして胸に湧きあがる得体の知れない不安を、取り除いて欲しいのに――。

 ローラは肩を落とし、溜息を零した。


「…もういいわ」


 本当はどこかで分かっていた。

 彼は我儘を言ってみたところで、闇雲に宥めてくれるような人ではない。相手がローラであっても、それは変わらない。

 そう改めて、確認しただけに終ってしまった。


「オリビエにとって私って、結局その程度なのよね…」


 どうにもならない思いを投げつけるようにそう言って、ローラはオリビエに背を向けた。

 その腕を、不意に掴んで引き留められる。

 次の瞬間、痛いほどの力で引き戻され、ローラの体は乱暴に壁に押し当てられていた。

 背中を打つ痛みに、息が止まる。

 とっさに振り仰いだローラを、目の前に立ったオリビエが見下ろしていた。

 冷たく色を変えたその瞳に、心臓が竦む。


「…よく言えるな、そんな事」


 それは以前、頬を打たれた時と同じ目だった。

 ――怒らせた。そう自覚した瞬間湧き上がった激しい後悔は、もうあまりにも遅すぎた。


「あ…」

「”その程度”ってどの程度だよ」

「違う…だって…」

「どの程度だと思ってるのか、言ってみろよ!!」


 オリビエの拳がドンッと背後の壁を鳴らし、ローラはビクリと体を震わせた。

 自分が殴られたかのように胸が痛み、暴れる心臓が混乱を煽る。

 ローラはただ夢中で頭を振った。


「違う…違うの…ごめんなさい…」


 自分が悪いということは嫌というほど分かっていた。

 彼に対する言葉が、単なる八つ当たりであったことも…。

 弁解したいのに、頭は真っ白になって、とても言葉が出て来ない。


「…何が違う?」


 答えられず、ローラはただ同じ言葉を繰り返すことしか出来なかった。


「……ごめんなさい…」

 

 重い沈黙が流れる中、ローラは俯いたまま、ただ凍りついたように立ち尽くしていた。

 オリビエはその場を動こうとはしなかった。

 ふと、彼の口から小さな呟きが零れる。


「…俺に、何を求めてるんだよ…」


 再び口を開いたオリビエの声には、どこか疲れたような響きがあって、ローラの胸には得体の知れない焦燥が湧く。


「……ただの、友達なんだろ…?」


 次いで洩れた自虐的な呟きに、ローラはハッと顔を上げた。ダークブラウンの瞳は、ただ静かにローラを映していた。

 ローラは反射的に首を横に振っていた。


「違う…!」


 オリビエはどこか苦しげに眉根を寄せる。


「……違う?」

「違うわ…!」


 それだけ言うのが精一杯だった。オリビエの目には明らかな困惑が滲む。


「じゃぁ……きみは俺を、男として見てるのか?」


 核心を突かれ、ローラは息を呑んだ。男として――その意味が、重く圧し掛かる。


 ”寝てないんですか?オリビエさんと”


 デイジーの問いが甦れば、怖気づく思いが否応なしに顔をもたげる。

 頷くのが怖かった。でも否定することも出来ない。

 うろたえながら、ローラはやっとのことで答えを口にした。


「わ…分からな…」

「――分からない?」

 

 ローラの言葉を引き取って後を継ぎ、オリビエはクッと笑みを零す。それが嘲笑に聞こえて、ローラの体は硬く強張った。

 オリビエの手が、ふとローラの顎に掛かる。

 上向かされたローラは自然とオリビエと見詰め合う形になり、その真摯な瞳に捕えられた。


「…試してみる?」


 小さく囁いた彼の言葉を理解する前に、オリビエの顔が近付いた。そして唇が触れ合う。

 口付けられても、ローラは目を見開いたまま固まっていた。

 少しの間重なり合った唇は、やがてそっと離れる。

 オリビエは呆然とするローラを見て、痛みを堪えるような顔になった。


「…嫌?」


 囁くような問いかけに、ローラはとっさに首を横に振った。


 次の瞬間、再び強く唇を押しあてられていた。

 ローラは固く目を閉じる。

 2度目の口付けは、直ぐには終わらなかった。


 ローラの唇を割り入って、オリビエの舌が入って来る。彼の腕はローラ肩に廻り、強く抱き寄せる。その力の強さに、ローラの中には戸惑いが膨れ上がった。

 そんな彼は初めてで、どうしていいか分からなくて、震える手がオリビエのシャツを握る。何かに縋ることで、湧き上がる恐怖を抑え込もうとするように。


―――嫌じゃない…怖くなんかない…。


 繰り返し、言い聞かせるように唱える。

 やがて彼の大きな手が、ローラのブラウスをたくし上げ、裾から中に潜り込んだ。

 肌に触れる熱に、ビクンと勝手に体が震えた。


「っ…――待って…!」


 唇が離れた一瞬、ローラは声を上げていた。

 無意識のうちにオリビエの胸を押し、彼を遠ざける。

 あれ程硬くローラを抱き締めていた手は、その瞬間、あっけない程に容易くローラから離れた。

 立っていられず、ローラは壁を頼りに、ずるずるとその場に座り込んだ。


「…待って…」


 オリビエの足を見詰めながら再びそう呟く。視界が、滲んだ涙で霞んだ。

 2人の間にはまた、重い沈黙が流れた。


「……帰るよ」


 ぽつりと呟いたオリビエの声に、ローラはハッとしたように彼を振り仰いだ。だが彼はもうローラに背を向け、靴を履いていた。


「待って…」


 力無く呼び止める。

 けれども彼は振り返ることなく、ドアの向こうへ消えた。


 再び閉ざされる無機質な木の音を聞きながら、ローラはただ放心していた。

 溢れた涙が、頬を伝い落ちる。

 ローラはよろける足で立ち上がり、裸足のまま玄関に降りた。


「…待っ、て…」


 もう届かない言葉が口から洩れる。ローラは力なくドアに触れ、そこに額をつけた。


「…嫌…行かないで…」


 愚かな自分を、ただ嫌悪した。猛烈な後悔に苛まれる。

 どうして逃げてしまったんだろう。何が怖いというのだろう。

 怖いことなんてあるはずがない。


 あの人を失うこと以上に、怖いことなんて――。

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