2人の夜
ローランド王城に、静かに雨が降り注ぐ。
その優しい雨音を遠く聞きながら、ローラは今日も淡々と仕事をこなしていた。
床拭き用の掃除具の長い柄を押して廊下を歩く。一往復したら先に付いた雑巾を取り外してバケツに入れ、汚れをすすいで固く絞る。そして再び掃除具に付けると、また廊下を歩き出す。
それを繰り返すローラの頭の中は、真っ白だった。
単調な作業が心地いい。
仕事にのめり込んでいると、余計なことを考えずに済むから。
最近ローラは無理に仕事を見つけては、遅くまで働いていた。家に帰ったら直ぐに、泥のように眠りたいから。
「ローラ!」
不意に名前を呼ばれて、ローラは現実に引き戻された。
声の主は上級兵隊長バッシュだった。上級兵士を統括する彼は、今日も鍛え抜かれた巨体に似合うスキンヘッドを艶めかせて歩いてきた。
その威圧感は出会った当初ローラをかなり萎縮させたが、長年の付き合いで今は彼が気の優しい人物であることを知っている。
ローラは彼に向き直ると「はい」と応じた。
「ちょっと買ってきて欲しいものがあるんだ。これに書いてある」
バッシュは紙を一枚に財布を添えてローラに差し出した。ローラはそれを受け取って確認する。
「頼んだぞ」
「はい」
「どうした?」
「え?」
ふと目を上げると、バッシュがローラの顔を窺っている。
「元気ないぞ」
「あ…いえ、大丈夫です。少し寝不足なだけで…」
「買い物行って来い。眠気覚ましに丁度いいだろ」
「はい」
笑顔を作って頷くと、バッシュもニッと笑んで「じゃぁな」と踵を返す。ふとこちらにやってくる男の姿を見つけ、「おっ」と足を止めた。
ダークブラウンの短髪に深緑色の軍服、背の高い上級兵士がバッシュを認めて歩み寄る。隊長の前で踵を合わせると、すっと敬礼した。
「失礼します、隊長。只今戻りました」
「おぉオリビエ、久し振りだな。お疲れさん!」
バッシュは彼の肩を力強く叩いた。
「無事復興の目途が立ったようだな。あっちからも報告書が届いたぞ。お前またなんかしただろ」
からかうような隊長の言葉に、オリビエは苦笑を滲ませる。
「すみません、色々ありまして。それも含めて、詳細はまた改めて報告させて頂きます」
「そうだな。とりあえず今日は休め。隊員達は訓練場か?」
「はい。解散を指示してもよろしいですか?」
「いい、俺が行く」
バッシュはそう言って、先に寄宿舎を出て行った。それを見送ったオリビエは、ふとその目をローラへと向ける。
ローラはぼんやりと突っ立ったまま、目の前の兵士と対面した。
―――忘れてた…。
それが正直なところだった。だが以前の悩みの種である男を目の前にしても、特に焦りは生まれない。静かに見返すローラに、オリビエは穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「…お久し振りです」
「…お疲れ様です」
型通りな挨拶を返す。
オリビエはローラの顔を見てふと表情を変えると「どうしましたか?」と訊いた。
「…え?」
「ちゃんと食べてます?」
思いがけず気遣われ、ローラは一瞬固まった。自分の生活を覗かれたような居心地の悪い気分になって、思わず目を逸らす。実際、最近あまりまともに食事をしていなかった。…お陰様で、少し痩せた。
「別に…どうもしませんよ?」
「……そうですか」
オリビエはローラに軽く頭を下げると「それでは、失礼します」と背を向けた。
「――いいんですか?」
不意に問い掛けたローラの声で、彼の足が止まる。振り返ったオリビエに、ローラは無表情のまま訊いた。
「もう、私のことなんてどうでもいいんですか?」
オリビエの目に驚きの色が浮かんだ。
何を言っているのだろうかと自分でも思う。たった今までオリビエのことを忘れ去っていたのはローラの方だ。彼が同じであったとしても、文句を言われる筋合いなど無いだろう。
それでも投げかけた問いを仕舞う気も起きず、ローラはただじっとオリビエを見ていた。
オリビエはゆっくりローラに向き直って言った。
「どうでもいいわけないです」
「でも今日は食事に誘わないんですね」
畳み掛けるようなローラの言葉に、オリビエが珍しく戸惑いを見せる。
ローラはそんな彼の目を、ただ黙って見返していた。
◆
仕事を終えて着替えると、ローラは更衣室から出て寄宿舎の出口へと向かった。
途中すれ違ったデイジーが「あれ!今日は早いんですね!」と声をかけてくる。ローラは足を止めることなく「うん」とだけ返してその横を通り過ぎた。
寄宿舎を出ると、大きな人影が目に入る。
彼はローラに気付くと、こちらに向き直った。
ローラは彼の傍に行くと、顔を合わせないよう目を伏せたまま「お待たせしました」とだけ言った。
「…いえ」
オリビエは僅かに間を置き「本当に大丈夫ですか?」とまた窺った。
「大丈夫です。行きましょう」
ローラはそう言って先に歩き出した。オリビエも後から付いてくる。
2人は無言のまま城を出た。
間もなく日暮れ前の王都に出ると、オリビエが口を開いた。
「俺の知ってる酒場でいいですか?この前の店は、落ち着かないので」
「――うちに来ませんか?」
オリビエの足がぴたりと止まる。それに合わせて、ローラも止まった。
オリビエの視線を感じながらも、ローラは顔を上げなかった。何も言わない彼に重ねて誘いをかける。
「私、何か作りますから。うちに来ませんか」
「…いいんですか?」
オリビエの問いかけに、即座に「いいですよ」と返す。2人の間には、奇妙な沈黙が流れた。
「…伺います」
やや間を置いて、オリビエの低い声がそう応じた。
◆
「どうぞ」
ローラはそうオリビエに声を掛けると、先に部屋に入って行った。
いつも通りの薄暗い居間を横切り、買ってきた食材を炊事場に置きに行く。そして一旦戻ると、居間のランプに火を灯した。
ローラの後を追い、オリビエも入ってくる。そしてくるりと内を見回した。
「狭いでしょ」
彼の心情を代弁するつもりでローラは自嘲的な呟きを洩らす。
「狭いですか?ここに2人暮らしなら充分でしょう」
「1人です。妹は今、違うところで暮らしているので」
ランプに火が点くと、部屋が橙色に照らし出される。ローラはふとその目を、居間の入口に立つ男に向けた。
部屋に1人じゃない。それだけで、ここに帰るたびに感じていた虚しさが紛れる。
ローラは長椅子を指すと「座って本でも読んでいてください。すぐなので」と言って炊事場へと向かった。
そこにも明かりを灯し、流しに立つ。思えばここを使うのも久し振りだった。
買ってきた野菜や肉を取り出して並べていると、ふと人の気配がした。そちらに目を遣ると、オリビエが入り口に立ってローラを見ていた。
「…何ですか?」
「…いえ、何も」
そう言いつつ、そこを動かない。ローラは手を動かし始めながら、「お手伝いして頂く必要はありませんから」と言った。
「それは…しろと言われてもできません」
「そうなんですか?」
「はい。料理は何一つできないですね。畑の手伝いなら、いくらでもやりましたけど」
「…へぇ…」
どうやら彼の実家は農家らしい。そういえばそんな話は前に聞いたかもしれない。あまり覚えていないが。
「台所は母の城でしたよ。男ばかりの家なので、誰もそこには近寄りませんでした」
「男ばかり?」
「兄弟4人、全員男です。…言いませんでしたっけ?」
「…そういえば、そうでしたね」
無難に応じつつ、その情報もまた記憶に無かった。
男ばかりの家で育ったと聞いて、なんとなく腑に落ちる。女性の応対に慣れていないのは環境のせいらしい。
少しの間、オリビエはただ黙ってそこに立っていた。ローラはその存在を知りながらも、ただ黙々と料理に耽った。
鍋の中で野菜を炒め、水を入れて煮込む。そうしながら肉の下味をつけ、隣の鍋で焼く。
お湯の沸く音、肉の焼ける香り、それらが懐かしく五感を刺激する。
「…どうしました?」
不意にオリビエの声が、ローラの意識を引き戻した。
再び彼の口から出たその問い掛けに、ローラは努めて平静に返す。
「何が?」
「…何か、ありましたか?」
…詮索しないで欲しい。
ただここに居てくれれば、それでいいのに。
そんな身勝手な思いを口に出来るはずもなく、首を振って応える。
「別に何も」
「…そうですか」
ローラは棚からお皿を出すと、オリビエの視線を振り切るように言った。
「向こうで待っていてください。もうできますから」
オリビエはふっと息をつくと「はい」と応え、諦めたように背を向けた。
ローラの作った食事を、オリビエは残さず全部食べ切った。
けっこうな量を作ったつもりだったが、あっさりと無くなった。それに釣られ、ローラも久し振りにまともに夕食を摂ることができた。
味に関しては「金取っていいですよ」と最高の賛辞を貰った。
「この前行った俺の知り合いの店、俺の知ってる中じゃ一番美味いんですけど、それに並ぶ腕前ですね」
「…じゃぁお金もらいます」
ローラの冗談に、オリビエは「もちろん払いますよ」と真剣に返した。
「嘘ですよ」
「いや、払います。このために買い物までしてもらったんで」
「いいんです。私も久し振りに料理ができて楽しかったんで」
「…久し振りに?」
「……自分のためだけに、作る気になれなくて」
テーブルに頬杖をついて空いたお皿を眺めながら、ローラはするとはなしに嘆息した。
「兄弟が4人って、にぎやかですよね…」
「…にぎやかというか、うるさいです」
「そっか…」
ローラは目を閉じ、呟いた。
「いいですね…」
うるさいほど賑やかな家というものを想像すると、自然と遠い昔に暫く過ごした孤児院が思い出される。恋しいかと言われると、そうではないが。
「私は、10歳の時に孤児になって。それから妹とずっと2人きりだったから…」
ふとローラは言葉を止めた。何を話しているのだろうと、突然我に返る。
自分の境遇に、同情されたいわけでもないのに。
「…片付けます」
ローラは立ちあがると、汚れた食器を手早く集めて炊事場へと戻って行った。
片付けを終えて居間に戻ると、オリビエは長椅子で本を読んでいた。
ローラの姿を認めてそれを閉じた彼に「どうぞ読んでいてください」と言ってお茶を出す。
「…すみません。頂きます」
ローラはオリビエがお茶を飲みながら本を読む間、同じ長椅子の少し離れた場所に腰掛け、裁縫を始めた。仕事以外で針を持ったのも久し振りだ。
オリビエがローラの作業を見守りつつ、ふと問い掛ける。
「仕事ですか?」
「…いえ。趣味です」
「凄いですね」
「買うより作るほうが安いので。服は全部自分で作るんです。…単純に楽しいっていうのもありますけど」
「俺の母親もよく作ってました。裕福とは言えない家庭でしたからね。たぶん、同じ理由で」
「…へぇ…」
そんな話も今初めて聞いた気がする。
初めて食事をした日には、一体何を話したのだろうか。
「そういえば、俺の制服も破けちゃったんで、明日、直してもらえますか?」
「…いいですよ」
手元に目を落としたまま応じるローラの横顔を見ながら、オリビエは柔らかく微笑した。
「…さて」
オリビエは不意にそう呟くと、持っていた本を閉じた。
ローラはその動きに彼を振り返る。オリビエはお茶の入った器と本を目の前のテーブルに置き、すっと立ち上がった。
ローラはそんな彼の動きを追うように、振り仰いだ。
「すっかりのんびりさせてもらいました。そろそろ戻ります。城には門限があるので」
「あ…」
「ごちそうさまでした」
ローラは手に持っていた裁縫道具を傍らに置くと、椅子から腰を上げた。オリビエが自分の荷物を手に取って肩に掛ける。それを見守りながら、ローラの中には得体の知れない焦燥が湧き上がった。
「…では、また明日」
「――待って!!」
考えるより先に、引き止めていた。虚を突かれ、オリビエが動きを止める。
ローラは速まる鼓動を抑えるように、胸の前で固く拳を握り締める。次の瞬間、自分でも信じられない言葉が口をついて出た。
「…帰らないと、だめですか…?」
オリビエの目が、驚きに見開かれる。
――1人になりたくない。
頭にある思いは、ただそれだけだった。
「泊まっていっても、いいですよ…」




