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ローラの憂鬱

 ローランド王国の中心地に建つ王城といえば、国の象徴ともいえる建造物だ。

 政治の中心地であり王族の居住地でもあるそこは選ばれた者しか立ち入れない聖域として高い城壁で隔てられ、遠目から見る者達に自ずと畏怖の念を抱かせる。

 男達は権力の最高位に憧れ、少女達は華やかな貴族社会に憧れる。

 そこにはまさに夢の世界が広がっているのだ――と、現在その壁の内側で働くローラもまた思っていた。

 …遠い昔には。

 

「私床拭くんで、ローラさん窓お願いします!」

「はーい」


 ふぅっと肩を落としつつ、ローラは絞った雑巾を広げて畳み直した。

 彼女は王城の敷地内に存在する兵士寄宿舎で働く侍女の1人であり、ここで住む兵士達の為、掃除洗濯、時には料理をするのが役目だった。

 憧れのお城で働くことになったのは13歳の時。胸ときめかせていた少女時代は遠く、22歳になった今は華やかさとは無縁の職場でひどく地味な毎日を送っている。

 

 ローラは一度雑巾を置くと、緩いウェーブのかかった栗色の長い髪を首の後ろできっちりと纏めなおした。

 長い前髪が彼女の形のいい輪郭を縁取り、白い頬にまとわりつく。それをうるさそうに払いのけると、髪と同じ色の大きな瞳を窓硝子に据え、改めてそこに雑巾を走らせ始めた。

 無心に作業をする彼女の後ろで、床掃除をしていた少女がハタと動きを止める。


「そういえば、ローラさんっ!オリビエ・マーキンソンさん、どうでした??」


 問い掛けに、ローラの手はぴたりと動きを止めた。

 顔だけ振り返れば、仕事仲間デイジーの好奇に満ちた目と出会う。彼女は床拭き用掃除具の長い柄に凭れるようにしてローラの顔を窺い見た。


「昨日でしたよね?ご飯食べに行ったの」


 デイジーは大人びた雰囲気を漂わせる外見とは裏腹に、口を開くと実に若さ溢れる17歳の少女である。

 ローラは「うん、まぁ…」と曖昧に応じると、また硝子に向き直った。


「どうでした、どうでした??」

「…楽しかったよ」

「ほんとですかっ!オリビエさん、やった!」


 無難な答えを拡大解釈して、デイジーは歓声を上げる。また手を動かし始めたローラの顔を覗き込むようにして追及した。


「じゃぁ、お付き合いするんですか??」

「そ、そんな急には…」

「あぁそうか!急にはね!じゃぁ、また会うんですか??」

「…どうかなぁ」


 適当に返事をぼかして逃げてみる。そしてデイジーの更なる攻撃を防ぐため「手が止まってるわよ」と注意した。


「はぁ~い」


 デイジーは不満気な様子ながらも、渋々掃除を再開する。

 彼女に見えないところで、ローラはふぅっと疲れた溜息を漏らした。


 ――オリビエ・マーキンソン。

 それは彼女達が世話をするローランド上級兵士の1人であり、現在28歳の男性である。

 初めてその名前を聞いたのは恐らく彼が一般兵士から上級兵士として昇進が決まった直後、上級兵士付きの侍女である自分達に紹介された時だ。

 正確に覚えていないのは紹介されたのが彼だけでなかったことと、彼自身がそれ程ローラの印象に残る外見でなかったためだと思う。その後接点も無かったのか、あったけれどもまた記憶にないのか…。

 再び彼の名前をちゃんと聞いたのは、デイジーの口からだった。


 ”上級兵士で、オリビエ・マーキンソンって人居るの知ってます?”


 そんな前置きの後、驚くようなことを口にした。


 ”ローラさんのこと、好きみたいですよ!”


 最近初めて顔を合わせた上に、ろくに話したこともないような人に好意を寄せられているとは思ってもみなかった。

 デイジーの話によると一般の兵士として働いている時から自分を見ていてくれたらしい。全く気付かなかったけれど、もちろん悪い気はしなかった。

 タイミングも良かったのだろう。

 ローラはその時、長い長い片想いが”決定的な失恋”という形で終った直後だったから。

 デイジーから”紹介してもいいですか”と聞かれ、頷いたのは自分である。

 けれども忙しさに紛れ直ぐに忘れてしまっていた。

 そんなある日、掃除をしていたローラのもとに上級兵士の証である深緑色の制服を着た男が現れた。


「すみません」

「――はい!」


 声を掛けられたことに戸惑いは無かった。

 自分は上級兵士付きの侍女なのだから、仕事の依頼だろうとごく自然に考えた。

 かなり上背のある男性で、ダークブラウンの髪は軍人らしくさっぱりと刈られ、同じ色の一重の目はどちらかといえば細くて小さい。よく日に焼けた顔に、鍛えられているのであろう太い手足。体付きからして、力持ちに違いない。

 こんな人上級兵士の中に居たかなと訝った時、その疑問に答えるように彼が言った。


「仕事中にすみません。自分は先月上級兵士になったオリビエ・マーキンソンです」

「…あ!」


 思わず声を上げてしまった。

 その顔が全く記憶に残っていないのは相変わらずだが、名前ははっきりと覚えている。


 ”ローラさんのこと好きみたいですよ”


 同時に余計なことも思い出し、変な緊張に体が強張った。オリビエは固まるローラをよそに、話を続けた。


「デイジーが紹介すると言ってくれたんですが、自分で来ました。仕事中に、すみません」

「あ、えっと、はい…」


 何と応えればいいのか分からず間抜けな返事を返す。どうも苦手な雰囲気になってしまいそうで、ローラは1人困惑した。

 彼が何をしに来たのかはデイジーの言葉から察することができる。自分が”紹介して”というようなことを言ってしまったことも伝わっているのだろうか。

 本人を前にして、ローラは早速それを後悔していた。


「ちゃんと話をしたいので、できれば一度時間を作ってもらえませんか?ローラさんの都合に合わせます」


 上級兵士という身分のはずが、必要以上に腰が低い。そんな態度を取られる身でもないローラとしては恐縮してしまう。


「あの、私…」


 口籠りつつ、どうやって断ろうかと思案した。

 ちゃんと話をしてもらっても既に自分の答えは決まっている。変に期待をもたせるほうが良くないのではなかろうか。


「明日の夜は、都合いいですか?」


 悩んでいる間に、突然話が具体的になった。


「あ、明日はちょっと…」

「それなら明後日はどうですか?」


―――ちょ、ちょっと待って…。


 何やら追い込まれている気がする。断る隙を与えてくれない。

 真剣な目で自分を見るオリビエを前に、ローラは途方に暮れていた。


 自分の気持ちが前向きにならない理由はなんとなく分かっている。兵士らしく男臭い目の前の彼が、単純に、好みでないから。

 だがそんな自分に呆れる気持ちもある。

 外見だけで人を判断するとは如何なものか。

 まだどこかで吹っ切れていないのだろうか。長い間夢中で恋していたあの人を。もう今は、他の女性と結婚してしまったというのに。

 うっかり思い出してしまうと、まだ胸は痛みを覚える。

 金色の髪に深い青い瞳の、眩しいほどに美しい男性(ひと)だった――。

 

 ローラは甦る面影から逃げるように一瞬目を瞑った。そして意を決したように口を開く。


「明後日、なら…大丈夫です」

「そうですか!有難うございます!」


 オリビエが顔を綻ばせる。ローラもつられるように微笑みながら、改めて自分に言い聞かせた。

 もう忘れなくては。前を向かなくてはいけないのだから。



 そんないきさつで、2人で食事をしたのがつい昨日のことなのだった。

 デイジーの追求を逃れて窓拭きを続けながら、ローラは昨夜のことを思い出していた。

 オリビエを応援しているデイジーに申し訳なくて本当のことは言えないが、彼と出かけることで前向きになることは結局できなかった。

 むしろ結局まだ失った恋を引きずっている情けない自分を思い知っただけだったのだ。



―――

――――――


 待ち合わせは、王都と王城を区切るように流れる川に架かる橋の上にしてもらった。

 城内で落ち合って一緒に城を出れば、人の目に留まる。

 それを避けるための対策だったが、当日の昼デイジーから楽しそうに「ローラさん、聞きましたよぉ!」と言われてしまい、ローラは青くなった。

 デイジーの話によると、オリビエ本人から聞き出したらしい。

 確かに口止めはしていないが、誰にも言わないでおいて欲しかった。デイジーに話したりしたら、すぐに噂になってしまう。

 デイジーには秘密にしてと強くお願いしておいたが、かなり心許ない。

 そんな不安も手伝い、ひどく憂鬱な午後となった。


 ローラが待ち合わせ場所に着くと、そこにはすでにオリビエが待っていた。

 橋の柵にもたれていたようだが、ローラを見つけてこちらへ向き直る。

 ローラは彼の側に辿り着くと、「お待たせしてすみませんでした」と頭を下げた。


「いえ、全然。来てくれて有難うございます」


 オリビエは笑顔でそう言った。

 そんな風にお礼を言われてしまうと困ってしまう。今日彼が自分にしたい話は分かっているし、その返事も決まっている。

 それを考えると、気が重かった。


「何を食べましょうか。何か食べたいものはありますか?」


 希望を聞かれ、ローラは「お任せします」と答えた。本音を言うと食事は省いて、今ここで全て終わらせて欲しいのだけど…。


「俺の好きなとこでいいんですか?」

「はい」

「俺あんまり詳しくなくて…。行きつけが一件あるんですけど、ローラさんの好みに合うかなぁ。まぁ、美味いことは間違いないんで、じゃぁそこにしましょうか」

「はい」


 オリビエの言葉に淡々と答え、2人で歩き出す。

 そうしながら、ローラの頭にはかつてキースと一度だけ2人きりで食事に出かけた日のことが甦る。


 ――キース・クレイド様。

 今でもローラの中で特別な響きを持つ、その名前。

 彼もまた、かつては寄宿舎で暮らす上級兵士だった。

 今は遠い異国の騎士として、立場も距離も完全に手の届かない人になってしまったが…。


 あの日彼に連れて行ってもらったのは、落ち着いた大人の雰囲気漂う、お洒落なお店だった。

 そういえば何処に行きたいかとか何を食べたいかなんて彼は聞かなかった。何も言わずローラを導いてくれた。

 そして上品な雰囲気に圧倒されて戸惑うローラに、彼は色々と教えてくれた。

 聞いたこともない料理を説明してくれて、飲みやすいお酒を勧めてくれた。

 そのお店はあまりにもキースに馴染んでいて、そこで自然に振舞う彼がまるで住む世界の違う高貴な人のようで。一緒に居る自分まで、どこかのご令嬢になったような気分になって――夢のような時間だった。


「ここなんです」


 オリビエの声で、ローラは現実に引き戻された。

 表通りを歩いていたはずが、いつしか狭い路地に入っている。そこを挟んで聳え立つ煉瓦造りの大きなお店の裏に隠れるようにして、その木造の建物はあった。

 そこが彼の言うお店らしい。

 開け放たれた引き戸の入口には、中を半分隠す程度の幕が下りている。

 店内からは、陽気な男達の声が漏れ聞こえていた。


「酒場ですか…?」


 豪快な笑い声に、思わず問いかける。


「いえ、酒も飲めますけど一応普通の食堂です。親の知り合いの店で…。店主が賑やかな人なんですよ」


 オリビエはそう言いながら、幕をくぐって店に入っていく。”親の知り合い”というのが若干気になりつつ、ローラもそれに続いた。

 店の中はそれ程混んでいなかった。空いている席もそこそこある。

 けれども一番大きなテーブルは人で埋まっていて、そこがやたらと盛り上がっているようだった。

 ふと中年の女性が、厨房から料理を手にカウンターに出てきた。オリビエの姿を見つけ、ふくよかな丸顔をぱっと輝かせた。


「あらぁ~、オリビエ、いらっしゃい!久し振りじゃないのぉ~!!」


 片手を振りながら、料理をカウンターに置く。オリビエも「ご無沙汰してます」と挨拶を返す。やはり親だけではなく本人にとっても顔見知りらしい。

 女性は盛り上がる団体の方に目を向けて、「あんた!オリビエが来たよ!」と声をかけた。よく通るその声でテーブルを囲んでいた男達の目は一斉にこちらを向いた。

 その視線に捕らえられ、ローラはびくっと立ち竦んだ。


「あれぇ~~!!」


 誰かが声を上げた。


「女の子連れてる!!」

「なにぃ~!」


 団体席の傍らで立ったまま話をしていた白髪混じりの男性が、大股にこちらにやってくる。白い前掛けをつけているところを見ると、彼が店主らしい。男性は顔を皺くちゃにして「おぉー!こりゃすごいや!」と嬉しそうに破顔した。


―――ちょ、ちょっと待って!!


 ローラの心の叫びは誰にもとどかない。

 店主はオリビエとローラの側に来ると、2人をまじまじと観察してオリビエの大きな体を力強く叩いた。


「なんだおまえぇ~!やるじゃないかぁ~!」

「親父さん、痛いよ」


 完全に勘違いされているではないか。


「あんらまぁ~、可愛らしいお嬢さんだ!」


 カウンター内の女性も喜んでいる。

 そして団体さん達の中からも「おいおい、オリビエこっち来て紹介しろよ~」と声が上がった。


―――なんでこんなに知り合いだらけなの?!?!


 お任せしますと言ったのは自分だけど、初めて食事をするという時にこんな知り合いだらけの場所を選ぶなんてどうかしている。ローラはできることなら今すぐ逃げ出したい気分になっていた。

 早く否定してと念を送りながらオリビエを見ていたが、説明してくれる様子も無い。


「悪いけど今日は別にするよ」


 団体さんに向かってそう返すと「親父さん、なんか美味いもの出してあげて」と店主に言う。


「おーおー、任しとけ!お嬢さん、食べれないものあるかい?」


 ご機嫌な店主に突然問いかけられ、ローラは「いえ…」と慌てて首を振った。


「何でも食べれるか!えらいねー!よーし、待ってろ。座んな、座んな」


 店主が指した2人掛けの席にオリビエは先に歩いていく。

 逃げることも叶わず、ローラは渋々それに続いた。テーブルを挟み、向き合うようにして置かれた奥側の椅子にオリビエは迷い無く腰をかけた。そんな彼にローラは内心嘆息する。


―――奥に先に座っちゃった…。


 何となく女性は奥の席という感覚があって、つい引っ掛かりを覚える。

 キースはごく当たり前にローラを先に奥へと誘導してくれた。

 そんなことをいちいち思い出している自分にも嫌気が差す。

 そんな、どうでもいいことを…。


 ローラはオリビエの前に腰を下ろすと、「賑やかなんですね」と努めて明るく言ってみた。

 オリビエは嬉しそうににっこり笑った。


「よかった。そう言ってもらえて。うるさいけど、いい人たちなんです。店主とおかみさんは俺の子供の頃からの知り合いで、家族ぐるみの付き合いなんですよ」


 そして遠くの人たちを見遣る。


「あっちで飲んでるのはだいたい常連です。俺もたまに来ると一緒に騒いで、いつの間にか顔見知りになってるような感じで…」

「へぇ…」


 つられるように振り返ると、ちらちらこちらを伺う男の人たちと目が合う。彼等の顔に張り付く意味深な笑みに居心地が悪くなって視線を戻すと、自分を見ているオリビエと目が合った。

 あまりに真っ直ぐ見つめるその視線もまた落ち着かなくて、目を伏せる。


「なんだか、信じられませんね」


 不意にオリビエが呟いた。


「…ローラさんが俺の目の前に居るなんて」

「――あ、あのっ!」


 おかしくなりそうな空気に耐え切れずに声を上げると、オリビエは”ん?”というように眉を上げた。


「オリビエ様は上級兵士様ですから、私のことは”ローラ”でいいです。敬語なんて使われる身分ではないので、そんなにかしこまらないでくださいっ」


 一気に捲くし立てると、また俯く。

 オリビエは少しの間黙っていたが、ふと小さく呟いた。


「そんな理由で”ローラ”と呼んでいいと言ってもらっても、嬉しくないです…」


 その言葉に、ローラの胸は痛みを覚えた。何も応えられず沈黙する。


「…じゃぁ俺のことは”オリビエ”と呼んでもらえますか?」


 オリビエの問いかけに、ローラは一瞬固まった。そしてふるふると首を振る。


「そんな失礼なことできません」

「どうして失礼なんですか?」

「どうしてって…」


 ローラは目を上げると、戸惑いつつ口を開いた。


「上級兵士様に対してそんな…それに…」


 ローラは一瞬言葉を切ると、「オリビエ様はおいくつですか?」と問いかけた。


「…28です」

「6つも年上です」


 オリビエが困ったような顔になる。そして小さく嘆息した。


「…じゃぁ、せめて”様”はやめてください」


 2人の間に沈黙が流れる。不意にそれを打ち破るように、テーブルの上に大きなグラスが2つ置かれた。


「あいよ!とりあえず麦酒!」


 元気のいい声に目を上げると、店主が満面の笑みで立っていた。目の前に置かれた重そうなグラスにはたっぷりとお酒が注がれている。

 ローラは思わず目を丸くした。


―――こ、こんなに飲めない…。


 困り果てるローラを他所に、店主が機嫌よく話しかけてくる。


「名前はなんていうんだい??俺はバッカスっていうんだ。あっちはハンナ」


 店主は親指で自分の背後を指差した。そこではカウンターから出てきたおかみさんが料理を運んでいる。


「ローラ・ワイルダーです。よろしくお願いします」


 ローラも名乗って頭を下げる。そうしながら、どんどん深みにはまってる気がして怖くなる。

 目の前のオリビエはそんなローラの気も知らず「いただきます」と早速飲み始めた。


―――先に飲んじゃうの??


 完全に自分のペースである。自分の知り合いを前にローラをほったらかしにする気らしい。


「ローラか!いやぁほんと可愛らしいねぇ」


 店主の嬉しそうな様子に、申し訳なくなる。

 自己紹介をしてしまったものの、もう会うことは無いだろう。

 小さくなるローラを前に、オリビエがやっと「親父さん、困ってるよ」と口を挟んだ。


「なんだよ、いいじゃねーか。いつの間にこんな綺麗な子捕まえたんだよっ」


―――捕まってません!!


 バッカスの陽気な言葉に、ローラはすかさず心の中で反論した。


「まだ捕まえてないよ」


 オリビエが飲みながら返す。”まだ”という言葉が気になったが、やっと誤解が解けそうでローラはちょっと安堵した。


「なんだぁ???そうなのぉ??」

「そうだよ」

「恋人じゃないのかぁ??」

「違うよ」


 目の前で勝手に2人で話している。バッカスは「じゃぁなんで連れてきたんだよ!」と、最もな疑問を投げた。


「俺、他に食うとこ知らないから」


 バッカスは呆れたようにため息をついた。


「お前なぁ~」


 そして再びローラに目を向ける。


「ごめんなー。勘違いしちゃって。驚かしちゃったなぁ。コイツちゃんと説明しろって話だよなぁ?――って、お前なに先に飲んでんだよっ」


 すでにグラスの半分を空けているオリビエの頭をバッカスが平手で叩く。

 オリビエはその言葉で漸くローラがお酒に口をつけていないことに気付いたようで「あ、すみません」と今更に謝った。


「いえ…」

「ったく、慣れてねーんだわ。イイコなんだけどねぇ~」


 まるで親子のようである。

 バッカスにぐりぐりと頭を撫でられるオリビエが小さい子供のようで、ローラはぷっと吹き出した。


「親父さん、ちょっと向こう行っててよ。親父さんが居ると全然話ができないよ」


 オリビエが流石に訴える。ローラとしてはバッカスに居てもらった方が気持ちが楽だったが、彼はオリビエの気持ちを察したようで「へいへい、邪魔しませんよぉ~」と言いながら去っていってしまった。

 そしてまた2人になる。

 ローラは目を伏せたまま、大きなグラスを両手で持ち上げお酒を口に運んだ。麦酒は苦くて、あまり好きではない。思わず顔をしかめてしまう。


「なんか…すみませんでした」

「え?」


 オリビエの言葉に目を上げる。

 その瞬間、遠くから「オリビエ~!料理できたよ~!持ってって~」と声がかかった。

 何か言いかけていたオリビエの言葉が止まる。少しそのまま固まっていたが、やがてやれやれというように苦笑した。


「食べましょう。とりあえず」


 言いながら席を立ち、料理を取りに行く。

 1人になったローラは、肩を下ろして大きな溜息をついた。



 食事は確かに美味しかった。

 食べながら、他愛もない話を続ける。”話がある”と言っていたはずのオリビエは、特にそれを切り出す様子もない。

 大皿に載せられた数々の料理を小皿に取って食べていく中、いつしかオリビエは小皿を使わず直接口に運んでいた。

 そんなことがまた気になって、話の内容はあまり覚えていない。

 食事をひととおり終えたところで、ローラは思い切って口を開いた。


「あの、私そろそろ失礼しないと…」


 そんな時間を終わりにするための言葉だった。オリビエは驚いたように目を丸くした。


「あ、もう帰らないといけませんか」


 まだそんなに遅い時間ではないので、その反応は無理もない。


「妹と2人きりなんです。遅くなると、心配させますから…」

「あ、そうですよね。すみません気付かなくて」


 ローラの家庭環境は承知しているらしい。オリビエは納得したようにそう言うと、「それじゃぁ、行きましょうか」と席を立った。



 遠慮したが、ご馳走してもらってしまった。

 こんなにも後ろ向きな気持ちの自分に無駄なお金を使わせてしまった。

 次にもし誘われたらちゃんと断らなくてはと思いながら、ローラはバッカス達に見送られて店を出た。

 外の空気に少しだけホッとする。

 並んで歩きながら、ローラは夜の街をぼんやりと眺めていた。


「…もしかしたら、デイジーから聞いているかもしれませんが」


 不意にオリビエの低い声が耳に届き、ローラの胸がどくんと音を立てた。

 オリビエが足を止める。

 ローラもそれに釣られるように足を止め、その場に立ち尽くす。彼がローラに対して向き直ったのが分かったが、その顔を見れそうにはなかった。


「――ずっと、あなたが好きでした」


 逃げるように、ローラは固く目を閉じた。

 静かな街並みに、自分の鼓動だけが大きく響いて聞こえる。

 言われるだろうと思っていた言葉だった。できれば聞きたくないと思っていたはずだった。

 それなのに、甘く優しいその言葉は、まだ痛みを残すローラの胸を苦しいほどにしめつけた。

 気が緩んだら、涙が出てしまいそうなほどに。


「…今日は、それを伝えたかったんです」


 俯いたままのローラにオリビエがそう囁く。そして気が済んだように、また歩き始めようと一歩足を進める。


「ごめんなさい…!」


 ローラは振り絞るように、声を上げた。

 オリビエの足が止まる。そっと顔を上げると、彼は黙ってローラを見ていた。


「ごめんなさい…」


 その目を見返して繰り返す。それ以上の言葉が出てこない。

 オリビエは暫く黙ってローラを見ていたが、やがてふっと微笑んだ。


「返事は、いらないんです」

「――え??」


 思わず間抜けな声を上げてしまった。意外なほどさっぱりとした笑顔で、オリビエは「これからですから」と続ける。

 彼の言葉の意味が分からず、ローラは目を丸くしていた。そんなローラに、オリビエはニッと笑みを返す。


「ローラさん、俺のこと知らなかったですよね。顔も、名前も」


 言い当てられ、ローラは絶句した。確かにその通りだが、認めるのも悪い気がする。

 そんなローラの内心が伝わったのか、オリビエは失笑して言った。


「この間声をかけたとき、”誰だろう”って顔してました。実際は俺、あなたに一度挨拶しているし兵士だった頃に会話したこともあるんです。まぁ、仕事の伝言程度ですが」


―――えぇぇっ…!


 ローラは顔が熱くなるのを感じた。

 いくらなんでも失礼すぎる。まったく記憶に残っていなかったなんて。

 眉を下げて俯くローラを他所に、オリビエは特に怒っている風でもなく淡々と言った。


「全く俺に関心が無いことは知っているので、今返事を聞くまでもないんです。でもその状態で結論を出されるのは不本意なので…」


 オリビエが言葉を切ったので、ローラはふと顔を上げた。

 その目がオリビエの視線と出会う。真っ直ぐ見詰めるその瞳は、ただ穏やかに微笑んでいた。


「あなたが好きです」


 改めて言われた言葉にまた心臓が跳ねる。


「…まずは、それだけ知っておいてください」


 その言葉に、ローラはもう何も言うことができなかった。


――――――

―――


 窓を拭きつつ、ローラは何度目かの溜息を漏らした。

 結局その後、オリビエは何事も無かったようにまた歩き出した。

 そして別れ際、”また今度”と言って去って行った。


 ”まずは、それだけ知っておいてください”


「…そんなこと言われても…」


 微かに漏らしたローラの呟きは、幸い後ろで働くデイジーの耳には届かなかった。

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