5輪 恋に酔いしるフジの下で
奥秋先輩とのテスト勉強が始まって、3日目の今日。ちなみに、日曜日。
通常、日曜日は図書館は閉館している。しかし、我が高校では、テスト1週間前ならば日曜日でも図書館を解放してくれている。そのため、本日も図書館で奥秋先輩に数学をご教授して頂いている。
先輩の教え方は、もの凄く理論的である。そして、分かりやすい。私がなぜそうなるのかと問いかけると、1から順に説明してくれる。それでも私が分からなければ、噛み砕いて教えてくれるのだ。江蒲先生のように、こうなるからなる、みたいな教え方とは違っていた。まぁ、聞きに行けば江蒲先生も1から教えてくれるが。江蒲先生にマンツーマンで教えてもらうわけにはいかない。何たって、あの人は腐っても教師。それなりに忙しいのだ。
「もうベクトルはいいと思うが?」
「こ、これだけさせて下さい。そしたら自信付くので」
私は今、ベクトルの内積についての演習を行っていた。
内容は、ベクトルの内積に関する等式の証明。証明問題と言うのは、私にとって天敵である。そのため、折角の奥秋先輩とのテスト勉強ではあるが、甘い雰囲気など一切ない。テスト勉強に、私は全力を注いでいた。そもそも、教えてもらっている身で、勉強以外に現を抜かすなどもっての外である。
「…よし」
「これで一通り終えたな」
「はい」
昨日までに数学IIを、今日1日で数学Bを教えてもらった。しかも、それだけではなく、去年のテストにどの系統の問題が出題されたかについても教えてもらったのだ。奥秋先輩さまさまである。
「あとは復習するだけです」
奥秋先輩のお陰で、数学についてかなり理解が深まったように思う。けれども、ここで油断すれば、凡庸な私の頭ではすぐに忘れてしまうだろう。そうならないためにも、しっかりと復習する必要がある。情けない話だ。しかし、アルバイトのためにも平均点以下を取るわけにはいかない。
「そろそろ閉館時間ですね」
「そのようだな」
図書館の時計は現在、午後4時50分。閉館時間は午後5時。あと10分で閉館である。追い出されるのは分かっているので、私と奥秋先輩は帰りの支度をし始める。そして、閉館の5分前になり、司書の人が顔を見せたので、そそくさとその場から立ち去った。
校門まで来たところで、普段なら私と奥秋先輩とは反対方向の道を進む。しかし、今回は違っていた。奥秋先輩は、いまだ私の横に立っている。
「あれ?奥秋先輩はそっちじゃ」
「帰りに買い物を頼まれていて、駅前のスーパーに寄っていくつもりなんだ」
「あ。あのスーパーですね」
平静を装いながら、私は奥秋先輩の言葉に頷いてみせる。しかし内心は、喜びに舞い踊っている。にやつきそうな顔を必死に引き締めながら、奥秋先輩とぽつぽつと会話を交わす。会話を交わしている内に、私たちは公園の前にたどり着いた。
「あ、先輩。この公園を通ると近道ですよ」
そう言って、私は奥秋先輩を公園へと導く。
春と初夏の間のこの時期、公園には草花が色鮮やかに彩りを添えている。公園入口の木、花壇の花。そして、ベンチの上には、垂れさがる紫色の花。
「ところで、スーパーで何を買っていく予定なんですか?」
「シチューの材料を…父さんはシチューしか作れないからな…」
私たちは入り口を過ぎ、花壇を横切る。
私の問いに、何やら遠い目をする奥秋先輩。なぜそんな目をするのかと首を傾げるも、ふと奥秋先輩の言葉に疑問が浮かぶ。
「今日は、奥秋先輩のお父さんがご飯を作るんですか?」
日曜日である今日に、父親の方がご飯を作るのは珍しい。そんな思いから、私はそう問いかけると、奥秋先輩からはちょっと予想外な解答が返ってきた。
奥秋先輩は、父子家庭だった。
母親を幼いころに亡くして、現在は父親と2人で暮らしているらしい。そのため、料理や掃除、洗濯は全て週ごとで交代して奥秋先輩と奥秋先輩のお父さんとで行っている。掃除や洗濯はともかく、料理は1番苦労しているそうで、奥秋先輩のお父さんはシチューしか作れないのだ。そのため、今週はお父さんの当番である料理にはずっとシチューが出ており、それを1週間食べ続けているのだと言う。
そら、遠い目もしてしまう。
「せめて、もうあと1つくらいレパートリーを持ってくれたらな」
そう不満を口にするものの、奥秋先輩の表情は優しい。その奥秋先輩の表情けらも、仲は良いということがよく分かる。
「私のお父さんは全然料理はできないので、シチューが作れるだけでも凄いですよ!」
「そうか。父さんに伝えたら喜ぶだろうな」
私たちは花壇を過ぎ、ベンチまで来た。
そのあとは、私の母親の話となった。幼いころに母親を亡くした奥秋先輩にとって、母親という存在がどんなものか分からないそうだ。そのため、ぜひ私の聞きたいと言う。だから私も、私のお母さんのことについて話をした。
口うるさいこと。ちょっと怒りっぽいところがあること。心配性なとこもあること。芯が強いこと。そして、優しいこと。
「優しいとは、例えば?」
「そうですねー。何だかんだいっても、私のやりたいことをやらせてくれるとことかですね」
「やりたいこと?」
「はい!花にどうしても関わりたくて、私がアルバイトをするのを…」
私たちは、ベンチの前で足を止めた。
奥秋先輩と会話できることが嬉しくて、私の口はいつもよりも軽やかに動いていた。そんな私の口は、奥秋先輩からの問いに軽々と口を開く。私自身も特に考えもなく、反射的に言葉を返す。しかし、そこで私は自分の失言に気が付いてしまった。
我が高校でアルバイトは、校則違反である。
「…や!あの、違うんです!今の発言は間違えでして!」
私は慌ててそう発言する。その発言が返ってアルバイトをしていると認めるようなものであることに、今の私は気づいていない。ただ、じっと見つめてくる奥秋先輩にたじたじになっていた。
「…」
「…」
暫く、無言で見つめ合う私と奥秋先輩。私へまっすぐと視線を送ってくる奥秋先輩に対して、私はおろおろ視線が空を漂っている。そんな私に、奥秋先輩はやや呆れた声色で言葉を紡いだ。
「植水、正直に答えてくれ。お前はアルバイトをしているのか?」
「…はい」
奥秋先輩の真剣な眼差しに、私は否定することなどできず素直に、というより馬鹿正直に頷いた。そんな私に、奥秋先輩の目がすっと細められる。その視線は、気持ち鋭くなったように思う。
「アルバイトが校則で禁じられていることは知っているか?」
「しょ、承知しています」
私のその言葉に、先程よりさらに呆れた様子を濃くした奥秋先輩。そして、1つ溜息を吐き出した。
「取締としては、見過ごせないことだな」
「そんな!そこを何とか…て、え?取締?」
奥秋先輩が口にした『取締』という言葉。
それが意味するところは『生徒代表取締役会長』である。通称として、我が高校では『取締』と呼んでいる。まぁ要は、他の学校でいうところの生徒会長みたいなものだ。つまり、生徒たちの中で最も偉い人。そして、取締は3年生が勤めることが暗黙の了解のようになっている。ちなみに、なぜ『会長』ではなく『取締』と呼ばれているのかは、我が高校の七不思議である。
「あ、あの、奥秋先輩って取締だったんですか?」
「あぁ。知らなかったのか?」
「し、知りませんでした」
生徒の中で最も偉い人。
それが、奥秋先輩。
「取締は前取締の指名によるものだから、知らないのも仕方ないな」
現取締は、前取締の指名である。しかし、それだけでは取締にはなれない。前取締に指名されたのち、先生方全ての賛成を得なければいけない。そして、賛成が得られたならば、校長先生の任命により取締の役に付くことができるのだ。そんなわけで、過去に先生全ての賛成が得られず、なかなか取締が決まらないということがあったらしい。まぁ、そんなことは本当に極稀である。成績や先生方の心証が悪くなければ、基本的に取締に指名された人物が次の取締となる。
そしてその人物が今回、奥秋先輩だったのだ。前取締に気に入られ、全ての先生方に認められた生徒。ちょっと大袈裟ではあるが、凄いことに変わりはない。
「まぁ、俺のことはどうでもいい」
さくっと話題を打ち切った取締。もとい、奥秋先輩。
「どうして、アルバイトを?」
「…その、花に関わりたくて」
「花?」
話題がアルバイトのことに戻り、私はそう答える。そんな私の答えに、奥秋先輩は少し首を傾げて私を見ている。説明が足りていない様子であるため、私はさらに詳しく話をした。
親が植物を育てるのを嫌がっていること。そのため、花屋でアルバイトして花に関わろうと思ったこと。そのために、親と交わした約束ごとなど。始めから、できうる限り分かりやすいよう私は奥秋先輩に説明した。
「先輩、高校がアルバイトを禁止している理由はよく分かっています。違反した場合は、1週間の自宅謹慎だっていうのも知ってます」
学生の本分は学業。アルバイトをすることで、その学業に支障が出るようなことはあってはならない。故に、アルバイトを禁止している高校は決して少なくないだろう。しかし、私は一応、節度をわきまえているつもりである。テスト前や期間中はアルバイトをしないし、学業が疎かになるほどアルバイトに時間を費やしてはいない。
私にとって花屋のアルバイトは、趣味なのだ。アルバイトそのものよりも、花に関われるということが。花に触れられるということが。
「それでも…たとえ謹慎になっても、私はまた花屋でアルバイトをすると思います」
好きなことに携わりたい。
そう思うのは極自然なことだし、当たり前のことだ。そして、そのためなら多少のリスクがあっても構わない。そんなことで挫けるほど、私の話に対する愛情は浅いものでないのである。
「勉強も、委員会活動もちゃんとします。ですから先輩、アルバイトのことは見逃して下さい!」
「お願いします!」と言って、私は奥秋先輩に向かって深々と頭を下げた。厳格そうな奥秋先輩には、私の願いなんて切り捨てられてしまうかもしれない。そう思うと身体が震える。しかし、それでも可能性を信じて、私は奥秋先輩に懇願した。
「…分かった。このことは黙っておくよ」
「え!ほ、本当ですか?」
「あぁ。植水が真面目に勉学や、委員会活動に取り組んでいるのは知っているからな」
奥秋先輩は、少し表情を和らげて私にそう言葉をかける。そんな奥秋先輩に、私も大いに表情が緩む。
「ただし、条件がある」
「え、条件?」
奥秋先輩の思いもよらない発言に、私は少し動揺する。まさか、奥秋先輩からもアルバイトをするに当たり条件が提示されるなど、考えもしなかった。
どきどきと、恋とは違う私の胸の鼓動に涙が出そうである。そんな私の思いなど露知らず、奥秋先輩は私に向かって言葉を紡いだ。
「今回の数学のテストで9割を取ること」
「す、数学で9割!?そ、そんな…」
「中間だし、大したことはない。それに」
奥秋先輩はわざとらしくそこで言葉を切る。
私はまっすぐ、奥秋先輩の顔を向ける。奥秋先輩もまた、私へと視線を向けている。私たちの間に、夏の匂いを含んだ風が吹き抜けていく。その風に、ベンチの上から垂れている花も、さわさわと揺れている。
「植水ならできると思うから、言っているんだ」
そう言って、奥秋先輩は軽く笑みを浮かべた。美しい紫色の花をバックに、美しい表情を浮かべている人。その人の表情に、態度に、声に、私は今以上に酔いしれる。
「…あぁ。花が綺麗だな」
美しい人が、美しい花に気づいて、そう言葉を漏らした。
「はい。綺麗なフジですね」
フジ。
この花の下で、私は酔いしれる。
恋を覚えたばかりの私はさらに、フジによって恋に酔う。