目覚め
俺はコップを持つ手を止め、思わず身構えてしまう。
そりゃそうだ、目覚めて驚かれたら、どうすればいいのかわからない。
女は目を開けて天井をぼうっと見上げている。
まだ眠いのだろうか? それとも自分の状況に気づいてないのか?
そのうちゆっくりと女は天井から視線を外した。
ベッドのシーツを、壁を、散らかった床を、確認するかのように順番に眺めていく。
そしてその視線が俺のところで固定された。
「……や、やあ」
引きつった笑顔で挨拶する俺に向かって、ゆっくり首をかしげる女。まるで理解できない物体を眺めるかのように、じっと俺の目を見つめている。
なにかがおかしい。正常な人間の反応じゃないような気がする。普通なら、ここで「キャー」とか「誰?」とか、いろんなリアクションがあるはずだ。それともあまりに驚いて、信じられないでいるのだろうか。
俺はあまり彼女を刺激しないよう、そっとコップをシンクに置いた。
近づきはしない。急に正気に戻って暴れだしたりしたら困るからだ。
俺は遠巻きのまま、なるべく声を抑えて語りかけた。
「あのさ、とりあえず……なにも、してないから。これは確か」
相手を刺激しないよう、極力優しく、ゆっくりと。
急に大声で叫ばれたりしたらどうしていいのかわからない。
頼むからわかってくれ。わかってください。お願いします。祈るように視線を送る。
彼女は寝ぼけたような顔のまま、無言で俺を見つめている。
にぶいのか?
まだ確定じゃないが、とりあえず最悪の事態は避けられるかもしれない。
少しだけ安堵し、さらに慎重に続ける。
「悪いんだけど、俺、酔っ払ってたせいか、なにがあったか覚えてないんだ」
彼女の表情は変わらない。なんというか、それは無表情に近い。全く状況が飲み込めないでいるのかもしれない。
「俺、どこかで君をナンパした?」
なんの反応もないが、まさか外国人だとでもいうのだろうか。
黒髪だからって日本人と決めつけてはいけないのかもしれない。
「え……っと、ホワッツユアネーム? ……ニイハオ」
適当に思いついた言葉で喋ってみたが、やっぱり反応はない。
失敗だ。むしろ恥ずかしいことをしたような気がする。
俺がため息をついて次の言葉を探していると、不意に彼女が動き出した。音も立てないくらいにそっとベッドを降りて、部屋をまた眺め回している。
まるで知らないものを観察するように、彼女は部屋の中をゆっくり歩き出した。猫が歩くように、そっと、足音も立てずに。
そんなにこの部屋は珍しいところだろうか。
そりゃ女の子の部屋と違って多少、いやかなり散らかってはいるけど。
彼女はいったい何を考えているんだろう? 俺を不審に思ったりしないんだろうか?
どうしていいかわからない状況に、先に音を上げたのは俺のほうだ。髪をぐしゃっとかきあげて、緊張のあまり止まりそうになっていた息を、一気に吐き出す。
「あーっ!」
一瞬彼女の動きが止まる。俺の声に驚いたのだろう。
起こってしまったことはしかたない。あとはなるようになれ。
俺はすっかり開き直ることにした。
「もー、いいや!……なんか食べる?」
女は振り返ってまた首をかしげている。
気を使っていてもどうせ先に進まない。どうせ彼女も何も言わないのだ、俺は勝手にやらせてもらうことにした。
棚のパックや缶詰類を見比べて、ミートソース缶を取り出す。二日酔いにパスタってのも気が進まないが、ご飯も炊いてあるわけじゃない。
「朝だし、腹減ってるだろ?とりあえずパスタでも作るわ」
返事がないのは予想はついたが、待っていても仕方ない。子供や外人、もしくは宇宙人を相手にしているんだと思うことにしよう。
鍋の湯を沸かしている最中も、女は部屋をゆっくりと歩き回っていた。時々視線を止めては、何かを思い出すように見つめている。
もしかして記憶でもなくしたのだろうか。
どうにも厄介な相手を連れ込んでしまったらしい。ただでさえ仕事で疲れているっていうのに……。
俺は現実逃避するかのように、煮え立つ鍋の中のパスタをかき回した。