君を離さない
「……悪い、俺、用事思い出した」
「え?」
誰ともなく疑問の声があがる。
盛り上がっていた場の空気が一転して停滞する。肌で感じたが、それを悪いとかやばいとか考えるほどの余裕はない。
俺は何か、大事なものをあの部屋に忘れてきている。大切な思い出のような、何かを。
必死に頭の中を探しても、見当たらない。だけど、きっと戻ればわかるはず。
無意識に俺は立ち上がった。考えるまでもなく、足は外に向かっている。
どうした? とか、誰かが心配そうに声をかけていたかもしれない。それを他人事のように聞き流し、俺は店を出る。
出がけに、健治! と誰かが俺の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
空はもうすっかり暗くなっている。飲み会が始まってから何時間経ったのだろう?
街灯と、混雑する車やビルの照明の中を駆け抜けて、駅にたどり着いた。定期をかざし、時間も確認せずにホームに入る。電車が来るのを待ちながら、そういえば金も払わず店を出てきたことに気づく。悪いと思いつつも、今戻る気はしなかった。申し訳ないが今度会う時までの貸しにしてもらおう。
そんなことを考えるうちに電車が到着した。急いで乗り込み、出口の目の前に立つ。流れゆく街並みを見つめながら、足踏みをして到着を待った。たったの五分ほどだとしても、時間が惜しい。慌てたところで電車が早くなるわけでもないのに。
自分が何を忘れたのか、俺が一緒に過ごしていたのが一体誰なのか、どうしてその数日間がなかったことになっているのか。思い出そうとすればするほど胸が痛む。ぎりっと締め付けるように。そして痛みと共に、記憶の縁に誰かの影を感じるのだ。
白い指先、長い髪。フラッシュバックしては消え去る。ぼんやりと輪郭が浮かぶのに、それ以上記憶をたどろうとしたとたん、その姿ごと光の粒になって霧散する。その人の名前も喉に引っかかっているようなのに、出てこない。
電車の扉が開いた瞬間から、俺は全速力で駆け出していた。
定期を出す手がもつれる。それでもなんとか改札を通ると、脇目も振らずに真っ直ぐにアパートに向かった。足が、脳の指令する速度に追いつかない。胸が苦しくても、そのスピードは落ちない。むしろ上がっていたかもしれない。きっと、こんなに速く走ったことはここ何年もないだろうという位に。
部屋の目の前に立ち、躊躇することもなくドアを開ける。靴を脱ぎ捨てて部屋に駆け上がった俺は、胸をわしづかみにされるような痛みを感じて、体勢を崩した。
景色がぐらりと揺れ、視界が暗転する。もう一度、胸を貫くような痛みを覚え、右手で胸を押さえながら膝をついた。目を開けていられない。膝をついたまましばらくの間じっと佇む。
そしてそれは、胸の痛みが引いていくのと同時だった。
灰色の世界が一瞬で色づくように、その数日間の記憶が、鮮やかに俺の中に蘇ってくる。
やっぱりあれは幻じゃなかった。
「ユイ!」
思うより早く口はその名を発していた。にわかに立ち上がると、俺はユイの姿を捜した。先ほどまでの痛みはなぜか、嘘のように消えていた。
ダイニングを見渡し、奥の寝室兼リビングをさっと一瞥する。いないのを確認すると、バスルームとトイレに向かう。それでも彼女は見つからない。
いるはずもないのに、洗濯機の隙間、クローゼット、ダイニングテーブルの下、玄関までかえりみて、その視線は窓の外にまで及んだ。
まさか、出て行ったのか?
不安が心をよぎる。今度は胸に痛みではなく、動悸が襲ってくる。徐々に鼓動は大きくなり、体の安定が保てなくなる。目が泳いでいるのが自分でわかる。
ここに着くのがもっと早ければ。どうして、忘れたんだよ……
「……こんなに、大事だったのに……」
思わず漏れてしまった声は、自分にしかわからないほどか細くて、震えていた。
ふらふらと定まらない視点が寝室の天井から四方の壁をゆっくりと巡っていく。もう、なにもかも終わってしまったのだ。
うん・・・わたしも、健治さんが、好き
告白のシーンが今更になって思い出されて、歯痒さと、自分に対する苛立ちをを覚えた。
ベッドに視線を落とすと、彼女と初めて出会った時を思い出す。今まで、目を逸らしただけで忘れそうだった彼女のことを、こんなにもはっきりと……。
「……?」
何かがベッドの足元あたりでかすかに動いた。ふと見ると、シングルベッドの足元と壁の隙間にうずくまる影がある。慌てて見落としていたのだろうか。まさか、と顔が綻びそうになって、そのあと表情は喜びから憂いに変わる。そっとその人影に近づくと、様子がなにかおかしかった。
怯えるように、なにかから隠れるかのように、震えながらその長い髪をした影は縮こまってベッドに縋り付いている。
「ユイ?」
顔を隠すようにしてうずくまっているユイの腕にそっと触れる。ユイはそこで初めて俺の存在に気が付いたかのように、びくっと体を震わせて、顔を向けた。
目に焼き付いたのは、赤くなった瞳と、頬についた涙の筋だった。ユイは慌てて顔を背け、またベッドのシーツに顔をうずめる。俺はただ驚いて、言葉もないままユイの背を見つめた。しばらくしてようやく正気に戻り、俺はようやく彼女に聞くことができた。
「なにかあったのか?」
そう言いながら、恐ろしい想像をしてしまう。まさかこの部屋に暴漢でも現れて、彼女を襲いでもしたのだろうか。俺が記憶にないうちに、彼女にやはりひどいことをしていたのだろうか。それとも。
「思い出したの……ぜんぶ、思い出したの……私……」
それ以上は嗚咽となって、言葉は続かなかった。何を思い出したというのだろう。俺を恐れているわけではないからきっと俺が原因じゃない。全部? ということは、彼女の生い立ちとか、そういうことだろうか。
もしかして、帰りたくないような酷い家庭だったのか。それとも、家になにか重大なことでも起こったのだろうか。彼女が一人でいたことと、なにか関係があるのだろうか……。
色々と考えたが、これだけは確かなことだ。俺のやるべきことは彼女に何があったのか聞き出すことではない。それは彼女をむやみに傷つける行為に過ぎないのだから。
悲しみに暮れすすり泣く姿に、心が疼く。考えるよりも先に、俺の手はユイの腕を掴み、半ば強引に振り返らせた。
「……健治さ……」
そのまま唇を塞ぐ。驚いてこわばる両腕を掴んでベッドに押し付け、体を重ね、息も止まるような強引なキスをした。
そしてゆっくりと唇を離す頃には、涙を忘れ、目を丸くして俺を見つめるユイがいた。
「大丈夫。俺が必ず一緒にいるから」
しばらく呆然として返事のなかったユイも、少し正気に戻って、また悲しそうな目を向ける。
「でも、だけど、私は……」
まだ不安そうに呟くその唇を、俺はもう一度自分自身の唇で強引にふさいだ。
彼女の抵抗が少しずつ弱まっていく。次に唇を離したときには、もうユイは何も言わなかった。床に座ってベッドにもたれかかっていたユイの体をそのまま横から抱き上げ、ベッドの上にそっと寝かせると、上から覆いかぶさるように向かい合い、見つめあう。
こんな時に彼女を抱くなんておかしいだろうか。それとも、こんな時だからこそなのだろうか。
そっと頬に触れる。ユイは俺を見つめたまま、何も言わずにその手を受け入れた。
そこで今まで抑えていた想いが一気に溢れ出すように、俺は彼女の髪に、手に、身体に触れ、きつく抱きしめた。この部屋に帰ってくるまでの不安を埋めるように。
そこにいるのに、いくら抱きしめても夢のように実感を感じさせない身体。触れれば触れるほど不安になって、力加減などできていなかったかもしれない。
ユイが一体何者なのか、どこから来たのか、いまだにわからないことばかりだけれど、もう俺は覚悟を決めていた。
彼女がもしどういう人間だったにしても、例えどこの世界の住人だったとしても、もう絶対に手放さないと。
その覚悟が通じたのだろうか。ユイはようやく微笑みを見せて、すっかり俺に体をゆだねてくれた。
空気みたいに溶けていきそうな身体を相手にするのは不可思議な経験だったけれど、それでも彼女が受け入れてくれたことが嬉しくて、俺達はそれからずっと重なり合っていた。
眠りにつくまで、ずっと。




