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忘却

 アパートを出ると、ユイの顔を思い浮かべながらまっすぐに駅に向かった。

 頑張って思い出そうとしても、一歩踏み出すごとに段々と薄れていく面影。


「鶏かよ俺は」


 思わずそう毒づいた。三歩歩けば何でも忘れる、忘れたいことも、絶対に忘れたくないことも。

 ああそうか、ヒヨコの親だからな、なんせ俺は。

 心の中で皮肉めいた答えを出して、つい先日のことを思い出す。ただの変な女だと思っていた、ユイとの出会いを。

 それすらも、頭に霧がかかったように、記憶が曖昧になっていく。


「大丈夫、何も問題ない」


 我ながら独り言が多いな、とわかってはいるが呟く。自分に言い聞かせなければ、くじけてしまいそうだったからだ。

 ぼんやりと、彼女の姿がぼやけていく。どんな姿で、どんな顔だったのか、もう忘れそうになっている俺がいる。


 大丈夫、俺たちは両思いなんだから……


 信じようとする思いと、忘れ去ることへの不安が、心の中でせめぎあう。その中で、彼女が俺の告白を受け止めてくれたことが一番の支えだった。彼女はきっと待っていてくれる。あの部屋に帰れば必ず思い出せる。たとえ完全に忘れ去ったとしても。

 

 ふと、甘い匂いに気が付いて、顔を上げた。

 アパートの道を挟んで隣の民家の垣根の向こう。庭木に、白い丸みのある、縁だけがピンクがかったような花がいくつか咲いている。

 バナナのような香り。あの人の家の庭にも、これが咲いていたとかいう話だ。カラタネオガタマ。カラタネってことは、唐の国から渡ってきたものなのかもしれない。

 そんなことを考えながら、視線を戻す。しばらく歩いていると、ふと疑問に思った。


 なんで俺はあの木の名前を知っているんだろう? そうだ、確か誰かに教えてもらったはず……あの人……誰だっけ。よく知っている人だと思うのだが。


 俺は何かとてつもなく重要なことを忘れている気がして立ち止まった。立ち止まって、頭をひねる。そもそも俺はどうしてここに立っているのだろう。


「あ」


 思い出して、思わず声が出てしまった。飲み会だ。

 ここまで歩いてきて忘れるなんて阿呆か、と俺は心で突っ込みを入れた。行動しているのに目的を忘れるなんて。そういえば頭もなんだか重いし、疲れてたんだろうか。

 飲み会の誘いがあって、ちょっと遅れると矢島に連絡したのだ。電話してた時点で時間ぎりぎりだったはずだから、もう始まっているかもしれない。

 時刻を確認するために携帯を取り出そうとしたら、ポケットになかった。財布だけ持って出てきたらしい。ますます阿呆か俺は、とひとりごちる。今更取りに戻ったらより合流が遅くなるし、ここはこのまま向かったほうがいいだろう。電車時間は駅に着けばわかる。

 気を取り直すと俺は少し早足で駅に向かった。


 空は少しずつ、青から深い藍へと変わろうとしている。駅に着いて、電車時間を見ると、ちょうど後2分というところだった。

 内ポケットから財布と一緒に入っていた定期入れを取り出して、改札を通る。ホームについたと同時に電車が来た。そこそこの混み具合の車内で、出口近くのつり革につかまった。


 集合場所は一駅五分。なぜだかどっと疲れてつり革にもたれる。日頃の運動不足だろうか。

 ため息のあと、ふと顔を上げて、窓に映る自分の姿に驚いた。思わず胸に手を当ててしまう自分。なぜかスーツを着ている。ネクタイはしていないが。


 いつ着替えたっけ。


 しばらく窓を鏡にしながら体をまさぐって、それから急に周りの目が気になって、何事もないふりをする。それにしても、着替えた記憶がない。

 休みに入って何日もたつのに、俺は何をしていたんだろう。何かをしていた気がするのに、うまく思い出せない。


 悶々と考えていたら駅に着いた。今はそんなことを考えている場合じゃない、と気持ちを切り替えて駅を出る。鳥道楽は駅の向かいの通りにある、すぐそこだ。何度も行ったところだから足が自然と方向を覚えている。横断歩道を渡って、黒塗りで赤い看板が目立つ建物に足早に向かった。

 入り口を通って「矢島で予約してた……」と言うと赤の甚平に黒エプロンの女性店員が、こちらですと座敷席に案内する。ここはわりと若者向けのお洒落な和風居酒屋で、カウンターから覘くテーブル席は合コンやら女子会らしき客で騒がしかった。そこここでグラスを重ねる音や嬌声が響く中、襖越しにも賑やかな雰囲気を感じながら店員の後を歩く。

 案内された場所にはもちろん他のメンバーの靴が揃っていて、俺は引き戸を開けると同時に謝った。


「悪い、遅れて……」

「来た来たー。あっ、すいません、とりあえず生中で」


 矢島がすかさず店員に注文を入れる。幹事はさすがに抜かりない。

 ごつい黒縁メガネが似合うメガネ男子矢島の向かいに座っているのは永沢だ。少し長めの茶髪とピアスの、いかにもな優男。その隣には結城、黒髪短髪で目つきが鋭い、細見の男。そしてダークブラウンのショートボブで活発な印象なのが、このメンバーでは紅一点の夏美。全員が大学のサークル以来の友人だ。


「重役出勤お疲れ様……ってホントにスーツ着てるし。仕事帰り?」

「いや、うーん、まあ。たまには格好いいだろ?」


 結城の質問は適当にごまかした。服装の件に関しては、俺自身もわかっていないのだから説明できない。

 矢島、永沢、結城、それから夏美。全員揃ってこっちを見上げている。それぞれに手を上げたり、ビールを掲げながら。矢島がこっちこっち、と横に体を寄せて、夏美との隣に空間を作る。

 そこに座ると、矢島がバシバシと肩を叩いてきた。


「よっ、年末以来だな」

「そうだな、もうそんなに経つのか。あ、メールの件、悪かった、ほんとに」

「いいよいいよ、この時期はいつも忙しそうだしな。ま、こうして来てくれたんだし?全員分オゴリでチャラにするわ」

「まじかよ」

「いやん、嘘嘘」

「お前サラッと冗談言うから怖いんだよな……って、なんだよ?」


 視線を感じて横を見ると、突出しや箸を俺の前に揃えながら、夏美が俺のことをじっと眺めていた。大きな目が俺のスーツに向けて爛々と輝いている。


「いや、なんかスーツって珍しいから」

「そう?ああ、俺営業とは言っても基本作業着多いからな。スーツそんなに着ないしな」

「えへへ、いいね、スーツ。大人の男って感じで」

「おっ、健治に惚れたな?」


 結城のからかいに、「な、何言ってんのよ!」と夏美が顔を真っ赤にして怒る。俺はその隣で、なんでスーツを着たんだったけな?と再び首を捻っていた。ここ数日のことを色々と忘れている気がする。何をしていたんだっけ。

 そう考えていたら、こっちを見ている夏美の視線に気が付いた。顔を向けると、目を逸らされた。なぜだろう。


「おい、ビール来た来た」


 永沢の言葉に全員が気を取り直し、俺の前にビールが配られる。


「全員揃ったところで一応乾杯でも?」


 場を仕切りなおす矢島。みんなそれに頷く。


「……では、挨拶はともかく、カンパーイ!」


 矢島の言葉で、それぞれがビールを掲げる。

 そうして、飲む前からなぜか重たい頭と、多少の疑問を抱えつつも、飲み会は始まるのだった。

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