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告白

 行こうと決めた後でも、ユイに面と向かうと言葉にするのがためらわれる。

 真っ直ぐに向かい合って不思議そうに小首をかしげるその顔が、瞳が、純真すぎて直視するのがつらい。

 別に悪いことをしようとしているわけじゃないのに。ただ少し、この場を離れるだけだ。


「えっと、今、電話聞こえてたと思うけど……そういうことだから」


 なにが、そういうことだから、だ! そんな簡単にことを済ませようとする自分に思わず心で突っ込む。いくら声が聞こえていたとはいえ、そんな説明で誰が理解するというのか。


「どこか、行っちゃうの?」


 わずかに寂しさを含んだような声に、思わず「違う」と言いそうになってしまう。今生の別れでもないのに、この程度をさらっと流せないようでは重症だ。


「2、3時間ほどしたらすぐに帰ってくるからさ」


 その言葉が、自分を置いていくという意味だと理解したのだろう。ユイは、少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、目を伏せて頷いた。

 出会って数日経っているとはいえ、他人の家に置き去りにされるのは心細いだろう。ここは連れて行くと言うべきだったのか? だが、靴すら持たない彼女に色々と用意してあげるような時間はない。

 ……いや、本当はそれすら言い訳でしかなくて、彼女を幻だと誰かに指摘されてしまうのが怖いのかもしれない。


 もやもやと考え込みそうになる俺。だけど、これは一種の病気のような気がして、その考えを無理矢理に断ち切った。

 これは彼女と一人の人として向き合うためにも必要な時間なんだ。そう心に言い聞かせる。


 だけど……


 ユイのそこはかとなく寂しげな佇まいを見て、俺はいてもたってもいられず、気が付くとその両手を掴んでいた。


「け、健治さん……?」


 口を開きかけて、ためらう。まだ早い、今じゃない、今言うべきじゃない。

 だけど、ユイから目が離せない。

 動揺するユイ。錯綜する思考の中で俺は、たった一つの、まだ胸の奥にしまっておくべきだった言葉を、止めることができなかった。


「好きだ」  


 彼女の反応を見るよりも早く、俺は手を離し、弾かれたように背を向けていた。

 やってはいけないことをやってしまった。そんな気がしていた。

 気まずい思いをしたユイは、帰る頃にはもう家を出てしまうかもしれない。記憶からも、この家からも、彼女が永遠に消えてしまう。


「ごっ、ごめん……俺はなんて……こんな時に」


 背を向けただけで、脳裏から段々と消えようとしていくユイの姿。もしかするともう本当に消えてしまったんじゃないか、と不安に思って恐る恐る振り返る。


 ユイはそこにいた。すぐそばで、少し頬を染めて、優しく微笑みながら。


「……ううん……」


 そっと俺の右手を両手で優しく包みながら、ほんの小さな声でユイがささやく。わたしも、と。


 予想外の返事に俺はすっかり赤面して、「へ?」とか間の抜けたような声しか出なかった。


「な、なんで?」


 我ながら、何を聞いているのか、とは思う。自分で告白しておいて。


「どうしてかな……」


 不思議そうに、ふふ、とユイが笑った。初めて見る少しくだけた笑顔。俺は思わずはにかんで、ますます顔を赤くした。

 特別な理由はないけど惹かれている。俺も、彼女も、お互いにそうだったのかもしれない。恋をするのに、必ずしも理由なんて必要ない。

 相変わらず彼女の手はふわっとして、夢のように掴みどころのない感触だったけれど、温かさだけは直接心に届いた気がした。


 ひとしきり笑いあった後、改めて向かい合い、落ち着いて見つめあう。


「できるだけ早めに帰るから、必ず待っててくれよ?」

「うん」

「急に記憶が戻ったって、家を出てったり」

「きっと大丈夫」

「不安だな……なにか、思い出したりした?」


 今までタブーだと思っていたことを聞いてみる。お互いの気持ちを知った今なら、聞いても問題はない気がしたのだ。


「少しずつ……。そうだ」


 ユイはベランダの向こう側を指差した。向かいの家の庭に、木が植わっている。5月になるとバナナの香りがする花が咲く、ユイが思い出そうとしていた、あの木。


「カラタネオガタマ、っていうの。小さな頃、庭に植えたのを思い出したの」


 父さんや、母さんがいたことも何となくうっすらと思い出してきたようで、断片的な事柄を、いくつか簡単に話してくれた。よく母さんのお手伝いをしていたとか、父さんは厳しくて、でも肩車をよくしてくれたとか。それはなぜか全て小さなころの話で、それ以降はなかなか思い出せないでいるようだった。

 全部もし思い出して、実は俺がユイにろくでもないことをしでかしていたとわかったら……、と冗談半分、本気半分で言ってみると、ユイは首を横に振って当たり前のように答えた。


「健治さんは、そんなに悪い人じゃないわ」


 真っ直ぐな瞳でそう言われると、くすぐったい。むしろそこまで言わせてしまうことに罪悪感を感じてしまう。


「そりゃ過信しすぎだよ……じゃ、そろそろ行ってくるから」


 うん、と彼女は小さく頷いた。今度は、寂しさをあまり感じさせない、優しい笑顔で。

 財布は、と思い出していつもの定位置にないのに気づき、胸を探ったら、内ポケットに入りっぱなしだった。とりあえずあったことに安心して、玄関に向かう。

 ユイとしばらく別れを惜しんで、優しく頭を撫でる。ついそのまま近づいてキスしたい衝動に駆られる俺。今度は抑えない、今までのようには。


「……いい?」


 返事の代わりにユイは、頬を染めて、静かに両目を閉じた。

 それを肯定と受け取って、俺は極力優しく、繊細な壊れ物を扱うようにそっと唇を重ねる。

 彼女をリードする余裕を見せたつもりだが、実際は頭が真っ白で、口から心臓が飛び出しそうだったことは内緒だ。


「じゃあ、留守番頼むよ……ユイ?」


 少し特別な気持ちで名前を呼んだあと、少し照れながら微笑むユイと視線をかわし、俺は後ろ髪をひかれながらその家を後にした。


 少しずつ失われていく彼女の感触、そしてその姿。これからしばらくの間、俺はまた今までのように彼女を忘れてしまうのかもしれない。

 だけど、必ず俺は帰ってくる。帰ってこれば、きっと彼女が迎えてくれる。そうして全てを思い出す。


 その時は、幸福でいっぱいのその気持ちが、永遠に続きそうな気がしていたのだ。

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