孫
風呂場の浴槽の蓋の上に乗るのは危険です。
気温が40℃を超えた午後、小学校から帰ってきた銀蔵は、玄関の戸を開けっ放しのまま靴を脱ぎ捨て、台所へ走っていった。
家には誰も居ないようだった。
台所で銀蔵は勢いよく冷蔵庫のドアを開けジュース等を必死に探したが、半分に切られた野菜やカラフルなタッパがぎっしり詰め込まれた冷蔵庫の中には冷やした水や麦茶すらなく、銀蔵をひどくガッカリさせた。
冷凍庫の引き出しは中が詰まっていて、銀蔵の力では開けることはできなかった。
氷も出来ていなかった。
仕方なく、銀蔵は台所の水道の蛇口を開き、出てきたぬるい水を口に直接含んだ。
だが、水は爺ちゃんの臭いがして少し酸っぱく、飲み込めずに水を吹き出してしまった。
仕方なく銀蔵は、台所の水を諦め洗面所に行った。洗濯機の前には山積みの洗濯物が置かれていた。
銀蔵は洗面所に置いてあるコップに水を汲んで口に含んだが、父ちゃんの激しい臭いにビックリし、鼻水を2本出して激しくむせた。
残りは風呂場と家の前にある蛇口の2箇所だが、しばらく悩んだ銀蔵は、家の前にある蛇口を選び玄関でサンダルを履いて外に出ると、家の前の水道の蛇口を上に向けて水を出し、少し冷えるのを待って口に含んだ。
水は湿布臭い母ちゃんの臭いがしたが、喉の乾きに負けて結局そのまま飲んでしまった。
臭いはいつまでも口の中に留まり続けた。
それでも喉を潤して少し落ち着いた銀蔵は、水道水の臭いが家族に関係するならば風呂場の蛇口から出る水の臭いは恐らく、ずっと昔に死んだ婆ちゃんだと考えた。
額縁の中の写真しか見たことがない銀蔵は、玄関でサンダルを後ろへ飛ばすように脱ぎ捨て、風呂場へ走っていった。
そして、風呂場で浴槽にのせてある蓋に身を預けるようにして、蛇口から出した水道水を直接口に含んだ。
だが、少し塩気を感じたものの特に代わり映えしない普通の水だった。
銀蔵は、期待が外れて残念に思った。
その夜、家族揃って静かな夕飯をとった後、銀蔵はシャワーを数秒浴びただけで浴室を出てパジャマを着ると、そのまま爺ちゃんの部屋を訪ねた。
そして、家に帰ってきてからのこと全てを爺ちゃんに話した。
「……なるほど、銀蔵は風呂場の蛇口の水が気になるんじゃな?」
「うん、オレ婆ちゃんのこと覚えてないし…」
「でも、いま確かめようにも典子さんが風呂に入っておるじゃろ?」
「母ちゃんか?そろそろ風呂から出る頃だから大丈夫だよ、爺ちゃん。」
「うむ……じゃあ、いってみるか銀蔵。」
「うん、でも爺ちゃん…その空のペットボトルどうするの?」
爺ちゃんの後を銀蔵がついて行く。
浴室には誰もいなかった。
2人が風呂場の浴室に裸足で入ると、まだ湯気が立ち込めていて、換気扇がうるさく動いており、浴槽に蓋が乗せられていた。
爺ちゃんは辺りに漂う石鹸の香りを嗅いでいた。
「銀蔵、ここの蛇口の水が気になったのじゃな?」
「……うん。」
爺ちゃんは、銀蔵にペットボトルを預けると、蛇口の下の所の浴槽の蓋を少し開けて水を出し、両手に水道水を溜めてズズッと啜った。
「……ん、確かに女性の香りを感じるが…婆さん特有の苦味やえぐ味は感じないな。別人じゃないか?」
「違うの?でも、誰かの臭いはするんだよね?」
「うむ。…誰かは分からないがな。」
「でも、何で人の臭いがするんだろうね?」
「人形のように人の思いが移ったりとかかの。」
「言っていること分からないけど…婆ちゃんじゃないのか…ねえ、爺ちゃん?」
「何だい?」
「婆ちゃんの話が色々聞きたい。」
「…じゃあ、今夜は爺ちゃんと寝ようか?」
「うん。」
「……そのペットボトル…」
「…爺ちゃん、ゴメン。トイレ我慢できなかった…。」
その夜は、昼間の暑さが信じられないほど肌寒かった。
銀蔵は、布団の中で爺ちゃんの話を聞いた。
今回の水道水の事は、
「婆ちゃんが自分の事を知ってもらいたいという気持ちを、回りくどいやり方で銀蔵に伝えようとした事ではないか?」
と、爺ちゃんは言った。もうすぐ十七回忌だという。
だが、その話は銀蔵には難しく、結局わからなかった。夢の中で婆ちゃんに会えたら、爺ちゃんの話を解説してもらおうと思っていた。
静かな夜だった。開けてある窓から涼しい風が入ってきている。
銀蔵は、あまりに静かすぎて家の中に誰もいないような不気味さを感じ、深夜に目が覚めたあとは眠れずに起きていた。
横を見ると、隣で寝ているはずの爺ちゃんがいない。布団も無くなっていた。銀蔵は、部屋の明かりを付けようとしたが停電のようだった。
銀蔵は1人でいるのが怖くなり、枕を抱いたまま暗い部屋を出て、早足で暗い廊下の先の両親の寝室へ向かった。
だが、その寝室には誰もいなかった。
その時、台所の方から爺ちゃんの声が聞こえた。
銀蔵は台所へ走っていった。台所も明かりは付いていなかった。
「爺ちゃん…?」
手探りで、その暗い部屋の中を進んでいくと、キッチンの前で爺ちゃんが銀蔵に背中を向けて立っていた。
「爺…ちゃん…?」
爺ちゃんは暗闇の中で淡く青白く光り、半透明の姿をしていた。
そして、銀蔵の呼び掛けに反応してゆっくり振り返ろうとした時、銀蔵の体をすり抜けて進んでいった赤く光る人型のものが、手に持った刃物のようなもので爺ちゃんの背中を何回も刺したあと、倒れた爺ちゃんの顔を確認して台所を出ていった。
銀蔵が唖然としていると、今度は玄関の方から声が聞こえた。
母ちゃんの声だった。
急いで玄関へ行ってみると、先程の赤い人型が玄関先の水道の蛇口がある所で、半透明の青い母ちゃんを背中から何度も何度も繰り返し刺しているのが見えた。
そして、髪をつかんで庭の方へ引きずっていった。
銀蔵が母ちゃんの後を追いかけようとした時、
洗面所から父ちゃんの声が聞こえた。
言葉にならない、怯えたような震えた声だった。
銀蔵が洗面所をそっと覗くと、半透明の父ちゃんが隅の方でガタガタ震えて座っていた。
その父ちゃんの前に、赤い人型(今度はハッキリと髪の長い女性に見える)が仁王立ちしていた。
その赤い女性が、目の前の泣いて謝る父ちゃんと視線の高さを会わせるようにしゃがむと、青い唇をゆっくり動かした。
銀蔵には女性が何を言ったのか聞こえなかったが、その一言は父ちゃんの感情を逆撫でさせたようだった。
まるで別人のように父ちゃんの表情が険しくなり、感情を抑えきれないまま大きな両手で女性の首を絞め始めた。
やがて父ちゃんは、動かなくなった仰向けの女性の両脇に下から手をまわして浴室へ引きずっていき、浴槽の蓋を開け苦労しながら女性の体を中に入れると、大きく息を吐いて、浴槽の蓋を閉めた。
そのあと父ちゃんは、様子をうかがっている銀蔵の体をすり抜けて洗面所に戻ると、ズボンからベルトを引き抜いて、上を向いた。
銀蔵は、父ちゃんが何をしようとしているのか理解できず暫く見ていると、銀蔵の腕を何かが強く引いて、洗面所から廊下へ引っ張り出された。
そこで銀蔵は、家の中を走り回る半透明の青い自分の姿を見た。
暫くして、半透明の爺ちゃんと自分が浴室へ入っていくのを見た。
銀蔵が、
「夢でも見ているのかな?」
と、思い始めた時、
半透明の自分が着替えを抱えて洗面所へ入っていくのを見た。銀蔵は、後をついていった。
半透明の自分は服を脱ぎ、浴室へ進んでいき戸をガラガラと閉じた。
銀蔵は、少しだけ戸を開き浴室の中を覗くと、自分が頭からシャワーを浴びている所だった。
その隣で、閉めたままの浴槽の蓋がズズズと動き中から赤黒く細い女性の腕が静かに延びると、シャワーを浴びている半透明の自分の首をつかんで浴槽の中へ一瞬で引きずり込み、浴槽の蓋をズズズと閉めていった。
銀蔵は、無意識に浴室の中へ進み浴槽の前に立つと、心臓の音をうるさく感じながら、浴槽の蓋に手をかけた。
その時、再び銀蔵の腕を強く掴んだ手が、銀蔵の体を強引に浴室から引きずり出し洗面所から廊下へ放り投げた。
銀蔵はそのまま廊下を引きずられていき、爺ちゃんの部屋の襖をぶち破って部屋の中まで連れてこられると、敷いてある布団の上に投げ飛ばされた。
その銀蔵の上に、突然開いた押し入れから重くて大きい布団が飛んできて、銀蔵の全身を覆った。
銀蔵は驚いて、布団から顔を出してキョロキョロと辺りの様子を伺っていると銀蔵めがけて婆ちゃんの額縁写真が飛んできたのに気づき、慌てて布団を被って避けた。
それから暫くして銀蔵が静かに布団から顔を出すと、部屋が眩しいほどの朝日の光りに満ち溢れていた。
銀蔵が起きようとすると、酷い頭痛で布団から出られなかった。
頭を少し動かして横を見ると、爺ちゃんがまだ寝ていた。
そこへ母ちゃんが部屋に入ってきて、銀蔵の様子をうかがうと、
「今日は学校を休みなさい。母ちゃんも休み取るから。」
「父ちゃんは?」
「午後から仕事だって。」
「そう……。」
銀蔵は、朝食のかわりに用意された果物をわずかに食べると、そのまま午後まで眠った。
午後になって、銀蔵が喉の乾きを覚え布団から出た時、玄関の戸がガラガラと開いた音が聞こえた。
玄関に行ってみると、そこで銀蔵は、赤いワンピースを着た女性の長い髪を掴んで引きずり、外へ出ていく婆ちゃんの姿を見た。
婆ちゃんは銀蔵に気づいて振り返り、返り血で赤く染まった顔で優しく笑った。
その夜の夕食は、婆ちゃんが作ってくれた鮮やかな赤い色のケチャップがたっぷりかかった、大きなオムライスだった。