LSD
心の中を、澄んだ風が通り抜けていくような、とても穏やかな気分だ。さっきまで感じていた不安はもうすでに無い。
辺り一面は真っ暗な闇に包まれている。何も見えない、聞こえるのは、自分の呼吸音。それと、なんだろう、一定のリズムで音が聞こえる。バスドラムの音に似ているがもっと繊細で、米を洗っている時の音のようにも聞こえるが、それよりも、もっと力強い音。何回も聞いた事がある気がするのだが。
遠くの方で無数の光が見え始めた。光は帯状で、一つ一つが様々な色をしているが、どれもビー玉を太陽で透かしたような、澄んだ光を放っている。
光の帯は群れをなして、どんどん近づいて来る。こっちへ向かって来ているようだ。僕はその様子をぼんやりと見ていた。なんて綺麗なんだろう。まるでネオンで彩られた川のようだ。もしくは蛍の大群が、盆踊りでもしているような。まあとにかく、言葉で表現しがたいくらい美しいという事。これだけ分かってくれればいい。
…誰に言っているんだ、僕は。さっきから自分で恥ずかしくなるような事ばかり言っている。今の僕はやっぱりおかしいと、改めて実感した。まあ、当然といえば当然だが。
自分の中でリミッターが外れたような、そんな感覚。しかし、ハイになるとか、そんな感じでは無かった。気持ちが良いとも形容できるが、もっと深い、いや、気持ち良くなりそう。という方が近いかも知れない。心が好奇心で満たされいるような感じ。分かりにくいかも知れないが、これが1番近いような気がする。
僕は初めてドラッグをやった。
LSDというやつ、巷ではアシッドとか呼ばれているらしい。
ご存知かもしれないが、ドラッグには色々な方法がある。もちろん、種類の違いにもよるが、注射器で打つという、いかにも〜な方法をとらずとも、鼻から吸ったり、包装紙に包んで、ダバコと同じように吸うだけなんていう、手軽に楽しめる物も存在する。
このLSDというやつはさらに簡単で、紙状になっているLSDをただ口に含めばいいのだ。後は、紙と唾液を絡ませ、その唾液を呑む。それだけで、極上の気分。神の国に足を踏み入れたような感覚を味わうことができる。必要なのはLSD本体だけで、道具などは一切使わない。この手軽さがあり、LSDは結構な人気がある。
と、僕をドラッグの世界に引きずりこんだ友人が言っていた。他にもドラッグの歴史的背景だとか、国によっては合法で売買がされて…。
ああ、もうこんな話どうでもいい。…ええと、なんだっけ。何の話をしていたんだっけ。
ん、別に話を戻す必要はないだろ。そんなに重要な話でも無かった。あれ?話?僕は誰とも話なんてしていないだろ。ただ自問自答を繰り返していただけであって、『話』という単語は適切じゃない。なぜなら『話』は第二者がいて初めて成立する単語であって、この場合、僕唯一人しかいないわけで、ええと…言うこと忘れちゃった。あれ?『言う』?僕はさっきから口に出して喋っていないわけで、ただ考えてるだけであって…ってどうでもいいだろ!!ええと、なんだっけ?ん?思い出さなきゃならない程重要な事だっけ?
ん?
あれ?
え?
ええと…
どうでもいいだろ!
ん?
あれ?
え?
僕はそんな感じで自問自答のループを繰り返していた。俗に言うと完璧に『キマっている』状態だ。
この状態の感覚は、なってみないと分からないが、言葉にするなら『寝る』『起きる』のサイクルを連続で繰り返すような感覚。
ついさっきまで考えていた事が、ふと、何日か前に考えていた事のように思えて来て、何について考えていたのか思い出そうとすると、もう思い出せない。そのうち、思い出せない事に対してじれったくなってきて、どうでもいいや。と、なってしまう。不思議な感覚だ。だが慣れると、夢の中にいるような、もっと深く言えば、自分という存在が、どこか客観的に見えてくるようになる。簡単に言うと、自分というものがどうでも良くなってくるのだ。
すると、何故か不安が薄れてきて、とても心地よい気分になれるのだ。
気が付くと、僕は水の中を漂っているような浮遊感に包まれていた。いや、闇の向こうで星屑のような光が見えるので、宇宙空間なのかもしれない。
星屑の光は今にも消え入りそうなくらいに小さい。朧げに輝く光を見ていると、なぜかその光の一つ一つが、僕が人として得てきた時間の様に感じられた。
すると、光はどんどん輝きを増して来た。赤、黄、緑と、シャボン玉の表面のように次々に色を変えていく、そして、青、紫と変わり、また赤へと戻る。その様子はまるで光自身が自らの輝きを楽しんでいるようで、とても美しかった。光は高速で移動していく。点が線に変わり、帯状に姿を変えていく。
光が僕の身体を突き抜けていく。熱いような、冷たいような。僕の目はもう見えているのか、見えていないのか分からなくなった。ただ、光が、真っ白な光が、僕の身体をすりぬけていく。
もう何がなんだかわからなかった。ここが何処かも、右も左も、上も下もわからない。起きているのか、眠っているのか。生きているのか、死んでいるのかさえも。だが、恐くは無かった。仮にこのまま死んでしまうのだとしても、笑って迎えられそうな気がした。その時は優しく笑ってやろう。ここには全てがある。このまま光の一部になるのも悪くないんじゃないだろうか。
その時、また遠くの方からあの音が聞こえてきた。一定のリズムで聞こえてくる強く、繊細な音。今度はハッキリと思い出す事が出来た。
これは心臓の音だ。僕の心臓が脈打つ音。懸命に、しかし急ぐ事無く、心臓は膨脹、収縮を繰り返し、僕を生ヘと導いている。
ああ、僕は生きているのか、僕の意思とは関係なく、僕の身体は僕を生かそうとする。懸命に、しかし急ぐ事無く。『生きる』とは、こういう事なのか。
これはふとした理念。もしくはただの自己満足なのかもしれない。しかし、それは誰にも分からないのだ。僕自身でさえも。
光の輝きが弱くなってきた。もうすぐドラッグの効き目が切れるのだろう。じきに僕は正気に戻り、また普通の日常に身を投じる。もしかしたら、ドラッグの副作用に苦しまされる日々が続くのかもしれない。しかし、後悔はしていない。僕は一度死んで、そしてもう一度生まれたのだ。
僕は多分、もうドラッグをやる事は無いだろう。しかし、この時の事を一生忘れはしない。僕は確かに神の国に足を踏み入れたのだ。