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 人影も疎らな甲板に安心し、ヨルナは柵に寄りかかった。

 ネリの言葉が頭に響く。

 後悔などしっぱなしだ。

 どうしてあの時二人の話を聞いてしまったのだろう。

 いや、どうして最初の時にキスを拒んでしまったのだろう。

 押し潰されそうだった。


「あたしだって……」

 クライドのように結婚相手を自分で選びたい。それが無理だったら、少なくとも自分の気持ちを伝えたい。

 柵に身を預け海を眺める。

 視界の真ん中、柵のすぐ近くのケルプの森が、かつてヨルナが溺れた場所だ。キリクが助けてくれた場所。

 ……キリク。

 自分の気持ちをせめて知って欲しい。そしてそれこそが、ヨルナがキリクの求婚を拒む最大の理由だったことを言わなければ。

 ……それできっぱりと終わりにしよう。

 そうでなければきっと、いつまでも心に靄を抱えたままだ。もしこのままクライドと結婚したとしても、キリクがヨルナの心に住み続けることになる。

 無意識に身を乗り出し、ケルプを掴もうとして――。

「ヨルナッ!!」

 次の瞬間、ヨルナは真っ青な色を見上げていた。


  †  †  †


 衝撃はなかった。

 温かい身体の上にいることはなんとなくわかっていた。

 警告の叫び声が誰のものかも。

「……ってぇ! 何やってるんだ! また溺れる気か!? 助けるのは二度目だぞ!!」

 彼は、ごろり、とヨルナを脇に押しやると黒髪に手を突っ込みかき回した。甲板で敏捷に立ち上がったヨルナは相手を見下ろし、不意に自分勝手な怒りを覚える。

「もう放っておいてよ!」

 剣幕に、ぽかん、と口を開けたキリクを見下ろし、ヨルナは沸き出す感情のままに喚いた。止めるつもりもなかった。

「もう十分! もう十分よっ! 義務感だろうが責任感だろうが知らない! 優しくなんかしないでいいよっ! あたしのこと、好きでも何でもないくせに!」

 髪を縛っていた紐が激しいかぶりに飛んでいく。海風に煽られ潮に焼けた長い髪が舞い上がった。

「もういい加減にしてよ……忘れようって思ってるんだから!!」

 眉根をきっちり寄せて、寝転んだままキリクが疑問の表情を作る。

「知ってるのよっ! 兄さんに言われたんでしょ!? お守り御苦労様! あたしにはクライドがいるから大丈夫よ! 安心して好きな女の子に求婚しなさいよっ!!」

 胸が痛い。

 我知らず身体を強張らせてしまい、肺一杯に空気を取り込もうと肩で息する。ぎゅっと服の胸元を掴んで、ヨルナは喘いだ。

「兄さんがなんて頼んだか知らないけど、迷惑だったら断れば良かったのよっ! それを何度も……あたしはそんな同情とか責任感とかで求婚なんかして欲しくなかった!!」

 目を白黒させていたキリクが急に半眼になる。

「……つまり、なんだ……? お前は俺が義務感だけで何度も求婚するお人好しだとでも思ってんのか?」

 重く溜め息を溢したキリクは前髪をくしゃりと握り立ち上がると、ヨルナを覗き込んだ。

 顔が近い。カッと頬に血が登るのがわかる。

 視線を反らしてヨルナは毒づいた。

「違うとでも言うわけ!? あたし聞いたんだから!」

 自分の耳を疑いたくても出来なかった。どこか簡単に納得出来たのは、キリクに好かれていると思えなかったからだ。

 からかうような表情をどう好意的に解釈しても面白がっているようにしか思えないし、何度も繰り返し求婚してきたことで断っても何の衝撃もないのだろうと思っていた。

 それが違うと言うのか。

 キリクの視線が頬に刺さる。穴の開くほど見つめられている気配に、もう正面を向くことも出来ず、ヨルナは下を向いた。

 少し掠れたキリクの、耳に残る低い声が降ってくる。

「ネリに頼まれたとしてもな。好きでも何でもねえ奴に求婚なんてことするか」

 ……そんな筈ないっ!

 黙っているとくすり、とキリクが鼻で笑う。

 弾かれたように睨み、ぐっと奥歯を噛んだ。

 見上げた先にある黒い瞳はけれど、想像と違って峻烈だ。その口角を挙げた笑みさえなければ近寄り難い程の。

 ――昨日もこんな顔してた……。

 既視感にめまいさえ感じて、思わずよろめいたヨルナの腕をキリクが掴む。強い力で握られたまま、キッと視線を返し――。

「じゃ、あたしのことが好きとでも言うわけ!?」


「ああ、好きだけど? 知らなかったか?」


 揺らぐ真摯だった瞳に動揺を読み、ヨルナは目を見開いた。

 同時に、どっと身体に血が巡る。

「……知ら、なかった……」

「好きじゃなきゃ何度も求婚するわけねぇだろ? 俺がそんないい加減な男に見えるか?」

 ヨルナは小さくかぶりを振った。

 だからこそ、義務感だと思っていたのだ。義理堅く、人情味溢れ、誰からも好かれているキリクだからこそ、ネリが頼んだと簡単に納得出来たのに。

 それでは、ヨルナがしてきたことは何だったのだろう。

 何度求婚されても応じなかった。自分ばかり好きで、愛されてもいないまま結婚するのが怖くて――淋しくて。

「そんな……だって……」

 言葉が溢れ落ちる。小さく開けた口に荒れた指先を当て、ヨルナはこくりと唾を飲み込んだ。

「あたしは……キリクは兄さんに頼まれたからだと……」

「馬鹿言え。俺はお前をそこのケルプから助けた時からずっと嫁にするつもりでいたんだ」

 キリクの視線を追って、ヨルナは海を見つめた。

「ま、さっき言った通り、お前とクライドのことは祝福するさ。気にしなくていい」

「気にするわよっ! 気にしないわけがないじゃないっ!!」

「ちゃんとおめでとうも言えただろ? 大丈夫だって。心配しなくてもお前たちの邪魔なんかしないさ」

 すっとキリクが離れていく。

 その距離が、そのまま二人の未来に思えて。

 ヨルナはキリクの襟元を両手でぐいっと掴むと――。

 なんの躊躇いもなく彼にキスをした。


 キリクの唇は乾いていて、驚愕からか少し震えている。視線を外さずヨルナは彼を見上げ続けた。

「……な、んで……」

 触れあったまま、キリクがぽつりと疑問を溢す。見開かれ、少し寄った黒い瞳。耳から頬にかけて真っ赤になっているのが視界の端に映る。

 手はしっかりと彼の服を掴みつつ、ヨルナは唇から離れた。鳶色の瞳に強い生気を宿らせて、キリクを睨む。

「邪魔してよっ! 言っとくけど人命救助じゃないわよ!? き、キリクは溺れてたわけじゃないんだから!!」

 どこかで声なき声がする。――照れている場合じゃない、と。

 今こそ、彼に伝えなければ。

「あ、あたしはキリクが好きなの! ずっと好きだったのっ!!」

「なんだって!?」

「義務感で一緒にいてくれるのかと思ってたから、だからずっと、十三回も求婚断ってたの……。ほんとにごめんなさい……」

 謝罪の言葉を呟いて、ヨルナは襟元から手を放した。

 顔から火が出そうだ。

 自分が信じられない。どうかしている。

 そう、どうかしているのだ。けれど。

「十三回も断っといて自分でもどうかしてると思うけど嘘はつけなかった」

 くっ、とキリクが鼻であしらう。

 唖然として見上げた先で、目を細めて声をあげながら笑い出した。

「じゃ俺も嘘は言えないな。十三回じゃなくて十四回。ついでにさっきのは二回目のキスだ」

「……は!?」

 言われた言葉が理解出来ずに、ヨルナは随分と間抜けな声を出した。

「最初にヨルナが溺れた時、俺はお前にキスしてる。――人命救助の人工呼吸をキスに数えるなら、の話だけどな」

 ここで、と甲板を指差してキリクは肩を竦めた。

「黙ってたのは悪かった。ネリや長がお前に選択の余地を与えるべきだと言ったし、俺もそうすべきかと思った。最も俺はあの頃からお前を嫁にするつもりだったが、お前はまだ九歳だったから……」

 思わず離れかけたヨルナは、キリクの掌に阻まれる。

「俺と所帯を持つつもりはないか?」

 昨日、彼から言われた言葉。

 近付いてきたキリクの瞳を見返し、ヨルナはゆっくりと睫毛を伏せた。


  †  †  †


「――すまなかったね」

 木箱が積まれた、ヨルナ達の死角に大小の人影があった。その大きい方が眉を下げながら肩を竦める。

「こうなるだろうと思っていたから問題ない」

 小さい方――クライドが軽く笑う。

「最初に僕を助けてくれた時、彼女は言いかけたじゃないか。あの時からもしかしたらと思っていたから、想定の範囲だよ」

「そう言ってもらえると助かるよ。巻き込んでしまって悪かったね」

 ネリは幸せそうな二人を背後に溜め息をつくと、眉間を揉んだ。

「僕としては残念だがな。とにもかくにも《住まう舟》の民に伝が出来たのだから良しとしよう」

「ああ、なるほどね」

 クライドが視線を転じる。船が水平線から滑るように近付いてくる。

「……ドレス目掛けて迎えが来たようだ」

 巨大な船だった。そして一瞬でネリは悟る。

 彼がもうここから出ていくつもりだということも。

 明るく笑い声をあげて、ネリは甲板の二人を顎で示した。

「声をかけていかないのかい?」

 彼の妹と親友は抱き合ったまま、幸せそうに微笑んでいる。それにクライドはおどけて端正な顔をにやりと歪めた。

「今かけたら邪魔者だよ、僕は。いずれ改めて礼をしよう」

 船から縄ばしごが投げられた。それを片手で受け取り、クライドは足をかける。

「長ワグにも、突然の闖入者を温かく迎え入れてくれたことに謝辞と、挨拶も言わずに去る無礼に対しての詫びを伝えてくれるとうれしい」

「父さんには伝えておく。お礼は気にしなくていいよ。俺も妹のために君を利用したようなもんだから。ま、君が義弟にならなかったのは残念だけど――」

 口角を上げて悪戯めいた笑みをつくると、ネリは囁いた。

「いつでも歓迎するよ。交易の話も含めて、今度は本来の君で来るといい」

 船に移り終えたクライドが顔を覗かせた。驚愕の表情を切り替えるとネリに微かに頷いて、ヨルナの一晩だけの婚約者は姿を消した。


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