⑧
怒鳴りつけても真実は得られない。オーロが部屋に消えたことを確認すると、オルテンシアは再び切り出した。
「あんたはこの顔を知ってる筈だ」
それは凪いだ海のように静かな声で。口をきいたオルテンシアすら戸惑うくらい、牢内に凛と響く。
突如、男が動いた。素早く立ち上がると狭い独房を一瞬で縦断する。鉄柵を両の手の指が白くなる程の力で握り、その間から顔を出した。
「無事だったんだなっ! 良かった!」
暗い牢に不釣り合いに表情を明るいものに変化させ、男は笑みすら浮かべていた。
憎悪と何故か覚えた違和感にくらくらする。
「悪かった! オレを覚えてるよなっ!? ありがとう! あん時は悪かった!! ほんと悪かった! オレはずっと後悔し――」
「良くないよ」
捲し立て謝罪を繰り返した男を、オルテンシアは誰にも聞かせたことのないような冷徹な声で遮る。
「あんたの言う、あの時に、ゴンドラから落ちたのは僕の双子の弟だ。あんたとは初対面だよ」
だが、そう言いながらも内心で首を傾げた。
奇視感があるのだ。
――なんか、見覚えが、ある気がする……?
どこかで会っているのだろうか。記憶を探るが、該当しない。確かに、初対面の筈だ。
男はまだ若い。コラッジョーゾと幾つも変わらないだろう。
オルテンシアはオーロの忠告を無視し、一歩、鉄柵に近付く。
「じゃ、じゃああの船頭は……」
「遺体も見つかってないよ。僕はあんたに理由を聞きに来たんだ。弟が水路に消えた理由を」
「……そう、か」
目に見える程落胆し、男はずるずると座り込んだ。オルテンシアはそんな男を蔑むように鼻で笑う。
暫くどちらも口を開かなかった。
灯りがちらちらと揺れ、影があっちにゆらり、こっちにゆらりと小刻みに移動している。
「あの日……」
男が俯いたまま口を開いた。くぐもった声が暗い牢にこだまする。
「オレたちは絵を盗んでやろうと息巻いてた。――オレとバレンツォは仮面祭の三日かそこら前に酒場で会って気が合って。毎晩酒を飲んだ。バレンツォは金を持ってた。貴族だったからな。あの日は、バレンツォがルチェーナに帰っちまうからって飲み歩いて、しこたま酔って、それで……」
男が顔を両手で覆った。肩が細かく震え、影が大きく振れる。声には後悔が溢れていた。
オルテンシアは無言で男の話を聞く。
「あんたの弟さんはオレたちの会話を聞いて止めたんだ。オレも、冷たい風にちょっと酔いが醒めてきて。オレとバレンツォは言い争いになった」
やや歪な丸をした月の夜、水路に浮かぶゴンドラ。客のいさかいに困りきって、金の巻き毛を揺らし、櫂から手を放すゴンドリエール。
光景がまざまざと浮かび、オルテンシアは息を飲む。
「オレは突き飛ばされてゴンドラから落ちかけた。バレンツォはそれでもオレを殴り続けてて、慌てた弟さんが止めに入ってくれた」
アルベロならきっとそうする。
――アルベロは誰かが傷付くのを嫌ってたわ。あれが可哀想これが可哀想って一緒に泣いて一緒に落ち込んで。弱いくせに仲裁しようとして、いつもあたしがかわりにいじめっ子に拳骨を……。
泣きそうな感傷を静かに追いやり、オルテンシアはきつく目を眇た。
「バレンツォは、弟さんに掴みかかって」
ゴンドリエールが椅子まで飛び下り、二人の男の間を割る。
混乱していた筈だ。
――それでも目の前で殴られてるのを見て、止めに入った……。
「アルベロがあんたを助けた?」
口を挟むと、男はようやく両の手を顔から外す。柵に手をかけ、うっすらと涙に濡れた目でオルテンシアを見上げてきた。
「そうだ。オレはあんたの弟さんがいなかったら……」
男の目に悔悟を見てとる。
アルベロがもし心優しい少年でなかったら、この男はここには居らず、アルベロも相変わらずオルテンシアの隣にいたかもしれない。
――でも優しくないアルベロなんてアルベロじゃないわ……。
小さく吐いた溜め息に男が身動ぎする。
多分、相手の強さとか自分のことも、昔と一緒で何も考えず、ただ男を助ける為に間に割り込んだ。無意識かもしれないし、ただ無我夢中だったのかもしれない。
男の言葉は信じられる。
それが、弟の性質だった。
放心したまま表情を凍らせ、オルテンシアは唇を歪めた。
「すぐに助けようとしたけど、水は冷たくて、暗いし、流れも渦があって……」
水が冷たい? 暗い? オルテンシアは内心のどこか遠い場所でそれを聞く。
ガンヴィッロの街の性質上、建造物の凹凸に海流がぶつかり複雑に渦巻いている。それがガンヴィッロの水路の特性だと知っている者は――いや、ガンヴィッロに住む者なら知らない者はいない。
それでもオルテンシアの脳裏にトマソが慌てて蘇生する姿がよみがえる。
「すまなかった」
すまない、と頭を下げる姿。脳裏でまだ水が滴る髪は、この男と同じ色だ。
「……あんたにお礼を言わないと。初対面なんかじゃないよね」
オルテンシアは柵に手をかけると膝をついた。
男と目線の高さを合わせると、ゆっくりと微笑む。
「あの時、弟を助けに飛び込んでくれたのはあなただった」
男がぱちくりと瞬きし、かくんと顎を落とした。
「泣いてた女の子か……?」
頷き、笑みを引っ込め、オルテンシアは声を硬いものに変える。
「弟を殺した貴族はどこへ?」
この男は犯人ではなくアルベロが命をかけて守った者だ。ならば、オルテンシアに男を責める理由は、ない。
「バレンツォはオレが始末した。だから牢にいるんだ」
スッチェソーレ卿の放蕩息子の事件――つまりはそういうことだ。
オルテンシアは深く深く嘆息すると、するりと柵から指を滑らせ、腕を落とした。冷たい牢の冷たい床に膝をつけて、そのまま肩を竦める。
「ありがとうって言わなきゃかもね。……そのバレンツォって貴族が天国でアルベロに謝ってくれるといいんだけど」
オルテンシアは立ち上がった。
上を振り仰いだが、見上げた先に空の色はない。もう一度肩を竦めると、もと来た方へと足を踏み出す。その背に男の声がかけられた。
「本当にすまなかった!!」 オルテンシアは立ち止まると振り返ることなく首を横に振った。
気にするな、とはとても言えなかった。
半身を失った痛みは消えない。それでもアルベロは自分の心を曲げることはなかったと知り、左手を伸ばすと中指の指環を見つめる。
薄ぼんやりとした灯に、指環が鈍く光っていた。
† † †
「アルベロ」
牢の入り口の先に待っていたのはコラッジョーゾだった。
その姿を目にした途端覚えた安堵に戸惑いながら、呼び声にこっくりと頷いてみせる。カツコツと足音を響かせ、コラッジョーゾが目の前に立った。
すがってしまいたい気持ちをどうにか抑え込み、オルテンシアは頭を下げる。
「会わせてくれてありがとう。気持ちに区切りがつけられそうだよ」
たとえアルベロがこの先も見つからなかったとしても。理由を知った喜びと失った心の痛みに引き裂かれそうになりながら、苦く笑った。
「――美味いものでも食いに行くか。ルチェーナにはガンヴィッロにないものもたくさんあるぞ」
ぽんっと頭頂部に置かれた掌に危うく泣きそうになる。
放っておいて、とは言えなかった。
放っておいて欲しいのかさえ、もうわからなかった。
肩を抱かれ、公都警ら隊の建物から連れ出される。
空はコラッジョーゾの瞳と同じ、厳しい蒼だった。白亜の宮殿――フェルナ公の居わすガッビアーノ宮の、金の装飾が冬の低い太陽からの光を弾き、輝いている。
オルテンシアは笑った。
「あんたには世話になったね。僕のことは心配しなくて大丈夫だから」
そこまで迷惑をかけるわけにはいかない。ただでさえ、休暇の貴重な時間を使わせてしまったのだ。
「俺が腹が減ったんだよ。余計な気をまわさなくてもいいさ」
「余計な気をまわしてんのはあんただろ」
言い返したが、コラッジョーゾは軽く声をあげ笑う。
「少し元気が出たみたいだな。――泣いたって仕方ないさ。嘘でも笑ってれば気持ちが晴れることもあるだろ」
コラッジョーゾの掌が肩から外され、空を指差した。つられて見上げた先には晴天が広がっている。
「眉間にシワを寄せて下を向くより笑って前を向く方が似合う天気じゃないか?」
慰めてくれているのだろうか。
オルテンシアは迷いながらも、ぎこちなく笑みを作る。上げた口の端をひきつらせ、眉間を揉みつつ空からコラッジョーゾに目を移した。
……なんで、何も聞かないのかしら?
慰める前に聞けばいいのに、と思う。
――今なら素直に全部話すことも出来そうなのに。
思ってオルテンシアは自らを疑った。
表情をどう作っていいのかわからなくなり、困惑する。
「ま……まぁ、僕もお腹がすいたから付き合ってあげるよ」
「助かるな、それは」
目を合わせて笑いあい、オルテンシアはコラッジョーゾと共に歩き出した。
ルチェーナは同じ港町でもどちらかと言えば観光地のようなガンヴィッロとはだいぶ様相が異なる。
別に祭があるわけでもないのに人混みに溢れているし、店に並べられた品もフェルナ各地から集まっているのかオルテンシアが見たことがないような物も多い。路地を駆け抜けボールを蹴る子供に苦笑する。水路ではなく石畳の道路が中心の生活に物珍しさがあった。
きょろきょろと忙しなく辺りを見回していると、コラッジョーゾがぐいっと腕を掴む。
「はぐれないでくれよ? 店はもう少し先だからな」
捕まれた腕に全神経が集中したかのような落ち着かない気持ちを味わい、内心動揺した。だが、努めて平静を装って、オルテンシアは頷く。
「そういえばコラッジョは方向音痴じゃなかったのか?」
オルテンシアを掴んだまま、迷うことなく歩を進めるコラッジョーゾに疑問を投げかける。振り仰いだ先、空色の瞳は驚いたように見開かれていた。
――な、なに? だって自分でそう言ったわよね!?
何かおかしなことを言っただろうか? 不安につつかれオルテンシアが眉尻を下げると、コラッジョーゾはゆっくりと目を細める。口角が徐々に引き伸ばされた。
「初めて俺の名前を呼んだな」
「え? そう、だっけ……?」
オルテンシアは数日間の会話を思い返し首を傾げる。言われてみれば、オルテンシアはちゃんとコラッジョーゾの名前を呼んだことはない。
コラッジョーゾは悪戯に成功した子供のように、嬉しそうに笑っていた。
「覚える気がないと言っていたから本当に忘れているのかと思っていた」
「そういやそんなこと言ったね、僕」
オルテンシア自身忘れていたことだ。あの時はコラッジョーゾに感謝を覚えるなど考えてもいなかった。
ましてや――。
……あたし、コラッジョのこと結構気に入ってるかも。
アルベロにどこか似ている優しい気質。
温かい毛布で包み込まれているかのような安心感は、どうしてかオルテンシアに安堵を与える。天つ瞳が厳冬の厳しさを持っていたとしても、それすら心地好く思えてきていた。
――道しるべみたいな人……。
笑顔のままオルテンシアを先導するコラッジョーゾの背を斜め後ろから見上げる。無意識に足を動かしながら、そんなことを思った。
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