⑦
「謎かけみたいな奴だな、お前は」
質問の意図がわかる筈がないコラッジョーゾは、困ったようにオルテンシアを見下ろしている。
それでもこちらを疎んでいる様子もなく、会話を打ち切りたいと思っているわけでもないようだ。冬空の、どこか凍えるような冷たい灰青が、興味深く自分を見つめてくる。
オルテンシアは軽く声をあげて笑った。
「あんたは貴族なのに変わってるよね。トマソも変人だけど、あんたも相当だ」
柔らかく言い返し、昨日までの自分と随分変わったなと思う。
――貴族と笑って話すなんて。
貴族が嫌いだと公言すらしていたのに。
……この人はアルベロを水路に落とした人じゃないから、多目に見て。
心中で言い訳めいた謝罪を口にし、指輪をちらり、と見やる。
その仕草を横目で見たコラッジョーゾが、先程の問いに答えてくれた。
「嘘なんてついたことない奴の方が珍しいだろう?」
表情を怪訝なものに変えたコラッジョーゾに、もう一度オルテンシアは繰り返した。
「ごめん、言葉が足らなかったね。そういうのじゃなくて。……自分の為に嘘をついたことがある?」
ふっ、と表情が真剣みを帯びる。コラッジョーゾの傾聴しようとする姿勢に勇気付けられ、オルテンシアはさらに口を開く。
「僕は……ほんとは一人だけに嘘をつくだけで良かったのに。皆を巻き込んで嘘をついた」
ジェンマ以外に嘘をつく必要はなかった。
今ならわかる。トマソがひどく悲しそうな顔をしていた理由。オルテンシアをいさめなかった優しささえ、多分彼は心底悩んでいただろう。
このままでいいのだろうか、と。
それでも一年待ってくれた。
「僕は、僕のために嘘を吐き続けてる。でも、そんなのって赦されないよね?」
オルテンシアはコラッジョーゾを見上げ、苦く笑った。ゆっくりと大きく息を吸い、そうして吐き出す。
喉に引っ掛かりかけた言葉を無理矢理押し出した。
「僕、本当はゴンドリエールじゃないんだよ」
ぴくり、とコラッジョーゾの眉が歪む。
「ガンヴィッロの決まりじゃ僕はゴンドラで商売しちゃいけないんだ」
オルテンシアは女なのだから。
長く吐かれたコラッジョーゾの白い息が背後へと流れていく。予想より深い溜め息に萎縮しそうになりながらも、オルテンシアは話し続けた。
「だから僕は皆を騙してることになる。……僕を捕まえる?」
後悔を埋める為に誰かに咎めて欲しいと思うなんて間違っている。そんなことは幼い子供のすることだ。
けれど他力本願だとわかっていても、オルテンシアはすがってしまいたかった。解決策が見つからないから、最短の道を選んでしまう自分の弱さが忌々しい。
ゆっくりとコラッジョーゾから視線を外し、オルテンシアは柵から身を乗り出すと海面を見下ろした。
いつもそこに見えるアルベロの姿は遠すぎて。舳先が黒い水を割り、細かい泡となって後ろへ流れていくだけだ。
「……皆ってトマソ殿もか?」
硬い声でコラッジョーゾが聞く。
オルテンシアはもがくように首を振った。
「トマソは知ってるよ。あっ、でもトマソは責めないで。忠告を聞かない僕がいけなかったんだ。ねぇ、僕を捕まえないの?」
「と、言ってもな。証拠もなく誰彼かまわず逮捕は出来ないさ。――ましてや俺はまだ休暇中だ」
信じられない想いで首を巡らせる。予想外にコラッジョーゾはニッ、と唇を上げた。
それに怯み、左半身から全身へと強張りは増していく。しかしそれは嫌な緊張ではなく、どこか熱を帯びていて、オルテンシアに戸惑いをもたらした。
どうしてもそれ以上、コラッジョーゾの顔を見てはいられなくて、緑の瞳をさ迷わせる。
「――だが、開き直りはみっともないぞ」
上目で見たコラッジョーゾの瞳が再び凍った。満天の星に負けない厳しさに、すっと背筋が伸びる。
柵から身体を起こし、次の言葉を待った。
「誠心誠意謝罪するか、嘘を真にするかどちらかだ。それが嘘に対する代償だろう?」
考えてみれば、謝罪は至極簡単だ。ただそれで気が軽くなるのはオルテンシアただ一人。もしガンヴィッロの警ら隊に咎められたらジェンマは我が子を二人なくすことになる。
だからといって、このまま男のふりをし続けるのはどう考えても困難だ。
だったら、とオルテンシアは思う。
――あたしは女だけど、女だってゴンドラを操れることをわかって貰えれば……。
ひとつの可能性に思い至り、オルテンシアは晴れやかに笑った。
「うん! ありがとう!」
「別になにもしていない」
謙遜ではなく、それは淡々とした否定だったが、オルテンシアは笑みを浮かべたままだった。
コラッジョーゾもオルテンシアが何かを決意したことがわかったのか、瞳を細める。柔和といえる程ではないが、穏やかな雰囲気が生まれた。
「それでも、ありがとう。――やってみる」
アルベロが見付かるまでは、と思っていた。
昨日トマソの言ったことも最もだ、と思った。
そして今、オルテンシアは向かう先を判断した。
……アルベロが水路に投げ込まれた理由を聞いたら、それがどんなことであれ自分に戻ろう。
憎しみも悲しみも消せはしないけれど、立ち止まって嘆いてばかりはいられない。
「諦めたわけじゃないんだ」
虚空を見つめ、オルテンシアは微かに呟く。
――必ず見付ける。だから、その為にもあたしはあたしの人生を行くわ。
「でも、やりたいことがあるから……」
コラッジョーゾの静かな視線を感じた。
左腕を伸ばし、指輪を見つめる。
「ルチェーナを最後にする」
それをどういう意味か聞かないコラッジョーゾに感謝を覚えながら、オルテンシアはぎゅっと強く拳を握りしめた。
欠け始めた月が徐々に雲に隠れていった。
指先を擦りあわせ暖を取り、はぁっと白い息を吹き掛ける。一瞬の生暖かさの後、すぐにまた芯から底冷えするような空気を感じた。
オルテンシアはまだ舳先に立っていた。コラッジョーゾも隣にいる。
「トマソ殿は何故医者を? どういった方なんだ?」
二人の間の沈黙にオルテンシアが落ち着かなくなった頃、唐突にコラッジョーゾがそう切り出した。
「さぁ……元々あそこはトマソのお師匠さんの診療所だったんだけどね。僕の母さんもトマソが診てくれてるんだ。昔よりも落ち着いてきたよ。腕がいいんだね」
脳裏に穏和なトマソを思い浮かべる。どれだけトマソに助けられただろう。
優しいトマソ。
兄のようなトマソ。
アルベロと二人、いつもトマソに苦笑を溢されながら悪戯をしかけた。思い出し笑いを唇の端にのせかけ、オルテンシアは勢いよくコラッジョーゾを仰ぐ。
「あんた、トマソを疑ってんのか!?」
語気荒く問うオルテンシアに、コラッジョーゾが素早く首を横に振った。
「いや。ただ男の話にトマソ殿の名前が出てきた。助けられたと言っていたのだが」
「トマソに……?」
「ああ。だが、トマソ殿は本当に心当たりがないと言っていたし、もう一度男の話を確認しようかと思ってる」
コラッジョーゾがくるりと身体を反転させ空を仰ぐ。オルテンシアは思わず彼の服を掴み、引っ張った。
別に、落ちると思ったわけではない。
「ひとつ頼みがあるんだ!」
落ち着けと言わんばかりに両手を上げたコラッジョーゾに、さらに詰め寄る。
「あんた、あの紙を見ただろ? 僕を牢の中に入れて!」
「……ガンヴィッロ卿の名前があったら俺に頼まなくても面会出来るさ」
監視の中で、アルベロの格好をしたまま会うのは得策ではない。いくらガンヴィッロ卿の署名があってもオルテンシア一人を犯人に会わせてくれる筈がなかった。必ず一人か二人は見張りがいるだろう。
眉を歪め、困ったように瞬きを繰り返すコラッジョーゾを強く見上げる。
「あんたに頼みたい。僕は、その男と二人で話したいんだ」
† † †
快諾、というわけにはいかなかった。
コラッジョーゾはなかなか首を縦に振ってはくれず、説得の為にぺったり彼にくっ付いている羽目になり、それでも諦め切れず。オルテンシアは二日間、コラッジョーゾの後ろを水鳥の雛のようについてまわった。
「――半年ぶりの休暇だったんじゃ? もう戻って来たんすか?」
男はコラッジョーゾと同じ公都警ら隊の隊服を着用している。その気安い態度から近しい部下だろうとオルテンシアは判断した。
怪訝そうに聞く男に、コラッジョーゾの影で身を縮める。休暇を減らしてまで付き合わせたのはオルテンシアだった。
「ああ、ちょっとな。――今日の牢番の責任者はオーロか? それともトッレか?」
「オーロですよ。隊長、その少年は?」
「ガンヴィッロで拾ってきたようなものだ」
ガンヴィッロ、と口中で呟いた男が、得心したように頷いた。
「というと、あのスッチェソーレ卿の放蕩息子の事件ですね。オーロを呼んできますよ!」
貴族の名が出てきたことにオルテンシアの耳がぴくりと動いた。
駆け出した男が扉から出ていく。くいっくいっとコラッジョーゾの隊服の裾を引っ張ると、振り向いたところで声を小さくして、囁いた。
「犯人ってやっぱり貴族なのか……?」
アルベロを投げ落としたのは貴族だ――そう目撃者は証言した。
では、スッチェソーレ卿の放蕩息子とやらがアルベロを突き落とした男だろうか。伺いながらも確信を持っていたのだが、コラッジョーゾはきっぱりと首を横に振る。
「いや、被害者が貴族なんだ」
先程の男がもう一人を伴い戻ってきた。それが多分オーロなのだろう。
コラッジョーゾがオルテンシアのそばを離れてオーロに何かを耳打ちする。オーロはひとつ頷いた。
「アルベロ、彼に案内してもらうといい」
「あの、これ。ガンヴィッロの領主さまの――」
「必要ない」
がさごそと肩からかけたザックの中から面会許可状を取り出したオルテンシアは拍子抜けした。
オーロは巻いた紙をちらりとも見ることなく、牢の入り口の錠をあっさり外す。脇に部屋があり、隊員が一人興味深そうにオルテンシアを眺めていた。
……コラッジョが口利きしてくれたんだ。
そう気付いて、感謝を覚える。
オルテンシアはオーロの先導で直線に伸びる暗い廊下を歩いていた。片側には牢が並んでいる。
鉄柵の間からオルテンシアに手を伸ばそうとする者、野卑た笑いを向ける者、壁を背にうずくまっている者。牢の前を過ぎる度にオルテンシアの心がスッと冷えていく。
案内してくれたオーロが止まった。通路の真ん中あたりの牢だ。さらに視線を伸ばすと最奥にはぽぅっと明かりが灯っている。薄ぼんやりとしていたが、扉と見張りの隊員がいるのが見えた。
膝が震える。
「この男だ」
オーロの声にぎゅっと目を瞑った。
――アルベロ、あたしここまで来たよ。
再び開かれた緑の瞳を炯々とさせ、ギリリと手を握り締める。中指の指輪が食い込み痛んだ。
「私は一番奥のあの部屋にいる。話すことがあれば話しても良いが、決して近付くな。危ないぞ」
そう告げてオーロは奥へと去っていく。
奥歯を噛み締め、オルテンシアは牢内に目を向けた。
牢の中にいる男は寝台に腰かけたまま項垂れている。オルテンシアに気付いているのかいないのかぼんやりした様子だ。
「――あんたに聞きたいことがある」
男は、緩慢に顔を上げた。
「お前は……!!」
その表情が驚愕を作り出したことで確信する。
この男は確実にアルベロを見ている。
なじりそうになるのをどうにか抑え込み、オルテンシアは一つ意識して呼吸をした。
「あんたは、この顔を知ってるんだな?」
予想外にオルテンシアにうじうじさせてしまいました。こんな子じゃなかった筈なのに……
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