②
朝までまんじりともせず――。
ヨルナの瞳は翳りが強い。顔色が悪いよ、とネリが心配するのすら鬱陶しかった。
「眠れなかったの? クマも出来てる」
……眠れるわけがないじゃないっ!
むっつりとヨルナはネリを見上げた。
食堂では誰もが横目でヨルナを伺う。ヨルナがキリクを突き飛ばしたことは皆が知っているし、しかもどうやら夜半の求婚すら噂として駆け回っているようだ。舟長が言う筈はないから誰かに目撃されていたのだろう。
好奇の視線に晒されるのは嫌だったし、食欲もわかないから茹でた海老ひとつと水だけを口にし、足早に去ろうとした。
「ヨルナ、これをお前の婚約者に」
食器の音やざわめきが一瞬で静かになる。
額に血管が浮くのがわかった。錆びた歯車が動くように、ギギギ、と首を巡らし、ヨルナはネリに燃える瞳を向ける。
「朝飯だよ、彼の。持って行っておあげ」
やや歪んだ盆にスープが置かれていた。ヨルナはネリの手から盆を受け取り、腹立ち混じりにドンと足を踏み鳴らす。
「見世物じゃないのよっ!」
一族を弊睨し、鼻息荒くヨルナは食堂を後にした。盆の上でスープが揺れて溢れるのも気にせず、甲板に出る。
高い位置にクライドが昨夜着ていたドレスが干されているのを見て溜め息をついた。ナイフで裂かれた無惨なドレスはすでに乾ききり、風を孕んで膨らんでいる。もしクライドを捜索しているのであれば、とネリが目印に掲げたものだ。
ふい、とヨルナは視線を反らした。
《住まう舟》に当たって砕ける波音に混じり、深夜の漁に出ていた男たちが掛け合う労いや、女たちの水揚げを喜ぶ声がする。
「――聞いたか? 長んとこのヨルナが昨日求婚した話」
ぴくりと震え、ヨルナは彼らの視界に入らないように身を屈めた。積み上げられた木箱の影に隠れ、耳だけをそばだてる。
「行商のキリクの話だろ……? 突き飛ばしちまったのはみんなが知ってるぜ?」
「いや、そうじゃねぇ。俺達が漁に出てる夜の間のことらしい」
そうっと甲板を覗き込むと、忙しいにもかかわらず皆が手を止めわいわいと話していた。その向こうの青い海は風に煽られ白い波を立てている。
コールヤ湾はとても広大な内海だ。湾と言っても岸に近寄らなければ水平線しか見えない。ただ、湾を囲むように三日月型に突き出た二つの半島は対岸が見えるくらいに近く、その為外海より穏やかなのが常だった。ところどころにケルプ――海底から長く伸びる海藻――の緑が浮かぶ。湖より水資源が豊富な湾の深さは、水を五十回も掻けば底に届く程度だ。
《住まう舟》はコールヤ湾内に数えきれないくらいあった。こうしてヨルナが海を伺うと水平線にいくつもの《住まう舟》が見える。その周りを機動性の高い舟が行き交い、易を成していた。
その中に見慣れた舟を見付けて狼狽する。
波間のあの覚えのある舟。赤い日射し避けに《商》の印が染め抜かれ、甲板の上を幾人かが働いている。
ヨルナには一瞬でわかった。
キリクだ。
遠目にも均整が取れた身体。黒い髪を動きやすいように尻尾のようにくくり、大きく手を振っている。
昨日、睫毛についた水滴を拭って、すっと伏せられた瞳。けれど今日はきっと黒い瞳をいつもと同じようにきらきらと輝かせ、焼けた薄い唇から歯を覗かせているのだろう。
舟はみるみるうちに近付いてきて、甲板にいる者たちもキリクに気付いた。多くの者が気まずそうに目を反らすのを不審に思ってか、キリクが目を眇る。
「なにかあったか? 網でもやられたのか?」
逡巡する皆の様子にヨルナは祈るように目を瞑った。
――お願い、言わないでっ!
「そ、それがよ。ヨルナがな……」
――言わないでったら!
皆を止めようと木箱の影から出ようとするが、意に反して身体は全く動かない。
「昨日の夜にな、求婚したらしいんだよ」
「求婚!? 誰に!?」
眉間に寄せられたしわと、見開かれた瞳から衝撃が見てとれる。
それはそうだろう。キリクは十三回も求婚を断られているのだから。居たたまれなくなって、ヨルナは唇を噛んだ。
「俺たちもよく知らねぇ。さっき漁から帰ったばかりなんだ。……気落ちすんなよ?」
気の毒そうに男が告げる。キリクが苦笑しながら嘆息し、肩を竦めた。
「……ま、仕方ないだろ。誰にも好き嫌いがあるさ。もういいんだ。俺には関係ない」
血の味がする。
盆から片手を離し、ヨルナは唇に触れた。指先をぬるりと赤い色が汚し、けれど噛み切った唇よりも締め付けられた肺と心臓が痛む。
「お前さんだったら引く手数多だ。どれ、うちの《住まう舟》にも他に女がいるぞ」
「あたしがあと三十若けりゃねぇ!」
どっと喚声が上がり、キリクを取り囲んでいた皆は水揚げに戻った。
ヨルナは胸を押さえたまま唇を戦慄かせた。
「キリク……」
思わず溢れた彼の名がこの距離とざわめきの中で聞こえた筈がない。けれど、キリクが視線を転じ――。
木箱の影から覗くヨルナと目が合う。ドクリ、と大きく心臓が鳴った。
一瞬強張った彼の唇が、ゆっくりと弧を作る。複雑そうに笑んだキリクは声を出さずに口だけを動かした。
――……お、……め、……っ!?
何を言わんとするか悟って、ヨルナはそれ以上見たくはなかった。けれど、彼から目を離せなくて。
『おめでとう。良かったな』
ヨルナが理解したことがわかったのか、キリクはそれ以上近寄ることもなく舟に戻っていく。甲板に移される積み荷を数え、陽気に男たちと肩を叩き合い、ついでに水揚げを手伝うと食堂へ入って行った。
† † †
皆がいなくなってから、ヨルナはのろのろと立ち上がった。盆の上のスープはとっくに冷めてしまったが、食堂に戻る勇気はない。
今キリクを目にしたら人目も憚らず詰ってしまいそうだった。
――あたしにキスしようとしてたくせにっ!!
ぎゅっと盆の縁を握る。
……何が、おめでとう、よ!? 何が、俺には関係ないよっ!?
渦巻く想いに歯噛みしていたが、ヨルナの鳶色の瞳は段々と翳っていく。
……キリクなんて、キリクなんて、一生独身でいりゃあいいんだわ。あんな奴大っ嫌い!!
最初にキリクと会ったのは九つの時だった。
ケルプに足を捕られ、ヨルナは浮上出来ずに溺れた。十歳のキリクはその日初めて行商の舟に乗り、そして父親たちが休憩している最中に、もがき沈む子供を見付けたらしい。キリクはケルプの森に躊躇もせずに飛び込みヨルナを救ってくれた、とネリは言う。
実際に溺れた後のことをヨルナは覚えてはいない。意識を失ってしまったし、気が付いた時は寝台にいた。
それでもお礼を言うと、照れてそっぽを向いて赤くなったキリクに好感を持った。それは次第に好意に変わっていき、ヨルナはキリクがやって来るのが待ち遠しい程だった。
初めての求婚は十五歳の時。近付いて来た顔にびっくりして押し退けてしまったのだ。真っ赤になったキリクに、しまった、と思ったがもうどうしようもなかった。
ただ、恥ずかしかっただけなのに。
落ち込み、もう会ってはくれないかもしれない、と思った。けれど、キリクはその後も変わることなく、それからは同じことの繰り返しだ。
ヨルナの恥ずかしさは変わらないのに、キリクは面白がっているようだった。それが腹立たしい。
一人もやもやとしていると、十七を前にしてキリクとネリの話を聞いてしまった。
妹を救ってくれた感謝からか、それとも互いに陽気な質で気が合ったのか、ネリはキリクと急速に仲良くなり、今では親友の間柄だ。
その二人の話はヨルナに衝撃を与えるには充分だった。怒りと僅かな悲しみを感じ、それからはもう素直にキリクと話すこともなくなっていた。
別にキリクが嫌いになったわけじゃない。けれど、彼と結婚するわけにはいかなかった。
昨日の昼間、珍しくふらりとヨルナの《住まう舟》に立ち寄ったキリク。
いつものからかうような表情ではなく、なにかひどく考え込んでいる風でヨルナを落ち着かなくさせたキリク。
太くはないが精悍さの際立つ顎の線と、通った鼻筋に浅黒い肌。やや垂れた目尻を差し引いても、女たちが騒ぐのも無理はないと思う。
『俺と所帯を持つつもりはないか?』
そんな風にキリクが聞いてきたのも初めてだった。
いつもはふらっと顔を寄せてくるだけなのに。にやっと唇の端をあげ、至近距離で見つめられるとどうしていいかわからなくて。
けれど、こんなに真摯な瞳で見下ろされることなどなかった。
顔が強張る。狼狽し、何に動揺しているかわからないまま、ヨルナが硬直していると、首を傾けキリクの顔が近付いてくる。
反射的に厚い胸を強く押し、あっ!! と思った時には、キリクの身体は海の中だった。
『それ程嫌か……』
甲板に上がり、そう呟いて瞳を伏せたキリク。黒髪から海水をぽたぽた垂らし――。
「なんでこんな惨めな気持ちになるの……」
見捨てられた、と思ってヨルナは愕然とする。
指が白くなる程強く盆を握りしめ、微妙な音がして盆がさらに歪んだ。溢れたスープにやっと気付いて、それでも食堂へもクライドの所へも行く気になれないでいると。
「ヨルナ、お前まだ朝飯運んでなかったのか。……なんで泣いてる?」
ネリが顔を覗き込んできた。目が笑っている。この兄のからかうような表情が、ヨルナに怒りを思い出させた。
「泣いてなんかないっ!!」
地団駄を踏みかねないヨルナの様子にネリは首を傾げ、盆を取り上げる。
「ほら、行くぞ。朝飯抜きじゃ可哀想だ」
歩き出したネリに仕方なしについて行く。
どうしても後ろを気にしてしまう自分に気付いて、ヨルナは力なく首を振った。そうして小さく飛んだ水滴に、涙を流していることを知る。
ぐいっ、と手の甲でそれを拭い、ヨルナはネリから盆を奪い取った。
「兄さん、キリク来てるよ。これはあたしが行くから」
少しだけ目を見開いたネリに笑い返し、ヨルナはクライドの元へ向かった。