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《第四章》です。舞台はフェルナ公国ですが、《第一章》の数年後の物語になります。またゴンドラの船頭について諸説はありますが、この物語ではゴンドリエールに統一させていただきます。それではよろしくお願いします。
「すまないがソレッロの門付近まで漕いでくれ」
満月まであと少しの月夜の晩。
黄金の巻き毛の先が月光をちらちら弾くゴンドリエールの少年は、客の声に振り返りもしなかった。
その丁寧ながらも高慢な命令になれた声音、そして糊の効いた高価な絹擦れの音。
「……? 乗るぞ?」
ゴンドラがやや右に傾いたところで、少年は急速に動いた。
水面に波紋を残し、飛沫を上げた櫂。
青年がバランスを崩し、石畳に無様に尻をつく。呆気にとられたように見開かれた瞳は冬に見上げる高い空の蒼。天つ瞳が困惑にさ迷い、次いで怒りを露に紺碧に色を深めた。
頬を微かに紅潮させた少年は青年の足を払った櫂を肩に担ぎ、せせら笑った。
「僕は貴族は乗せない主義だ。あんたが平民だったらただで連れてってやるんだけどな」
煌めく緑の瞳で嘲笑し、少年は櫂を水に戻した。途端に水音ひとつたてずにゴンドラは水面を滑り出す。
「なっ! おいっ!!」
「運がなかったな! あばよっ!!」
ゆらゆら左右に揺れるゴンドラの上で片手を大きく振り、少年は星のように煌々と瞬く光の水路に消えて行った。
† † †
ガンヴィッロの町も今日を過ぎれば静けさが徐々に戻る。
「母さん、気分はどう?」
朝日を入れる為に一気にカーテンを開けたオルテンシアは、寝台に横になった枯れ木のような母ジェンマに微笑みかけた。
「おや、オルテンシア。トマソ先生のとこへ行ったんじゃなかったのかい?」
驚くジェンマに一瞬複雑な気持ちで笑う。
「母さん、今日は仮面祭よ。ガンヴィッロ中が浮かれてるんだから。あたしも今日は休んでいいよってトマソが言ってくれたわ」
開け放たれた窓からは潮の匂いと共にするりと喧騒が入り込んできた。
水の都――片羽半島の突端に位置し外海とコールヤ湾に面したガンヴィッロの街は、大陸でそう呼ばれている。水没してはまたその上に街を建造する、美しい景勝地だ。
ここでは年に一度、厳冬の満月の日に合わせ仮面祭が行われる。老若問わずに浮かれる祭の前後には、貴族や富裕層が観光がてらに仮面祭に参加するから人口が爆発的に跳ね上がるのだ。
オルテンシアの気分もいやが上にも浮上する。現に、原石を磨いて嵌めたかのような濃い緑の瞳は輝き、薄桃の唇は楽しげに弧を描く。
「そうかい。もう一年たったのかい?」
「母さん!?」
窓から身を乗り出していたオルテンシアは弾かれたようにジェンマに顔を向けた。
――思い出したの!?
やや懐疑的な視線で見つめて、ぎゅっと服の裾を掴む。今日だけは平素と違う、新調したドレスだった。
「アルベロはじゃあ今日は本当に一日ゴンドラの上だねぇ」
「……そうね」
落胆を面に出さないように気を付け、オルテンシアは微笑った。
「あんた達が小さい頃はおんなじ衣装におんなじ仮面着けて、よく周りを驚かせたもんだけど。さすがに十五になったし無理かねぇ、それは」
「無理よ」
記憶の蓋をゆっくり開けたかのように懐かしそうにジェンマが微笑むのを、オルテンシアは悲しい気持ちで見た。にべもなく答え、その冷たい声音に自分でもぞっとする。
ジェンマは忘れてしまった。
ゴンドリエールの父は去年の祭の数日前に死んだ。その跡を継いだのは双子の弟アルベロだったが、彼は仮面祭の翌日に――。
ピエータ一家は十日の間に二人の男手をなくし、元々身体の弱かった母はついに寝込んでしまった。しかも、病状が安定してもジェンマはアルベロの死を受け入れず、今もアルベロがゴンドリエールをしていると信じている。
「今年のドレスは随分地味ね、オルテンシア。アルベロが作ったのでしょう?」
「そう? …………アルベロも忙しかったんじゃない? 一部はあたしがやったの。少し雑になっちゃったんだけど。裾とか」
ぴらり、と捲って見せると、ジェンマはにっこりと笑った。
「わかりゃしないわ、裾だもの」
オルテンシアのドレスは紺だった。母の主治医でもあるトマソは地味だと言ったのだが、これ以上の金銭的余裕はなく、周囲の少女たちのようにレースやビーズをつけることは出来なかった。
そのかわり、身頃には金の刺繍糸でまるでネックレスをつけているかのような鎖の図案を、身頃以外には深緑の糸で刺繍を施した。本当は全面に金色を使いたかったが、高価でとてもじゃないが手は出ない。
「全くあんた達は……逆で生まれてきたら良かったのに。オルテンシアはゴンドラを操るのが、アルベロは裁縫が得意なんて。まぁアルベロもゴンドリエールになってからは刺繍の腕が落ちたようだけれど」
ドレスを眺め、ふっと苦笑したジェンマの言葉に肩を竦めるしかなかった。刺繍を施したのはオルテンシアなのだから、出来が悪くても当然なのだ。
「まぁ仕方ないことね。それが本来なのでしょう。仮面は?」
オルテンシアは居間に戻ると自作の仮面を取り上げる。
地は紺。端切れのビロードの一枚に目の玉が飛び出る程の金額を払ったのはトマソにも内緒だった。貴族のように宝石はつけられやしないが、こちらも金の糸で丁寧に刺繍を施し、アルベロが作ってくれた去年の仮面の完成度に比べれば質は落ちるが満足のいく仕上がりになっている。
なんといってもオルテンシアがきちんと少女らしい格好をするのは実に一年ぶりなのだ。
ピエータ家は裕福ではない。家こそ持ち家だったが、オルテンシア一人が働いたところで女二人が生活するので精一杯。母の薬代は捻出は出来なかった。旧知の間柄でもあるトマソはいらないと笑っていたが、幾ばくかの足しになればと僅かずつ払ってはいる。
それもあって――オルテンシアは弟のふりをしてゴンドラに乗っていた。
踝丈のドレスがオルテンシアの動きに従って、快活に広がる。
「あらまぁ! 素敵な仮面だこと……今年こそはあんたがこれを交換する相手が見つかるといいわねぇ」
ガンヴィッロの仮面祭は恋人の祭でもある。
意中の異性の前で仮面を外し、相手に渡すのが恋の告白だ。ロマンチックだと貴族や富裕層の女性に人気があるのをゴンドリエールをしているオルテンシアは知っている。
ジェンマの言葉にがくりと顎を落としたオルテンシアは、強張った笑みを浮かべた。
「あんたも年頃だし、そろそろ弟離れが必要だもの。今日は誰か男の人と踊るのよ? 約束してちょうだいな」
「はぁ……わかったわ、母さん」
正直、それどころではない。だが全てを消してしまったジェンマに説明してもわかってはもらえないだろう。
† † †
実際、誰とも踊るつもりはなかったのだ。
満月の柔らかくも強い光にさらされ、オルテンシアの肩先までの短い黄金の巻き毛は神秘的ともいえる程輝いていた。仮面の奥から知的に煌めく森緑の瞳と小さな尖った顎。まろい頬と秀でた額。
それが男の目を惹かないわけがない。匂いたつ美しさがあったのだから。
色めきたった若者たちは彼女を追いかけ回した。ちょっとだけ、本当に軽い気持ちで楽しもうとしていただけにオルテンシアは憤慨し、ガンヴィッロの街を逃げ回ることになった。
十数人いた男たちも今は二人を残すばかりだ。ところがさすがのオルテンシアも息が上がってくる。
――トマソんとこに逃げ込もうっ!
あと三つばかり角を曲がり、橋を越えればトマソの家だ。目の前に見えているが、水路を迂回しなきゃならないのが歯がゆい。
オルテンシアはドレスをからげて速度を落とさずに急角度で曲がった。
「しつっ……こいっ……わねっ!!」
前方に突然現れた青年にオルテンシアの感情は振り切る。怒髪天をつく勢いで、仮面をむしりとると――。
それは一直線に相手の顔を直撃した。
パカンッと少々間抜けな音をたて、青年の黒一色の仮面が外れる。
仮面は二枚とも重力に従って落ち、驚愕しながらも青年が素早く出したすくいあげるような手に収まった。両の掌に視線を落とし、次いで上げられた顔にオルテンシアは息を飲む。
「……っあ!!」
「お前……」
満月を背後にしても空色だとわかる瞳。
見開かれても鋭過ぎる目付きに高い鼻と薄い唇。焦茶色の髪は短く刈られ、その姿はすっきりとした警ら隊の制服に包まれている。
その顔には覚えがあった。
たった一度の邂逅は記憶に傷のように残っている。
唖然としたような青年が見つめる前で、呆然としたままのオルテンシアを、背後からぐいっと引っ張った者がいた。
「やっと捕まえた……あれ?」
オルテンシアを追っていた若者だ。その若者はオルテンシアの先にいる青年を見るとパッと手を離し、ばつの悪そうな表情を浮かべると元来た道にそそくさと逃げていく。
それをある意味羨ましい思いで見返し、オルテンシアが謝罪しようとしたところで、慌てたように彼女の名前を呼んだ者がいた。
「お、オーリ!?」
「トマソ!!」
二人目の侵入者に天の助けとばかりにほっとしたオルテンシアはトマソの背に逃げ込んだ。
青年が伸ばした手をすり抜けて。
それを怪訝そうに見やり、トマソはオルテンシアに後ろ手を回しながら、すっと目を眇た。
「わたしの知り合いが何か失礼なことでもしました、か、……?」
言いながら尻すぼみになった言葉にふと顔を見上げると、トマソは食い入るように青年の持つ物を見つめている。
そう、青年の手の中にはオルテンシアの仮面があるのだ。
意中の異性に渡し恋の告白にかえるという――ガンヴィッロ名物の仮面が。
「仮面を彼に渡したのか?」
やばい、と青くなってオルテンシアはふるふると首を振る。
「ち、違う! ちょっと……手違いで……」
青年が口角だけで笑んだのを目にして、オルテンシアの顔に火がついた。耳まで色を変えたオルテンシアは気まずそうに言い淀む。
「……投げつけちゃった」
「なんだって!? ――失礼しました。この子にはわたしからきつくお灸をすえておきますから」
頭をぐいっと押され、オルテンシアは素直にそれに従った。
穴があったら入りたい。
いくらなんでもこれはやりすぎたと自覚があるから余計だった。トマソには大人しいアルベロとお転婆なオルテンシアと言われ続け、そのたびに否定してきたが今後は項垂れるしかなさそうだ。
「あ、ああ……」
「行くよ」
呆気に取られたかのような声で青年が応じるのを、石畳を眺めたまま聞く。そのままトマソに腕を引かれ、有無を言う間もなく、連れて行かれるしかなかった。
「まったく君は……彼と何があったんだい?」
トマソの家に来たのは本当に久しぶりだ。
一年前までオルテンシアはトマソの家で出る洗濯物――汚れた包帯など――を洗ったり、簡単な手術の助手をしたりしていた。勝手知ったる家の中で、自らお茶を入れたオルテンシアは肩を竦める。
「だからぶつけちゃったのよ、仮面を」
もったいないことをした。せめて持ち帰ってくるべきだったなぁ、とぼんやり思う。
「違うよ。彼と初対面じゃないだろうと言ってるんだ」
初対面ならどんなに良かったか。
「……昨日、乗船拒否した」
しかも、櫂で足まで払って尻餅をつかせたのだ。
あの表情からしてこちらの顔を覚えていたことは間違いない。溜め息を吐いたオルテンシアだったが、そっとトマソを伺うと彼は頭を抱えていた。
「まさかコラッジョーゾ・ブリストラをか……」
「トマソ、あいつ知ってるの?」
どすん、と椅子に座ったトマソに恐る恐る聞くと――。
「ブリストラはルチェーナから来てる公都警ら隊の隊長だよ。下級貴族の庶子が大出世したとかで、陛下直々のお声掛かりで抜擢されたらしいが。ルチェーナで何かあったのかな? 先週、親父のところへ挨拶に来ていたけど」
「領主さまのところへ?」
トマソは本名をトマソ・ラウーロ・ガンヴィッロ・モレッリと言う。
通り名は変人トマソ(エッチェントマソ)だ。貴族であり、ガンヴィッロを名乗れる領主一族であるにも関わらず、平民専門の医者をしていた。彼は現領主の次男にあたる。
「切れ者だって噂だよ。そのブリストラを乗船拒否ねぇ……オーリ、彼には気を付けた方がいい」
トマソが心底心配そうにそう言ったので、オルテンシアは素直に聞く。
「最初にアルベロの姿で会ったなら彼には今後は女の子だって悟られないようにするんだよ? 痛くもない腹を探られることになるからね」
「わかってるわ」
オルテンシアは殊勝に頷くと、やや冷えてしまったお茶に口をつけた。
広いガンヴィッロの街だ。ゴンドリエールも何百人といる。その中でオルテンシアがコラッジョーゾに出会う確率はかなり低いだろうということは言っても仕方ない。
ともかく、トマソ以外の貴族とは関わりたくないのが正直な感想だった。
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