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第4話になります。よろしくお願いします。
「またやってしまったわ……」
寝台に腰を下ろしたマルゴットは嘆息した。
おろおろとしていたことなど忘れたようにエリーザは寝台のそばに毅然と立つ。差し出されたカップからふわりと昇る湯気にひかれるように手を伸ばし、両手で抱え込んだ。
肩からぱさりとジェネローゾの上衣が落ちる。
「あ……」
エリーザが拾おうとするのを軽く手で制した。
「自分で拾うわ」
「一体何があったのです?」
怪訝そうに聞いたエリーザにマルゴットは肩を竦めてみせた。
「ジェネローゾ殿下に見つかってしまったのよ。ルッカは後で叱られてしまうかもしれないわ」
「それは姫さまもでしょう」
はぁ、と溜め息をついたエリーザはこめかみを押さえる。
ジェネローゾの上衣をきれいにたたみながら、マルゴットも小さく息を吐いた。
「わたくしはもう既に怒られてしまったもの。エリーザ、どうしましょう……ジェネローゾ殿下に婚約を破棄されてしまったら、わたくしの価値がまたなくなってしまうわ」
きれいに整えられた手の中の上衣が歪む。
「婚約がもしもそのままだったとしても――」
「姫さま……?」
「一人にして」
エリーザが一礼して出て行った。パタリ、と寝室の扉が閉じる。
もう堪えられなかった。ぽたり、と濃紺の生地が濃く色を変える。涙は溢れだし、握りしめるマルゴットの手の甲を濡らし、つつーと伝ってジェネローゾの服に染み込んだ。
――あの手紙の方に不誠実だと嫌われてしまったらわたくしはフェルナ(ここ)で生きていけないわ……。
どうしたらいいのだろう。
上衣を握ったままマルゴットは小さな顎に向かって頬を流れる涙を持っていたものでぐいっと拭いた。
「あ、あら? ……ジェネローゾ殿下の服をハンカチにしてしまったわ」
真っ青になりながらも苦笑する。
「これ、お返ししなきゃよね……洗えばいいのかしら?」
丁寧にたたみなおし、マルゴットは目を閉じた。
明日からはまた大変かもしれない。ことん、と横になるとマルゴットは上掛けに潜り込む。
それでもセトルではなくフェルナにいるのだと思うと沸き立つ心を抑えることが出来なかった。
† † †
「本日の予定に変更は?」
「ありません。午前中はセトルの方々もご一緒に港を視察、昼餐は公宮にお戻りを。午後はコールヤ湾を船で廻り、夕方からは王女殿下の歓迎会がガッビアーノ宮内で行われます。ただし午後の予定は天候次第と申しておきましょうか。簡単にですが、何かご質問はございますか?」
外務大臣グリッロは淀みなく予定を話し、すでにマルゴットは気が遠くなった。
が、それよりも。
「え、ええ。予定のことではないのですが、あの……ルッカート殿下がそちらから覗いておられます」
昨夜、マルゴットを誘いに来た時のようにぴょこりと顔だけ覗かせ、ルッカが輝く瞳で見つめてくる。振り向いて嘆息したグリッロは、こめかみをきゅっと音が鳴るほど摘むと、呆れたように声を出した。
「まさか殿下、ご同行するなど言い出しませんよね?」
「サレッゾは良い勘をしてるよね。僕も行くよっ! 義姉さまいいでしょ!?」
答えに窮したマルゴットがグリッロを伺うと、彼はマルゴットの返答を待っているようだった。
昨夜のジェネローゾの忠告が耳に甦るが、マルゴットはルッカが同行することはかまわないと思う。
――今は夜ではないし、二人きりではないから良い筈よね。
けれど、これ以上婚約者の機嫌を損ねたくはないのが実際だ。
「ジェネローゾ殿下は御存知なのでしょうか?」
「もしもルッカート殿下がついて来ると言うならつれて行け、良い勉強になる、と。ただしくれぐれも羽目を外すなとおっしゃっておられましたがね」
前半はマルゴットに、後半はルッカに向けて口を開いたグリッロにルッカはにっこりと笑った。
「大丈夫だよ。わかってるって!」
その笑顔に一抹の不安を感じながらも、マルゴットはジェネローゾが許可したならばと頷く。
セトル一行とルッカはグリッロに先導され、ガッビアーノ宮を出発することになった。
マルゴットの乗る馬車には、ルッカとグリッロが同乗する。
本来は女性が一人で男性と馬車に乗ることはないが、マルゴットはセトル王の名代として正式な使者であったため、この形になった。フェルナ公国所有の馬車の箱部分は広く贅沢な造りだったが、四人も乗れば若干窮屈に感じるのもその理由のひとつではある。
行き先は港だ。
昨晩ルッカが教えてくれた中央広場を抜けると、店構えが明らかに変わるのが目に入った。
広場から宮殿寄りの店の扉は閉ざされ気軽に入れる雰囲気を持たなかった。しかし今マルゴットたちの乗った馬車が走る辺りの店は皆、大きく開放的に造られている。路面にテーブルと椅子がいくつも置かれ、くつろぎ談笑する人々の姿は平和そのものだ。
人通りも途端に多くなったが、彼等は平民である。だから、セトルの王都アクステンブルクのように、宮殿に近い店ほど貴族や富裕層が利用する店なのかもしれない。
ここでマルゴットはあることに気付いた。
店の品揃え。活気と人々の表情。中心道路から折れる脇道も明るい空気が満ちている。
外からの喧騒がマルゴットには眩しかった。
……セトルにはまだここまでの活力が戻ってはいないわ。
ガヤとの戦か終わったのは二年と少し前だ。戦はガヤから一方的に仕掛けられ、国境に近い森は焼き払われた場所もあると言う。やっと人々に笑顔が戻ってきたセトルの王女としては、フェルナの人々の笑顔は直視するには眩しいものだ。
「義姉さま? どうされたの?」
窓から外を見て黙り込んだマルゴットをルッカが横から心配そうに覗き込む。慌てて前を見れば、グリッロもまた伸びた眉を下げマルゴットを見つめていた。
――いけないっ!
とってつけたように微笑みの形をつくり、けれど彼らの顔が晴れないのを見て、ぽつりと溢した。
「セトルとは違うと思っていました」
「ここは港町だもの。違って当然でしょう?」
不思議そうに小首を傾げたルッカにマルゴットは首を振る。
「そういうことではないのよ。……セトルの人々はまだガヤとの戦から完全に立ち直ってはいないのです」
店先から溢れる程に並ぶ品々。強い太陽光を避けるために張り出した日差し避けの下で椅子に座り談笑する御婦人の姿。手に持つ食べ物を交換して食べる子供たち。
先を急ぐように遠くを見つめていたり、疲れて足取り重い者も、悲壮感は漂っていない。
「王都アクステンブルクでさえどこか翳りがあるのです。国境に近い町ではまだ戦の爪痕が残り、それを思うと……」
自国の内情を口にすることは良しとされないことは知っていたが、ここは友好国フェルナ。セトル王宮にも何人かの外交を担う文官が入れ替わり立ち替わり途切れることなくやって来ている。きっと彼らから既にフェルナに伝えられている筈だ。
だから、マルゴットは能弁だった。
「多分、フェルナが羨ましいのですわ。――見てください、あの生き生きとした表情」
通り過ぎる景色が二人から見えるようにと軽く身を引く。
窓からはざわめきと共に活力みなぎるフェルナの民の姿が見えていた。
「あれこそが国の中枢に居る者の誇りだと思います」
マルゴットは心からの賞賛を口にした。ゆっくりと微笑み、ルッカとグリッロを見る。
彼らも賞賛を受ける人たちなのだ。国を導き、育てる者たち。
来年からはマルゴットも人々にこんな顔をさせたいと思う。他国から来た者がその活気に驚きを示すような。
目に焼き付けるように再び身を乗り出したマルゴットだったが、ルッカの強い声に反射的に身体を戻した。
「が、ガヤが一方的に攻めてきたのでしょう? そんなのセトルのひとたちのせいじゃないよっ!」
かぶりを振ったルッカの剣幕に気圧されながらも、首を捻る。
「そうでしょうか? 悪戯に戦を長引かせたことで民を疲弊させてしまったのです。セトル中枢に責任がないとは思えない。……そう、わたくしも。わたくしは戦の間も戦の後もなんの役にも立ちませんでしたわ」
自嘲気味に応じたマルゴットにルッカは馬車の中で立ち上がった。
「セトルはちっとも悪くないっ!!」
荒く息を吐く様子にグリッロが目を丸くする。その反応からして彼のこんな態度はとても珍しいのだとわかった。
「セトルは悪くないんだっ!! 悪いのは……」
そしてそのまま、すとん、と腰を落とすとそれきりルッカは口を閉ざした。
なにかに苛まれるような、憑かれた表情が段々と色を無くしていく。それは無表情と言うよりはいっそ、無、に近い。
何も映すことのない蒼い瞳はじっと現実以外のなにかを見つめている。なまじ天使のような容姿であるが為に、咎人を断罪するような厳しさがあった。
「ルッカ……?」
「ルッカート殿下……?」
思わず漏らしたマルゴットとグリッロの、自らの名を呼ぶ呟きにさえ反応ひとつない。顔を見合わせ、遠慮がちにマルゴットは細い肩に手をかけた。
びくり、と身体を震わせたルッカは今まさに目覚めた瞬間であるかのように、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。徐々に焦点が絞られた瞳は驚愕を写した。
再びグリッロと顔を見合わせる。
ルッカは一言も言葉を発しないまま狼狽していた。そして、唐突にぷくりと膨れる。
「る、ルッカ……?」
思わず名前を呼んだマルゴットを見て、そのままぷいっと顔を背けたルッカにマルゴットは困りきった。
――ど、どうしたのかしら?
助けを求め正面に座るグリッロをすがるように見ると、グリッロもまた困っているようだった。ただしそこは年の功、言い淀みながらもルッカに優しく声をかける。
「殿下、そのようにむっつりされてはマルゴット王女さまがお困りですよ?」
「……え、あ……ごめんなさい、義姉さま。考えに没頭してしまいました」
その諭す声音にルッカにルッカらしさが戻った。
可愛らしく舌を出すと、恥ずかしそうに微笑む。しかし、その内容を話す気は全くない様子だ。
馬車の中に奇妙な沈黙が降りる。
「――でも、サレッゾ。義姉さまみたいな方がフェルナの公太子妃になってくださるなんて心強いね!」
突然ルッカが笑顔を明るいものに変えるとグリッロに向けて身を乗り出した。
それにグリッロが破顔する。
「まさしく。民の様子に誇りを見出だせる方がジェネローゾ殿下の妃となって下さるのはフェルナの歓びですな」
「……いいえ。お恥ずかしいことに、わたくしが自覚をしたのは随分と遅いのです」
恥じ入るように眉尻を下げたマルゴットは自嘲する。
「このように考えるようになったのはガヤとの戦が終わってからですわ」
「ふうん……なにが義姉さまを変えたの? ガヤとの戦の後って義姉さまが十二歳の時だから僕が七歳の時だよね?」
ルッカがマルゴットの懐近くから見上げるように覗き込む。
「セトルには英雄と呼ばれる方がいるのを知っていて?」
軽く首を振るルッカに微笑みを向けるとマルゴットは教えるように口調を変えた。
「前線で戦う兵士にダルトという方がいましたの。その方は農夫でした。単身ガヤの兵舎に乗り込み将軍を討ち取ったので英雄と呼ばれています」
へぇ、と頷いたルッカにグリッロが口を挟む。
「ダルト・ベッツィーク殿ですな。王女殿下の姉君が嫁がれた……確か内陸部のザクテン領を下賜されたと聞いております」
「さすがサレッゾ。外務大臣なだけあるね。それで――?」
絶妙に合いの手を入れてルッカがマルゴットに先を促す。
「わたくし、その時に初めて姉に会いました。そして――」
リーゼロッテ。
生気溢れる青い瞳のマルゴットの異母姉。マルゴットが存在すら知らなかった、父が唯一愛した女性の娘。
彼女が連れて来られた時にマルゴットは物陰からそっと盗み見た。
継ぎのあたった粗末なドレス。
自分の姉であるならば王女である筈だ。それなのに何故あのように貧しいのだろう、と不思議に思った。
夜に髪にはちみつを塗り忘れたのかしら? 荒れた髪を見てそう思い、華奢と言える以上に痩せた体躯を見て、少食なのだわ、と思った。
それがとても恥ずかしい考えだということに気付けなかった。
マルゴットにとって戦は遠く離れた国で起こっている物語のような感覚でしかなかった。元々周囲にも関心を示されることがなかったから情報が入らなかったのは事実だけれど、王族としては怠慢だと今は思う。
だがあの頃は無知で恥知らずな王女だった。だから、リーゼロッテと正式に顔を合わせた時、憎悪を宿した瞳を向けられてマルゴットは怯えたのだ。
そしてリーゼロッテは玉座の王とマルゴットと周囲の貴族たちに言い放つ。
彼女が叫んだ言葉はマルゴットを驚愕させた。
『あんたたちが始めたガヤとの戦のせいで国民が飢えてるってのになんであんたたちはそんなのうのうと贅沢してんのよ!?』
『きれいな服着ておいしいもの食べて、誰がそれを作ってるか考えたことある!? それを作ってる方がどんなに苦しんでるか知らないからそんな風にのほほんとしてるんだわ!』
『外を歩いたことあんの!? 国境近くの村や町がどうなってると思う!? 心から安心して笑ってるひとなんていないわよ!!』
激昂しながら叫んだ言葉は胸に真っ直ぐに突き刺さった。
そして初めてマルゴットは王宮の外に目を向けた。
それは確かにリーゼロッテの言う通りの光景だった。
「――わたくし気付けて良かったと思います。あのままなにも気付かずに恥知らずなままフェルナを訪れていたら、きっとこの国の素晴らしさにも気付かないままだったでしょう」
余りにも率直に自分の非を話すマルゴットにルッカが唖然とする。グリッロもまた軽く口を開けたまま固まっていた。
「わたくしはその愚かな自分を恥ずかしいと思っております。本当はこのようなことを語らない方が良いのでしょう。けれど、わたくしの愚かさをどうか知って下さい」
ルッカを見下ろし、マルゴットは微笑う。
「そして、わたくしがもしまた愚かなことをするようだったらわたくしを止めて下さいね、ルッカ」
マルゴットを見上げたルッカがゆっくりと頷いた途端、馬車の振動が止まった。
「――おお、ついたようですな」
従者が外から扉を開く。グリッロ、ルッカに続いて外に出たマルゴットは強い潮風に一瞬目を瞑った。目を閉じてもまぶたを通して太陽の光を強く感じる。
光はじりじりと肌を焼くがマルゴットはそれを煩わしいなどとは思わなかった。