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 感情のこもらない視線に訝しみが混じった。

「やり直す?」

 初めてジェネローゾの声からなにかが見える。それは狼狽のようで、揺れた瞳に小さく満足を覚えた。

 ――でも、この方は困っても目を背けたりしないのだわ。

 妙なところに感心しながら、それでも王女らしく優雅に微笑むにとどめ、マルゴットは淡い青のドレスの裾を摘まんだ。

 紺碧の瞳がさらに歪む。

 腕を軽く上に持ち上げ、スカートのラインが美しく見える角度で止める。流れるように半歩足を引き上体を真っ直ぐに保ったまま、腰を落とした。

「――この度は無事に立太子の儀を終えられたとのこと、おめでとう存じます。わたくしはマルゴット・ディアーデム・セトル・ヴァハルフヘント。セトル王ハイダルの名代としてジェネローゾ殿下の立太子を祝いに参じました」

 ふくらはぎが震えるがどうせドレスの中、ジェネローゾには見えはしないのだ。いつもよりも高いヒールに足裏が痛むがそれも同じこと。

 マルゴットは体勢はそのままに軽く会釈し、真っ直ぐにジェネローゾを見つめた。

「ああ、そういうことか」

 再び声に冷酷さが戻るがもう気圧されることはない。挨拶は何度も練習したし、元々求められる王女としての基本だ。

「――また、わたくしを婚約者として指名して下さいましたこと、真に嬉しく思っております」

 これは事実である。

 リノチェロンテとの婚約が決まった十歳の時から、マルゴットの価値はフェルナ公太子妃になることだけだった。父にも母にも兄にもそれ以外に省みられることがなかったから、リノチェロンテが亡くなった時に感じた絶望は、自分の価値がなくなったという喪失感だけだ。

 けれど、マルゴットは新たな公太子の婚約者となった。ジェネローゾは――彼の署名が入った手紙と共に、マルゴットを救ってくれた。

「しかし、あなたは先程――いや……」

 石柱から手を離し、ジェネローゾが軽く目を見開くのをさらりと微笑みで流し、さらにマルゴットは言葉を紡ぐ。

「ルチェーナはとても活気に溢れ、セトルには見られない様々なものがあるということを馬車から拝見しました。素晴らしいと思います。よろしければ供の者にもフェルナ公国を見聞し、公や殿下の政を学ぶ機会を、と願っております。殿下はわたくしたちの滞在を許して下さいますでしょうか?」

 よどみなく話し終え唇を結ぶ。

 ジェネローゾは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「……お好きになされば良い」

 一瞬過った複雑な揺らぎはすぐに消え、ジェネローゾはマルゴットへと足を踏み出した。

 ドレスの裾を摘まんだままのマルゴットを立つように促す。

「わたしは戻ります。ガッビアーノ宮内であればご自由に動かれるがいいでしょう。ただし、父の私室やわたしの執務室には足を踏み入れないで頂きたい」

「わかりました」

「それからルッカは無視されてかまいません。あれはどこにでも出没するし、誰とでも話したがる」

 声音が柔らかく変化する。最も、それは大臣――マルゴットを港より案内してくれた外務大臣サレッゾ・ノーレ・グリッロやルッカに比べると、冷たいものであることに変わりはないが。

「……わたくしはルッカート殿下のお邪魔になってしまうのでしょうか?」

 ――仲良くなれそうな気がしていたのだけれど。

 ルッカの無邪気さは、たったあれだけの会話でマルゴットに好感を抱かせるのに充分だった。

 だがジェネローゾはルッカには勉強があると言っていた。もしもマルゴットがルッカを邪魔してしまうならばそれは本意ではない。

 その通りだ、と言われるのを覚悟でマルゴットはジェネローゾに訊ねる。答えは予想とまるで違っていた。

「ルッカと二人きりでなければ――もう行かなければなりません。失礼します」

 脇を通り過ぎたジェネローゾは振り返りもしなかった。

 その背を目で追って、マルゴットは深く嘆息する。

 ――もう少し、愛想の良い方であれば良いのですけれど。機嫌が悪かったのか、もしくはあれが常態かしら……。

 しかし機嫌を損ねたとしてもルッカの言う通り、マルゴットは国賓だ。名目は父の代理であり、婚約者として祝いに来たわけではない。

 そう考えると失礼な態度だと思う。セトル王国とフェルナ公国には力の差は殆どないのだから。

 ……それほど無礼なことであったのかもしれないけれど。

 リノチェロンテのことを口に出すのはもう少しフェルナに、ジェネローゾに慣れてからでも良かったとも言える。

 マルゴットは途方に暮れると、もう一度廟を見上げた。

 ――わたくし、やっていけるでしょうか? フェルナを育てるには、子を育てるには二親の愛情が必要だと聞いておりますのに。

 答えが返ってくることはないと知っていたので自嘲気味に笑うしかない。

「――王女殿下、お待たせいたしました」

 やや息を上げてグリッロが下草を踏み踏み近付いて来た。彼を見て嘆息したマルゴットは手を重ね、背筋を伸ばして正面を向く。

「グリッロ大臣、わたくしあなた方に謝罪をしなければなりませんわ。ジェネローゾ殿下をご不快にさせてしまったようです」

 眉を下げたマルゴットにグリッロは軽く首を傾げる。

「……どうかお気になさらずに。そもそも殿下が遅れたのですし。それよりも中にお戻り下さい。滞在中の予定などをもう一度確認してしまわなければなりません」

「わかりましたわ」

 ゆったりとドレスの裾を揺らし、マルゴットはグリッロと連れ立って中に戻った。


  †  †  †


「どうなさいました?」

 そう聞かれて、寝台に腰かけたまま窓の外を眺めていたマルゴットは女官に顔を向けた。

 外は既に真っ暗で、明るく広く豪奢な室内がガラスに写る。

「わたくしもルチェーナの町を歩きたいわ」

 昼間見た町並みを、人々の生活を、馬車ではなくもっと間近で見たかった。

「なのに予定はぎっしり、わたくしのことだというのに全てが決められているんですもの」

 女官――エリーザが困った顔をする。それに小さく唇を尖らせた。

 彼女はセトルからついてきてくれたマルゴットの女官だ。唯一、フェルナ語を遜色なく話せるし、幼い時からそばにいてそれだけ気安い。

「仕方ないことかもしれないけれど、これではセトルにいた時と変わらないわ」

 何もかもを決められた生活が普通だった。だが、ここはフェルナであってセトルではない。

 それに、手紙の主が言うように、フェルナを共に育てるならまずはフェルナを知らなければ、と思う。昼間にグリッロからくわしく聞いた予定は、晩餐会や舞踏会、様々な施設の視察が殆どで、明らかにマルゴットが見たい、知りたいと思うものではなかった。

 不満そうにエリーザを見たマルゴットに彼女は言い聞かせるように柔らかく言葉を紡ぐ。

「此度の滞在は二月ですが来年にはフェルナに嫁いでいらっしゃるのですから我慢なさいませ。さ、明日もお早いのではないですか?」

「……そうね」

 夜着にはとうに着替えてある。ライラックの色をした薄い絹のような、襞の多いゆったりしたドレスだ。マルゴットが上に羽織ったガウンを脱ぎかけた時、コンコンと軽快に部屋の扉が叩かれた。

「どなたでしょう?」

 マルゴットの肩からガウンの片袖を抜いたエリーザが首を傾げた。その手をやんわりと退かせ、寝台から立ち上がる。

「なにか緊急の用件かもしれないわ。エリーザ、開けてちょうだい」

 足早に寝室から隣の部屋――主室へ移ったエリーザをゆっくりと追う。さらに廊下への扉がある部屋へと移動したエリーザの足音が止まった。

 気配に気付いたのか、音楽のような強弱をつけたノックも止む。

 マルゴットは来客の可能性に備えガウンをしっかりと纏わせた。

 そして耳をそばだてる。

「まぁ!」

 扉を開けたと思われるエリーザの、驚きの声があがった。

 ――まさかジェネローゾ殿下では……?

 ふと考えた自らの思考に小さく首を振る。

 きっとジェネローゾは来ないだろう。よしんば来たとしても、マルゴットに会いに来るのではなく用事があるからに違いない。

 なんとなく身構え伺っているとこの女官には珍しい弱りきった表情でエリーザが入ってきた。

「姫さま……あの……」

 言い淀み、入り口で止まったエリーザの後ろからぴょこりと飛び出した――天の御遣い。

 金の巻き毛、青い瞳に桃色の頬、薄く散ったそばかす。

義姉ねえさま! もうお眠りでしたか!?」

 ルッカが小さく肩を竦めながらエリーザの前に回り込む。我知らず、ほっと力を抜いたマルゴットは微笑んだ。

「いいえ、まだですわ。どうなさったの?」

 途端にパッと顔を輝かせたルッカはマルゴットの手を取る。

「あのね! ガッビアーノ宮からは星と海がきれいに見えるんだよっ!」

 くいっと引っ張られ、どうやらルッカはマルゴットに景色を見せたいのだと判断した。次いでエリーザを見ると、彼女は渋面を作っている。それにわかっていると頷いてマルゴットはルッカの手を軽く引いた。

「見に行きたいですけれど、夜はいけませんわ」

 しゅん、としたルッカに胸が痛む。

「僕まだセトル王都には行ったことはないけど、海はないのでしょう? きっと驚くんじゃないかしら? それに今がだめならいつならいいの……? 夜しか見えないのに……」

 うっすらと張った涙の膜にマルゴットは慌てた。

「わ、わかったわ!」

「姫さま!?」

「すぐに帰ってくるわ。大丈夫よ」

 ほだされたマルゴットを小首を傾げて見上げ、ニッと笑う。

「兄さまはまだ執務室だから抜け出しても大丈夫!」

 渋い顔をしたエリーザに内緒話のような囁いて、ルッカがもう一度マルゴットの手を引いた。

 今度は逆らうことなく歩き出したマルゴットを連れて、左右を確認しながら角を曲がり続ける。いくつかの階段を昇り、唐突に空が見えた。


 一面に星が瞬いている。

「きれいだわ!」

 潮の香りのする風に髪を靡かせ歓声を上げた。

 ところがルッカは首を振る。

「まだまだ! 義姉さま、目を閉じて」

 感嘆の溜め息を溢したマルゴットにルッカがいたずらっぽく片目を瞑った。淡い期待をのせて、マルゴットは睫毛を伏せる。

 手を引かれるままに歩き――。

「いいよ! 目を開けて義姉さま!!」

「こんな……」

 案内された屋上の柵に手をかける。思わず身を乗り出した。

「どう――? セトルよりもきれい?」


 どこまでが空で、どこからが海なのだろう。


「……こんな美しい景色は初めてです」

 紗をかけたような柔らかい光を放つ真ん丸の月。

 空と海を分ける水平線が一体どこにあるのか。真っ黒の海が月光を弾き、星を映し、波を輝かせている。空もまた同じように闇のキャンバスに星が輝き、明滅を繰り返していた。

 それだけではない。

 手前には幻想のように家々の灯りが漏れ、港の篝火は温かい光となって景色に色を添えていた。

「ルチェーナの全てが輝いているようですわ……このような素晴らしい夜景に出会ったことはありません……」

 視線を外すことが出来ないまま、震える声で告げる。ルッカが嬉しそうに笑う。

「天気が良くて波が穏やかじゃないとここまできれいに見えないんだよっ! 僕も兄さまが執務室にいる時にここに来るんだ! ほら、あそこはルチェーナの港。船の灯りもきれいでしょ? あっちの円形の灯火は中央広場で、ガッビアーノ宮から真っ直ぐに道が伸びてて、そのまま港に続いているんだよ。義姉さまも通ったのではないかしら」

 やっと夜景からルッカに視線を移したマルゴットは小首を傾げる。嬉しそうに海を指差していたルッカは、マルゴットを見上げた。

 誘われるように疑問を口に出す。

「どうしてジェネローゾ殿下が執務室にいらっしゃる時だけなの?」

「――それはわたしの私室がこの真下だからだ」

 二人はびくり、と身を強張らせた。

 この冷酷な声を聞き間違える筈がない。

 騒音の中でも多分マルゴットは彼の声だけは聞き分ける。

「……ジェネローゾ殿下」

 昼と同じ格好だった。貴公子然としたその様子。紺碧の瞳を眇たジェネローゾは厳格に腕を組んでいる。

 叱られる、と咄嗟に思った。竦然として顔を反らすと重く溜め息を溢される。

「話し声が聞こえたので何かと思ったが。――ルッカ、マルゴット王女を夜に連れ出すことはやめなさい」

「はーい!」

 舌を出しかねん勢いでルッカが返事をする。

「マルゴット王女、このような時刻に出歩くのは良識ある行為とは思えません」

「申し訳ありません……」

 刺すような視線を感じて俯く。視界に入った夜着とガウンの前を掻き合わせた。

 後悔しても後の祭りだ。

 穴があったら入ってしまいたい。

「送りましょう。ルッカは一人で戻れるな」

「うん。お休みなさい、兄さま! 義姉さま!」

 頼みの綱のルッカはあっさりと軽い足音を響かせて去っていく。階段を降りる音を鼓膜が拾うがマルゴットは不機嫌な声に身を縮めていた。

 耳がさらに衣擦れの音を拾う。

 ふわ、と肩に布の重みを感じて、見るとそれはジェネローゾの上衣だった。

「羽織っていなさい。あなたをガウン姿で人目に晒すわけにはいかない」

 恥じ入る想いで身体に巻き付ける。

 ――意外……とても、温かいわ。

 最もそれは当然だ。彼がどれ程冷酷だったとしても体温がない筈はない。

 ただ、マルゴットに殆ど感情を見せないジェネローゾにも優しさがあるのかもしれないと、希望を持ちたかった。

 ――そうよ。ルッカにはとても穏やかな目を向けているもの。いつか、いつかわたくしにも打ち解けてくださる筈だわ。

 そうであって欲しい。

 微かな望みを胸にジェネローゾを見上げた。

 彼はだが柔らかさとは無縁のひどく厳しい顔でひたとマルゴットを見つめている。

「あなたはわたしの婚約者だ。いくらルッカとはいえ夜間に他の男と出歩くなどいらぬ噂を蒔くだけです……わたしも、不愉快だ」

 慌てて俯いたマルゴットに声が降る。

 ぐいっと上衣の両脇を合わせられ、ジェネローゾが留め金をはめてくれた。思いの外優しい手付きに、腰を屈め視線を合わせてきた顔を見る。

 彼は少しだけ片眉を上げると言い含めるように重く口を開いた。

「あなたは思っていた以上に厄介な存在だ。ご自分の立場をもう少し理解してくれないか――おいくつになられるのだ。来年にはわたしの妃になられるというのにこのように落ち着きがないようでは困る」

「……わたくしが軽卒でした」

 冷酷さはなりを潜めたが、結局マルゴットは小さくなるしかない。

 ジェネローゾは十六歳で、マルゴットの二つ年上だ。たった二つの差であるのに彼は随分と大人びていた。

 確かに軽重さを責められるのは仕方のないことかもしれない。しかもすでに廟の前で一度警告されているのだから。

 不意にせり上がった熱いものをマルゴットは必死に隠した。子供じみて恥ずかしいし、落ち着くように言われたばかりだ。

 この距離で目に涙を溜めてしまったらまた何を言われるのかわかったものではない。

 ごめんなさい、と呟いたマルゴットからジェネローゾは視線を外した。

「では、戻りましょう」

 身体を起こして歩き出したジェネローゾを追って、マルゴットは階段を降りた。来た道とは別の、もっと近道を通って――行きに衛兵に会わなかったのはルッカがそういう通路を選んだからだろう――マルゴットに二ヶ月与えられた部屋に着く。

 ジェネローゾは口を真一文字に結んだまま、にこりともせずに扉を開けた。

 扉のそばで困りきっていたのだろう。右往左往するエリーザが目を見開いて主と主の婚約者を交互に見る。

「良き眠りを、マルゴット王女」

「お、お休みなさいませ」

 言った途端にくるりと背を向けたジェネローゾの後ろ姿に就寝の挨拶を返す。彼は振り向きもしなかったが、角を曲がってしまうまでマルゴットはずっとその長身を見ていた。

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