①
というわけで、オムニバスの一作目です。
ヨルナは夜空から続く同じ色をした海面に、ちらちらと瞬く満月の光を見るともなしに見ていた。
大抵は朝までぐっすりだが、夜半に目覚めたのは昼の一件が尾を引いているのは間違いない。
苦い想いが渦巻いていて、不安で押し潰されそうだった。後悔、というのはどうしてこうも胸を苛むのだろう。ヨルナは普段は快活な娘だったが、こと彼のことだけは別だった。
このまま流れに身を委ね、甲板から見下ろす凪に漂う木切れのように、何も感じずいられたらと思う。
馴染みの行商の青年キリクを突飛ばした感触と、彼が海に落ちた大きな波音が耳にこだまして離れなかった。
後悔が波のように寄せてくる。浅い眠りを繰り返し、結局眠るのを諦めた。
ぶるり、と震えて肩から羽織ったマントを巻き付ける。晩夏でも此処らの海上は昼夜の気温差が激しい。キリクが落ちたのが昼間だったのが救いと言えば救いだ。
何度目かの幻聴に反射的に海に目をやったヨルナは、波間に揺らぐ黄金の色が一点に集中していることに気付いた。絶え間なく聞こえる波音に異質なものも混じっている。眇るように鳶色の瞳を細め、ヨルナは日に焼け、日々の仕事で荒れた指先を驚愕に開けられた口許に押し付けた。
満月だ、明るい月の光だ、とばかり思っていた金色は女物のドレスのようだった。波に煽られ、あっちにゆらり、こっちにゆらり、徐々に《住まう舟》に近寄ってくる。
しかも。
それは漂流する人間だった。
† † †
ヨルナは慌てた。
水の冷たさに躊躇したのは瞬きより短い間で、マントを脱ぎ捨て勢い良く飛び込む。距離は決して長くはないし、元々寝衣は陸の肌着のように身体を覆う面積の小さいものだから水を吸っても重さはほとんどない。それでも、焦りから指の間から掻いた海水が抜けていく。
バシャバシャともがくように漂流者に近付いて、ヨルナは思わず息を飲んだ。途端に噎せながら、細い身体に手を回す。ググッと抵抗する金のドレスを脱がす余裕はない上に、脱がし方もよくわからない。
彼女を抱えて《住まう舟》まで冷たい水の中を泳いだ。
必死だった。
けれど、感嘆は消せない。
ちらりと見た容貌は海中だというのを忘れて息を飲んでしまうくらい、美しかったのだ。
重量のあるドレスと身体を《住まう舟》に揚げ、そうして両手で自分もよじ登り、ヨルナは少女の呼吸を確認した。
「息してない……」
しかし、身体は芯から冷えていないようだ。今なら助かるかもしれない。
「胸骨、の下」
呟きながら両手を重ね、肘を伸ばして胸を強く圧迫する。二度、三度、ぐっ、ぐっ、と押していた薄い胸から掌を離し、少女の通った形の良い鼻をぐいっと摘まむと、喉を反らせて口付けた。そのまま息を吹き込む。
「――どうした?」
水音を聞き付けたのか、気配に聡いネリが起き出してきた。
「兄さんっ、手伝って!」
コルセットの前をナイフで切り裂き寛げると、人工呼吸するヨルナの横で当然のように掌を胸に当てた未婚の兄ネリは、怪訝そうに眉を潜めた。
「何してんのっ!? 早く!」
「あ、ああ。わかった」
ネリが強く押すことを繰り返す。合わせて何度か息を送り込むと、少女が咳き込んだ。
「よ、良かったぁ……!」
安堵の声は少女の唸りにかき消されたが、ネリが労うようにポンと頭を撫でてくれた。軽くそれに頷き返し、ヨルナは少女を覗き込む。
虚ろにさ迷う瞳は真っ青だ。どれほど凪いだ海を、暑い夏の空を映しても、これほどの青には染まらないのではないかと思うほど、青く、微かに縁だけが濃かった。それも白目との境が余りにはっきりしているための錯覚かもしれない。
青い瞳は、二度三度瞬きを繰り返し、そうしてようやくヨルナを見た。
金髪は細く、海水に濡れて光り、形の良い額にぺたりとはりついている。やや長めの前髪が、くっきりとした鼻筋を際立たせていた。
早くに死んだ母は今まで見た中で一等美しかったと皆が言うが、果たしてこの少女を見た後に彼らが同じことを言えるだろうか。
色の冷えた薄い唇が戦慄き、言葉を紡ぐ。
「ここは……」
掠れても少女特有の澄んだ声を想像していたが、随分と低い。ようやく聞き取れる高さの呟きに小さく頷いた。
「大丈夫。あんたは助かったの。……ここは内海に浮かぶ《住まう舟》のひとつよ」
少女の瞳が周囲を見渡し、心得たように嘆息した。
「あんたは運が良かったわ。兄さんが見付けてたら助からなかったかもしれない」
噎せながら首を傾げようとし、ぎこちなく笑みを見せた少女から視線を外そうとしないヨルナに、ネリが視界の端で肩を竦める。
「俺はそこまで人でなしじゃないつもりだけど。それにヨルナ、言いにくいんだが……」
「なぁに?」
「お前気付かなかったのか? いや、その……」
いつも陽気なネリの言い淀む姿は殆ど見たことがない。口に出すのをひどく恐れているかのようで、ヨルナは躊躇いがちに先を促した。
「その……彼女は、いや、その人は……男性だよ」
耳を疑う言葉にヨルナは文字通り固まった。
「…………はっ!? だってドレス着てるよ!?」
ぎくしゃくと首を巡らし黄金のドレス――初めて見る光沢の美しいもの――と、少女の端正な顔と、ネリを順々に見て、乾いた笑いを唇に乗せる。
ドレスは確かに女物だが、言われてみればその整った容貌は随分と中性的だ。何よりネリの同情的な視線に厭な予感を覚えて、ヨルナは恐る恐る少女に確認する。
「あんた……女よね?」
一縷の望みをかけてヨルナは少女を覗き込んだ。満月の下でも真っ青な瞳が真っ直ぐにヨルナを見つめ返し。
「僕は男だが?」
途端にヨルナは頭を抱えた。
「おめでとう、ヨルナ」
皮肉るようにネリが背を叩く。
――冗談でしょっ!?
確かにキリクを突飛ばしてまでキスを避けたが、だからといって他の男とキスしたいわけではない。
憎たらしい程清々しい笑顔でネリがひとつ頷いた。
「君も。助かって良かった。俺はネリ、このヨルナの兄だ。だから君の義兄になるわけだ。まあ君みたいなきれいな義弟が出来るなんて予想外だったけど」
「義弟……? なんのことだ?」
ゆっくりと上半身を起こした美少女改め美少年は、うっとおしそうに水をまだぐっしょりと吸ったままのドレスの袖をまくりながら眉をひそめた。
顕になった腕は確かに少年のもので、均整がとれた筋肉がついている。キリクやネリのように焼けて引き締まってはいないが、それでもドレスの袖から伸びるには不恰好な腕だった。
「俺たち海に住む奴等は最初のキスが求婚のかわりなんだな。昔は年頃の男女が出会う確率が随分と低かったから、今でもその風習が残ってるのさ」
「それと、僕が義弟になることと何の関係がある……?」
「それがあるんだ。この妹は君に人工呼吸をした。つまり――キスだ」
「あんなもんはキスじゃないっ! あたしはキ……ど、ドレスを着た旦那なんてごめんよっ!!」
闇色をした髪から雫を垂らし、夜のような目をそらして小さくひとつ呻いた青年が脳裏に蘇る。
「冗談じゃないんだよ、ヨルナ。お前は昨日キリクの十四回目の求婚を断っただろ?」
「……十三回目よ」
「数は、うんまぁいいけど。キスはキス、求婚は求婚。彼と結婚しなきゃお前は一生独身だ。それともキリクとキスしたのかい?」
「そんな……だって……あたしは……」
救いを求めて美少年を見下ろす。
そもそも、その髪と瞳の色やコールヤ湾の漁民が溺れるのを恐れて絶対に着ることのない丈や袖の長い服から、彼が陸からやって来たことがわかる。しかも服は明らかに裕福な家のものだ。富を持つ陸の住民ならヨルナのような《住まう舟》の民と結婚しようととする者なんている筈がない。
「というわけで、君も諦めてヨルナと結婚してくれ」
僅かに翳った青い瞳に安堵を覚えて、ヨルナは彼が断ってくれるのを待った。
だが。
「喜んで」
かくん、とネリの顎が落ちる。ヨルナもまた驚愕に見開かれた目を白黒させた。
「僕には婚約者がいないし丁度良い。それに政争には飽き飽きしていたところだ」
「……いやいや、あのね。俺たちは君がびっくりする程貧しいんだよ」
ネリが乾いた笑いをあげ、追従しヨルナも頷く。
ここで何としても彼を説得しなければ。
だが美少年は半身を起こしたままぐるりと《住まう舟》を見回し、瞳を眇た。
「わかっている。コールヤ湾に住む者は概して陸の者より貧しい。だが、そろそろ我が国も漁民と直接的な関係を築いても良い頃だ」
……どうしよう。
ネリと顔を見合わせて、ヨルナは小さく溜め息をついた。
「――今夜はその辺にしとくんだ」
「父さん!?」
振り向けば闖入者はこのノキア一族の《住まう舟》の舟長だった。
今までの話を聞かれていただろうか。もしも聞かれていたのなら……考えたくない。
「ネリ、着替えを貸してやれ。海を漂ってたんなら相当疲れてる筈だ。ヨルナ、彼を空いている部屋に案内してやれ。全ての話は明日にしろ」
「はい……」
眉根を揉みながらネリが返事をする。
「ノキアの《住まう舟》の舟長ワグだ。海から来た客人を歓迎する」
「クライド、クライド・ベッツィークだ。すまないが厄介になる」
漂流してきた美少年――クライドは、軽く頭を下げると立ち上がろうとした。水滴を垂らしながら金の髪を揺らし、途端によろける。咄嗟にヨルナはクライドを支え、心の内で嘆息した。
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