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《第三章》です。今回は《第二章》の数年後の話になります。
最後までお付き合いしていただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。
「……リノチェロンテ公太子が亡くなったそうだ」
マルゴットが父――セトル王国の王ハイダルの口からそう知らされて一月と数日後。
「フェルナ公国から正式に書状が届いた。お前の婚約相手は弟のジェネローゾ公子ということになったからそのつもりで」
「わたくしの婚約者が……リノチェロンテ殿下が亡くなられてから少ししか経っておりません!」
余りの言葉にマルゴットは思わず反論した。
一度も会ったことがない遠い地の婚約者だったが、それでも悲しいことに違いはない。
毎年一枚の小さな肖像画が必ず送られてきた。絵はいずれもマルゴットの私室にまだ飾られている。婚約して四年、十五歳になる来年には海洋公国フェルナに嫁ぐ予定だったのだから。
しかし、唯々諾々と従ってきた娘の反発に、ハイダルは動揺ひとつしない。眉を軽く上げ、感情の見えない青い瞳を眇るとばさりと切り捨てた。
「お前の考えなど国の行く末に比べれば些末なものだ。政略に心の意味など見出だすものではない。それは王女の義務だ」
マルゴットは小さく、はい、と呟いた。
父ハイダルにとってマルゴットの価値はそれ以上の意味を持たないのだろう。
数年前に結婚した異母姉リーゼロッテを眺める父を見て、やっとマルゴットは理解したのだ。あんなに優しい目を向けられたことはないのだから。
父が愛しているのは自分の跡継ぎである王太子の兄シュリヒトとリーゼロッテだけ。マルゴットが父の視界に映るのは価値があるからで、もしそうでなかったら無関心なままで終わっただろう。
父にも母にも似ていない鳶色の瞳を伏せてマルゴットは項垂れた。
「ジェネローゾ公子は先日、立太子の儀を終えたそうだ。マルゴット、お前は未来の公妃として祝賀に行くがいい」
ハイダルの声が降る。
「出発は十日後、滞在は全て含め三月を予定している。供の者はその間フェルナを見聞することになろう」
「わかりました」
立ち上がり、身を翻そうとしたマルゴットをハイダルが止めた。一通の手紙がマルゴットに差し出される。
疑問の表情を浮かべ、首を傾げると、裏を見せられた。
きちんと封蝋されている。紋章は初見だったが、どこかリノチェロンテと似通ったものだ。
「これはお前へのジェネローゾ公太子からの書簡だ。くれぐれも我が国の不利になるようなことを返書にしたためないように」
「ジェネローゾ殿下からの……?」
簡素な乳白色の封書の右下『ジェネローゾ・アズーリ・フェルナ・ヴィットーリオ』と署名されている。手紙を受け取ったマルゴットは、何故? と思ったが、それを口に出せる雰囲気でもなかった。
御世辞も美辞麗句もない。時候の挨拶も世間話も一切なかった。
「不思議ね……兄弟ってどこか似るものらしいけれど」
文章の雰囲気も何もかも違うのに、リノチェロンテと同じ筆跡だった。
『兄のことは残念です。
フェルナはセトルのように水や森に恵まれてはいません。戸惑われることも多いでしょう。
けれど、わたしと共に国を育てる決断を。ここは海風の吹く、活気ある国です』
二度短い手紙を読むとマルゴットは長椅子から立ち上がり、我知らず微笑んだ。
ジェネローゾの飾り気ひとつない書簡は、その端々から彼の真摯さが見てとれる。
それに少なくともジェネローゾはマルゴットの意見を聞いてくれた。
勿論、否と答えたところで婚約が白紙に戻ることはないだろう。個人の問題ではなく国同士で話し合った末の同盟なのだから。
けれど、頭ごなしではなく、尊重してくれることが嬉しかった。
リーゼロッテの件でセトル王妃である母クラーリアは離宮に引き込もってしまった。見映えの悪い娘よ、と元々余り関心を持たれていなかったから母との距離は遠い。兄とも歳が離れていたためか仲が良いとは言い難く、父にとっての価値は王女という身分だけ。
家族はマルゴットに無関心で、命じることが当然だと思っている。それが普通だったし、別段不都合だったわけでもない。
三度手紙に目を走らせ、マルゴットは肖像画に手をかけた。
ゆっくりと全てを伏せる。
「リノチェロンテ殿下のお手紙はわたくしを褒めてばかりでしたけれど……」
婚約者を亡くしたばかりで不謹慎だとは思うが、マルゴットは少しだけフェルナに向かうのが楽しみになった。
国を共に育てる決断。
それはジェネローゾと共に生きる決断だ。
彼の妃として。
国の要として。
「わたくしに務まるかはわからないけれど――決断します」
窓辺に佇み、南西の方角を見つめる。遥か彼方にあるフェルナの公宮を心に浮かべて。
マルゴットは小さく呟いた。
† † †
陸路で海を目指し、セトルの保有する数少ない港のひとつから船に乗って半月を数えた後。マルゴットはフェルナ公宮のある公都ルチェーナに降り立った。
「ここが海洋公国フェルナ……なんて活気があるのかしら」
ルチェーナは広大な港町だ。
積み荷を下ろす男たちの怒号に混じり、女たちの甲高い笑い声が響く。石畳にたくさんの店が出され、その間を子供が走り回っていた。どの顔も生気に溢れ、生き生きとしている。
馬車から覗き見ただけで、圧倒されるような賑わいだ。セトルの王都も確かに人は多かったが、ここは雰囲気が似て異なるものだった。
ほぅ、と感嘆の溜め息をついたマルゴットの向かいには、出迎えの大臣が座っている。彼はマルゴットの賞賛が混じった溜め息を嬉しそうに聞いていた。
「なにもかもがセトルと違うのですね。潮の匂い、海から吹く風、陽射しもずっと強いです」
石畳に落ちる真っ黒の影に目を止め、そして強い潮風に前髪を押さえたマルゴットは、素晴らしいわ、と呟いた。
「なんて美しい国なの……皆が笑っていられることは国の本来在るべき形だと思いますわ。それにこの活気。わたくしまで笑い出してしまいそうです」
「――フェルナの町の七割は港町ですから。コールヤ湾の豊富な海産物は全てフェルナに集められると言っても過言ではありませんし。王女殿下がフェルナをお気に召されたようで嬉しく思いますよ」
「こんな美しい国を嫌う人がいる筈がありませんわ! 勿論わたくしもです!!」
一瞬目を丸くさせた大臣に、マルゴットは顔を伏せた。
出過ぎた物言いだっただろうか、と不安になる。セトルでは叱責を受けたが、ここでもそうなるのだろうか。
暗嘆たる気持ちで向かいを見ると、予想に反して大臣は微笑んだ。
「ジェネローゾ殿下がお聞きになったらさぞかし喜ぶでしょうな。――さ、もうまもなく公宮が、ガッビアーノ宮が見えてまいりますぞ」
言われて窓から外を見る。そうしてマルゴットは自分の想像力の乏しさを知った。
そこにあったのは、巨大な宮殿だった。
繊細な彫刻が施された壁は白亜に輝き、赤茶の色をした丸い屋根と尖塔が林立している。ところどころが金色に煌めいて、けれど華美に溺れた印象はまったくなく、ただただ呆然とするような荘厳さだ。
馬車が蹄の音を響かせて止まる。
ドレスの裾を持ち上げゆっくりと降り立ったフェルナの地は、何もかもが確かにセトルと違っていた。
読んでいただきありがとうございました。次話の更新もなるべく早めにしたいと思います。よろしくお願いします。