⑪
小麦の穂にも似た白金の髪に光を受け、こちらに近寄って来た姿に心底ほっとした。
さすがにロッテ一人では力の入っていないエーアリヒをそばの木陰に運ぶだけで精一杯、寝台までは辿り着けないだろう。
「ダルト、良かっ――」
「本当に何してんだ? 二人で、抱き合って、何を?」
すぐ側に歪められ色をなくした灰茶の瞳があった。
……あ、あれ? なんか微妙に、怒ってる?
その醸し出す雰囲気に急に怖れを感じて、ロッテは恐慌した。
「ち、違う!!」
これはまずい。
誤解された、と遅まきながら理解したロッテだが、徐々に歪むダルトの表情は明らかに激怒に近い。
弱々しく呻く声に何故気付かないのかと苛立ちを感じながら、狼狽する。
エーアリヒの絹糸のように流れる黒髪と、ロッテを交互に見て――。
「ちょっ――ダルト!?」
彼は踵を返した。
「ダルト!!」
一生懸命に声を張り上げてその名を呼ぶのに、ちらとも振り返らない。
跳ねる金色が残像のようにロッテの視界に残る。
「早く、追って下さい……」
追いかける。
追いかければ、誤解だと理解ってくれるだろうか?
足を踏み出しかけたロッテだったが、ぐっとエーアリヒを抱き直す。
「馬鹿言わないでよ! い、いいわ。後で説明すればいいから!!」
たとえ馬の合わないエーアリヒとはいえ、病人を置いてなどいけるわけがない。
決定的な溝というわけでもない筈だ。
……話せばダルトは絶対にわかってくれるわ。
周囲をもう一度見回し、ロッテは一番近くの木陰にエーアリヒを引きずって行く。先日ロッテが悩みを預けたあの木だ。
「それでは遅いです。行って……少し休めば治りますから……」
「いいって! ――……?」
ぐったりと顔を上げないまま、エーアリヒがロッテから離れようと身体を捻った。そこでロッテは自分の胸元を押す柔らかな感触に僅かに疑念を覚える。
――しかも、ふたつ……?
瞬時に眉間にしわを寄せ、弾かれたようにエーアリヒを見下ろした。
いつもは真っ直ぐな黒髪で隠れたうなじから首にかけて、随分とほっそりしている。筋のない、うっすら脂肪ののった、柔らかそうな首元だ。くてんと下を向いてる為に浮き上がる首の骨の線の細さに疑問がむくむくと沸く。
自分の手が回りきるくらい華奢な胴体、麗しい程の美貌。間近で見る肌は陶器のように滑らかで。
「ごめん。違ったらすごく失礼だけど、エーアリヒ、あんた……」
言い淀み、それでも目を背けることは出来ない。
木陰にエーアリヒを横たえ、ロッテはその蝋のように蒼白の美貌を覗き込んだ。
「あんた、女……?」
信じられない思いでロッテの声は震えた。
エーアリヒが苦笑する。
「……月のものの最中ですので調子が芳しくないだけですから……だからご心配には及びません」
女は子供を生む為の機能を常に最上の状態にもたらすために、月に一回は苦痛を感じるものだ。そして、月のものがある以上、エーアリヒは確かに女なのだろう。
「どうして……?」
横になって少し楽になったのか、エーアリヒがほっとしたかのように弱々しい笑みを見せた。
同性であるロッテにすら庇護欲を掻き立てさせるような、危うい美しさだ。男装しているために倒錯的であるとさえ言える。
そして、ロッテは心底安堵した。
ダルトがこんなエーアリヒを見ずに去ったことに。
「クラーリア王妃は陛下の側に女性がいることがお嫌いですし、シュリヒト王子に見つかるともっと面倒でして……男装が一番自分を隠すのに都合が良いのです」
ああ、と小さく呟いて、ロッテは納得した。
クラーリアがロッテを見る目は憎悪に溢れていたし、シュリヒトはその端整な面立ちに収まる瞳にひどく不釣り合いな好色なものを向けてきた。洗練されない田舎者であり異母妹のロッテでさえそうなのだ。
傾国と言っていい程の美貌はむしろエーアリヒの仕事の邪魔にしかなるまい。
「陛下はわたしが女だとご存知で、その上で取り立てて下さったのですが。女であるわたしがダルト様の補佐に付くことをあなたが不安に思うかもしれないから時が来るまで秘密にするようにと」
視線を泳がせ、狼狽した。
「あたしが? なんで…………!!」
反発するように即座に声を上げるが、ロッテは思い直す。
たった今、確かにそう考えた。それは不安でなく安堵だったけれども。
エーアリヒが女だと、この美しさをダルトの目から隠せて良かったと、思ったことは確かだ。
誤解を解きたいと動きかけた足に手をやり、ロッテはようやくエーアリヒに視線を戻した。
「で、でもなんであの王サマがそんなこと……」
「貴女のお幸せを心から願っている以外に何があると言うのです?」
笑い含みで問いかけるエーアリヒに、ロッテは目を眇る。
そんなことがあるわけない。
父王ハイダルはロッテの気持ちなど歯牙にもかけず、母を想う態度ひとつ見せなかった。猜疑心でいっぱいの視線をエーアリヒに向け、肩を竦める。
絶対に他に理由がある筈だ。
「陛下は国内の誰よりもダルト様を高く買っておられる。その有能な男に有無を言わさず貴女を嫁がせたのはそうすればご自分が安心出来るからでしょう。――陛下は貴女が可愛いのですよ」
「そんな……」
「さて、わたしはここでもうしばらく休ませてください。リーゼロッテ様はダルト様を追いかけてお話をなさってはいかがです?」
いつものエーアリヒが戻って来た。
ロッテは不承不承頷き、立ち上がる。
「……あたしは、それでもあの王サマは赦せないよ」
歩き出した足を止め、振り返ったロッテはエーアリヒを見下ろした。
「それでかまわないのです。陛下もそのようなことは望んでおりません。貴女には国政に翻弄されるような距離にいて欲しくはないのですよ」
ハイダルの冷たい言葉の裏に隠されたものをエーアリヒはあっさり告げた。
『ザクテン領を任せるとはいえベッツィーク共々登城は許さん。彼の地で静かに暮らすが良い』
司祭が驚き確認までした言葉の意味は、ロッテを生臭い世界に置きたくなかったのだ。
ロッテに軽く微笑んでエーアリヒは目を閉じた。話は終わりということだろうが、ロッテはその場を一歩も動けなかった。
† † †
あの日からダルトはロッテを避け続けている。
四日が過ぎた。
明後日は祭りである。準備に忙しい領民たちは領主夫妻の不仲に気付かない。
「――まだ仲直りされていないので?」
相変わらず男装を続けるエーアリヒが近付いて来た。肩を竦めてそれに応じ、ロッテは厨房から届けられた料理の最終確認の書類に判を押す。
「取り付く島もないわよ。目も合わせてくれないんだから」
努めて冷静に答え、ロッテは顔を上げた。
「そっちはどうなの?」
「こちらも同じようなものですよ。不機嫌にずっと黙っておられることも多いので仕事が進みません」
「困ったことになったわね……」
書類をエーアリヒから受け取り目を通しながら、ロッテはぽそりと呟いた。エーアリヒの身動ぎが視界の端に映り、慌てて弁解する。
「あんたを責めてるわけじゃないのよ!? あんたは体調が良くなかったんだから仕方ないの! ただちょっとあたしまだ混乱してて……その……」
逡巡し、ロッテは書類を机の上に置いた。
「誰にも……ミネラにも相談出来ないし、もうどうしたらいいかわからなくて……」
ロッテにいつも向けられた温かみのある、穏やかな灰茶の瞳。暖炉の置き火にも似た、心がほっこりとするダルトの瞳が感情をなくし、冷えた視線に変わっていた。
あれは誤解だと言うことすら出来ていなかった。
不意に滲んだ視界にロッテは目を擦る。涙が手の甲に筋になって残った。
「リーゼロッテ様、本日これからお時間はおありですか?」
慰めの一言もなく淡々と聞いてくるエーアリヒに、赤く色付く瞳でこくりとロッテは頷いた。
「では、ついて来てください」
「……で、なんであたしのクローゼットをあんたが開けてんの?」
「前にも言いましたが、この辺りはザクテン領主夫人としては相応しくありませんので処分して下さいね」
ロッテの衣装の殆どをエーアリヒは捨てろと言うのか。冗談ではない、とロッテは憤った。
「動きやすいんだから嫌に決まってるでしょ! あんた何しに来たのよっ!?」
叫んでからぽかんと口を開ける。あの無表情のエーアリヒが、笑っても含み笑いがせいぜいのエーアリヒが、信じられないことに真っ赤になっている。
「…………ど……」
「ど?」
ぱくぱくと何度も口を開け閉めし、エーアリヒが消え入りそうな声で呟いた。
余りに小さな声に身を乗り出して聞き返す。
「……ドレスをお借りしたい」
「あたしのを!?」
言うがいなや、ロッテの許可もなくエーアリヒは一着のドレスをクローゼットから取り出した。
深緑の色をしたドレスだ。
「身長は殆ど差がありませんから――論より証拠、百聞は一見にしかずです」
にこりと笑みを作ったエーアリヒは、残念ながらロッテには全く似合わないそのドレスを軽く身体に当てた。まるで最初からエーアリヒに着られることを想定したかのように、黒耀石を磨いた瞳と緑の黒髪が映える。
ロッテは茫然とそれを見て、囁いた。
「……つまり? えっと? ダルトに見せるってこと?」
「そうです。いくら何でもわたしが女だとわかればダルト様とてご自分の勘違いに気付かれるでしょう?」
ドレスは襟ぐりが開いたものだ。深くはないが胸元が晒される身頃で、間違いなくエーアリヒが女性だとわかる筈である。
「そうだけど……でも……」
誤解は必ずや晴れるだろう。しかし、ロッテの頭に過ったのは違う心配だった。
――もしダルトがエーアリヒを好きになっちゃったら!?
村の友人の中には一目惚れを経験した者も少なからずいた。しかも、ダルトが目にするのは女の自分から見ても美しいと思える程のエーアリヒなのだ。
目の前で好きなひとが恋に落ちる瞬間を目撃などしたくない。表情を曇らせ、ロッテは首を振ろうとする。
「大丈夫ですよ、ダルト様なら」
したり顔でエーアリヒが笑った。
見透かされていることに赤くなり、ロッテはぷいっと横を向く。
「なんかやっぱりあんたのことも好きになれないわ」
「お互い様ですよ。――ふふっあははっ!」
エーアリヒが声を上げて笑うところなど初めて見た。顔を崩し笑うエーアリヒと視線を合わせ、ロッテもまた声を上げると笑い出す。
ひとしきり笑いあえば、友人も同然だった。
ロッテは下着姿のエーアリヒにドレスを被せる。パニエに引っ掛かった裾を捌き、エーアリヒを見上げた。
「どう?」
ゆっくりと立ち上がったロッテは出来映えに満足そうに笑う。
完璧な貴婦人だ。
唯一の心配が再び頭をもたげるが、このまま誤解され続けることの方が辛い。ロッテへ向けるダルトの視線から優しさが消えてしまったことの方が痛いと思う。
彼は知らないのだ。
故郷を離れた自分がどれ程ダルトを頼りに思っているのか。
あの灰茶の瞳を見てどれ程心が和むのかを。
正直に言えば、限界だった。早くあの存在を取り戻さなくては、ロッテは押し潰されてしまう。孤独に、不安に、そして肩書きだけの地位に。
苦悩を僅かに見せたロッテにエーアリヒが皮肉気に口角を上げた。
「胸元がきつくて胴回りが緩いですけど、まぁ大丈夫ですよ」
「……あんたほんとにいい性格してるわ」
ウェスト部分を引っ張りながらのその言葉にぷぅっとふくれながらロッテは応じる。しかし、その軽口はエーアリヒなりに、ロッテの気持ちを悩みや落胆、悲しみから反らしてくれようとしたものかもしれない。今まで言われた言葉の数々も領主夫人としての心得であった。
「お褒めにあずかり光栄です」
褒めてない、と口では冷たく切り捨てながら、ロッテは破顔した。
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