⑨
小麦はいつのまにか実ってます……。
目まぐるしい日々の中で、ロッテは次第にダルトの姿を見るだけでほっこりと温かい気持ちを覚えることに気付き始めていた。
「――身が入ってないよ!? 何をぼんやり見てるんだい!」
容赦なくルーザから飛ばされた叱責に、慌ててダルトの横顔から視線を反らす。
周囲の農夫たちからくすくすと笑い声が漏れる。ちらと横目でダルトを見ると、彼も皆と同じように笑っていた。
しゅん、と項垂れたロッテはまた屈みこみ、作業に戻る。
「ロッテ様気にされるなよ。ルーザがああやって言うのは相手を気に入ってる証拠さね」
「そうそう。だってダルト様もね、ああしてよく言われてたもの」
少し離れた両隣からそう声をかけられ、ロッテはぽかんとする。
「ダルトも?」
「ああ、もうこっちが気の毒になるくらいになぁ」
「わしらは慣れとるが、最初はダルト様も目を白黒させとった」
さらに隣の農夫がかっかと笑った。
「あんたたち、仕事をする気があるのかい、ないのかい!? 今日中に刈りとっちまわなきゃ、明日が余計大変になるだけだよ!!」
ルーザから檄が飛ばされる。
「わしらの手は動いとるわい。のう、ロッテ様」
「え、あ、ええ! ちゃんと刈ってるわ!」
慌ててまた鎌を横に払うと、ロッテは束に掴んだ小麦を刈った。
黙々と働くのは嫌いじゃない。けれど、どうしても今後のことを考えてしまうのは仕方ないだろう。
ザクテン領都ルタールでは小麦の一部を刈り取る作業が始まった。
多額の褒賞金のお陰か、税金が免除されているからか、他領が目を見張る早さでザクテン領は明るくなった。貴族ではない平民出身の領主であり、また英雄であることも吉となって領民はかなり意欲的に働いた。結果、戦前の収穫高には遠く及ばないながらも、去年を超える小麦が実った。
風車も各地の今年の収穫高に合わせた数だけは修理が終わり、そこかしこに戦の傷痕は残るものの、希望は少しずつ広がっている。
『豊かになったらきっと帰してやる』
ダルトにそう言われてから数ヶ月。
ロッテは今その言葉が憂鬱になっていた。
……あんなに帰りたかったのに。
そう思った瞬間に肌が焼けつく。手元が狂い、鋭利な刃が左手の親指を浅く撫でていったのだ。
痛い、と叫んだ覚えはないが、慌てたようにダルトが飛んでくる。狼狽えながらロッテの手を見て、顔色を変えた。
「怪我したんだなっ!」
言われてもう一度親指を見下ろし、ダルトのおろおろとした様子に首を傾げる。
ただの浅い傷だ。うっすら血の珠が浮き出してきたが、流れ落ちる程のものでもない。気付いた他の農夫たちが次々にロッテの手元を覗き込み、安堵の声を上げる。
「そんなに騒ぐもんだからロッテ様の指が落ちたのかと思ったよ」
青くなったダルトは揶揄されたことに気付かないのか、ロッテの右手から鎌を奪う。
「消毒しに行くぞ!」
「え? かすり傷だよ?」
目を見開いたのはロッテだけではない。
周囲の農夫たちの表情にも驚きがある。彼らは徐々にはにかむような笑顔に変わったが、どうやらダルトは本気で言っているらしかった。
「かすり傷でもだ! ――ルーザ! ロッテとおいらは抜ける、後を頼むな!」
「わかったよ!」
やや遠くの方で心配そうにしていたルーザが、手を振った。その身振りを確認し、ダルトはロッテを引っ張る。
「こんなのかすり傷じゃない……別に消毒するような傷でもないし……そこらで引っ掻いたような傷なのに……」
「何をぼんやりしてたんだ!! かすり傷!? 冗談じゃねぇ!」
歩きながらぶつぶつと呟いていると、ダルトが怒鳴った。
その剣幕に耳を塞ぎそうになる。
「一歩間違ったら危ないんだぞ! ぼやっとしてるくらいなら手伝うな!」
「だ、だけど――」
「だけどじゃねぇ! 迷惑だ!! ……あ、いや……」
迷惑。
その言葉にロッテの顔が固まった。
どくん、どくん、と嫌な音を立てて血が流れていく。ぎゅっと鷲掴みにされたかのように、胸が痛い。
捲し立てていたダルトが表情をなくしたロッテを見返し、急に失速した。
「……悪かった。言い過ぎた。……なんか考え事してたんだろ? 今日は休んでいいから」
口調は優しくなったが、休め、と言われたも同然だった。
しかも反論は出来ない。身が入っていなかったのは事実だし、ぼんやりして怪我をしてしまったことで皆の作業を一時中断させてしまった。
「迷惑かけてごめんなさい……」
「違う! いや、あのな……おいら一瞬心臓が止まりかけた。頼むから怪我なんかしないでくれよ」
深く、本当に深く溜め息をついて、空を仰いだダルトだったが、ロッテはその言葉の意味をはかりかねていた。
余りにも意味あり気な言葉だ。
赤くなるより怪訝な表情を浮かべるロッテの頭はやや混乱する。よほど大切に思っていなければそこまで言わない筈と思いながらも、ダルトの優しい性格ならありえるとも考えてしまった。
曖昧に笑んだダルトは、ロッテを見下ろし肩を竦める。
「五年経ったら帰るんだろ。いわばロッテの村からロッテを借りてるようなもんさ。預かりもんに傷つけたら大変だ」
眉を寄せて頬を上げ苦笑するダルトにロッテも内心を隠し、軽く笑った。
だが、それは不思議と、とすん、と啓示を与える。
落胆を覚える理由は至極簡単なものだ。
「……そう。そうね。――やっぱり考えたいことがあるから今日は抜けるわ。薬草畑には刃物使う仕事ないし。ダルトは戻っていいわよ?」
苦笑いを続けながらダルトを振り仰いだロッテは後方を指差した。
「ミネラに手当てしてもらえよ?」
「かすり傷よ? …………わかったってば」
眇められた瞳に両手を上げて観念したロッテは城に向けて歩き出した。背中にダルトの視線を感じながら。
ミネラは首を傾げながらも手当てをしてくれた。包帯を巻くでもなく、ましてや縫う程でもない。軟膏を擦り込むだけ、僅か数秒で終了だ。
ロッテは今ケントニス城の中庭のひとつにいた。
そこはこじんまりとした――城の中庭の内では――場所で、ロッテの大切な薬草が植えてある。村長が株ごと送ってくれたものだ。幾つかは土が合わなかったのか枯れてしまったが、半分以上は生き残った。
納屋からバケツを取り出すと、ロッテはぼんやりしながら柵で囲ったささやかな薬草畑に入り込む。
雑草を嫌うある種の薬草の為にそれを抜くつもりでいたのだが。しゃがみこんだ途端に意欲が消えてしまった。
ロッテとてこれが初恋というわけではない。成就することはなかったが、村で既に経験済みだ。
そう。
この、ふわふわとした気持ちは恋ゆえだとわかっている。
ダルトの姿に安堵を覚え、思い浮かべる度に頬が熱くなる。期待してしまいそうな言葉が特別な意味ではないと知って落胆するのは、ロッテがダルトに恋心を抱いているから。
気付かないふりをしたいが自覚症状は日に日にロッテを追い立てている。
……でも。あたしはダルトのどこを好きになったのかしら?
やる気はなくとも無意識に雑草を引き抜きながら、ロッテは疑問を自らに投げかけた。
……顔じゃないわ。そりゃ魅力的だけど。
誰しも認める冷涼な美貌を誇るエーアリヒと比べれば、ダルトは少し斜めを行く。つまり正統派の美青年ではない、ということだ。
ただし弧を描く柔和な瞳には独特の輝きがあるし、燦然と光を放つ白金の髪は彼が育てる小麦の穂と同じ色をしている。精悍な顎の線と通っている鼻筋が、そばかすの浮いた頬の印象をずっと引き締めていた。
ロッテの知っている村の娘たちが黄色い声を上げ、感謝祭で躍りを申込み、わたしは彼と踊ったのよ! と自慢気に話すくらいは格好良いだろう。
……じゃ、中身? という程、実はまだダルトのことよくわかんないのよねぇ。
本人はそれ程感情を表に出す方ではないと言っていた。笑っていることは多いが、何を考えているかわからないふしもあるのは確かだ。
ただ、とても優しい人だと思う。
少なくとも、ロッテを大切にしてくれているのは誰しも認めることだし、ザクテン領の人々に対しても公平に接する。褒賞金を自らのためではなく、皆のために使うようなひとだ。
――でも優しいから好きになった、って何かしっくりこないわ。もっと、そう最初の日には、多分惹かれてた気がする……。
ぷつり、と切れてしまった雑草の根本を手探りで探し、上の空のまま株ごと引き抜いた。
……でも、これってあれかしら。鳥の雛が最初に見たものにずっとついて行くっていう、そう、刷り込み?
まるで物語集の騎士のように、憧れていた英雄に望みを叶えてやると誓われたら――好意を抱くかもしれない。いや、抱くだろう。
……まぁ、ダルトは騎士さまって感じはしないけど。
ふっ、と小さく笑いを溢して、ロッテは抜いた雑草から土を叩き落とした。
――じゃ、ダルトが英雄だから? ……いいえ、だめ。それじゃただの憧れだもの。
「……やっぱり憧れ、なのかしら……?」
憧憬だけでこれ程ダルトに左右されるものだろうか。
考えれば考える程、わからなくなってくる。
小さな畑だ。既に雑草は抜き終わり、放り込んだバケツを持つと立ち上がった。納屋に向けて歩きながら、さらに頭は回転する。
遡ってロッテは思いを馳せた。
ダルトと初めて会った日、ふと垣間見せた悪戯めいた煌めく瞳に狼狽したことは覚えている。
普段は穏やかな灰茶の瞳が時折見せる強い色に目を奪われたのは一度や二度ではない。
――あれ? これって見た目ってこと!?
堂々巡りに陥ってしまい、ついにロッテは作業を諦めた。中庭の木の一本に背中を預け、ふぅ、と溜め息をつく。赤茶色のスカートを広げ、足を伸ばして、ロッテは目を閉じた。
「見た目、だったら、エーアリヒにだってドキドキするわよねぇ……」
今まで彼に怒りこそ覚えても胸が高鳴った記憶はない。それは最初に、まだセトル王宮にいた時に、エーアリヒが貴族だと知らなかった時も、綺麗な男だと思えど、鼓動は規則正しく打っていた。
「見た目っていうより、そうね、ダルトのあの目の強さが惹き付けるのかも」
狭い納屋で泣き顔を見た時も、芯を現すかのように強く見返してきたダルト。
「……ダルトって基本よく笑ってて穏やかだけど、あの目だけで印象がガラリと変わるわ」
柔和な煌めき。不安を消してくれる、時には威圧感さえ与える強さ。怒りや憎悪すら、周囲を引き付ける灰茶の瞳。
ロッテが恐くても、それでも見続けたいと思うもの。
――そう、あたし、ずっとここにいたいって思ってる……。
思った途端に落胆が戻ってきた。
ダルトはロッテの抱く気持ちを知らない。誠実で責任感も強い彼は、ロッテを必ず村に帰してくれるつもりでいる。
望みの薄い恋なのだ。
「……それどころか望みなしって感じね」
自嘲気味に言葉を落としたロッテは、近くで下草を踏む音に慌ててパチリと目を開けた。
黒い人影がすぐ側にある。
「何をお一人で呟いていらっしゃるのです。周囲が聞けば何を思われるか、リーゼロッテ様は自覚が足りません。貴女は注目を集めるだけの地位にあるのですよ」
エーアリヒは冷たくロッテを見下ろしていた。
普段だったら言い返しているところだが、ロッテは狼狽していた。
「聞いてたの!?」
「貴女がダルト様をどう思われ――」
「それ以上は言わなくてもいい!! 何か用!?」
きつく睨みつけながら、ロッテは赤茶色のスカートを翻し立ち上がる。秘密にするべき気持ちを聞かれたことと自分のうかつさが腹立たしい。
「二、三、確認して頂きたいものがありますので」
無表情なままロッテに突き付けられた書類に首を傾げた。
「あたしが? 何の書類よ……感謝祭の食事?」
「ええ。ケントニス城では以前より領主夫人が采配をふるうことになっています。ですから、食事に何を出されるかはリーゼロッテ様の了承が必要なのです」
ぱら、ぱら、と目を通し、眉間にしわを寄せた。
「って言ってもね……」
片手間で済むような書類でない、と思う。
感謝祭は城で働く者たちだけではなく、領民も皆が楽しみにしているようだ。
ケントニス城が平民に公式に開かれる感謝祭は、領主と領民が直接会話が出来るまたとない機会でもある。最もダルトがザクテン領主となってからは城の門は誰しもくぐれるし、ダルト自身が気軽に外に出て農夫の仕事をしているが。
だが、ケントニス城内を見たいという領民がいないわけではない。
わざわざ領民が足を運んでくれるというのに、吟味もせず、了承するのはロッテの姿勢に反した。
「一度戻るわ」
「その方がよろしいのではないかと。どうやらリーゼロッテ様は作業をされていないようですからね」
「あんた一言余計よ」
ロッテは溜め息を吐きながら、エーアリヒを伴って私室に戻った。
どこが好きかわからないまま好きになることも、ありますよねぇ……? ともかく、読んでいただきありがとうございます! 感想はいつでもお待ちしています。また、お気に入り登録ありがとうございます。次話もよろしくお願いいたします!