⑧
その日の夜、ダルトは寝室に現れなかった。
「やっぱり、怒ってるのかしら……」
固い寝台に腰掛けたまま、ロッテは自嘲気味に呟く。
一人きりの寝室はどうにも広く、ただでさえ落ち着かないというのに、寂しく感じた。通常は二人で運ぶので衝立は用意出来なかったから余計だ。
ロッテは夜着に薄い上着を羽織った。
――探しに行こう。
このまま眠ることなど出来そうにない。夜半を回ったというのに眠気は訪れないし、ダルトの冷たい灰茶の瞳が眼前にちらついて胸が締め付けられる。
寝室から私室へ、そして廊下へと出るとロッテは歩き出した。
自分がとても冷徹なことを言ったことは自覚している。兵士の命を金に換算した上、しかも減額したのだ。聞く人が聞けば眉をひそめられても仕方ない。
思い返せば減額を最初に提案したエーアリヒすら、小さく顔をしかめていた。
不快に思わせたかったわけではない。
――ダルトの思い出を、大切な人を、きっとあたし……。
ロッテの提案を承諾はしてくれたが、内心は煮え繰り返っていたのだろうか。だから、寝室に現れないのだろうか。
ゆらゆらと歩き続け、執務室までやって来たロッテはそこから漏れる薄明かりに気付いた。我知らず歩調は早くなる。
扉を開け放ち――。
「ダ……エーアリヒ?」
執務机にダルトの姿はなく、側に設えられた少し小さめの机で書き物をしていたのはエーアリヒだった。
彼は小さく驚きはしたが、すぐに書面に視線を落とす。下を向いたまま、凛とした声音がロッテを刺した。
「こんな夜更けに何をなさっておいでです?」
「その……」
なんと言えばいいのかわからなくて、ロッテは扉口で立ち尽くした。
「廊下に光が漏れますから、そこに立っていらっしゃるなら中に入って下さい。迷惑です」
ダルトを探している途中なのだと言えないまま、ロッテは執務室に入り、扉を閉めた。
「何をしてるの?」
「明日の朝には指示を出す予定ですので、各々に調べることを書いているのです。口頭でも構いませんが、万が一調査しそこねてしまえば、公正な分配は行えませんから」
インク壺にペン先を浸し、エーアリヒは話しながらも書面に書き付けていく。
「まだどうするかもわからないのに?」
「決まってからでは遅いのでは? それくらいはおわかりかと思っていましたが」
冷たく言い切られ、ロッテは足元に視線を落とした。
ここにダルトはいないのだからすぐにでも出ればいいのだ。ようやくそう悟って、ロッテは扉を振り返りかける。
その背に声がかかった。
「先程のことを気にされておいでですか?」
ハッとしてエーアリヒに視線をやると、彼は真っ直ぐにロッテを見つめている。
「貴女も間違っていませんよ。ダルト様は最前線に立って戦っておられたので、兵士と残された者を等しく考えておられる。けれど、分配すべき褒賞金は限りがあります。優先すべきは生きる者だと貴女は言った。わたしは間違っているとは思いません」
思いの外真摯な言葉にロッテは目を見開いた。それ以上に、貴族であるエーアリヒがロッテの考えを認めたことに驚愕する。
「あ、ありがとう……」
口から溢れた謝辞にエーアリヒが苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あなた方の記憶力には疑問を感じます。わたしは当然のことを言ったまで。――もう戻ったらいかがです。ザクテン領主夫人ともあろう方がそのようなはしたない格好をして、ふらふらと城を歩いているなど、恥ずかしくはありませんか?」
嘲るように言われ、ロッテの頬が朱に染まる。急いで執務室を出ると、扉の前で歯を向いた。
――なんか一言でも言わないと気がすまないのかしら!
心の中で悪態を吐きながらも、認めてくれたことが少しだけ嬉しかった。
けれど胸につかえたものが取れることはない。
ロッテにとってはやはりダルトなのだ。
たとえ父王に命じられた結婚であり、異母妹の身代わりとして嫁いだ相手だとしても、自由を得るまでザクテン領で頼みとする相手はダルトしかいなかった。
再び城を徘徊し、ダルトを探すロッテは最初の夜を思い出す。行き過ぎた、裏へと繋がる使用人用の階段まで戻ると、誰もいないことを確認して降り始めた。
あの時見たダルトは無表情だったが、今日のダルトは怒りも露で、近寄り難さはないものの逆鱗に触れたのかもしれない。
裏口から外に出ると、すぐ脇には納屋がある。半月前の結婚したその夜、農具の納められたこの場所でダルトは寝ていた。
納屋の両開きの扉の片方を音を立てないようゆっくり開けると、奥の暗闇の中で天窓から注ぐ僅かな月光にキラッと光るものがある。目が慣れるにつれ、それがダルトの金の髪だとわかった。
見付けたのは良いが、なんて声をかけていいのか悩んでいると――。
「理屈ではおいらもわかってるんだ」
目を閉じたまま、ダルトは静かにそう言った。
「だけど、感情が追いつかねぇんだよ」
自嘲するようにぽつりと溢す。薄目を開け、身体を起こしたダルトは真っ直ぐにロッテを見つめた。寝ていたわけじゃないらしく、寝起きのようなぼんやりしたものではない。
先程は目を見るのが怖かった。けれど確認しなかったことでもっと不安が増し、眠れなくて。
祈るような気持ちで、ロッテはダルトと視線を合わせた。
そこには――穏やかな灰茶の瞳が待っていた。
「リモンだって自分が金になるよりレジーやおばさんが幸せに暮らせる方がいい筈なんだ。わかってんだよ、本当は……」
肩から巻き付けていた上掛けをぎゅっと掻き抱き、ダルトは下を向いてしまう。
足を踏み出し、ダルトに近付いて、ロッテはその肩に手をかけた。
……震えて……泣いてるの?
「金を出したってリモンは帰ってこない……リモンが生き返るなら褒賞金なんて全部つぎ込むのにな……」
「ダルト……」
鼻にかかる声。
思わず呼んだロッテに光る瞳が向けられる。目尻に溜まった涙が、ぱちり、と瞬きした途端に精悍な顎まですぅっと流れた。
「見んなよな、せっかく隠れてたのに。泣き顔なんか見せたくねぇよ」
言いながらも真っ直ぐに視線がロッテを捕らえている。
「お前が泣かずに頑張ってんのに、おいらこの様だ。――悪かったな、気にして探してくれたんだろ?」
自嘲した彼だが瞳は強い。涙を流れるにまかせ、彼は片頬を上げる。皮肉気に見えるが、それは強張りを残した硬い笑みだ。
農具が迫る狭い空間。
背中を荒削りの石壁に預けて、ダルトは瞼を閉じた。またしても目尻に溜まっていた涙が透明な跡を残して流れ落ちる。今度はぐいっとそれを拭うと、再び目を開けた。
ロッテを見上げ、フッと微笑んだ。その顔がどこか寂しそうに見えて、我知らず狼狽する。
「おいらなぁ、別に泣き虫じゃねぇぞ? ――おっと、負け惜しみで言ってるわけじゃねぇ」
身を乗り出してダルトが下からロッテを覗き込んだ。
「どっちかって言うと泣き虫だったのはリモンの方だ。年上のくせにリモンが先に泣くからおいらは笑うしかなかったなぁ」
「リモン……」
「幼馴染みでおいらの兄みたいな奴だ。戦で死んじまった。気のいい農夫だったんだ」
ロッテはかける言葉を失い、ダルトの脇の僅かな隙間に両膝をつく。
「ほんとだったらリモンが褒賞金の全てを貰うべきなんだよ。だっておいらはリモンが帰れって言うから戦を終わらしたんだ」
ふぅ、と微かな溜め息がロッテを掠めた。
「情緒不安定でいけねぇや。おいら元々そんな喋る方じゃねぇし、あんまり感情も出す方じゃなかったんだけどな。リモンが死んでからどうしてかこう……落ち着かねぇ」
「それは……」
会ったその日に変わった男だと思った理由はこれだったのだ。
躁の気があったわけじゃない。ただ、精神的に落ち込んで、それを隠そうとしていただけだ。
「うん、多分、リモンが死んだことが引っ掛かってた。ロッテだってあるだろ?」
こくん、と頷くと、ダルトはもう一度、ぐいっと手の甲で目を擦る。
薄暗い中で、涙の跡と白金の髪だけが輝いていた。
「ほんとに久しぶりに泣いた。泣きゃあ意外とすっきりするもんだな」
灰茶の瞳にロッテの望む温かさが戻る。途端に足が地に着いたような気がした。安堵からロッテも微笑う。
「やっぱ石の壁よりは木の寝台がいいや」
伸ばされた手に苦笑して、膝の土くれを払いながらロッテは立ち上がった。大きな掌を掴むとぐっと強く握られる。反動をつけるように遠心力を味方につけて、ロッテはダルトを引っ張った。
「自分で立ちなさいよ」
憎まれ口を叩いてみたが、繋いだ手に意識が集中する。簡単に立ち上がったダルトは、下衣を軽く払うと口角を上げた。
「帰って寝るかぁ。明日も朝が早ぇからな」
連れ立って歩く内に眠気が襲ってくる。
現金なものだ。先程は身体がどんなに疲れていても頭が冴えて眠れなかったのに。
ロッテは寝台にたどり着くと、上掛けをかける間もなくすぅっと眠りに落ちた。衝立を二つの寝台の間に移動することすら忘れていた。
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