⑥
「なんだみんな変な顔して?」
ぱくぱくと喘いだロッテは、ダルトの間の悪さに目眩すら覚えた。
……あ、あんたがばらしてどうすんのよ!!
ルーザの表情も、他の農夫たちも信じられないものを見るかのように、驚愕を浮かべている。
それはそうだろう。散々陰口を叩いていたのに、本人がその場にいたのだから。
「顔にも泥がついてら。ほら、こっち向いてみろ」
ダルトが手を伸ばし頬の泥を拭ってくれたが、ロッテはされるがままに立ち尽くした。
――どうしよ……。
ばつの悪い思いは多分お互い様だ。ルーザたちはロッテ以上に狼狽しているかもしれない。
おどけたように肩を竦め、へらっと笑ってみる。
「えっと……ごめんね。あたしがその王女だったりして」
しかし、彼らの強張った顔に変化はない。ロッテは心の内で嘆息した。
……やっぱり最初に言っとくべきだったわ。それか、侍女の服を着なけりゃ良かった。そうすればルーザさんたちを嫌な気持ちにせずに済んだのに。
沈んだ気持ちを隠しダルトを見上げる。
「――とりあえず、そろそろ戻るからロッテを迎えに来たんだけど。いいだろ?」
気まずい雰囲気を悟っているのかいないのか、ダルトは柔和な笑みをルーザたちに見せた。彼らが戸惑いがちに、それでも安堵して頷く。
直後、ぐいっとロッテは引っ張られ、たたらを踏みながら歩き出した。ダルトの背から背後のルーザたちへと視線を移すと、彼らは一様に目を反らし、下を向いたり、空を見上げたりする。
小さく溜め息を溢し、申し訳ない気持ちで眉を下げた。
「疲れたなぁ。今日は終いにして、おいらたちは早めの夕食だ。どうせ夜はエーアリヒとの話し合いだしな」
言うが疲労ひとつ見せず、大地を踏むダルトの背に視線を戻したロッテは鋭い声を出す。
「昨日の夜、納屋で寝てたって本当!?」
言葉の勢いのまま手を振り払ったロッテにダルトは向き直ると頭を掻いた。それを肯定だと判断し、ロッテの声が半音低くなる。
「おかげさまであんたを寝室から追い出す性悪王女だって言われたんだけど」
しかも、状況からして思われても仕方ないのだ。
貴族というだけで悪感情を抱かれる昨今。結婚初夜に英雄であるダルトが納屋で寝ていた事実と、気位高いであろう王女という身分が、ピタリと収まるべきところへ収まると、性悪と判断されてしまうことは容易に想像出来る。
ダルトはしれっと、悪びれる様子もなく、口先だけで謝罪を口にすると、口角を上げた。
「そりゃ悪いことしたなぁ……でも、隣で寝るわけにゃいかねぇし、大体見てみろ。注目の的だぞ? ほら、手」
振り返るとルーザたちは二人を注視している。監視にも近い視線にやや気圧されつつも、ダルトは彼らに好かれていることがロッテにはわかった。
不承不承そのダルトの手をとると、ゆっくりと歩き出す。
夕刻の茜色の光が大地を染めていく。二人の影は長く、寄り添うように伸びていた。すでに気の早い一番星が東の空にぽつんと輝いている。
……大きな手。
ダルトの掌は節くれていて硬く、熱かった。ロッテの手がすっぽり収まる大きさで、父親のいなかったロッテはそんな経験は初めてで、どうしていいかわからなくなる。
不意に繋いだ手が汗と泥にまみれていることが気恥ずかしくなった。
城の出入口までは極々緩やかな斜面だ。その僅かな距離が信じられない程長く感じるのは、ダルトと手を繋いでいるからだと気付いて、ロッテは狼狽した。
急に心臓が拍動を早める。
――慣れてないから、慣れてないからよ!!
小さく首を振ったロッテに何を勘違いしたのか。困ったように小さくダルトは笑いを溢した。
「ま、今夜からは何か対策を考えらぁ。まさか本当に夫婦になっちまうわけには行かねぇしな」
「そ、そうね……」
ダルトが何を考えて納屋で寝たのかを思い至り、ロッテは真っ赤になりながら頷くしかなかった。
† † †
「それで、わたしの仕事はいつ始めさせていただけるのですか?」
質素な――といってもロッテの以前の食事と同じ――夕食後、ダルトとロッテとエーアリヒの三人は領主の執務室にあたる部屋で険悪な空気を醸し出していた。
「そうは言っても、ザクテン領にまず必要なのはごはんの確保じゃないの? 収穫しなきゃ始まらないでしょ」
設えられた長椅子に座り、ロッテは顔をしかめたままエーアリヒに応じる。ロッテは好きでザクテン領主夫人になったわけではないが、肩書きが責任を生むことを知らないわけではない。
『偉い人には偉い人なりに責任があるの。民を導く責任が』
母が言った言葉は多分父を指していたのだろうが、それは領主であっても領主夫人であっても同じことが言えるだろう。豊かになったらここを去るつもりであろうと、それまで責任は全うするつもりだ。
ただし、優先順位をつけるならばまずは収入源の確保が一番である。そしてそれは多分ダルトの考えと変わらない。
見上げれば、執務机の角に腰掛けたダルトがゆっくりと頷いた。持っている紙を手遊びに、折ったり開いたり、ひらひらとさせながら、遠い目をする。
「去年の収穫量自体が少ないからな。……今年、少なくとも去年以上の収穫が必要なんだ。じゃないと皆が餓えて死んじまう。それっくらいあんたにもわかるだろ?」
窓際でエーアリヒは目を伏せた。その表情は低い位置のロッテからは丸見えだった。譲歩しようとする気配すらない無表情にロッテは一瞬で沸騰する。
「ええ、そう――」
「わかるわけないでしょ、ダルト。この男は貴族なんだから、戦だろうが飢饉だろうが満腹しか経験してないわよ!」
吐き捨てるようにロッテは口を挟んだ。
装飾ひとつない黒い上衣に黒い下衣は比較的身体に沿ったものだ。そこから見てわかる通り、エーアリヒは一見華奢な身体つきをしている。ロッテ自身は女性の平均よりも背が高いが、エーアリヒの上背はそのロッテより僅かに高いくらいで、男性にしては小柄と言えるだろう。
それでも彼は王の側近くに仕えてきた男だ。満足に食べていない筈がない。
「落ち着けって。食ってることと知らないことは同じじゃないだろ」
ロッテを諭すように柔和に微笑んだダルトだったが、次にエーアリヒに向けられた顔は冷笑だった。
「知らないなら知るべきだし、知ってるならおいらたちがまずしなきゃならないことを議論する意味はねぇよな?」
冷たい笑みを受けて、エーアリヒが瞬間身動ぎをする。それを意外に思いながらもロッテはエーアリヒがなんと答えるか次の言葉を待った。
「……そうでしょうね。けれどこの話し合いはお互いに妥協点を探る為に設けられたものではないですか?」
――そうよ。このままじゃ平行線だわ……エーアリヒには折れる気はないみたいだし……。
正直に言えば、ロッテはエーアリヒを無視してしまえばいいと思っている。彼は鼻持ちならない貴族であり、平民の気持ちなどわかる筈のない満たされた生活を送ってきた。
ダルトはその点とても誠実だ。エーアリヒを一刀両断するでもなく、話し合い、解決へと導こうとしているのだから。
ふぅ、とダルトが息を吐く。
「まず種を蒔くのが第一だ。だが、領主の仕事もやらなきゃなんねぇ。だから、昼は農夫で夜は領主で良いんじゃねぇか?」
ぽんっと提示された良案にロッテは確かに、と感心する。成る程、種蒔きは昼間のうちにしか出来ないし、夜は畑は真っ暗で折角耕した畑を踏み荒らすのがおちだ。
妥協案に頷くと思われたエーアリヒだったが、無表情のまま首を振る。絹糸にも似た黒髪が優美に舞うのすら腹立たしい。
「なにもザクテン領主が率先して畑に出ることはありません。問題は山積みなのですから」
無感動な声音で静かに反論するエーアリヒは美貌の分、つくり物めいている。
「領主が自らやらなきゃならない程荒れてるって思ったりはしないわけ?」
怒りを声に滲ませるも、エーアリヒはロッテを歯牙にもかけず、ダルトを真っ直ぐに見つめている。腹立ちまぎれに深く溜め息をついたロッテの隣に、執務机から腰を上げたダルトがどさっと座った。
「ロッテの言う通りさ。戦から……帰って来ない奴が大勢いるってのに。ザクテン領は人手不足なんだ。あんたはそれがわかってねぇ」
肩をぽんっと叩かれ、ロッテはダルトの横顔を見る。引き結ばれた唇は声をかけるのを躊躇う程、周囲を拒む強さがあった。
ロッテの放心にも似た表情に気付かぬまま、ダルトは強くエーアリヒを見据える。
「だから下男や侍女を開墾にまわしたのですか?」
「そうさ。いらねぇだろ、実際。おいらも――ロッテも自分のことは自分で出来るさ」
確かにロッテは使用人を必要とはしない。彼らに月に払う給金は無駄と言えば無駄だ。
「では解雇すればよろしいのでは?」
瞳を眇たエーアリヒは薄く笑う。嫌みに見えるその笑顔はいっそ清々するくらいわざとらしいものだ。
ダルトもまたゆっくりと微笑んだ。
瞬間、やや横へ移動した。ロッテは腕に広がる鳥肌を擦る。
威圧感はない筈だ。けれど、穏やかな微笑だけで圧倒されるのはどうしたことか。
「馬鹿か、あんたは。そんなことしたら反感買うだけだろ? こう言やいいさ。――ザクテンは貧乏になっちまったから毎日三食は食えないし、侍女や下男も雇えねぇ。だが、お前らをクビにするのも忍びない。空いてる時間を畑に出てくれるなら今までと同額の給金を出したいと思う、ってな」
蔑みを隠そうともせずにダルトはエーアリヒを嘲笑った。その後に彼の口から出た提案は至極簡単なもので、人手不足を補うばかりか、解雇を回避し、人心を掴むもので。
侍女や下男を辞めさせたとしても彼らに再雇用先の宛は少ない。戦の舞台となったザクテン領では仕事自体が少ないのだから仕方のないことだ。解雇すれば彼らを見捨てることになるのなら、ダルトの策は最善だろう。
「しかし、それこそ給金を払う余裕はありませんが。ザクテン卿の体面もありますし」
後者は放っておけと思うが前者は何となくロッテにも理解出来た。
給金を減額しても今回はしょうがないのではないかと思いながらも、それでは貴族の理屈を認めることになる。当然、ロッテにも多分ダルトにも貴族のように自分の懐に溜め込むつもりは毛頭ないが。
給金を下げれば生活が立ち行かないのも知っている。侍女や下男の給金の額が如何程かは聞いたことはないが、だからといって平民と大差あるとは考えられない。
切り抜ける良い方法があるのだろうか? ダルトは表情ひとつ変えることなく、今も手に持つ紙をひらひらとさせていた。
そこに文字と判が押されていることに、ロッテは既に気付いている。一時もじっとしていない紙から内容を読み取ることは困難だし、もし読めたとしても他人の手紙を読む趣味はロッテにはない。
「体面なんてそれこそおいらは気にしないさ。どうでもいい。気にしてたら、いつまでたっても黄金の波は戻ってきちゃくれねぇよ」
「黄金の波……?」
聞き慣れない言葉をおうむ返しに呟くと、ダルトは目尻に冷たい名残を残しながらも柔和に笑んだ。
「夏から秋にかけて背骨山脈から吹く颪がな、小麦を揺らして畑を駆け抜けていく。それをここらじゃ黄金の波って言うんだ。きれいだぞ、早くロッテにも見せてやりてぇ」
先程の遠い目にも似た、けれど明るく輝く瞳に思わず大きく頷くと、ダルトが破顔する。つられたように何度も首を縦に振った。
「見せてやるから待ってろよ? ――というわけで体面を気になんかしてらんねぇんだよ。ほら、エーアリヒ」
「……なんでしょうか?」
ダルトは手に持っていた紙をエーアリヒに放る。紙は不規則な軌道を描きながらも、窓際のエーアリヒまで届いた。
「あんたの王に、向こう五年、ザクテン領は税を納めなくていいって確約をとった。おいらは税を下げるつもりはねぇから、徴収した分で賄えるだろ?」
「え……? なんで……? だってこんなに荒れてちゃ税金下げないとじゃないの……?」
エーアリヒもまた微かに緑の瞳を見開いている。まさかダルトがそんなことを言い出すとは思ってもみなかったし、貴族すら驚くことをするつもりなのだろうか。
「今までだってなんとかやってきただろ? そりゃ取り立ては厳しくするつもりはねぇし払えねえなら仕方ないけどな」
長椅子に沈んだダルトは苦しそうに眉を寄せた。
「仕方ねぇんだよ。大体下げて誰がここらを整備するんだ? 誰が戦で働き手を亡くした女子供や年老いた両親に援助する? 粉を挽く風車の修理は? 焼き払われた家をどうやって建て直す? みんな領主の、おいらの仕事だ。そんでもっておいらはただの農夫だから、余分な金は持ってねぇんだよ。ほんとだったら備蓄分がある筈なんだけどなぁ。前の領主が流れ矢に当たっちまって、家令が財産を持ち逃げしたらしくってな」
一息で言い切ったダルトはエーアリヒを見上げた。
それでもロッテは見てしまった。握り締められた拳が微かに震えていることを。
一瞬伏せられた睫毛の下から微かに覗いた殺気にも似た怒り。
ダルトは隠しているだけかもしれない。他領出身のロッテすらなんたることだと唖然とする。今までその地で暮らしてきた者の思いはきっと半端なものではない筈だ。
エーアリヒもまたこれには顔をしかめていた。
「ってわけだ。おいらは税金五年免除の間にここを豊かに戻す。じゃねぇと本当に立ち行かなくて死者が出る。――おいらのやり方に文句は言わせねぇ。昼は農夫で夜は領主、これがおいらの最大の譲歩だ」
「……王が、そのような確約を了承されたのなら五年間の内にザクテン領を立て直せとの仰せと解釈して良いのでしょう。仕方がありませんね。承知しました」
再び無表情に戻ったエーアリヒはすっと佇まいを正す。
「んじゃ早速あんたにはやってもらいてぇことがある。そのかわり、貴族のあんたにまで畑を耕せなんて言わねぇから安心しろよ」
にっと細めた瞳でエーアリヒを見つめたダルトは朗らかに笑った。
「援助が必要な者がどのくらいいるか、設備や家の被害状況と備蓄の有無、それから戦で死んだのが何人くらいいるのかもだな。あとは家畜もか。――村や町毎に調べて欲しい。こういうのはおいらは苦手なんだ」
無言で頷いたエーアリヒからダルトはさっとロッテの方に視線を向ける。
「ロッテは薬草の知識があるんだろ?」
「ええ、母さんと薬草を育てていたわ」
ささやかな庭に母と植えていた薬草を思い、ロッテは微笑んだ。
「んじゃ畑を耕すだけじゃなく薬草も頼む。根付けば出荷出来るものもあるだろ」
それに笑顔を返す。
「五年が勝負ね」
「豊かにしてみせるさ」
「……期待しておりますよ」
執務室に漂う空気は厳しいながらもどこか意欲に満ちたものに変わり、最初の険悪さはもうどこにもなかった。
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