⑤
更新遅くなりましたが、第五話です。書きためたものだったのですが、推敲する内になんだか話が多くなってしまいました……。
身体が痛むのは柔らかな寝台に寝ていたからだ。
昨夜自分で移動した覚えはない。寝ている間に運ばれたのだと思い至り、ロッテは耳まで赤くなる。
「……ダルト……?」
ロッテは恐る恐る横たわっていた寝台から降りると、周囲を見渡した。
誰もいないがらんとした寝室。
「どうせ出てくなら起こしてくれたっていいのに」
開け放たれた窓から入り込む風と土の匂いを存分に嗅ぎながら外を見下ろした。
ケントニス城は低めの丘の上に建つ。上階にある寝室からはなだらかに下る目抜き通り沿いの街並みと、剥き出しの大地が一望出来た。
かつては大地を埋め尽くすかのように、小麦畑が地平線まで続いていたに違いない。
ザクテン領といえば、良質な小麦の産地だった。ロッテの育ったネスリーア領もそうだが、土が適しているからなのか、グラオベン大陸の内陸では小麦の生産が盛んである。
さらに背骨山脈から吹き下ろす風を、孕み回る風車が小麦を挽く。その小麦で作られた酸味のある日持ちもするパンはセトルの人々の主食でもあった。
今は違う。
ガヤは容赦なく青々とした畑に火を放ち、焦土としてしまった。人々は食糧に事欠きつつ何とか暮らしているのが現状だ。
――ここが元の豊かさを取り戻すのに何年かかるかしら……。
それでも照りつける太陽の下、彼らに諦めている様子はない。炎に巻かれ、崩れた風車小屋が無惨だったが、石や煉瓦の土台だけが残った辺りで動く人影は、修理のために働く人々だろう。
太陽の高さが中天を越えているのを見て、随分と寝過ごしたことを知る。寝台の脇に置かれた水盆でロッテは身支度を整えた。
とりあえず隣室のクローゼットから一番地味なドレスを――濃茶にダークグリーンで葡萄の刺繍が施されているので多分とても高価だろうが――選び、四苦八苦しながら着る。平民のロッテはパニエやコルセットは元々つける習慣はないから、裾が長くなってしまい動き難い。
一歩廊下に出た途端、ドレスの長さに足がもつれ、ロッテは溜め息混じりに悪態をついた。
「あーもうっ! 切っちゃおうかな……」
誰の姿もない廊下では諫める者もいないし、何より短い方が働きやすい。余った裾部分をまた何か別のものに作り替えればいいだけだ。
裁ち鋏を探すにはどこに行けば良いのか広すぎる城に皆目見当がつかないまま、ロッテは歩き出した。
「奥様!」
「お、奥様……!? あたしのこと?」
突如現れた侍女の言葉に目を白黒させ、ロッテは自分を指差した。侍女は切羽詰まった様子で駆け寄ってくる。
「奥様のお連れになった方と領主さまが言い争っておられますっ!」
「連れてきた……?」
「黒ずくめの綺麗な男の人ですわ!」
エーアリヒか。
端正な美貌の青年が脳裏に浮かび、ロッテは眉をしかめた。昨日から、もっと言えばセトル王宮を出発してから彼には散々煮え湯を飲まされて来た。
その度にロッテの怒りはふつふつと沸いている。ダルトも会って早々エーアリヒの洗礼を受けた。
だが、どうもダルトとエーアリヒの言い争いなど想像が出来ない。勿論、どちらのことも良く知っていると言える程の関係ではないが。
陽気かつ穏やかなダルト、口を開けば静かな冷酷な声で嫌みを言うエーアリヒ。二人とも怒鳴ることなどあるのだろうか。
「どっちかって言えば連れて来られたのはあたしなんだけどね……で、どこで?」
せめて止めるなりしようと口にしたロッテに、侍女は怪訝そうに顔を歪めるも先導してくれた。
† † †
「おいらに向いてねぇし、あんたはその為にザクテンに来たんだろ?」
「しかし、ザクテン領主として学んでいただくことは少なくありませんが?」
「おいらはおいらのやり方でザクテンを豊かにする。おいらがわかんのは畑のことだけだ。政なんてそれこそ畑違いだろ?」
二人が言い争っている、と侍女は言った。だが、ダルトもエーアリヒも語気は穏やかだ。
一瞬、拍子抜けしたロッテだったが、取り巻く者たちの顔に怯えが見てとれるのを見て、階段を降り急ぐ。近付くにつれ、二人に表情と呼べるものがないことに遅まきながら気付き、ロッテは途中でたたらを踏んだ。
ダルトとエーアリヒが醸し出す空気は誰も邪魔させまいとするかのように激している。
そこはケントニス城の広い表玄関ではなく、広大な荒れ地へと続く、使用人が使う裏の出入口だった。
「言い訳は聞きかねますが?」
「おいらがいつ言い訳を言った? 皆がそれぞれ得意分野で勝負すりゃいいだろ。おいら一人が出来るようになったところでザクテンが豊かになるとは思えねぇな」
「しかしそれでは示しがつきません。貴方には率先して仕事をしていただかなければ――」
「だから率先して畑に出てるんだろ?」
……すごい。
ダルトはエーアリヒと渡り合っている。どころか、むしろ押している。
現にエーアリヒが一瞬言い淀んだ。
「……どちらへ?」
ダルトはその間を逃さない。出入口に向け歩を進めると、光を背に振り返った。表情のなかったその顔がすっと色を変える。
「ってわけで、おいらは畑を耕してくる。――奥さんは?」
階段で立ち止まったままのロッテに、ダルトは柔らかな笑みを見せた。
細められた灰茶の瞳も声音からも、周囲を怯ます冷たさはなりを潜める。
気付いていたのか。誘われたように一段二段と降り、ダルトに駆け寄った。
「あ、あたしも行くわっ! あたしに出来ることも城の外に――」
「ある、だろ? んじゃ着替えが必要だなぁ。ドレス、似合っててきれいだけどそれじゃ泥まみれにはなれねぇし」
にっ、と小さく口角を上げたダルトの賛辞に顔が火照る。
男性に褒められた経験がないわけではない。だがそれはさらりと受け流せる程度のことで、ロッテが頓着したことはなかった。彼らとダルトでは何が違うのかわからぬまま、頷きかけたロッテだったが。
「なりません。リーゼロッテ様にも領主夫人として学んでいただくことがあるのです。――お二人とも自覚なさって下さい。ザクテン領はセトル王国の中でも最大の領地、たとえ伺侯が許されていなくともこの地を治める為にはやらなければならないことが多いこともご想像いただけるでしょう? なにより、現在のザクテン領は戦の影響もありますから、素人のあなた方を導くのがわたしの仕事です」
「それがあんたが率先してやる仕事か。ま、悪くないがそれをおいらたちが聞いてやる義理はねぇ」
ロッテを庇うように背後へとまわし、ダルトが薄く笑う。
「とはいえ、おいらにもロッテにも責任は発生するしなぁ。妥協点は日が暮れてから話し合えばいいだろ? まず必要なのは今年の収穫だ」
「ごはん、ないものね……」
去年の収穫も少なかった。備蓄はすべて貴族の懐へ消えていき、平民に満足に行き渡ることはない。
ロッテは多分まだマシな方だったが、それでも腹を満たした覚えはない。
「ここらの畑に早いとこ種を蒔かなきゃなんねぇ。とりあえず、夜まで待ってろ」
「…………わかりました」
不承不承頷いたエーアリヒを一瞥し、ダルトはロッテの手を引くと外へ出た。
眩しい太陽の光が、思っていた以上に荒れた大地を隅々まで照らしている。
「ここいらは男手をだいぶ取られちまったから、畑は放置されたんだ。炎にやられたのは収穫待ちの小麦だけじゃねぇし……寝るのは正直どこでもいいさ。屋根さえあればいいんだからな。だが飯はなきゃ死んじまう」
溜め息をひとつ溢して、ダルトがロッテを見下ろした。
「ロッテを自由にするにはまだだいぶかかると思う。だけど、おいらはここを絶対に元の豊かなザクテンに戻すさ」
「だから手伝うってば。一人でも手があった方がいいでしょ?」
にっ、とロッテはダルトを見上げ、口角だけで挑戦的に笑んだ。それに微苦笑し、ダルトは視線を荒れ地に向ける。
「これからなんだ。おいらは種を蒔く為に帰って来たんだから……」
灰茶の瞳を眇め、そう呟いたダルトに下男が駆け寄って来た。
「あるだけ農具をかき集めましたけど、あの、どうしますか?」
まだ出入口に立つエーアリヒとダルトを見比べた下男は迷っているようだった。それに気安い笑顔を浮かべ、ダルトは指示を出す。
「んじゃ、城の作業は中断していいから動ける奴はみんな畑に出て耕してくれるか?」
「え、俺たちもですか!?」
「だって飯がなきゃ困るだろ? 頼むな」
首を捻りながら城に入っていく下男を見送り、ダルトは遠巻きに見ていた侍女を呼ぶ。
「悪いんだけど奥さんに何か動きやすい服を貸してやってくれ」
「動きやすい……」
「みんなが着てるのでいいわよ」
侍女の服は踝がまる見えの短いスカートだ。けれど、ロッテも少し前まで同じ長さのスカートを着ていた。いつも通りの長さの方が動きやすいに決まっている。
怪訝な顔を隠そうとしない侍女のお仕着せはチャコールグレーの被りのドレスで、きなりのエプロンが前を覆う。王宮で見たようなフリルのついた装飾の多いものではなく、どこまでも実用性を追求した簡素なものだ。
「じゃそれで。よろしくな。――ロッテ、おいらは先に行くから、着替えたらあいつらに混じって耕すの手伝ってくれ」
近くで鍬を奮う農夫たちを指差したダルトに、ロッテはこくんと頷いた。
「わかったわ」
手を振るダルトを見送り、ロッテは侍女に向き直る。
「えっと……」
「ミネラです、奥様」
栗色の髪をひとまとめにし、はしばみ色の瞳をした侍女はロッテの意図を悟り、名を名乗る。
「奥様はやめてよ。敬語もやめて欲しいわ。そんな偉い身分じゃないし。あたしはロッテよ」
「――わかりました。敬語はともかく、お名前で呼ばせていただきますが……本当にこの服を着るのですか?」
「そうよ……?」
どう考えても今着ているドレスは働くのに向いていない。先程まで裾を切ってやれ、と思っていたことはおくびにも出さずに、ロッテはミネラを見返した。
「このドレス、汚したら洗うの絶対に大変だし、もったいないしね。なにかおかしい?」
変なものを見るかのようにはしばみ色の瞳を見開いたミネラだったが、徐々に笑顔に変わる。
「わかりました、ロッテ様。では、ご案内しますね」
「よろしく!」
渋い顔を、というより無表情の中渋い目をするエーアリヒの脇を通り、ロッテはミネラについて行った。
リネン室の一画に侍女の制服は置いてある。誰もいないことを確認し、ロッテはばさりと茶のドレスを頭から抜いた。
アイボリーの下着姿のまま制服のサイズを探し始めたロッテに、慌ててミネラがリネン室の扉の鍵を閉める。
「ろ、ロッテ様。ここで着替えられるのはやめた方が……」
「でも部屋まで戻ってたら時間かかるし。カーチフはある?」
「そちらに……」
カーチフは四角い布で頭を覆う被り物だ。太陽も燦々と照りつけているし、髪を人目に晒すのは良くないとも言われている。
最近では屋内で着けている女性は少ないが、それでも農婦たちは皆がカーチフをしているし、ロッテも外で庭仕事をする時は邪魔な髪を纏めるのに都合が良かった。
手早く制服とカーチフを身に付け、ロッテは身体を動かした。腰を捻り、腕を回し、深呼吸までする。
「あー楽ちん! やっぱこういうのの方があたしには合ってるわ」
ドレスより遥かに自由度の高い制服に満足し、ロッテはほっと息を吐く。着なれた緩さはまるで村に戻ったかのようで嬉しいし、どこからどう見ても侍女にしか見えまい。
「変わった方ですね、ロッテ様は」
ロッテの準備運動を見て、ミネラが呟いた言葉は呆れより喜色が強かった。
当然、貴族らしいと言われるより良い。血筋だけは王の娘だが、根っからの平民であるロッテにとっては最高の誉め言葉だった。
土の匂いを胸一杯に吸い込んで、ロッテは嘆息した。
――ここが豊かになったら、あたし帰れるんだ。
ダルトを手伝い、それを待つつもりだ。
もう一度土の匂いを嗅いで、ロッテは周囲を見回した。
少し先に大地を耕す農夫の集団がいる。多分、近在の農民だろう。男も女も年嵩の者ばかりだ。
その農婦の一人がロッテに気付いた。カーチフを被った農婦は眩しそうに目を細め、ロッテを手招きする。
「ぼさっと突っ立ってんじゃないよ。――あんた新入りかい?」
ぶっきらぼうながら温かい声音とふくよかな身体つきの農婦に近寄り、ロッテは軽く頭を下げた。
「ええ、よろしく。ロッテよ」
「あたしはルーザさ。そこの鍬持ってこっちに来な」
大地に置かれた鍬を持ち上げ、ロッテはルーザの背中を追う。
「あんたにはここからあっちまで耕してもらうよ、いいかい?」
「まかせて!」
快諾したロッテは慣れた手付きで鍬を持ち上げると大地に振り下ろした。たいした力を入れなくとも、ぼふっと土が返される。
それを繰り返すとルーザが感嘆の声をあげた。
「筋がいいじゃないか!」
「村で手伝いをしてたのよ」
額に浮いた汗を拭い、ロッテは得意気に笑む。
「じゃあ、まかせたよ。あたしはあっちを耕すから、なんかあったらそこらの男どもに聞くといい」
「わかったわ!」
それからしばらく、ロッテは一心不乱に土を耕した。
時折、姿を現すみみずやもぐらを殺さないようにしながら、ルーザに指示された大地を耕し終えると、ロッテは顔をあげた。
まだまだ荒れた大地は多い。ロッテが耕した場所など猫の額にも届かないくらいだ。
けれど、少しでもダルトの、ザクテンの人たちの助けになればいい。ここが豊かになれば、皆が腹一杯にごはんを食べられるのだ。
思った瞬間に、小さく腹の虫が鳴った。
……誰も聞いてなくて良かった。
ほっとしながらルーザに手を振る。彼らも粗方終えたようで、徐々に集まり始めていた。
「ロッテ! こっちに来なっ!」
大きく手を振ったルーザに近寄ると、彼女は労うようにロッテの背を叩く。
「種を撒くのは明日だよ。明日も来るんだろ?」
「そのつもりよ」
にこりと笑ったルーザはロッテを農夫たちの元へ連れて行った。
「あんた新顔だな。ここらじゃ見かけん顔だ」
「あの王女について来たんでしょう?」
年嵩の農夫たちの言葉に答えに窮して、ロッテは曖昧に頷いた。まさか本人だとは彼らも考えていないようだった。
「性悪だって話じゃねぇか。実際はどうなんだい?」
「……あの……えっと……」
顔をしかめながら聞かれ、ロッテはさらに困る。今さら名乗り上げるのもどうかと思って、答えにつまる。
そこでルーザが出してくれた助けにロッテは穴を探したい気持ちになった。
「答えづらい質問しなくたっていいだろ? そんなことわかりきったことだよ。ダルト様は昨日の夜は納屋で寝てたんだとよ。どうせ性悪王女に追い出されたんだろうよ」
最初に自分がそうだ、と言ってしまえば良かった。
思わず頭を抱える。
「ひでぇことするよなぁ」
頷きあう農夫たちにロッテは意を決した。
先伸ばしにすればするだけ、恐ろしいことになりそうだ。
「えっと、あの、ちょっと聞いて欲しいんだけど」
注目が集まったところで、ロッテは深呼吸ひとつすると口を開いた。
「あたしが――」
「奥さん泥だらけだなぁ」
ロッテの血の気がさっと引いた。
なるべく早く推敲を終えたいと思います。誤字脱字感想は随時募集中です!