第八章:八咫烏の導き
頭上の巨大な原生林が、大きく揺れた。千年の眠りから覚めた巨獣のように、大気が鳴動した。 バサリ、バサリと、重厚な羽音が空間を震わせる。 霧を切り裂いて現れたのは、かつてアレクサンドロスの窮地を救った、あの黄金の霊鳥であった。その姿は、熊野の深い緑の中で、異質なほどに輝いていた。その瞳は、過去と未来を同時に見据えるかのように澄んでいた。
「恐れるな、日の御子よ。其方の志は、すでに天の頂へと届いている。此処は終わりの場所ではない、真なる目覚めのための始まりの場所だ」
霊鳥の三本の足が、神武が握る布都御魂の剣の鍔に止まった。 その瞬間、神武の体から毒気が消え去り、澄み渡るような精気が全身に満ち溢れた。地面に倒れていた兵士たちも、まるで蘇生術を施されたかのように次々と立ち上がり、その瞳には再び理知の光が宿った。死の香りが漂っていた森は、一瞬にして聖なる清涼感に包まれた。
「お前は……誰だ。山の神か、それとも天の使いか。なぜ私を知っている」
「私は八咫烏。貴公を導くために、遥かなる西の砂漠を越え、星々の河を渡り、ここへ来た。マケドニアの王が夢見た『世界の果て』の先、太陽が生まれる場所がここにあるのだ。さあ、立ち上がれ。其方が歩むこの険しき山道こそが、この国の背骨となり、未来の民の魂が帰る場所となるのだ。一歩一歩が、歴史の音を立てるように進むがよい。其方の背後に、西の英雄の影が見えるぞ」
八咫烏が再び飛び立つと、その翼の動きに合わせて霧が黄金色のヴェールのように捲れ上がり、険しい崖や底なしの沼を避ける、光の道筋が浮かび上がった。 不思議なことに、八咫烏が先導する場所には、常に清らかな霊泉が湧き出し、その水を一口含めば、飢えも渇きも一瞬で消え去った。傷ついた兵士たちの傷口は塞がり、失われた体力が奇跡のように回復した。
「これこそが、天の意志、神の指針か。私たちは、一人ではなかったのだ。西の果てから東の果てまで、神の目は我らを見守っていた」
神武は、自分がただ一人の人間として、あるいは一つの部族の長として戦っているのではないことを悟った。 西の砂漠で砂を噛み、それでも空を仰いだ王がいた。その王が見た光を、今、自分が見ている。その連なりの中に、自分の存在価値があるのだ。 世界は繋がっているのだ。この広大な大地は、神々の壮大な意志によって、一つの「物語」として綴られている。 八咫烏は、その物語を繋ぎ合わせる『栞』であった。神武は、自らが背負う歴史の重みを受け入れ、迷いなくその鳥の後に続いた。彼は今、自らが「日本」という名の巨大な船の、最初の舵取りであることを確信していた。




