第三章:女神イナンナの使い
その夜、アレクサンドロスは一人、銀色に輝く砂丘の頂に立ち、天を仰いでいた。 周囲には、力尽きた兵士たちの不規則な呼吸音だけが響いている。それは死へのカウントダウンのように規則正しく、残酷だった。 「私は間違っていたのか。アリストテレス先生……貴方の教えはこの沈黙の中で、何ら私を導いてはくれない。知恵とは、これほどまでに無力なものか。この虚無こそが世界の真実だと言うのか」
彼は、己の内側に潜む「神性」に問いかけた。 「もし私がゼウスの息子であり、運命に選ばれた者であるなら、今ここで道を示せ。さもなくば、私の野望と共にこの砂に埋もれるがいい。英雄の死とは、これほどまでに虚しいものか! 神よ、答えてくれ!」
その時、静寂を切り裂くように、天の北極から一筋の黄金の光が降り注いだ。 光は螺旋を描きながら砂漠へと降下し、アレクサンドロスの数歩手前で、巨大な鳥の姿へと凝縮された。 それは、漆黒の羽を持ちながらも、羽の一枚一枚が内側から太陽の燐光を放っているかのような、神々しい霊鳥であった。驚くべきことに、その鳥には、岩を掴むような力強い三本の足があった。
「偉大なるマケドニアの王よ。貴公の魂は、この砂漠の熱よりもなお熱い。だが、その熱が貴公自身を焼き尽くそうとしているな」
鳥が語った。その声は、重厚な銅鑼の響きと、清らかな泉のせせらぎが混ざり合ったような、この世のものとは思えぬ調和を持っていた。それは空間そのものが震えているかのようだった。
「……何者だ。私の狂気が生み出した幻か?」 アレクサンドロスは剣の柄に手をかけたが、その手は不思議と震えていた。鳥が放つ威圧感は、どの王や神官よりも重かった。
「私は使い。この西の地ではイナンナと呼ばれ、日の昇る国では天照と呼ばれる、あまねく世界を照らす女神の代弁者だ。王よ、貴公はかつてシュメールの地で不老不死を求めた英雄ギルガメシュの、その遠き血脈を魂に継ぐ者。貴公の『未知を求める渇き』こそが、女神をここまで呼び寄せたのだ。その渇きは、呪いではなく、世界の扉を開く鍵なのだ」
「女神イナンナ……。愛と戦いの女神か。なぜ、私を救う? 私は多くの血を流し、多くの都を焼いた男だぞ」
「貴公の歩みは、ただの征服ではないからだ。東西の知恵を交差させ、新たな世界の形を創る。その大業を、この空虚な砂漠で終わらせるには、運命という名の織り糸があまりに惜しい。アレクサンドロスよ、私についてくるがよい。ただし、決して疑ってはならぬ。疑いは砂漠よりも深く貴公を飲み込み、信念は海よりも広く貴公を運ぶだろう。英雄とは、目に見えぬ道を見、聞こえぬ声を聴く者の名なのだ」
八咫烏は大きく翼を広げた。その羽ばたきと共に、砂漠の熱気が一瞬にして爽やかな涼風へと変わり、アレクサンドロスの疲弊した肉体に、未知の活力が充填されていった。その瞬間、彼の瞳に再び、燃えるような星の輝きが戻った。




