第一章:アレクサンドロス大王の野望
紀元前四世紀。マケドニアの若き獅子、アレクサンドロス三世は、世界の境界線を自らの手で書き換えるべく、狂気にも似た情熱で東へと進軍していた。
バビロンの宮殿。壮麗なる空中庭園を望む広間には、没薬と乳香の煙が重く立ち込めている。壁一面に掛けられた羊皮紙の地図には、彼が踏破したグラニコス、イッソス、ガウガメラの戦跡が記されていたが、アレクサンドロスの指は、その地図のさらに右側、まだ何も描かれていない空白の地をなぞっていた。地図の余白は、彼にとって恐怖ではなく、克服すべき誘惑であった。
「パルメニオン。お前にはこの空が見えるか?」 アレクサンドロスが、振り返らずに問うた。その声は、若さに満ちながらも、何千もの命を背負った者の重みを含んでいた。
老将軍パルメニオンは、主君の背中に漂う、抗いがたい孤独と熱狂を感じていた。 「王よ、空はどこまでも続いております。しかし、我ら人間が歩める地には限りがございます。ペルシャはすでに貴方の足元にあります。バビロンの富、スーサの栄華、ペルセポリスの威容……これらを手にした今、これ以上の進軍は、兵士たちの疲弊を招き、神々への不敬にも繋がりかねませぬ。足元にある幸福を慈しむべきかと」
「不敬だと?」アレクサンドロスは鋭く振り返った。その瞳は左右で色が異なると噂され、片方は澄んだエーゲ海のような青、もう片方は砂漠の獅子のような琥珀色を湛えていた。その視線は、相手の魂の奥底までをも見通すかのように鋭い。 「神々が地に線を引いたのではない。人間が、自らの恐怖という名の筆で線を引いただけだ。我が祖アキレウスが追い求めた栄光は、既知の世界の中に留まっていたか? 否だ。彼は常に、自分自身の限界の向こう側を凝視していた。私は東に行きたい。そこには太陽が生まれる場所があり、万物の智慧の源泉が湧き出ているという。私は、マケドニアの王としてではなく、一人の人間として、世界の終焉をこの目で見届けたいのだ。もし、その先に神々の住まう庭があるのなら、私はその門を叩く最初の一人になりたい」
アレクサンドロスは、幼少期に師アリストテレスから授けられた教えを反芻していた。 「万物は流転し、全ての知識は一つの真理へと収束する」 もし世界が球体であり、あるいは円盤であるなら、東の果ては西の始まりに繋がっているはずだ。彼はその「円」を完成させるための唯一の存在でありたいと願っていた。彼を突き動かしていたのは、ギリシャ語で『ポトス(あこがれ)』と呼ばれる、到達不能なものへの根源的な渇望であった。それは、肉体的な領土欲を超えた、霊的な魂の飢餓感であった。
「我々は東へ進む。インダスを越え、ヒマラヤの白銀の頂を越え、その先にある『真実の地』までだ。誰も見たことのない夜明けを、私はこの軍勢と共に迎えたい。死を恐れるな。真に恐れるべきは、何も成し遂げずに終わる無為な生だ」
その宣言と共に、三万の歩兵と五千の騎兵、そして数多の学者や詩人を引き連れた巨大な行軍が、再び動き始めた。それは、文明という名の種子を、風に乗せて未知の土壌へと運ぶ、史上最大の「儀式」であった。彼らが歩む足跡は、そのまま東西の叡智を編み合わせる織機となっていった。




