それを知るのは溶けてゆく雪と私だけ…
その夜は不思議なほど静かだった。
昼から降り続いた雪は音を吸い込み、長屋の軒先から落ちる雫の気配すら遠く感じられる。私は火鉢の前に座り、炭が崩れるのを眺めていた。手元には古びた脇差。かつては腰に差していたが、今では壁に立てかけるだけのものだ。
私は浪士である。だが、今宵のことを思えば、その名も空虚だった。
主君を失ったあの日から、もう一年と余りが過ぎていた。城中の刃傷、即日の切腹、領地没収。世の理はあまりに早く、情けは驚くほど薄かった。
我らは「義」を語り、「時」を待った。酒に溺れる者、町人に成り下がる者、静かに消えていく者。皆、それぞれの形で耐えていた。
私は――待つだけの男だった。
今宵、同志たちは集まっている。討ち入ると聞いたのは三日前。使いの少年は、何も言わずに目を伏せた。その沈黙だけで十分だった。
私は行かない。行けない、の方が正しい。
膝の古傷が、冬になると疼く。走れぬ身で刃を振るえば、仲間の足を引く。それを理由に、私は名を連ねなかった。皆は何も言わなかった。ただ一人、かつて同じ釜の飯を食った男だけが、「それもまた忠義だ」と言った。
外で足音がした。雪を踏みしめる、複数の気配。
私は戸を開けなかった。開ければ、戻れなくなる気がしたからだ。
やがて、遠くで太鼓の音が鳴った。いや、違う。風が塀を叩く音だ。そう思おうとした。だが、胸の奥がざわつく。今、この瞬間、歴史が動いている。そう直感していた。
火鉢の炭が弾けた。その音に、私は肩を震わせた。
剣を取らなかった自分を、臆病だと思わぬ日はない。それでも、私は生きている。生きて、覚えている。それが許される役目だと、そう信じるしかなかった。
夜明け前、雪はやんだ。
町は静まり返り、まるで何事もなかったかのようだった。だが、私は知っている。この静けさの裏で、命が断たれ、名が残ったことを。
やがて彼らは捕らえられ、裁きを受けるだろう。世は彼らを称え、物語にする。だが、その物語の外側で、私は今日も火を起こす。散っていった命を弔うように。英雄化され、本当の事はこの先、雪と共に溶けてなくなってしまうが、本当のことを知るのは私と雪だけでいいのだ…
ー終ー




