第6話 血塗れの廊下
元弘元年 十一月十八日
霜月の朝、鎌倉は霧に覆われていた。鶴ヶ丘の山々が白くぼやけ、海からの冷たい風が石畳の道を吹き抜けるこの町は、昨夜の血の記憶を隠すように静かだった。得宗・北条高時の館を中心に広がる鎌倉の中心地は、表向きは変わらぬ日常を装っていたが、空気は重く淀んでいる。東勝寺の鐘が低く響き、寺の僧たちが死者の魂を弔う経を唱える。寺社は北条の庇護下にあり、鶴岡八幡宮の石段では神官たちが得宗の機嫌を伺いながら祈りを捧げる。市場は開かれ、商人たちが絹や香料、魚を並べるが、声は控えめだ。民衆は重税に耐え、昨夜の炎と叫びを噂する。「政村流が滅んだ」「得宗の刃がまた振るわれた」と。鎌倉の歴史は、そんな血の連鎖でできている。源頼朝が幕府を開いて以来、勝者は敗者を滅ぼす。宝治合戦で三浦氏を、霜月騒動で安達氏を滅ぼした得宗専制は、今の高時公で頂点に達していた。御内人たちが得宗の直属として、御家人を監視し、排除する。政村流のようなライバル派は、いつ粛清されてもおかしくなかった。町の石垣や堀は、権力の象徴だが、民にとっては牢獄の壁だ。
私は屋敷の座敷で、昨夜の悪夢から目を覚ました。妊娠八ヶ月。腹が重く、動くのも億劫だ。侍女のお梅が、震える手で朝餉を運んでくる。味噌汁の湯気が立ち、漬物と焼き魚が並ぶ。鎌倉の武家食事は質素で、腹八分目を心がけるが、今朝は喉を通らない。庭の梅の木は霜に覆われ、池の水面は薄く凍っている。鯉の動きが止まったように見える。風が障子を揺らし、海の塩気が混じる。七里ヶ浜の波音が遠く聞こえ、古戦場の血の記憶を思い起こす。
氏邦殿は朝早く得宗館へ出かけた。昨夜の粛清の後処理だろう。帰ってきたのは昼過ぎ。顔色が悪く、刀の鞘に血の跡が残っていた。座敷に入り、黙って座る。家紋の六連銭が染められた屏風が、部屋を重くする。
「千代……昨夜のことは、忘れろ」
私は問うた。
「父の……最期は?」
氏邦殿は目を伏せた。
「自害だ。得宗の兵が押し入る前に、腹を切った。政村屋敷は焼かれた」
想像した。父の屋敷──私の生まれた家。庭の梅の下で遊んだ場所。座敷の畳に血が広がり、炎が柱を舐める。侍女たちの叫び、子供たちの泣き声。得宗の御内人たちが、刀を振るい、首を切る。鎌倉の石畳は血で滑り、霧がそれを隠す。過去の霜月騒動のように、500名以上が死んだ記憶が、町に染みついている。あの1285年の事件で、安達泰盛が平頼綱に討たれ、一族が滅んだ。今、政村流の番。得宗専制の刃は、容赦ない。
夕方、私は一人で廊下を歩いた。屋敷の廊下は長く、木の床が軋む。障子の向こうに庭が見え、霜の白さが冷たい。突然、吐き気がした。妊娠のせいか、父の死のせいか。壁に手をつき、息を整える。すると、侍女が駆け寄ってきた。
「奥方様! 得宗から使いが……」
使いは得宗の御内人。平頼綱のような男で、目が鋭い。座敷で氏邦殿と話す。声が漏れ聞こえた。
「政村の残党を掃討せよ。千代殿の監視も怠るな」
心臓が凍った。私は北条の女だが、父の血を引く。人質として生きる運命。氏邦殿は使いを送り出し、私の元へ来た。
「千代、怖がるな。俺が守る」
だが、その目は虚ろだった。得宗の側近として、粛清に加担した夫。優しさは本物か、それとも北条の誇りを守るためのものか。
夜、寝所で氏邦殿は私を抱いた。穏やかだったが、力が入っていた。灯りが揺れ、影が壁に踊る。終わった後、彼は腹に手を当てた。
「この子が……北条を継ぐ」
私は頷いたが、心はざわついた。廊下を歩く足音が聞こえる。得宗の監視者か。鎌倉の夜は暗く、波音が不気味。寺の鐘が鳴り、死者の魂を呼ぶ。
翌朝、廊下に血の跡を見つけた。昨夜の使いのものか、それとも幻か。拭いても、匂いが残る。鎌倉の血は、消えない。
父の死の余波は、こうして屋敷に染み込んだ。北条の檻の中で、私は子を抱く日を待つ。




