第5話 霜月騒動の夜
元弘元年 十一月十七日
鎌倉の霜月は、いつも冷たい霧に包まれる。鶴ヶ丘の山々が白く霞み、海からの風が石畳の道を吹き抜けるこの季節、町は静かに息を潜める。幕府の中心地、東勝寺の周辺は特に厳しい。得宗・北条高時の館は石垣が高く積まれ、堀が深く掘られ、まるで要塞のようにそびえる。内部では灯りが絶えず、宴の喧騒が漏れ聞こえるが、外からはただの影。北条氏の得宗専制は、この館を中心に広がっていた。得宗とは、北条氏の惣領家を指す。初代時政から義時、泰時と続き、今の高時公に至る。執権職は形式的に残るが、実権は得宗が握る。御内人──得宗の直属家臣──がその手足となり、有力御家人を監視し、排除する。宝治合戦で三浦氏を滅ぼし、霜月騒動の記憶がまだ新しい鎌倉では、誰もが得宗の目を恐れていた。あの1285年の騒動で、安達泰盛が平頼綱に討たれ、500名以上が自害した血の歴史は、今も語り継がれる。得宗専制の象徴だ。
私は妊娠七ヶ月。腹が重く、歩くのも辛い。氏邦殿の屋敷は得宗館からほど近く、庭の梅の木が霜に覆われていた。池の水面は薄く凍り、鯉の動きが鈍い。侍女のお梅が、炭火をくべてくれる。鎌倉の武家屋敷は、冬支度が早い。障子に厚い紙を貼り、炬燵を設える。食事は温かい味噌汁と煮物中心。市場から仕入れた大根や魚を、侍女たちが丁寧に調理する。だが、この頃の市場は不穏だった。商人たちが声を潜めて囁く。「得宗の税が重い」「御家人の不満が爆発する」と。寺社さえ得宗の庇護下で、鶴岡八幡宮の神官たちは高時公の機嫌を伺う。民衆は重税に耐え、寺の鐘が鳴るたび、祈りを捧げる。反乱の兆しは、霧のように町を覆っていた。
その夜、霜月の十七日。風が強く、屋敷の門が軋む音がした。氏邦殿は得宗館から遅く帰ってきた。顔色が青ざめ、刀の柄に手をかけたまま座敷に入った。
「千代……今夜は、静かにしていろ」
私は問うた。
「何が……?」
氏邦殿はため息を吐き、窓から外を見た。遠く、東勝寺の灯りが揺れている。
「高時公の命令だ。政村流を……粛清する」
心臓が止まるかと思った。父・政村の家系。得宗のライバル派として、ずっと冷遇されてきた。だが、今夜? 霜月のこの夜に?
外で馬の蹄の音が響いた。続いて、叫び声。鎌倉の夜は暗く、松明の火が道を照らす。得宗の御内人たちが、政村屋敷を包囲したらしい。侍女のお梅が震えながら報告した。
「奥方様……政村殿の屋敷に、火の手が……」
私は立ち上がった。腹の重さを忘れ、氏邦殿にすがった。
「夫君、止めてください! 父を……」
氏邦殿は首を振った。
「得宗の命令だ。逆らえば、我々も巻き込まれる」
外へ出た。冷たい風が頰を切る。屋敷の門から、遠くの炎が見えた。政村屋敷──私の生まれた家──が燃えていた。得宗の兵が押し入り、刀を振るう。叫び声、血の匂い。鎌倉の石畳は、血で滑りやすい。過去の霜月騒動のように、粛清は容赦ない。安達泰盛の時と同じだ。あの時、500名が自害し、一族が滅んだ。今、政村流の番か。
侍女の一人が、息を切らして駆け込んできた。
「奥方様! 政村殿が……自害なさったと!」
世界が崩れた。父は、得宗に逆らわず生きてきた。頭を下げ、娘を人質に差し出し、それでも。霜月の夜、刀を腹に突き立てたのか。血が畳に広がり、家族の叫びが響く。得宗の御内人・平頼綱のような男たちが、笑いながら首を切る。鎌倉の歴史は、そんな血で塗られている。源平合戦以来、勝者は敗者を滅ぼす。得宗専制は、それを極めた。北条時頼が始めたこの政治は、高時公で頂点に達していた。御家人たちは得宗の傀儡。反発すれば、霜月の刃が待つ。
私は庭に崩れ落ちた。霜の地面が冷たい。腹の子が蹴る。氏邦殿が抱き起こした。
「千代、泣くな。生きろ。我々のために」
だが、涙は止まらなかった。父の顔が浮かぶ。政村屋敷の庭、梅の花の下で、私を抱いた父。今、あの庭は炎に包まれ、灰になる。
夜が明けた。鎌倉の朝は、霧が濃い。東勝寺の鐘が鳴る。得宗館では、高時公が笑っているだろう。粛清の成功を祝って。市場は静かになり、民衆は顔を伏せる。寺の僧たちは、死者の魂を弔う経を唱える。鶴岡八幡宮の石段は、血の跡が残るかもしれない。
私は腹に手を当てた。この子は、北条の血を引く。父の仇の血を。
霜月の夜、父は死んだ。鎌倉の炎は、まだ消えていない。




