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子を抱いて炎を見た ~北条最後の女~  作者: 灰色の千代


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第4話 妊娠

元弘元年 四月

鎌倉の春は、いつも潮風に混じって血の匂いがするような気がした。七里ヶ浜の波音が遠く聞こえ、鶴ヶ丘の山々が青く霞むこの町は、源頼朝が幕府を開いて以来、武士の都として栄えてきた。石畳の道を馬が駆け、寺社の鐘が朝夕に響く。得宗・北条高時の館を中心に、屋敷が密集するこの地は、表向きは平和だが、得宗の専制が影を落としていた。御家人たちは重税に苦しみ、寺社さえ高時の言いなり。民衆は市場で絹や香料を売る商人たちと混じり、質素な暮らしを営むが、いつ反乱が起きてもおかしくない緊張が、空気に溶け込んでいる。

私は妊娠の知らせを受けた日から、体が重くなった。朝の吐き気が続き、食欲が落ちる。侍女たちは心配そうに薬草を煎じてくれる。鎌倉の武家女性は、こうした日常を耐えるのが常だ。夫の留守中に所領を管理し、時には甲冑を着て戦場に立つことさえあるという。私の母も、政村流の娘として、父の不在時は家督を預かっていた。女性の地位は、都の貴族姫君より高く、所領を兄弟と並んで相続できる。夫婦は財産を持ち寄り、共同で土地を支配する。それが武家の掟だ。

氏邦殿は喜んだ。得宗の高時公に報告し、褒美として絹の反物をもらってきた。屋敷の座敷で、それを広げて見せてくれた。

「千代、これでお前の着物を新調しろ。子が生まれたら、祝いの宴だ」

私は頷いたが、心は複雑だった。この子は北条の血を引く。得宗の専制の中で、どんな運命を背負うのか。氏邦殿は優しいが、彼自身が高時の側近として、毎日得宗館へ通う。そこは石垣が高く、堀が巡らされた要塞のような建物。内部では宴が続き、酒と女と権力争いが渦巻く。氏邦殿はそれを嫌っているようだったが、逆らえない。北条の家紋・六連銭が、すべてを繋ぐ鎖のように。

朝、私は庭で梅の花びらを拾った。屋敷の庭は広くないが、池に鯉が泳ぎ、苔むした石灯籠が並ぶ。風が強い日は、海からの塩気が肌に染みる。侍女の一人、名を「お梅」という年配の女が、そっと寄り添った。

「奥方様、体を冷やさないよう。鎌倉の風は、妊婦には厳しいですぞ」

お梅は政村屋敷からついてきた古株だ。彼女の話では、鎌倉の女性たちは小袖を下着にし、染めや刺繍で工夫を凝らすという。武家の妻は華美を避け、質素だが丈夫な布を選ぶ。夫の甲冑を繕ったり、薬を調合したりするのが日課。寺社参りも欠かさない。鶴岡八幡宮の石段を上り、神前に額ずく。神は北条を守ってくれるのか? 私は疑っていた。高時公の暴政で、民は苦しんでいる。市場では商人たちが声を潜めて噂する。「得宗はいつまで続くのか」と。

昼間、私は針仕事をした。十二単の裾を繕うだけでなく、子のための小さな着物を縫う。糸は都から取り寄せた絹糸。鎌倉の市場は賑やかで、絹や香料、茶碗が並ぶ。だが、北条の目が光るので、贅沢は控えめ。侍女たちは市場で魚や野菜を買うが、最近は物価が高く、質素な食事ばかりだ。味噌汁に漬物、焼き魚。武家は腹八分目を心がけ、いつ戦に備える。

氏邦殿が帰る頃、夕陽が山を赤く染める。鎌倉の夕景は美しいが、血のように赤い。氏邦殿は疲れた顔で座敷に座り、酒を控えめに飲む。高時公の宴で無理強いされたらしい。

「千代、今日はどうだった。子は元気か」

私は腹に手を当て、答えた。

「はい。蹴るようになりました」

氏邦殿は微笑み、私の肩を抱いた。夜は穏やかだった。灯りを落とし、布団の中で彼は私の腹に耳を当てる。

「この子が、北条を継ぐ」

私は頷いたが、心はざわついた。得宗の権力争いは、いつ爆発するかわからない。政村流と得宗の対立は、父の代から続く。高時公の側近・平頼綱の影が、いつも屋敷に忍び寄る。頼綱は御内人として、得宗の直属。安達泰盛を討った霜月騒動の記憶が、鎌倉に残る。あの事件で、有力御家人が壊滅し、得宗専制が強まった。今また、似た気配がする。父・政村は高時公に頭を下げ続け、政村流の存続を賭けている。

五月に入り、妊娠が進む。体が重く、歩くのも億劫だ。庭で薬草を摘む。鎌倉の山には、様々な草が生える。侍女たちが煎じてくれる。寺社で安産祈願もした。東勝寺の僧に経を上げてもらう。寺は得宗の庇護下だが、僧たちは民の苦しみを語る。「反乱の兆しがある」と。

ある日、氏邦殿が深刻な顔で帰ってきた。

「千代、霜月の気配がする。高時公の宴で、政村流への疑いが囁かれている」

私は息を呑んだ。霜月──十一月。過去の騒動のように、血が流れるのか。私の父は、どうなる。

鎌倉の夜は静かだが、波音が不気味に響く。子を抱く日が近づく中、私は窓から外を見た。山々が黒くそびえ、まるで檻のように。

この子は、無事に生まれるのか。北条の炎の中で。

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