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子を抱いて炎を見た ~北条最後の女~  作者: 灰色の千代


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第3話 初めての夜

元弘元年 三月十四日 朝

朝の光が、障子の隙間から淡く差し込んでいた。鎌倉の春はまだ肌寒く、屋敷の庭では梅の花びらが散り始めていた。昨夜の桜とは違い、この梅は北条の屋敷特有のものだ。得宗家から分けられた古木で、枝はねじ曲がり、まるで一族の運命を予言するように空を掴んでいる。

私は布団の中で目を覚ました。体が重く、昨夜の痛みが下腹部に残っていた。氏邦殿はすでに起きていて、隣の間で武具の手入れをしていた。刀の刃を研ぐ音が、静かに響く。鎌倉の武家屋敷は、そういう音で満ちている。朝から剣の音、馬のいななき、侍女たちの足音。平和なようでいて、いつ戦争が始まってもおかしくない緊張感が、常に空気に溶け込んでいる。

「千代殿、起きたか」

氏邦殿の声が、穏やかだった。私は小袖を羽織り、髪を簡単にまとめて隣の間へ行った。

そこは広々とした座敷で、四方の壁には北条の家紋が染め抜かれた屏風が立っていた。家紋は六連銭。金銭の連なりを表すというが、私にはただの鎖のように見えた。繋がれた一族の象徴。

氏邦殿は刀を鞘に収め、私に微笑んだ。

「朝餉を。侍女が用意した」

卓には、炊きたての飯、味噌汁、漬物、焼き魚が並んでいた。鎌倉の食事は質素だ。都の貴族のように華美ではない。武家はいつでも戦に備えるため、腹八分目を心がけるという。氏邦殿は箸を手に取り、私の分も盛りつけてくれた。

「昨夜は……すまなかった。痛かったろう」

私は首を振った。

「いえ……務めですから」

言葉は素っ気なく出た。実際、痛みは消えかけていたが、心の棘は残っていた。この人は私を妻として選んだわけじゃない。ただの政略。得宗の高時公が、政村流を抑えるための駒として私を押しつけただけ。

食事を終え、氏邦殿は得宗屋敷へ出かけた。毎日のように、高時公の側近として務める。鎌倉の中心、東勝寺の近くに得宗の館はある。そこは北条の権力の象徴で、石垣が高く積まれ、堀が巡らされている。噂では、地下に牢獄があり、裏切り者はそこで拷問されるという。

私は一人、庭に出た。侍女が二人ついてきたが、彼女たちは口数が少ない。北条の女中は皆、そうだ。得宗の目が光っているから、無駄口は叩かない。庭は広かった。池があり、鯉が悠々と泳いでいる。池の周りには苔むした石灯籠が並び、遠くに鶴ヶ丘の山影が見える。鎌倉は山に囲まれ、海に面した要塞のような町だ。源頼朝が幕府を開いて以来、武士の都として栄えたが、今は得宗の専制が影を落としている。民は重税に苦しみ、寺社さえ得宗の言いなりだ。

昼間、私は屋敷の奥で針仕事をした。十二単の裾を繕う。鎌倉の女性は、都の姫君のように優雅ではない。武家の妻は、夫の甲冑を直したり、薬草を煎じたりする。侍女の一人が、静かに言った。

「奥方様、今日は風が強いです。体を冷やさないよう」

私は頷いた。風は確かに強かった。海からの潮風が、屋敷の障子を揺らす。鎌倉の風はいつも塩辛い。遠くで波の音が聞こえる。七里ヶ浜の波だ。あの浜は、源平合戦の古戦場。まだ血の匂いが染みついているという。

夕方、氏邦殿が帰ってきた。顔色が悪かった。高時公の宴で酒を強要されたらしい。得宗の宴は荒々しい。酒、女、時には血。氏邦殿はそれを嫌っているようだったが、逆らえない。

「千代殿……今日はどうだった」

私は答えた。

「静かでした。庭で梅を見ました」

氏邦殿は頷き、座敷に座った。夕餉の支度が始まる。今日は鶏の煮物。鎌倉の市場から仕入れたものだ。市場は賑やかで、商人たちが都から持ち込んだ絹や香料を売っている。でも、北条の目が光るので、贅沢は控えめだ。

食後、氏邦殿は私を寝所に誘った。昨夜とは違い、穏やかだった。灯りを落とし、布団の中で彼は私の手を握った。

「怖がらなくていい。今夜は優しくする」

私は目を閉じた。痛みは少なかった。代わりに、奇妙な温かさが体を包んだ。終わった後、氏邦殿は私の肩を抱き、囁いた。

「千代……お前は美しい」

初めて名前で呼ばれた。心が少し揺れた。でも、それは愛じゃない。ただの慰め。

それから数日、日常が続いた。朝は氏邦殿を見送り、昼は屋敷の管理。侍女たちと薬草を摘んだり、経文を写したり。鎌倉の寺は多い。鶴岡八幡宮が一番の信仰の場だ。氏邦殿は時折、私を連れて参拝する。石段を上り、神前に額ずく。神は北条を守ってくれるのか? 私は疑っていた。

四月に入り、桜が満開になった。屋敷の庭で花見をした。氏邦殿は珍しく酒を控え、私に花びらを差し出した。

「これを、髪に」

私は笑った。初めて、心から。

だが、その頃から体に異変が起きた。朝の吐き気。食欲のなさ。侍女が気づき、医者を呼んだ。

医者は脈を取り、静かに言った。

「おめでとうございます。懐妊です」

氏邦殿は喜んだ。得宗に報告し、褒美をもらったらしい。私は腹に手を当てた。

この子は、北条の血を引く。

この檻の中で、どんな運命を背負うのか。

私は窓から外を見た。鎌倉の山々が、夕陽に赤く染まっていた。まるで、炎のように。


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