第15話 炎の中を子を抱いて
元弘三年 五月十八日 夜
炎が、すべてを飲み込んでいた。
屋敷の梁が崩れ落ち、熱風が私の頰を焼く。千代丸を抱き、裏口から飛び出した瞬間、鎌倉の夜は地獄の業火に変わっていた。鶴ヶ丘の山々が赤く照らされ、海からの風が灰を巻き上げ、目を開けていられない。七里ヶ浜の波音は遠く、代わりに叫びと刀の衝突音が響く。新田義貞の軍勢が市街を蹂躙し、得宗の残兵が闇に斬られる。東勝寺では一族八百余人が自刃し、血の河が流れる。寺の僧たちは経を捨てて逃げ、神殿が炎に包まれる。鶴岡八幡宮の石段は灰で覆われ、神は得宗を見捨てた。市場の残骸は燃え、商人たちの叫びが夜空を裂く。鎌倉の歴史は、この夜に燃え尽きていた。源頼朝の幕府は、得宗の高時公の暴政で終わりを告げ、石垣が崩れ、堀が埋まる。御内人たちの最後の抵抗は無駄で、矢が夜を切り、血が石畳を黒くする。五月の星空は煙に隠れ、青葉の香りは焼け焦げの臭いに変わる。古戦場の七里ヶ浜は、敗者の体を波が飲み込み、塩辛い風が涙を運ぶ。
私は子を抱き、煙の中を走った。千代丸の体は重く、息が上がる。夫・氏邦殿の最期の言葉が耳に残る。「生きろ。北条の血を……」病床で息絶えた夫の顔が、炎の影に浮かぶ。九州遠征の病が体を蝕み、優しかった目は閉じられた。刀を腰に差し、子を胸に縛りつける。鎌倉の武家女性は、戦の夜に生き延びる術を知る。侍女のお梅はすでに逃げ、屋敷は炎の海。熱気が肌を焦がし、十二単の裾が燃え始める。石畳は熱く、灰が靴を溶かす。新田軍の兵が叫び、刀を振るう。山へ向かう道は暗く、青葉の枝が顔を打つ。煙が肺を刺し、咳が止まらない。
「千代丸……怖くない。母がいる」
子は声を枯らし、動かない。炎の煙で、息が弱いのか。子を抱き、木の根を踏み越える。鎌倉の山道は険しく、五月の夜露が滑る。得宗の暴政が、この惨劇を生んだ。重税で民を苦しめ、粛清で御家人を滅ぼし、宴で腐敗した高時公。父・政村の死、霜月の夜の血塗れの廊下。すべてが炎に還る。新田義貞の旗が風に翻り、天皇の軍が鎌倉を制圧。寺の鐘は沈黙し、僧たちが山へ逃げる。鶴岡八幡宮の神火は消え、神は新しき世を選んだ。七里ヶ浜の敗者は波に沈み、五月の風が灰を散らす。
やがて、炎の熱が遠のく。山中に入り、岩に寄りかかる。千代丸の体を確かめる。冷たい。息がない。煙で、子は死んでいた。小さな手が、私の指を握ったまま固い。
「千代丸……」
涙が止まらない。子を抱き、刀を抜く。自刃するのか。夫の遺言、生きろ。北条の血を繋げ。だが、子は死んだ。私は一人、灰の山をさまよう。
鎌倉の夜空に、星がちらり。炎が、すべてを焼いた。この夜、私は死んだのかもしれない。




