幻翼を広げるように
1
「おい佐藤、顔が青いぞ⋯。どこ行くんだ。」
僕は同僚の声を振り払い、奪う様に購入した新聞片手に、誰よりも高く手を上げ車を止める。
『19XX年◯月X日(月曜日) △△株式会社 破綻』
新聞一面のたった10数文字に目眩が止まらない。
タイミングよく開くドアの後部座席に、転がり込むように身体を滑らせる。
「あんちゃん!、顔色悪いけど病院か?何処が痛いんや!?」
運転手は顔を一瞥し状況を察したらしく、呼吸が少しばかり浅くなった声で心配してくれる。
「◻︎◻︎証券まで⋯。お願いします⋯。」
呂律の廻っていたかも分からない僕の返答で、運転手は持ち株が危険な現状を察してくれたようだ。彼は、黙って頷き流れるラジオのダイヤルを変える。流行りの曲の始まりとともに、車のメーターも動き出した。
2
僕は、煙に身を任せて一度落ち着こうと考え、煙草を取り出すためにジャケットに手を入れる。いつもなら当たり前にこなせる動作ができない。身体の自由が効かない経験は、生まれてこの方初めてだ。必死に震える手を制御しようと念を送るが、それでも中々上手くいかない。その光景を瞬きしない僕の目には、恐らく“まごの手”よりも心もとなく映っていた。
(人間、こんなに震える事があるんだな。⋯⋯昨日で利益確定していれば、こんな思いをしなかった!)
走馬灯のように、初めて買った時のことや利益が三桁の大台を超えた時のことを思い出す。しかし今では楽しかった記録もモノクロの映画を見ているようだ。自分の過ちに何もかもが上書きされて、全てが後悔に変わっていく。まるで、ひっくり返される自陣のオセロのよう。敗北が決まった戦いは、あらゆるものを重くのしかからせてきた。
ラジオの曲が盛り上がるのとは逆に、僕の焦点はズレたまま。
しかし、人間の順応性には驚かされる。少し時間をおいたことで、フィルターを口に咥え先端に火を灯すことは可能になっていた。ずっと待ち望んでいた煙草の煙は、目を背けたい僕の現実をぼかすようにゆらりと漂う。揺蕩う白線を見つめていると、何だか少し救われた気がした。
「ヘビースモーカーだったよね、母さん。」
ふと、故郷に住んでいた母親が目に浮かんだ。旦那を亡くし、女手ひとつで育ててくれた尊敬すべき人。学生の頃は、自分も忙しいのに弁当を手作りするような模範的な母親だったと思う。しかしこの時思い出したのは、有名企業に入社が決まった時、仏壇に手を当てていた母の背中がとても小さく感じたことだった。
「お父さん、あの子は立派に育ちました。あの子は頑張りました。」
あの時泣きながら語りかけていた母の言葉が、脳裏によぎる。ごめんなさい。僕はそんなに立派な人間じゃありません。ごめんなさい⋯ごめんなさい⋯。期待に添えられる息子じゃなくてごめんなさい。頬を伝う涙が、握りしめていた新聞に数多のシミを作った。
3
ラジオの音が静寂を迎え始めた時、運転手が喋りかけてきた。
「あんちゃん、元気だしいな。実はワシ借金ぎょうさんあってな。」
じっとミラー越しに彼の顔を見ると、抜けた前歯に似合わない爽やかな顔が目に入る。何も返さないことで、自分の心の内を悟らせるのは癪に触る。必死に僕は言葉を絞り出した。
「そうだったんですか⋯。」
「自暴自棄になって荒れていた時もあった、けど今こうして働けてるんや。」
最適解の有難い説法なんて今の僕には馬の耳に念仏。いったい何の役に立つんだ。今必要なのは、そんな会話じゃなく状況をガラッと変えてくれる奇跡なんだよ。一打で逆転させるような神の一手が。
「あんたに何が⋯!!」
勢いよく口に出したところで見えてしまった。気づいてしまった。彼の左人差し指が無いことに。
「昔、工場やってた時にポロッとやってしもうたんや。指。」
「また1からやり直したらええ。あんちゃん指あるんやろ?」
心臓を鷲掴みされた気分になった。さっきとは違う驚きに溢れた鼓動を感じる。確かに僕は指を無くしてはいない。しかし、こっちは命よりも大事なお金を⋯。
命よりも大事なお金⋯?
「でもなぁ無いっちゅうても、ある様な感覚がまだ残ってるんや。何なんやろなこれ。」
後に調べた文献によると”幻肢“と呼ばれる現象で、脳がその部位の感覚を記憶し続けているために起こると考えられているらしい。故郷の家にも居たな⋯記憶だけの存在。僕らの心に寄り添っていてくれていたあの人が。
実際に見たことが無い父親の顔が、微笑んだ気がした。
4
どうやら着いたようだ。タクシーの運転手が落ち着いた声で口を開く。
「着いたよ。880円。」
お洒落だと薦められて買った財布から、漱石の描かれた千円札を取り出しそっと置く。
「お釣りはいりません。ありがとう御座いました。」
僕は軽く頭を下げ、指に挟んだ煙草を消す。理解出来なかったはずの現実が視界に入っている。
車窓から見た目的地には、走って駆け込む人影が見える。自分も同類なんだろうな、と僕は小さく薄笑いをした。後部座席のドアが開き肌寒い風が吹きこんだが、僕はゆっくりとタクシーを降りる。
そう、幻翼を広げるように。




