38.信頼から愛情へ
ベルナード様が帰宅されたのは間もなく日付けが変わろうとしている頃だった。
疲れていらしたのですぐに食事を用意して、お風呂に入ってもらう。話は次の日でもいいと言ったけれど、お風呂から出たら時間が欲しいと仰ったので、それまでベルナード様の私室で待つことになった。
気もそぞろに座っていると、すぐに濡れ髪のままベルナード様が部屋に戻ってきた。
「ゆっくりしてくださってよかったのに」
「実家がどうなったか、気になっていると思ってな」
私の隣に座ると、持っていたタオルで髪を拭く。私は立ち上がるとソファの後ろに回り手を伸ばした。
「タオルを貸してください。風邪を引いてしまいます」
「ラシュレが拭いてくれるのか。ありがとう」
柔らかい銀色の髪をタオルで挟むようにして拭くと、ベルナード様は天井に向かってはぁ、と息を吐いた。
仰向けになったことで私と目が合い、青い瞳が柔らかく細められる。
「髪を拭かれるのは、なかなか心地よいものだな」
「そうですか。湯冷めしないように暖炉の薪を増やしましょうか?」
部屋は充分に暖めているけれど、ゆっくり湯に浸かれなかったせいかベルナード様の身体は冷たい。
だけれどベルナード様は「暖かすぎると眠くなるから」と笑って首を振った。
そうして私から視線を逸らすように前を向くと、ゆっくりと話しだした。
衛兵がレステンクール伯爵邸へ赴き、寝込んでいる叔父に小麦粉の流通を確認したところ、卸売り業者が昨日引き取ったことが分かった。
そこですぐに卸売り業者に連絡し、小麦粉を差し押さえたらしい。
そのあとは、すぐに貴族議会が開かれたそうだ。
お茶会に招かれていたのは高位貴族と、王妃陛下が選んだ下位貴族。その夫も城に来ていたため、貴族議会に席を置く高位貴族が揃っていた。
レステンクール伯爵の処罰と領地をどうするかの話し合いが、夜遅くまで続いたらしい。
それと並行して、早育ちの小麦と粗悪な肥料を売った罪でボナパルト男爵が捕縛され、購入経緯と販売した者の特定が取り調べられた。
粗悪な肥料は通常なら数年をかけて土壌を汚染するもので、一度使われたぐらいでは被害は出ないらしい。
今回の小麦粉の汚染は、大量の養分を必要とする早育ちの小麦と、その肥料の使用が重なって起きたものだ。
だから粗悪な肥料を撒いた土地で他の作物を作っても、小麦のように毒の成分を多く含むとは限らない。
ただ、安易にそれを市場に流通させるわけにはいかないので、取り扱いが検討されたそうだ。
幸い使われた土地が少なかったので、次に採れた作物は全て廃棄。翌年からは国が安全性を調べたのち市場に流通することが決まった。
最大の問題は、レステンクール伯爵領で暫く小麦が作れないことだ。
ラッシュド王国でも一、二を争う小麦の生産地であるレステンクール伯爵領で、小麦を作れないのは大きな痛手だ。
暫くは輸入に頼らざるを得ないし、小麦以外の作物を主食とする案も出された。
その筆頭として挙げられたのが、クローデル侯爵領で栽培したソバ粉だ。小麦と違って二期作が可能で、充分な量が穫れる。
もちろん、レステンクール伯爵領の小麦の需要すべてを補える量ではないけれど、輸入小麦と同様に国内に流通させる手はずとなった。
「レステンクール伯爵領はどうなるのですか?」
「土壌が汚染されているので、いったん国が管理することになった。今回の騒動の発端は、各地で初夏に起きた洪水らしい。それにより多くの小麦が駄目になり、ボナパルト男爵から早育ちの小麦の種を手に入れた。しかし養分を大量に必要とし土地が痩せたために、粗悪品の肥料が必要になったそうだ」
「つまり、ベルナード様の推測が正しかったのですね」
洪水対策は万全にしておいたはずなのに、どうしてこんなことになったのだろう。
落ち込んでいる私に、ベルナード様は洪水対策が充分にされなかったのは、タチアナの婚約披露宴にお金を使ったからだと教えてくれた。
「いったい、タチアナは何を考えているの! そんな豪華な婚約披露宴を許す叔父様も叔父様だわ!」
「まったくだ。そのため、レステンクール伯爵は責任を問われ、資産没収のうえ爵位を剥奪されることになった。伯爵はさらなる取り調べを受けたあと、重労働の刑に処されるだろう。領地経営に関わっていない伯爵夫人とタチアナは、禁固刑数年ののち、平民として釈放される可能性が高い。フィリップについては罰金刑になりそうだ」
資産の没収と爵位剥奪は予想していた。
タチアナや叔母、フィリップ様の処罰も妥当なものと思えた。
フィリップ様は次男だし、実家のトレム子爵様は彼を許さないだろう。おそらく、縁を切られタチアナ同様平民になるはずだ。
あとは、レステンクール伯爵位をどうするかだ。
お家取り潰しとなれば、私は貴族でいられない。 そうなれば、ベルナード様との結婚だって難しい。
私の考えを察したのだろう。ベルナード様は振り返って私の手を取った。
「心配しなくていい。まず、レステンクール伯爵領の土壌管理を俺がすることになった。粗悪品の肥料について他の貴族は何も知らなかったから、俺の案が受け入れられたんだ」
ベルナード様の案とは、今後もレステンクール伯爵領で早育ちの小麦を育てるという常識外れのものだった。
早育ちの小麦は、土壌の養分を大量に必要とする。それを逆手にとって、小麦に土壌を汚染している成分を吸収させようというのだ。
ベルナード様の予想では、あと一、二回育てればほとんどの毒素を吸収できるのではないかとのこと。
毒素がなくなったかどうかは、収穫した小麦を調べれば分かる。
そうして土地の汚染が改善したのを確認し、改めて養分を多く含んだ肥料を撒く予定だ。
この肥料についても、ベルナード様に幾つか心当たりがあるらしく、試しながら進めていく。
「国としてはかなりの損失ですよね」
「それについてだが、幾つかの領地で小麦ではなくソバ粉を作ることも提案したんだ。二期作だから一年間の収穫量は小麦より多くなる。それによって輸入小麦の量を減らせるだろう」
「レステンクール伯爵領の農民の生活はどうなるのでしょうか?」
「国がある程度は補償してくれるらしい。彼らには、ハチカワの器の制作を提案してみるつもりだ。うまくいけば国内に流通させるだけでなく、輸出もできるかもしれない」
ハチカワの木は、レステンクール伯爵領にも生息している。もともとタダ同然の木の皮だから、売価がまるまる収入となるはずだ。
国の補償が幾らかは不明だけれど、農民が路頭に迷うことにはならないそうだ。
「それで、土地を俺が管理する間、爵位はラシュレが継ぐことになった。ただ、この国で当主同士の結婚は本来許されていない。そこで俺と結婚したあとは、レステンクール伯爵位は剥奪され、領地は国のものとなる」
「では、私はベルナード様と結婚できるのですね」
「もちろん。そのために土壌改良案を出したんだ」
良かった。
もともと領地経営はしていたので、レステンクール伯爵領地については熟知している。
ベルナード様はその話も国王陛下にしてくれたらしい。
だからすんなりとベルナード様の案が受け入れられたと仰るけれど、帰宅時間が遅かったことを考えると、説得には骨が折れたはずだ。
「ありがとうございます」
礼を言う私の顔をじっと見ると、ベルナード様は緩やかに口角を上げた。
「そう言ってくれるということは、俺との結婚を望んでいると思っていいのかな?」
「もちろんです。むしろ今さら結婚は白紙なんて言われると、困ってしまうのですが」
「それはよかった。ラシュレ、こっちに来てくれるか?」
ソファをポンと叩くので、言われるがまま隣に腰かける。
「ラシュレ、ローナの宿で話したことを覚えているか?」
「結婚についてでしょうか。お互い好きな人ができるまで、結婚を続ける約束ですよね」
「そうだ。その約束について少し問題ができた」
問題と聞いて身構える。それは今回、私が爵位を譲り受けることと関係があるのだろうか。
表情を硬くした私の頬に、ベルナード様の手が当てられる。
「好きな人ができた」
ひゅっ、と息を飲む。
と同時に、二つの感情が込み上げてきた。不安と、それからもしかしてという期待だ。
フィリップ様に対し私を愛していると言ったベルナード様の口調は、熱の籠ったものだった。そう思いたいだけなのかもしれないけれど、続きの言葉を聞きたくて、でも怖くて息が浅くなる。
「それは、ベルナード様にとっていい話だと思います」
「ラシュレにとっても、いい話だと嬉しい」
長い指が私の頬を滑る。
まっすぐに私に向けられる青い瞳を見つめ返すと、そこには不安そうな私の顔が映っていた。
柔らかく包むような眼差しに、どんどん期待が大きくなる。これで私の勘違いだったら、一生立ち直れない。
「その顔は、ちょっとは可能性があるということかな?」
「えっ?」
「ここ数ヶ月、ラシュレに男として意識してもらえるよう頑張っていたんだが、少しは成果があっただろうか」
縮められた距離に甘い眼差し、優しい言葉と頻繁に贈られてくるプレゼント。
それらに私が期待するのと同じ意味が込められていたのだとしたら。
「充分な、効果があったと思います」
私の返答に、ベルナード様はちょっと驚いたように目を丸くすると、次いでくしゃりと笑う。
「良かった。あれでダメならもう強引に手に入れるしかないかと考えていたんだ」
「えっ?」
不穏な言葉が聞こえたような。
私の怪訝な声にベルナード様は小さく笑うと、おもむろに跪いた。そうして私の手を取る。
「ラシュレ、あなたを愛している。好きな人ができたら別れるという約束を反故にし、俺と一生一緒にいて欲しい。結婚しよう」
じわじわと胸に込み上げてくる歓喜に、喉が塞がれ声が出ない。
何度か頷いたあとで、私はやっと「はい」と答えた。
「私も、ベルナード様が好きです」
「ありがとう。いろいろ頑張った甲斐があったよ」
「そうではなく、その前から。多分、星見祭りの前から、好きでした」
「えっ? ではあの時にはもう、俺を想っていてくれたのか?」
改めて確認されると、恥ずかしい。真っ赤な顔で頷けば、ベルナード様は嬉しそうに破顔した。
「知らなかった」
「だから、ベルナード様の行動にずっとドキドキしていたんですよ?」
「好きだと知っていたら、もっと強引に行けばよかったな」
重なる言葉に、「えっ?」と聞き返すと、ベルナード様は「ま、これからすればいいか」とにやりと笑う。
その艶めかしい笑みに、私の顔がますます赤くなった。
「ちょっと聞き逃してしまいましたが、今、とんでもないことを言いませんでしたか?」
「そうか? 心当たりはないが?」
「ありますよね。絶対、何を言ったか覚えていますよね?」
「ふーん、そうやって話をむし返すんだ」
ベルナード様は再びソファに座ると、素早く私を抱き寄せた。
「では、強引に行ってもいい許可ももらったことだし」
「ちょっと待ってください。許可した覚えはありません」
「ちなみに、悲しいときは胸を貸してくれるのだろう。では、嬉しいときはどうしてくれるんだ?」
少し腕の力を緩めると、ベルナード様は真っ赤な私の耳朶に触れる。
それを弄ぶかのようにフニフニと動く指先に、鼓動がどんどん速くなる。
「な、何をすれば、いいのですか?」
動転して真っ白な頭で答えれば、「その返答はまずいだろう」と笑われてしまった。
「主導権を俺に渡していいのか?」
「多数決での決定を希望します」
「分かった。では、俺はキスしたいに一票入れる。ラシュレは?」
その聞き方はずるい。
ベルナード様の瞳が、指先が、体温が、私を愛おしいと全身で語ってくる。
好きな人に求められたら、嬉しいに決まっているじゃない。
「では、私もベルナード様と同じ方に一票入れます」
「同じとは?」
「ベルナード様、いつからそんなに意地悪になりました?」
うっ、と口を尖らせ抵抗を試みるも、指先が言葉を促すように唇に触れた。
「き、キスに……っ」
渾身の勇気を出して口にした言葉は、最後まで言わせてもらえなかった。
触れる熱い唇に促されるように、私はベルナード様の背に腕を回す。
私を抱きしめる腕の力強さを心地よく感じながら、ベルナード様とずっと一緒にいられる幸せを噛みしめたのだった。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
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