2.婚約破棄された私たち2
2話目です
薄いピンク色のハンカチが水を吸って濃くなり、沈んでいく。
施された鳥の刺繍は、亡きお母様がしてくれたものだ。
――バシャッ
気がついたときには、池に入っていた。
中心部分は足が着かないほど深いそうだが、縁は浅く私のふくらはぎぐらいだ。
フィリップ様の瞳の色に合わせて用意した水色のドレスが、青く変色し水面に広がる。
そのせいでハンカチを見失いそうになり、両手でドレスをたくし上げながらさらに一歩踏み出そうとすると……。
「何をしているんだ!!」
背後からいきなり怒鳴られ、腕を掴まれた。
さらにそのまま引っ張られ、池から引き摺り出されてしまう。
足がもつれ地面にへたり込んだところで、ガシリと肩を掴まれた。
「婚約破棄されてショックなのは分かるが、はやまってはいけない!」
至近距離で聞こえた大声に、驚き喉が絞まる。
男性は、私の頬に伝う涙の痕を認めると、長い前髪を掻きあげ辛そうに口を歪めた。
「婚約者が他の女を愛していたと知って、悲しいのは分かる」
「あ、あの」
「たしかに今からでは、新たな婚約者を見つけるのは大変かもしれない」
「そうではなく」
「だが人生を悲観するのは早い。命を大事にすべきだ」
怒涛のように捲し立てる男性は、水で濡れたドレスの色と同じ青い瞳をしていた。
疲れているのか目の下にクマはあるし、髪もばさばさだ。肌も青白く細い身体は不健康そうだが、顔の造形は整っている。
今夜ここにいるのなら卒業生に違いない。
だけれどその顔に見覚えがなかった。
思案していると、再び風が吹き男性の髪を乱す。掻きあげられていた前髪が彼の顔を覆い隠した。その姿に、私はあっと声をあげる。
「……もしかして、ベルナード様?」
間違いない。少し猫背の冴えない風貌は、さきほど私と一緒に婚約破棄されていたベルナード様だ。
「そうだ。君の隣で俺も婚約破棄された。それでパーティ会場に居づらくて出てきたんだが……大丈夫か?」
心配そうに窺われると、平気だとは言いづらい。
話を合わせるように、私は神妙な顔で頷いてみせた。
「……ベルナード様は大丈夫ですか?」
その問いが意外だったのだろう、前髪の向こうで青い瞳が見開かれ、次いで困ったようにくしゃりと笑う。
「俺は平気だ。あなたほどショックは受けていない」
ベルナード様は首を振ると、濡れた私のドレスに視線を落とす。
その視線を辿り、彼が誤解をしていることを思い出した。
「あ、あの。助けていただいたところ申し訳ないのですが、私、死のうとしていたのではありません」
「えっ?」
間の抜けた声が形の良い口から転がり出た。
私は立ち上がると、再び池へと足を向ける。それにつられ、ベルナード様も腰を上げた。
「ほら、あそこにハンカチがあるのが見えますか?」
水に漂うハンカチを指させば、ベルナード様の口がポカンと開いた。
「ハンカチ? ……もしかして、ハンカチを拾おうとしていたのか?」
戸惑いがちに聞かれ、私は申し訳なさで身を小さくする。
「……はい。母の形見です」
「……」
数秒の沈黙ののち、ベルナード様は大きなため息と一緒にその場にしゃがみ込んだ。
「そうだったのか。俺はてっきり、入水自殺を図ったのかと思った」
「すみません! 紛らわしいことをしてしまいました」
「いやいや、俺が勝手に勘違いしたんだ。それよりハンカチを拾ってしまおう」
そう言うと、ベルナード様は躊躇うことなく池に足を入れた。
バシャバシャと鳴る水音に慌てたのは私のほうだ。
「あのっ、服が濡れてしまいます!」
「構わない。ほら、もう拾えた」
軽く身を屈め、ベルナード様は池からハンカチを取り出した。そうしてぎゅっと絞って手渡してくれる。
「ありがとうございます」
「いや、俺のほうこそ大騒ぎをしてすまなかった。それより、これからどうする?」
ふたりしてお互いの姿を見る。
ふくらはぎから下がびっしょりと濡れていて、パーティ会場に戻れる格好ではない。
「迷惑でなければ、邸まで送らせてくれないか? そういえばまだ名前を聞いていなかった。父が亡くなり侯爵の仕事を継いだので忙しくて、学園にはほとんど来れなかったから名前と顔が一致していないんだ」
「ラシュレ・レステンクールです。レステンクール伯爵の養女となっています」
「レステンクールといえば、長兄が事故で亡くなり、弟が伯爵位を継いだと聞いた。養女ということは、長兄の娘か」
ベルナード様は私の着ているドレスにさっと視線を移す。
叔父はドレスなんて買ってくれないし、フィリップ様もプレゼントしてくれないので、私が副業で手に入れたお金で購入したものだ。
流行遅れのデザインと安っぽい生地を見れば、おのずと伯爵家での私の待遇は察せられる。
「そちらの話はあまり聞けなかったが、フィリップ殿は別の女性を隣に立たせていたな」
「はい。従妹のタチアナです」
「従妹。それなら家に帰りづらいだろう」
「帰ったら婚約破棄されて当然だとか、フィリップ様に相応しいのはタチアナだとか、いろいろ言われると思います」
やれやれと肩を竦ませながら、受け取ったハンカチを仕舞う。
通常ドレスにポケットはない。でも諸事情により、フリルの隙間に目立たないように作ってあるのだ。
再度お礼を言って立ち去ろうとしたところで、そうだ、と思いついた。
「ベルナード様、よければ、今から飲みに行きませんか?」
「飲みに?」
問い返され、笑顔で首肯する。
少し落ち込みはしたものの、フィリップ様との婚約破棄は喜ばしい。
この先よい縁談はないだろうし将来を考えれば憂鬱にはなるが、今夜ぐらいは楽しく過ごしたい。つまり、祝宴をあげたい気分なのだ。
ベルナード様はちょっと考えたのち、「そうだな」と薄く口角を上げる。
「ラシュレとは違う理由で、俺も飲みたい気分だ。知り合いがしている店なら、ドレス姿でも問題ないだろう」
「ありがとうございます。では、行きましょう!」
私とは違い、ベルナード様にとって婚約破棄はショックな出来事だ。
だから祝宴なんて口が裂けても言えないけれど、ハンカチを拾ってもらったお礼として愚痴を沢山聞いてあげよう。
今夜は飲んで、これからどうするかは明日考えればいい。
長年苦しんだ不良債権から解放された私は、今宵を楽しむことに決めた。
――そう、楽しむつもりだった。それなのに
夕方、もう一話投稿します。
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