19.視察2
本日から朝、夕の二回更新となります。
二時間も進むと、窓から見える景色は牧歌的なものとなってきた。
小麦畑が広がり、その中に農家がポツポツと点在するのはレステンクール伯爵領と変わらない。
ただ、大きく違うところといえば、馬車から見て分かるぐらい、小麦の成長が芳しくないことだ。
一ヘクタール当たりの生産量は、レステンクール伯爵領の六割ほどらしい。
やはりこの土地は小麦の栽培に向いていないのだろう。
「気になるなら、馬車を停めようか?」
ベルナード様が翻訳の手を止め、聞いてくる。それに首を振って答えると、再び原稿に目を落とした。
初めは私を気遣って窓の向こうの街並みについて話してくれたけれど、あたりが小麦畑になると説明することがなくなった。
それでもなお話題を提供しようとしてくれるので、眠るか翻訳をしてはどうかと薦めたところ、バートン様から渡されたトランクを開けたのだ。
フィリップ様とのお茶会で気を遣うのは、いつも私のほうだった。
前日までに彼が興味のありそうな話題を探し挑んだお茶会だったけれど、終始不機嫌にしていたのを思い出す。
「これをしておけ」と学園の課題を手渡すと、すぐに帰るのも珍しくなかった。
フィリップ様とふたりでいて無言が続くと焦ったけれど、ベルナード様とは会話がなくても平気だ。
もちろんお互い興味のあることや、他愛のない話をすることも多いけれど、こうしてただ隣に座っているだけの時間も多い。
窓から差し込む光が、ベルナード様の顔に陰影を作る。
私はほとんど無意識に手を伸ばし、彼の髪に触れた。
「ラシュレ?」
「あっ、すみません。ベルナード様の髪って灰色ではなくて銀色だったのですね。綺麗で羨ましいです」
「あぁ、睡眠不足の頃は艶がなくばさばさだったからな。別に綺麗とは思わないが、手触りはよくなった」
そう言って、髪の間に指を滑らせる。
真似するように私も手櫛で梳かせば、絹のようにさらりとしていた。
「一ヶ月前にお渡ししたアーモンドオイルが良かったのかもしれません」
薬草を売りに行った帰りに買ったアーモンドオイルを薄く髪に馴染ませたところ、なんと、ばっさばさの灰色の髪が月の女神も羨む美しい銀髪になったのだ。
「そうかもしれないな。ラシュレのおかげだ」
そう言われると、達成感がむくむくと湧き上がる。
髪だけではない。
この三ヶ月でベルナード様の身体つきは、随分と変化した。
首周りは逞しくなり、細枝のような腕も脂肪と筋肉が付いた。
肩の厚みに加え背筋も伸びたことで、以前の貧相な印象は吹き飛んだ。
いい仕事をしたなと、ついついベルナード様の腕に触れると「何をしているんだ?」と怪訝な声で問われてしまう。
「この三ヶ月の成果を味わっておりました」
「俺の二の腕を触りながらか?」
「私の作った料理がこの健康的な身体の一部になったと思うと、感慨深いものがあります」
「その感情はよく分からないが、たしかにラシュレが来てから健康的になった。体重もかなり増えたと思う」
「やった! 帰ったら『ベルナード様を太らせる同盟』を結んでいる料理長にもそのお言葉を伝えます」
「待て、初耳だぞ」
料理長だけでなく、他の料理人もベルナード様の体形の変化を喜んでいる。
ただ、一緒の食事を食べている私も体重が増加中なので、こちらはどうにかしなくてはいけない。
「今までは高カロリーの食事が多かったのですが、筋肉がつくよう鶏むね肉の料理を増やそうかと考えています」
「侯爵夫人の仕事に料理の考案はなかったはずだが? でも、そうだな、このままではぶくぶく太りそうだから、それはいいかもしれない。身体を鍛えるためにも、久々に剣を握るのも悪くない」
「剣を扱えるのですか?」
私の問いに、ベルナード様が頷く。その顔がちょっと自慢気だ。
ベルナード様の乳母をしていたローナの夫は、クローデル侯爵家の護衛騎士だったらしい。
「幼いとき、彼から剣技を学んだ」
「そうだったのですか。宿ではお会いできませんでした」
「大抵は台所にいて料理をしているからな。不愛想だから接客はローナが担当している」
いつかふたりで店を持つのが夢だったらしく、ベルナード様のお父様が亡くなる一年前にふたり揃って退職したと教えてくれた。
でもお父様が亡くなったとき、領主として仕事に追われるベルナード様を心配して、再び仕えると申し出てくれたらしい。
ベルナード様は店を構えたばかりのふたりを気遣って、その申し出を断ったそうだ。
そんなことがあったのかと思いながら聞いていると、ベルナード様がきまずそうに口元を隠し、顔を逸らした。
「どうしました? 気分が悪いのですか?」
「いや、あまりにもずっと触られているので、少々恥ずかしくなってきた」
「あっ! 申し訳ありません」
無意識にずっとベルナード様の二の腕を触っていた。
撫でるだけでなく、ちょっと揉んだ気もする。これでは痴女ではないか。
手を離しそっと距離を空けると、ベルナード様が少し赤い頬で苦笑いをした。
「別に離れて欲しいわけではない」
「ですが、今度はそのさらさらの髪を撫で回すかもしれませんし、自戒も兼ねて離れます」
「ラシュレの髪も綺麗だが、アーモンドオイルを使っているのか?」
「? いいえ。あれはベルナード様に使って欲しくて購入したものですから。私なんてどれだけ美容に気を配っても、ベルナード様のようにはなれません」
榛色の髪もオリーブグリーンの瞳も地味だし、奥二重がぱっちり二重になることはない。
そう言えば、ベルナード様はちょっと眉根を寄せ首を振った。
「ラシュレは充分魅力的だ。ミルクをたっぷり入れた紅茶のような髪の色は綺麗だし、きりっとした瞳は自立したラシュレらしいと思う。背が高いのを気にしているようだが、スラッとしているのでどんな服でも着こなせるし、唇だって……」
「ちょ、ちょっと待ってください! 恥ずかしすぎて気を失いそうです!」
怒涛のような褒め文句に、私は首まで真っ赤になる。
お世辞なのは分かっている。
でも褒められ慣れていないうえに、至近距離で見つめて言われると勘違いしそうになってしまう。
それなのに。
「肌はきめ細かく、長い睫毛は……」
と、わざとらしく言葉を続けると、指先で私の頬に触れた。
「触れると離しがたくなる」
「~! 私を揶揄って面白がっていますよね!」
「さんざん身体をまさぐられたんだ。これぐらいいいだろう?」
「いい方!」
頬を手で覆い、キッと睨めば愉快そうに笑われた。
それから数枚の原稿を私に手渡してくる。
「異国の料理について幾つか翻訳した。男爵邸に着くのは夕暮れだから、暇つぶしに読んでみるか?」
「はい! うわっ、おいしそう」
手渡されたのは、異国の文字と料理の絵が描いてある本と、それを翻訳した原稿だ。
それらを交互に見ながら読み進める私の横で、ベルナード様が再びペンを取った。
窓から入ってくる風は少し湿気を帯びているけれど、心地よい。
私たちは暫く無言で、原稿を読み進めたのだった。
多分、御者はふたりの会話を微笑ましく聞いていたと思います。
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