18.視察1
クローデル侯爵家に来て三ヶ月が経った。
季節は六月。私たちは本格的に暑くなる前に、領地の視察に行くことにした。
クローデル侯爵領は南北に細長い。邸があるのは領地の北側で、南は海に面している。
北部はベルナード様が直接治めているけれど、南側はトパート男爵に管理を委託しているらしい。
今回はトパート男爵家で二泊お世話になる予定だ。
トパート男爵の邸は領地のほぼ中央にあり、クローデル侯爵家から約半日かかる。
ということで、必然的に出発は早朝となった。
「おはようございます、ベルナード様」
「ラシュレ、おはよう……ふわっ」
返事をしながらベルナード様は大きな欠伸をする。
「昨晩は遅くまで翻訳の仕事をされていたのですか?」
隣に控えるセバスチャンは、三十センチほどの書類を抱えている。多分、ベルナード様が翻訳したものだろう。
書類のせいで目しか見えないが、徹夜を肯定するかのようにセバスチャンが瞬きをした。
「なんでも、これらを今日、依頼主にお渡ししなくてはいけないそうです」
「すごい枚数ですね。翻訳もお手伝いできればいいのですが、私には無理そうです」
幼児向けの本ならかろうじて翻訳できるかな……いや、それも微妙だ。
まじまじと書類の山を見ていると、馬車が停まり誰かが降りてきた。
「ベルナード様、早朝に来て申し訳ありません」
「バートン、呼び出したのは俺だ。邸まで来てもらってすまない」
現れたのは三十歳ぐらいの赤髪の男性。眼鏡の向こうの少し垂れた茶色い目が、私に気づいて丸くなる。
「そちらが噂の婚約者様か。……自然体で可愛い人だな」
ほとんど化粧をせず着飾っていない姿を「自然体」と表現できる語彙力が素晴らしい。
妙なところに感心をしていると、ベルナード様は彼が翻訳の仕事を斡旋してくれるバートン・アルコス男爵様だと教えてくれた。
「初めまして、バートンと呼んでください」
「ベルナード様と婚約したラシュレ・レステンクールです。私のことはラシュレとお呼びください」
挨拶をしながら、アルコスと言う名前に引っ掛かる。
どこかで聞いた、いえ、見た覚えがあると記憶を辿り、思い出した。
「もしかして、タブロイド紙の出版をしているアルコス社は、バートン様が経営されているのですか」
「いかにも。おふたりの婚約破棄から続く電撃婚約は大変話題になり、売り上げも好調でした」
にこりと微笑みながらバートン様は恭しく頭を下げた。
印刷してもすぐ完売するという話は、私の耳にも入っている。さぞかし、懐が潤ったことでしょう。
「で、ベルナード様。これが次の仕事です」
バートン様が手にしていたトランク鞄をベルナード様に手渡す。
バートン様の手が空いたところで、セバスチャンが抱えていた書類を手に前に進み出た。
「こちら、ベルナード様が翻訳された書類です」
「いつにもまして、仕事が早いですね」
「ラシュレが領地の仕事を手伝ってくれたおかげだ。それにベッドで眠るようになってから疲れが取れ、仕事の効率が上がった」
晴れ晴れとした顔でベルナード様が答えると、バートン様がおっ、と眉を上げた。
「それはいい話を聞きました。今やベルナード様とラシュレ様は注目の的なので、どんな些細な話題でも掲載すれば売れるんです」
さっそく記事にしようとほくそ笑むバートン様に、ベルナード様がほどほどにしてくれと釘を刺した。
そんなやり取りを聞きながら、私はバートン様が持つ書類に視線を向ける。
成人男性が抱えるほどの書類を、ベルナード様は二ヶ月で仕上げていた。
「バートン様、さきほどベルナード様の仕事が早いと仰っていましたが、通常ならこの量の翻訳をするのにどれぐらいの時間がかかるのでしょうか?」
「そうですね。半年ほどでしょうか」
「半年! ベルナード様の集中力の高さは一緒に仕事をして知っていますが、尋常ではない速さで翻訳をこなしていたのですね」
集中するあまり、声をかけても気づかないこともある。
もちろん翻訳の仕事だけでなく領地経営に関わる仕事もしているので、日々目を通す書類は莫大な数だ。
「収入を得るためには多くの仕事をこなさないといけないから、自然と早くなった。しかし、あの量の翻訳を、通常半年かかるとは言い過ぎだろう」
「いえ、そんなことはありません。難解な単語が使われた専門書も含まれていますから、場合によっては半年以上かかるかも知れません」
どうやら本人に自覚はないみたいだけれど、すごい量の翻訳を請け負っていたようだ。
執務室の整理をしたとき、やけに書類や専門書が多いと思ったから、バートン様の言葉は腑に落ちるものだった。
「今回もすごい枚数の書類が入っていそうですね。どんな内容なのですか?」
ベルナード様が手にするトランク鞄に視線を落とし尋ねると、「各国の歴史書や、論文が多いですね」と教えてくれた。
「さらに今回は、料理本も入っています。最近、異国の料理に興味を持つご婦人が増えたので、ここは流行に乗りませんとね」
「ちょっと待ってくれ。料理は俺の専門外だぞ」
「ベルナード様が作るわけではないのですから大丈夫です。いつも通り翻訳してくれれば、問題ありません」
さらりと言うバートン様に、ベルナード様は眉間の皺を深くする。
料理本というからには、異国のキッチングッズも出てくるだろうから、それを翻訳するとなると難しそうではある。
でも、きっとおいしい料理が紹介されているはず。
「ベルナード様、私も料理の本を読んでみたいです!」
「そうか。ラシュレがそう言うなら、翻訳は料理本から始めよう。うまそうなのがあれば、作ってくれるか?」
「はい、もちろんです」
クローデル侯爵家に来てから、お菓子作り以外も料理長に教えてもらいながら作っている。
何を作ってもベルナード様は美味しいと言って完食してくれるし、私の手料理で痩せた身体が逞しくなるのを観察するのは達成感があった。
私たちの様子にバートン様が、これ見よがしに顔を手で扇ぐ。
「なんか今日はやけに暑いですね」
「……まさかこんなことまで記事に書くんじゃないだろうな?」
「もちろん書きますよ。クローデル侯爵は婚約者の手料理で肌艶が良くなったと書きましょう。ついでに適度な運動で、夜はぐっすり眠れるとも加えましょうか?」
「書いたら速攻で記事の訂正を求め訴える」
ベルナード様が睨めば、バートン様はクツクツと笑われた。
孤独だと思っていたベルナード様に、心を許せる人がいて良かった。
「ラシュレ、そろそろ馬車に乗ろう」
「はい。ではバートン様、セバスチャン行ってきます」
ベルナード様は馬車に乗るとき、必ずエスコートしてくれる。それは片手がトランク鞄で埋まっていても同じだ。
馬車の扉が閉まり、ゆっくりと動きだす。
それに同調するかのように、胸の鼓動も速まる。
どうやら私は、自分が思っている以上にこの視察を楽しみにしているようだ。
明日から午前と午後の二回投稿にします。
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